番外編 最終話 その空の向こう側
撫子が願った次の日には、もう飛行機は飛んでいた。夜中のうちにシオンが連絡したところ、朝にはチケットが取ってあったのだ。
陽だまりで猫のように眠る撫子を叩き起こして、途中で伍代も拾って、三人は旅に出た。やはり島から出る最初の一歩は時間がかかったが、それでも撫子は無理やり踏み出した。
「ボクの人生はウォータースライダーだからね。最初の一歩さえ踏み出してしまえば、あとは流されてどこかへたどり着きはするのさ」
蒼ざめて吐き気を堪えた不器用な笑みで、撫子は親指を立てる。昨日のように引っ張られてではなく、今日この時、彼女は確かに己の意思で足を前に出した。
空港はシオンの死神特権ですんなり通れた。どの飛行機も取ってあるのは最上級のクラスで、死神の権力に撫子たちは終始息を呑んでいた。
空を飛び、陸を走り、海を泳いだ。どの街へ行っても、どの国へ行っても、撫子はそこを知っていた。
乳飲み子の時に、父親が子守唄がわりに語っていた。人を拒絶する山、空より深い海、未開拓のジャングル。両親の生きた証が残っているのはあの島だけじゃ無い。
「ここは知ってる。父さんがボクにでっかいマンゴー買ってくれた市場だ」「ここでは母さんが服を繕ってくれた」「このデパートで迷子になった」「このレストランで……」
鮮明には映らない。焼けてしまったフィルムのように、ぼんやりとした記憶だった。
甘味など知らない少年たちにケーキを振る舞い、固形のものを食べたことがない少女にクッキーを焼いた。
朝が来れば跳ね起きて、街を巡った。昼には電車に揺られ、夜は星と音楽に包まれた。
「手紙に書くことは決まりましたか?」
その日彼らは、フィンランドの高原にいた。テントを張って焚き火を囲み、現地のガイドと一緒に鍋にたっぷり沸かしたココアを飲んでいる。
「大体はね。シオンのおかげだよ。でも、本当にお金は大丈夫なのかい? 死神を呼んだのはボクなのに、ここまでしてもらっちゃって……」
「それを言うなら俺もだ。完全に篝のおまけやろうが」
「……私はこの仕事を始めて五年ちょっとですが、結構いますよ。手紙を出す前に旅してみる人とか、返信を読んで旅立つ人。そんな人たちを援助するために、死神郵便局は作られましたから。……って先代が言ってました」
白い息を吐きながら、シオンはカップに映る星を見る。先代の死神、シオンを拾ってくれたその人の言葉が今の彼を作っている。
人を想う人になれ。いつか言われた言葉だ。その教訓を胸に、郵便局員は世界中を飛び回る。
他愛のない雑談。張り詰めた氷の空気とは裏腹に、ここは暖かい。
「これだけ世界を回ったんだから、誰かはボクの事覚えてくれたかな。もうボクは、一人じゃないのかな」
ただでさえ小さな背中をもっと丸めて、撫子はコーヒーカップの湯気を見つめていた。アツアツのココアを啜る音だけが静寂の線を弾いている。
「何を言うとる。お前のことなぞ忘れたくても忘れられんわ。やかましい声が耳に貼り付いとるからのォ」
「ボクをからかうなよ、伍代。これでも女の子なんだからな? 口説くんならもっと上手く……」
「好きじゃ。……これでいいか?」
星明かりだけでわかるほど、伍代は赤くなっていた。湯気も出ている。
二人のやりとりを見て察したのか、ガイドが撫子を見る。シオンもつられた。
「いいわけないだろ、下手くそ。……でも、ありがと。で、でもやっぱりそれはあまりにムードがないから、今度言うときはもっと雰囲気作りを頑張ってよね!」
まくしたてるように伝えるだけすると、撫子はそそくさとテントに戻っていった。
