あの夕日

羽太

あの夕日

 人生は一行のボードレールに若かない、と、そのひとは言った。

 ボードレールとはなにか、私は知らず、訊ねるよりさきその足は踏み台を蹴った。

 ぎいと鴨居の軋む音、細い縄と、そのさき揺れる大きなものの影が、夕闇迫る畳のうえに黒ぐろとしてのびていた。

 


 叔父が死んだのは、私が四つの秋のことだった。

 叔父は大学を出るや出ずのころに召集され、南方で敗戦を迎えた。三年半の抑留生活のあいだに右の目と耳をうしない、復員してからは世間にその姿を晒すことをよしとせずに、日がな父親、私にとっては祖父の家の二階で暇をかこっていた。

 もとは素封家でありながら、日本が戦争に負けてからというものその財は目減りしていく一方で、小さな借家に越してさえ親子ふたりが暮らしていくには精一杯だった。ひとつ家にありながら叔父と祖父とのかかわりは薄く、近くに嫁いでいた私の母がどうにか仲をとりもっていたという。叔父の鬱屈を厭った祖父は、失った総領とそれに続く二人の息子を偲んではこれもまた一日酒に明け暮れていた。その愚行は私が八つの年まで続き、果ては病み衰えて妻子のあとを追った。

 叔父は傷ものとなった我が身をはかなみ自死したのだと、ひとは私に教えた。

 本来ならば理由など知らされることもないような年頃の、けれども生憎のこと私はその死に立ち会ってしまったので、大人たちはまことしやかな嘘をつくりあげる暇もなかった。とはいえ遺書はなかったから、実のところ皆その心情を理解できずにいたのだとは、誰に聞くわけでもなく年経るうちに察した。

 傷痍軍人の自決など、敗戦直後ならともかく四年も経ってからでは恰好もつかない。親戚中が口を噤んだことによるものか、その死は日に日に忘れられていった。

 私ひとりが覚えていた。

 いや、忘れようにも忘れさせてはもらえなかったというのがただしいのかもしれない。

 四つの秋、私は叔父の室でその死に際した。それが一度きりのことであったなら、忌まわしいことといえいつしか記憶の底に沈みこんでしまっていただろう。けれどそれからというもの、小学校の帰り道、中学校の美術室で部活動の片づけを終えたとき、一歩踏みだせば私は叔父の居室にいるのだった。

 その瞳に映る、私が四つであろうと八つであろうと相手が構うことはない。ただひそかに笑い、かつて世に知られた作家が死にゆく前につかった言葉、四つのときに問いそびれた答えを私は中学校の国語教科書のなかにみつけていた、それをなぞって踏み台を蹴る。ぶらぶらと揺れる骸をぼんやりと眺めているうち、いつしか時間は逆戻りして私は日常へと帰る。ほんの五分ほどの歪みは時間にすればさしたることでもないのか、そのあとに何があるわけでもない。私は踏みだしかけていた一歩をそのまま家に向け、日常の細々としたことを済ませ、やがて眠る。

 何年か置き、きまって秋の夕暮れにひとりでいるときそれは起こった。

 どうしてそうなるのかわからないまま月日ばかりが過ぎていった。ひとの噂にも、ものの本にも私の身の上と一致する事柄は見出せなかった。幼いころには家人に不安を訴えたこともあったが、夢物語と一蹴された。

 私は次第に夕陽を恐れるようになった。けれど自然のこととて避けるすべもなし、ふとした拍子に時間の陥穽へと落ちこむのだった。

 何をどうすることもできず、私はいつか十七になっていた。

 高校二年といえば進学にまた就職にと未来を思い描きはじめるころあい、浮き足立つ周囲に、けれど私は倣えずにいた。

 身近な者の死にくりかえし立ち会うことで、私はいつしか諸行無常といった感を懐くようになっていた。今日ここにあるものが明日も同じように存在するとはかぎらない、そうしたものの考えは戦争を引きずる時代の人間には珍しくもなかったろう。それとはまた別のところで、私はひとというものを信じかねていた。

