最終話 リコリスの陳述
【彼岸花の花言葉…悲しき思い出、諦め】
俺は、政府から与えられた任務を失敗した。感情治療医カクタス・ガブリエラの殺害に失敗したのだ。俺は「羽化」を受け入れ、一切の感情を喪失した。今まで心を覆っていた一切の苦悩や罪悪感が消え、頭がいつになくすっきりしている。丁度、散髪屋で髪と髭を切って貰った後のようだ。俺は政府組織を離脱し、カクタスの護衛をすることを選択した。それが、俺の自動化された意識が行った選択だった。
俺はただ、事実のみをここに記録する。
結論から言えば、カクタスは政府中枢の人間の「羽化」に成功した。直前に職を辞し行方不明になったマリーツィア・ボースハイトを除き、国の重鎮全員が彼によって感情を取り除かれ、既存の医療倫理を破棄した。今まで「狂気の研究」とされてきたものが、急速に医療のラインへ乗せられていく。感情治療、クローン、人工生命、親子制度の破壊、人体の再利用……。後に「天使革命」と呼ばれたそれは、当然ながら「羽化」していない大半の国民の反対を生んだ。各地に創設された「羽化」処置を行う機材や施設が過激な反政府組織に襲撃されたり、「羽化」した人間が強い迫害や偏見に晒されることも珍しくない。それでも政府とカクタスは彼らの抵抗を無視するように、感情治療の技術を各地に広めていった。
しかし、「羽化」によってひきこもりや鬱、自殺者の数が激減したというのも事実だった。
「羽化」された人間は、労働や奉仕、慈善活動に強い意欲を示した。しかし国民やかつての政府が危惧していたような、自分の肉体が破壊されるまで働くような労働機械になるのではなく、決められた時間になれば挨拶をして帰っていく。彼らはきちんと、自らの肉体と精神とを保護した。家に帰れば家族やペットに愛情を注いだり、娯楽活動を行いさえする。彼らは脳に組み込まれた「健全で健康的な生活」をただ穏やかに行っていた。
かつて、カクタスが言っていたことを思い出す。
「愛し愛された、人間が好きな明るい人間」以外は正しくないと定義された社会。
それ自体は、結局変わらなかった。今でも人類は、「愛し愛された、人間が好きな明るい人間」を求め、各企業等もそれを理想的な人材としている。
ただ、そんな要求に、それを持たない人間が苦しみ嘆き己を偽ってまで適合する必要が無くなったのだ。もう履歴書の趣味欄に、好きでもない運動やボランティアと書かなくても良くなった。無理に人前で笑顔を作り、穏やかで無害な人物であることを示さなくてもよくなった。それは全て、嘘から真へ変わったのだから。
俺はこれからも、カクタスを殺害することはないだろう。
彼は真に、正しいことをしている。日々少しずつ殺され嬲られ削られていた人類の心に終止符を与え、安らぎを与えたのだ。もう彼らは無理をして自分の心、自分の内面、自分の悪性と戦う必要はない。日々心を殺さないでもよくなった。日々心に殺されないでもよくなった。
人類は、真に、自由になる。心という名の神から与えられた呪いから、解き放たれるのだ。
先日、「羽化」した人間同士の子供に最初から感情が備わっていないことが判明した。
やがて人類の辞書から、心や感情という言葉は消え去るだろう。悲しみも、苦しみも、喜びも、狂気も、争いも、全ては過去のものとなる。やがて人類の全ては、永遠に平穏と恍惚のなかに包まれるのだ。
その世界は、きっと安らかで、美しい。全ての人間が、幸せに暮らしてゆける。
この記録を読む者が俺と同じ感想を抱くかは、分からないが。
少なくとも「羽化」した人間の全ては……この世界を「理想郷」と、呼ぶだろう。
とても、とても幸せな、ガーデニアに包まれた天の国と。
-fin-
ガーデニア感情治療病院 水色猫 @cyan910
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