残された青春オーラ全開の高校生。野朗三人となれば、もう決まっている。朝までからかわれるコースだ。
「いや、よく言ったと思いますよ。ナイスガッツ」
「そうだぜ。ああ言う子は案外押しに弱いんだ。オレがもっといい口説き文句教えてやろうか?」
「やかましいやかましいっ! あぁっ、ホラ! オーロラ、オーロラが出とるぞ! ホレ、シオン、あっち向かんかい!」
何もない雪原に、新たな一歩が刻まれる。それは春が来て雪が溶けても、きっと残り続けるだろう。
日本に帰る飛行機を待っている時に、空港のロビーでシオンは言った。
「今日の空は何色ですか?」
それはかつて、父が冒険に出かける前に必ず聞いてきた台詞だった。日によって赤とか黄色とか、鉛色だとか答えていた。
だけど、今日はもう決まっている。
「両親と一緒に世界を回っていたボクも、塞ぎ込んでたボクも、今も。全部がボクの色。だから今日の空は、虹色かな」
一週間とちょっとの旅は、撫子色に締めくくられた。
丸一日ほど飛行機に揺られたら、見慣れた島がひょっこり姿を現した。もう船に乗るのも怖くない。
家に帰ると、退院したばあちゃんが豪勢な夕餉を拵えて待っていた。もうじき夏が終わる。撫子は宿題を焦る小学生のように、一晩中机の前にいた。
朝方に部屋を覗いたら、彼女は机に突っ伏して寝息を立てていた。その手に、何度も書いては消してを繰り返した手紙を握りながら。
「完成したよ、シオン。最初の目的とは違っちゃったけど、ボクの想いを込めた手紙さ」
撫子の一歩はまだ大地についてない。これを出して初めて踏みしめたと言えるのだ。
想いの手紙を受け取った死神は、一人になれる物置に入っていった。
死神の仕事の締めくくり。シオンは空に手紙を届ける準備をする。
手紙の入った便箋に、金の蝋燭を垂らす。そこを華の判子で封印し、表に切手を貼る。
息を吐いて、シオンは表面をなぞった。瞬間、便箋に文字が浮かび上がる。見たことあるもの、ないもの。古今東西のあらゆる文字に埋め尽くされたそれは、触れると弾けて宙に消えた。
「あとは返事が来るかどうかだけ……か」
もうシオンにできることはない。届けたことを撫子に伝え、二人は待った。いつ来るとも知れない返信が来るのを。
しかし、それはすぐに来た。朝起きて一人だったシオンの目の前に、無数の文字がどこからともなく現れた。それらは一つに纏まり、形を成し、色を作った。切手の貼られていない手紙。死者からの返事だ。
それを渡すと、撫子は封も切らずに港へ向かった。船の汽笛が聞こえる所まで来たら、埠頭の端っこに腰を下ろして海と便箋を平行に並べたりした。
「……返事が来るなんて意外だったよ。父さん、筆不精だったのに。……ほんとうに、ありがとう、シオン」
栗色の短髪を耳にかけ、封を切る。真新しい手紙が文字で埋め尽くされていた。
『久しぶり、父さん母さん。お元気ですかって聞くのは変な感じだよね。まあでも、ボクはいつも通りです。
死神の手紙ってすごいよね。初めて父さんから聞いたときは絶対嘘だって思ったのに、目の前にシオンが現れたときは腰が抜けるかと思ったよ。
ボクは今、みんなのおかげで島の外に出ることができるようになりました。父さんたちが死んじゃってから何年間かは、フェリーに乗るだけで吐いちゃってたんだからね。
ボクに夢ができました。美味しいお菓子を作って誰かを救うことです。でも、やっぱり何かを始めるときは怖いです。そこで父さんに質問。
父さんは、どこかに冒険するとき怖くなかった? 失敗したら、とか思わなかった? 失敗して、居場所がなくなって、後悔するかもって思わなかった?