 四歳の私がどうだったか、それはもはや覚えていない。けれど八つを超えてからの私は、叔父の室でその死を諌めたことがある。やめてくれ、死なないでくれと。それでも彼が踏み台を蹴ることを止められはせずに、もの言わぬ身を前にして私はただひたすら自分の無力を思い知らされることとなった。

 ひとはいともたやすく死ぬ。そうして自分にはそれを止めることはできない。自分の言葉は誰にも届くことはない。その無力感は私の性質を暗く重苦しいものへとたわめていった。

 また、私が叔父の部屋を訪れているとき現実の体はどうなっているのかという疑いもあった。虚空に消えるのか、それとも抜け殻のように体ばかりその場にとどまっているのか。よしやその姿を誰かに見咎められでもしたならと、考えただけで身震いがした。

 そうした諸々の不安を抱えこんだまま自分の身のふり方を決めることなど、私にはできそうもなかった。まして近ごろ母の口ぶりに窺えるような、よそに嫁ぐことなどそれこそ夢物語としか思えなかった。

 鬱屈を抱えた私は学校でも、また家でも可愛げのない子として通っていた。それはまるで復員後の叔父の姿をうつしたようと、陰で親戚が言うのを耳にしたときにはいっそその末期まで真似てしまいたくなった。さいわいというべきか、母にみつかり止められたのちも、その悲しみは長いこと胸の底に蟠っていた。

 自分はこのさきずっと夕日を怖れ、叔父の死に囚われ続けて生きていくのか。

 絶望のなかに、かすかな疑いが混じりはじめたのはそのころだった。

 なぜ私ばかりがあの日に戻ってしまうのか。

 なぜもっとも近しい身内の母でもなく、ほかのだれでもなく、ただのこどもであった私が叔父の死にくりかえし立ち会わなければならないのか。

 四つの私にとって、叔父はほとんど話をしたこともない、ただいつも二階で本を読んでいるだけの曖昧な存在だった。母に連れられるからこそ行くものの、祖父の家も、祖父も、叔父にも一切の興味はなかった。祖父や叔父にとっての私もきっとそうであったろう。私たちを繋ぐものは、母と、それを介した血という漠然としたもののみだった。

 なのになぜ、私ばかりがあの日に戻ってしまうのか。

 その問いが、あのようなことをさせたのかもしれなかった。

 あれは九月の、まだ夏に近い日のことだった。学校がひけて家に帰る途中、近道をしようと裏通りに入った、そのときふいと西陽が射しこみ目が眩んだ。

 瞬きもせぬうちに私は赤茶けた畳のうえに蹲っていた。もはや慣れたこととして、私は静かに鴨居を見あげた。

「人生は一行のボードレールに若かない」

 死にゆく身にしてはいっそふしぎなほど、穏やかな声が耳にした。

 その口元がゆっくりと笑みのかたちをつくり、そうしてまた緩やかに歪んでいく。絣の単衣に兵児帯を締めた、足が一度きり強く痙攣し、やがてだらりと垂れ下がった。袖から覗く腕は白くほそい。指の節のいくつかに胼胝ができていた。

 幼いころから何度となく目にしてきた、その姿を私はあらためて仰ぐ。骸への恐れはいつしか失せていた。むしろ、と考えかけてかぶりをふる。ひとの死にゆく姿に親しみを覚えるなどと、うっかり口にしてしまえば世間には謗られそうな、けれど幾度となく巡り会ううち馴染むところもある。たとえこれこそが自分を苦しめる張本なのだとしても。

 妙な心安さをとどめたまま、私は立ちあがった。この部屋にあって、そうした振る舞いはいままで一度としてしたことがなかった。

 三畳と五畳の、二間続きの室だった。襖は外されており、その鴨居に荒縄がかけられていた。本棚がひとつと窓辺に据えられた座卓があるきり、卓の前では薄べったい濃緑の座布団が主の所行など知らぬげに澄ましていた。畳は赤茶けてところどころささくれだっている。押入れには煎餅布団が一組押し込まれていた。