ボクは怖い。だから背中を押して欲しい。
母さんとはそっちで会った?相変わらず心配性なのかな。少しは休んでって言っといて。
最後になりますが、ばあちゃんがそっちに行った時はぜひ追い返してください』
『久しぶりだな、撫子。お前から手紙をもらうなんて幼稚園以来だ。そのおかげで父さん、今日ちょっと張り切っちゃってる。
夢を見つけられたのか。凄いじゃないか。立派な目標だ。
進むことをためらうなとは言わない。時には一歩踏み留まって、次の進路を決める時間も必要だ。だから父さんだって怖かった。迷っている間に全てが終わってしまうんじゃないかって。だけどな、撫子。迷って悩んだ挙句に出した結論なんてどうせ後から悔やむんだ。だったら目の前に見えてる道に迷いこんでみたらどうだ。なに、成り行きでなんとかなる。人生はウォータースライダーだからな。
母さんよ。こっちでも私たち一緒でーす。撫子ちゃんがいないのは寂しいけど、しょうがないわよね。あと七十年は我慢しとくわ。でも父さんのことを心配するなって言うのは無理ね。だってこの人、この間なんてお盆の馬に乗って降りようとしてたのよ。
最後に。ばあちゃんは大丈夫だ。三途の川でキックターンしてバタフライするようなババアだからな。元気でやれよ。まだこっち来んなよ。あと、もう二度とこんな手紙出すんじゃねぇぞ』
想いは空を超え、人を超える。その手紙に込められた想いは、確かに撫子に届いていた。
「相変わらずだなぁ。これじゃボク、なんて言ったらいいのさ……」
震える撫子の肩を抑える。そうしないと、今にも海に落っこちそうだった。
波は全てをさらってくれる。古い記憶も、思い出も、少女の泣く声さえも。
「……ありがとう、シオン。ボクはもう大丈夫だよ。一人じゃないからね」
「……それはよかった。それじゃ、私はこれで」
郵便局員の仕事は手紙を届けること。それが終われば仕事は終わりだ。まだまだ依頼は控えている。
森の獣道を抜け、港に出た。小腹が空いたシオンは、目に付いた食堂へ足を運ぶ。いつもの所だ。
中には伍代がいた。捩り鉢巻きにエプロンをかけ、半袖の姿で厨房に立っていた。
いつも通りカウンターに座って海鮮丼を注文する。すぐに磯の心地よい香りが運ばれてきた。
「本当に良かったんですか? 寿命一年を使ってしまって」
醤油をかけて刺身を食らう。新鮮で蕩けるような赤身だった。
「それが、撫子を好きになった俺のケジメや。あいつの最後の願い叶えられんくて、愛を語れるかい」
仕事を切り上げた伍代を連れて、二人は撫子のいる埠頭へ向かった。すっかり蝉の声も尽きてきた森の中で、伍代は誰ともなく呟く。
「あいつ、気づいてたと思うか。自分のこと」
「さぁ。どうでしょうね」
気づいていないはずがない。本当は、見てないふりをしていただけなのだ。毎朝毎晩、彼女はばあちゃんと共に暮らしていたのだから。
毎朝祈るばあちゃんの正面。その仏壇に自分の写真があったのを、知らないはずがない。
さっきの埠頭から撫子はいなくなっていた。いや、もうこの島のどこにもいない。彼女はもう、自分で一歩を踏み出せる。
「悪かったの。面倒な芝居に付き合わせて、こんなことに巻き込んで。あんたら死神の仕事は鎮魂じゃないやろう」
「いいえ。死者と生者を繋ぐのが死神の仕事ですから。手紙はあくまでそれを円滑に行うためのツールですから」
篝撫子はもういないはずなのにいる。彼女が死んだのは、もっとずっと前のこと。依頼してきた時、伍代はそう言った。
両親を失った撫子は、幼い時この島で伍代やその友達と遊んでいた。けれど彼女はもうその時から、外に出られないような身体だった。
それが最悪の形で現れたのが、ある夏の海だった。撫子は溺れた。幸い近くを通りがかった船に助けられたが、街の病院に運ばれた時彼女はパニックを起こして、それが原因の病気で息を引き取った。