 狭い部屋だった。子どものころにはわからなかったそんなことが、ふと胸に迫った。

 窓からは戦火をまぬがれた下町の風景が望めた。屋根や物干し台の連なる向こう、死の淵に身を投じたくなるようななにがあったかとしばらく見つめたがわからなかった。

 私は障子戸を背に立っていた。

 戸の向こう、一階は祖父の住まいになる。階段を下りた先にいるはずの、祖父はまだ息子の死を知らないのだと思うと今更ながらふしぎな気がした。

 祖父といっても私の記憶には卓袱台のまえにべったり座り、酒瓶をかかえて何やらぶつぶつと呟く老人の姿しかない。懐かしさなど抱きようもなく、たとえ階段を下りていったところで十七の私を祖父が見定められるとは思えなかった。

 あのとき、と記憶を手繰る。

 四つのあの秋の日、私はいつものように母に連れられこの家に来た。忙しく立ち働く母に代わり夕餉の支度がととのったことを叔父に伝えるべく二階にあがり、そうしてと、そこまで思い返したところで骸を仰ぐ。

 背の高いひとだったのだと、それもまたいまさら知ったことだった。

 暮れなずむ陽が町の輪郭を暗ませていく。どこかで烏の鳴く声がした。

 もうそろそろ現実に戻るころだった。

 単衣の肩越しに夕景を眺めていた、そのときちらりと目の端をかすめるものがあった。

 え、と小さな声が洩れる。

 四つのころにはそれと気づかず、八つの目には涙に曇って映らず、十四のときにはただ元の世に戻ることばかりを念じ見なかったものを、十七にしてようやく私は見つけた。

 机の上に一葉の写真が伏せられていた。死を前にしてか、整頓された室内にあってはそこばかり妙に目立っていた。

 近づいてみる。足元で畳がたわみ、自分が靴を履いたままであることに気がついた。慌てて脱ごうとして、いつあちらに戻ってしまうかわからないと考えなおしそのままにする。うっかりと置いて帰ることになってしまってはたまらない。

 写真は掌に納まってしまうような小さなものだった。白い縁取りに、茶と黄味の混じりあった色合いをしている。軍服を着た若い男が五人、倉庫らしい建物のまえに並んで立っていた。なかのひとりに覚えがあるような気がしたが、いずれも目を凝らさなければ顔かたちさえ見てとれず、判別は諦めた。裏面には叔父の名と、そのほか四人の苗字が万年筆で書きこまれていた。齋藤、桂、久須、山崎。その文字の群れを私は頭に刻みこんだ。

 そのとき窓辺から夕日が射しこみ目を灼いた。

 気づけば私はふたたび裏通りに佇んでいた。手のなかには何もなく、ただ写真を持っていたよすがに人差し指と親指が重ねあわされていた。


 

 その日から私は叔父について調べはじめた。

 狭い町だから係累は多い。復員兵の自死といえば当時こそ外聞を憚ったものの、戦後二十年も近くなっては懐かしさが先に立つらしい、和子ちゃんもあんなことがあって怖かっただろうけどねえ、とこちらを案じるそぶりを見せながらもみな口は滑らかだった。なかでも一番の訳知りといえば当然のことながら私の母で、思いだす端からあれこれと語ることをこちらで繋ぎ合わせるのに苦労するほどだった。

 いわく、四人の兄姉の下にいくぶん離れて生まれた末っ子は、教師の勧めに従い東京の中学に進学し、大学卒業後すぐ召集された。長きにわたる抑留生活を終え帰ってきたときには、頭部の傷もあって幼時の面影はほとんど失われていたという。けれども秀才を見出されたものらしく子どものころの細々としたことまではっきりと覚えていたから、復員後の暗い時期であってもときには昔話に花が咲いたものだと母は懐かしそうに語った。ただ、戦地において彼が見聞きしたことについて知る者はなかった。卓上の写真についてもみな覚えがないといい、かろうじて母のみが、叔父の死後に手紙を送ってきたもののなかに山崎の名があったとおぼつかなげに証言した。

 叔父の遺品、といってもほとんどが本人の手によって処分されていたが、書付や数冊の本などが引き継ぐ者もないまま我が家の押入れにしまいこまれていた。そのなかに件の手紙の束があった。母の手によるものか麻紐で結わえられた封筒や葉書のうち、最近の消印は意外にも一年ほど前のもので、そこにあった住所に手紙を送ったところしばらくして返事があった。