けれど、撫子はどこにも行けない。自分の意思で一歩を踏み出さない限り、彼女の魂はこの島に留まり続ける。お盆になったら生きている時と同じように成長して帰ってくる。その間の記憶は曖昧らしい。
「どこへも行けんあいつを見とると、無性に悔しくてのォ。そんな時に思い出したんだ。昔撫子にもらった『文を持つ死神』の切手のことを」
「結果としてみんなが幸せになれたら、私はそれで構いません。私の願いにも一歩近づきましたし」
撫子の最後に座っていた近くに手紙が落ちていた。さっきシオンが渡した死神の便箋だ。誰かに拾われる前にお焚き上げでもしようかと、彼はそれを拾い上げた。
「……これは……」
「どうした。ん? 手紙がもう一通?」
死神の便箋とは別に、砂浜に手紙が落ちていた。ルーズリーフにシャープペンで書かれたそれは、手紙と言うよりはむしろメモ書きのような。中学生が書いた、拙いラブレターが綴ってあった。
『拝啓、伍代へ。私は私のことについて気づいてしまいました。いついなくなるかわからないので、死神の手紙と一緒にこれを残しておきます。
……って、なんか文が硬いね。やっぱボクはフランクな方がいいや。
最初の頃は記憶が曖昧だったんだけど、だんだん思い出してきた。ボクはもう死んじゃってるんだね。でもモノに触れるなんて不思議。強い幽霊なのかなぁ。
君にはずいぶん苦労をかけたね。おばちゃんにも言っといて。いつもご飯美味しかったって。ボクの夢も実は、おばさんを見てヒントを得たんだよって。
そろそろ眠くなってきたや。もう時間かな。世界旅行も行けたんだ。もう悔いはないさ。でも、まだ君に伝えてないことがある。告白はとても嬉しかったけれど、贅沢を言えばもう少しカッコよく言って欲しかったなぁ。まぁ、好きなんだけど。
今ね、シオンが手紙をくれたんだ。父さんからの返信だよ。死神って本当なんだね。書き足してるけど足りるかな、このルーズリーフ。あ、先に敬具つけとくね。
えー、では、改めまして。ボク、篝撫子は、君、石島伍代のことを、心の底からーーーー』
走り書きの最後は文字がかすれていた。
白いルーズリーフに涙が落ちる。伍代は泣いてなんかいなかった。アレはきっと、さっき食堂で玉ねぎを切ったせいで跳んだ汁だ。
「ちくしょう。最後まで人のペースを乱しよって。撫子。お前はここにいる。お前はいつだってこの島に、俺の空にいる。おい死神、耳塞げ。鼓膜破れても知らんぞ」
太平洋の波に乗せて、咆哮のような想いが飛ばされた。きっとそれは空を超えて、必要な者へ届くだろう。
死神が笑う。青年もまた、赤い目を腫らしながら笑った。
三年後、とある島のとある食堂に珍しいメニューがあると評判があった。海鮮丼を売りにしている食堂なのに、メニューの中に大きなスポンジケーキがあるんだとか。しかも結構美味しいのだとか。
フルーツと生クリームがたっぷり乗せられたそのケーキの上には、いつも薄ピンク色の華が飾ってあるのだとか。
噂があった。世界には鎌の代わりに手紙をもたらす『文を持つ死神』がいると。呼べばどこへでも来てくれて、寿命と引き換えに死者と生者をつないでくれるのだと。
シオンは今日も、果てぬ空に手を伸ばしている。
「一通につき寿命一年です。私が責任を持って、あなたの想いを空に届けます。死者から返事が来るかはわかりません。それでもよければ、どうぞ。この『死神郵便局』の切手を舐めてください」
拝啓、空の向こうへ。
届けたい想いはありますか?
拝啓、空の向こうへ 天地創造 @Amathihajime
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