 山崎は隣県にある町の役場に勤めていた。年齢は四十五、叔父とは同じ部隊にいたということで、訪ねていくと歓待を受けた。

「いやあ、あいつにこんなかわいい姪っ子さんがいたとはねえ。しかもあとを辿りたいだなんて、このご時世に若い人が、ありがたいことだよねえ」

 役場の応接室で、山崎はしきりと叔父や戦友たちを懐かしがった。

 戦局の悪化するさなか、南方にやられた叔父の部隊はふとしたことで上官を失い、指揮系統のないまま密林を彷徨い歩いた。敵などどこにもおらずに、飢えで死んでいく仲間をただ見捨てていくしかなかったのだと、山崎は十月も半ばを過ぎたというのに赤ら顔に玉の汗を浮かべながら言った。

「うちの部隊はほとんど全滅したな」

 戦地から帰ってきた者は死に対してどこか荒いもの言いをする。そうですかと私が相槌を打つと、山崎はそうなんだと頷くあまりに前のめりになる。黒い革のソファが妙に軋んだ音を立てた。

「まともに帰ってきたのはきみの叔父さんくらいなもんじゃないかな。俺は運がいいのか悪いのか、最初のうちにはぐれちまって、あいつらとはまったく逆のほうに向かってね。つまりひとりで正しい道を行ったわけで、おかげであっさり敵に見つかって捕虜になった。それで生き延びられたようなもんだけど、いまでも死んじまった連中には顔向けできないようなとこがあるよ。戦争が終わってしばらくして、仲間の家族はどうしてるのか気になって手紙を出したらきみの叔父さんから返事がきて、あんときは驚いた。全員逝っちまったとばかり思ってたからさ。俺とは違ってあいつはみんなの死をひとりひとり看取っていったようなもんだろう、だいぶ堪えてた。自殺したって聞いたときはせっかく助かった命をと思わないわけじゃなかったけど、手紙でもおかしなことばっかり書いてたからねえ。みんな死んでいく、何遍やりなおしてもみんな死んでいくって。ありゃあだいぶ頭にきてたね」

 ふしぎそうに首を捻る山崎をまえに、私は長年求めていた答えのいくらかを得られたような気がした。

 何遍やりなおしてもみんな死んでいく。

 手紙に書かれたその言葉は、つまり彼が他者の死を「やりなお」せたこと、時間を遡る力を持っていたことの証ではなかったか。だからこそ、四つであるはずの姪が年を重ねて現れても、驚くそぶりもなく粛々として死に赴くのではないか。

 世の常からすればおかしなこと、まるで昨今流行りの滑稽漫画のようでさえある、にもかかわらず山崎の言葉は私の胸にたしかなものとして残った。

 その手紙を見せてほしいと頼んだところ、山崎は残念そうにかぶりをふった。

「せっかくだからきょう持ってこようとおもってたんだけどねえ、どうやらなくしてしまったらしい。俺はうっかりもんだからなあ」

 それではと写真の裏にあった名について訊ねてみると、山崎は懐かしいと目尻を下げる。それでいてその表情に微かな翳りがあるのに、私は気づかないふりをした。

「齋藤も桂も久須もみんな同じ部隊だった。俺や他の奴らは農家の出で勉強もろくにしてこなかったのばっかりだったけど、きみの叔父さんと、あと桂ってのは外国語も達者なインテリで、馬が合ったんだろうな、いっつも一緒にいてお神酒徳利なんて言われてた。どっちも文学が好きだとかで、俺たちにはわからない見立て遊びなんてことばっかりしてたよ。やれ椰子の木はなんたらいう詩人がよく歌にしていたとか、さっき見たあの動物はなんたらいう小説に出てきたとか、久須ってのが若いのにはげ頭で、そいつが面倒くさがって帽子もかぶらずにジャングルを歩いているのがこれまたなにかの小説に出てくる男にそっくりだなんて、ふたりでよく笑い転げてた。俺なんかもそうとう餌食になってたらしいが、怒ろうにも元を知らないんじゃ話にならない。まあ、それでもいやみにならないのがあいつらのいいとこだったんだろうな。ほんとうに、兄弟みたいに仲が良かった。あいつもな、桂の死んじまったのはとりわけ辛かったみたいで、ご家族にも申し訳が立たないなんて、そういや手紙にも書いてたよ。まあ、みんな逝っちまって残ったのは俺ひとりだ。どうにも寝覚めが悪いっていうか、そんなことで言い尽くせるもんでもないが、残されたひとたちがどうしてるのか知りたくてときどきは手紙を出しちまう。迷惑だってわかってるんだよ。でもな、やっちまうんだ」

 山崎のもとを辞したあと、私は家に戻り、叔父の遺品をあらためてひもといた。

 よしや叔父が時間を手繰り寄せられたとして、その血が私にも流れているのだとすれば、十三年抱えてきた謎のいくらかがほどけるような気がした。

 うまくすれば私も叔父のように時間の流れと折り合いをつけることができるかもしれない。とはいうものの、これまで叔父の力について親戚のだれも口にしなかったことを思えば、私はただその孤独ばかりを引き継ぐだけなのかもしれなかったが。

 結局、叔父の遺したものに時間に関する記述はなかった。

 


 つぎに叔父の部屋を訪れたのは十九の、まだ秋になりそめのころだった。

 高校を出た私は、とある貿易会社の事務員となっていた。

 学生の時分よりはいくらか社交性も身についたとはいえ、勤めが済んでからともに出かける同僚もなく、ひとり娘で家を出るわけにもいかなかったから、ただひっそりと日々を過ごしていた。

 職場を出た瞬間、赤い陽に目を灼かれた。その光が瞼から去らないうちに、穏やかな声が耳にした。

「人生は一行のボードレールに若かない」

 目を開けば、そこには静かに微笑むひとの姿があった。

 長く節くれた指が縄にかかっている。

 私は立ち上がり、踏み台に足をかけてのびあがった。ひとの匂いが鼻先をかすめた。それは十九の私にとって、おそらくもっとも近しい男の熱だった。

 その首にかかった輪に手を差し入れ、もう片方の手で結び目を押さえ、ゆっくりと掬いとる。

 輪を両手に掲げたまま、私は間近に立つ男の顔を見る。目から耳にかけて、ひきつれた火傷らしき跡があった。近くに過ぎて、その目にどのような表情が浮かんでいるのかまではわからなかった。

 人生は一行のボードレールに若かないかもしれない、そう、私は言った。

「でも、ひとの人生があるからこそ、モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、そうした文学者たちの命が繋がれることもまた事実だと思います」

 遺された言葉の意味を知りたくて頁がすりきれるほど読んだ本は、いつしか私の血肉となっていた。一篇の、物語とも随筆ともとりかねる文章を諳んじるようになぞり、私は踏み台からおりる。

 手を離すと、縄はなにを巻きこむこともなく鴨居からだらりと垂れ下がった。

 卓上にある写真を手にとる。スカートのポケットから、この日のためにと持ち歩いていた写真をとりだし、二枚を重ねていまだ台上にある相手にさしのべる。

 五人の軍服の男たち、そうしてもう一枚の写真のなかではひとりの青年が穏やかな笑みを浮かべていた。

「桂さんの息子さんはお元気でした」

 声は、静かなあたりに妙に響いて聞こえた。

「『父は最後まで勇敢に戦ったと、父の戦友だという方から伺いました。だから僕は父に恥じないよう、しっかりと生きていかなければと思っています』、そう仰っていました」

 青年が照れくさそうに、けれど生真面目に語った言葉が真実に由来しないことを私はすでに知っている。そうしてその嘘をついた唇を、私は見る。

 勇敢に戦う相手など、どこにもいなかった。

 〈懶惰の島よ、自然はそこに生かす、奇異な樹々と馨しい木の実と、〉

 パリの寵児と持て囃された詩人は、異国への憧れをいくつかの形にした。その一行は飢えかつえて常夏の国に彷徨う兵の耳にどう甦ったのか、そんなことをふと考えたが、口にしたのはまた別のことだった。

「一行のボードレールはひとを支えるためにある。あなたの言葉も、桂さんのお子さんを支え育てたのだと私は思います」

 我ながら陳腐に過ぎるその言葉は、人生どころかこの一秒にも如かないのかもしれなかった。それでもやはり、言わずにはおれなかった。

 しばらくの沈黙ののち、写真が手から離れる。

 すまない、という声が聞こえた気がした。それに応じるよりさき、私の体は時を超えた。



 叔父の十七回忌に私は参列した。

 狭い町だから、父と母のあいだにもいくらかの血が繋がっている。そのため母の父や弟も、父にとっての縁者となった。叔父の死により絶えた家とはいえ惜しむ者は多く、祖父の十三回忌と合わせてとり行われた法要は、町のそこかしこから現れた縁戚により賑やかなものとなった。

 母の指示のもと立ち働きながら、親戚たちの噂話を私は聞いた。

 それによると、叔父は復員以来ひっそりと祖父の家に暮らしていたが、たまたま出かけたさきで事故に遭い、打ちどころを悪くして亡くなったということだった。

 親戚たちが語るその出来事は、私の記憶に刻まれた縊死と日を同じくしていた。

 時間というものがどのように流れているのか、私にはわからない。ただ、たとえいくらあとから干渉を重ねたところで定められたひとの生き死にまで変えられはしないのだとは、ほかならぬ叔父に教えられたことだった。

 何遍やりなおしてもみんな死んでいく。

 自死と事故と、叔父にとってどちらがその意に沿うものであったか、私に知るすべはない。ともあれ歳月はすべてを洗い流すようで、座敷でうち騒ぐ親戚たちはただひたすら祖父と叔父とを懐かしんでいた。

 昼前からはじまった酒席は、午後五時を過ぎても終わる気配を見せなかった。

 母に言われ、私は酒屋に買い足しに出た。

 歩くうち、道はかつて祖父の家があったところにゆきあたる。祖父の死後無人となった家は、借り手もないまましばらくして更地になった。家と家の狭間にある、猫の額ほどの小さな土地はあえて購い得ようというものもないのか、いまでは近隣の子らの恰好の遊び場となっている。

 夕日が砂利道を染めていた。

 長ながとのびる自分の影を辿るように私は歩く。

 あのとき、と口には出さずに呟いた。

 十七の冬、山崎に教えられ、私がつぎに訪ねたのは桂の身内だった。

 ここからそう遠くもない、山の際にひっついたような古い屋敷町の一角だった。昼のしらぼけた陽のなか、丈の低い木塀や石造りの天水桶の上で猫が丸くなっている、長閑なようでいて目を凝らせば戦火の跡がそこかしこに残った、そうした小路の奥にその家はあった。

 黒板塀を前に、青年が待っていた。

 名を名乗り、訪いの理由を告げると彼は眩しげに目をほそめ、自分は桂の息子だと言った。

 家人は留守だというのでその場で立ち話をした。女の子を男ひとりの家にあげるわけにはいかないと、真顔で言うところに気性の良さが窺えた。

「子どものころ、いちど父の戦友という方が訪ねてきました。僕はちょうどこの塀のところで地面に落書きをしていて、そうしたら桂さんのお子さんかって。ちょっと話しただけですぐ帰られましたけど、あの方が多分あなたの叔父さんだったんでしょうね。お怪我をされていたようだから、お顔はよくわかりませんでしたけど。父の最期についても教えて下さって、勿論そのときは悲しかったけれど、今は感謝しています」

 見あげるさきにある、その笑みは穏やかだった。

 しばらく話をしたのち、叔父はずっと皆さんのことを気にかけていました、と私は言った。

「墓前に供えるために、桂さんのご家族のお写真を頂けないでしょうか」

 我ながら不躾に過ぎる申し出とはわかっていた。彼は少し戸惑ったようにしながらも家のなかに入り、やがて一葉の写真を手に戻ってきた。戸が開いた拍子、ちらとのぞいた玄関先には年季の入った紳士靴が二足と女ものの下駄が並んでいた。

 渡された写真には彼ひとりが写っていた。

 礼を言い、私はその場を辞した。さようなら、と手をふる青年の傍ら、門柱に掲げられた表札には宮原とあり、いくぶん離れて桂と手書きされた木片があった。

 小路を曲がる途中で母娘の二人連れとすれ違った。

 日傘の下で年嵩の女性が軽く頭をさげ、このあたりのものらしい高校の制服を着た少女がぱちぱちと目を瞬いた。どちらもさきほどの青年とよく似た、整った顔立ちをしていた。少女の鞄についた名札には二C宮原和子と書かれていた。

 通り過ぎてからしばらくして、背後でお兄ちゃんいまのひとだあれという高い声がした。

 私の父は戦後すぐに復員し、一年も経たずに私が生まれた。戦争のない世にこそ生を受けられたのだと、私は和子と名づけられた。

 私は二年生、そしていまのひとも二年生と、胸のうちで確かめる。

 おもざしの似通う母、お兄ちゃんと呼び慕う妹がいながらも、桂の家族と言われて自分ひとりの写真を出すしかなかった青年。

 すべての帳尻が合ったような、そんな気がふいとした。

 振り返れば小路はすでにひっそりとして、おそらく四十の坂も越えているだろうに可憐ですらあった日傘の女性の姿はもはや見えなくなっていた。

 夫を異国に送り、幼い子を抱え、女ひとりで戦火をくぐり抜けてゆく、それがどのようなことか、戦後に生まれた私には想像することもできない。致し方のないことだと、そう思うのは他人事だからか、それとも自分のことであればいっそうそう思いこむしかないのか、やはりわからず、けれどそうしてひとりこの地を去った男がいたのかもしれないと、そんなことをふと考えた。

 道は酒屋のすぐそばまで来ていた。赤一面の空にあって町並みの輪郭ばかり黒ぐろとして刻まれていた。

 立ちどまり、夕景を眺めた。

 あの日以来、私が叔父の室を訪れることはなくなっていた。そう考え、小さくかぶりをふる。私が叔父の室に呼ばれることはなくなったというほうがただしいのかもしれなかった。

 四つのころから記憶に刻まれた、そのひとのほんとうの名がなんというのか私は知らない。

 国家の義の下、南方の密林まで連れられてゆき、仲間とともにあちらこちらと彷徨い歩いたその挙句、ひとり生き残った男。

 時を遡る力を持ったにも関わらず友の命をみすみす失わせるしかなかった彼は、我が身の無力に耐えきれず自裁した。たまさかその死にゆきあってしまった小さな姪は、自らの力によるものか、それとも男の心残りにひきずられてか、時間の狭間にとらわれた。

 あるいは、と小さく呟いてみる。

 時を遡る力を持ったにも関わらず友の命をみすみす失わせるしかなかった男は、長い収容所生活を経て故郷の土を踏んだが、そこにはすでに帰る場所はなかった。怪我により面変わりしたのを幸い、戦地にあって行く末来し方を語り合った友になりすまし、一時を凌いだところに偶然妻の不貞の証と同じ歳と名の子がいた。

 昭和の御代にあって、平和を願う世にあって、和子ほどありふれた名もないというものを。

 彼は私が疎ましかったのだろうか。そう考えると胸のどこかがちりりと痛んだ。

 いつか立ち話をしたあの青年が、妹と同じ和子という名に親しみを覚え優しくしてくれたように、彼のひともまたこの身に何かを重ねていたのかもしれなかった。

 ゆっくりと夕日が沈んでいく。暗むあたり、足元の影もやがておぼろに滲みはじめる。

 《やがて僕たちは沈むだらう、寒い幽明のうちに》

 朱色の雲を眺めるうち、ふと脳裏をよぎるものがある。この二十年近く、異国の詩人が描いた景色を私は辿り続けた。死にゆくひとの目に何が映っていたのかを、私は知りたかった。

 

   やがて僕たちは沈むだらう、寒い幽明のうちに

   さよなら、きららかな光、はかなく過ぎた僕たちの夏!

   既に、不吉な響きを立てて、中庭の敷石に

   落とされる薪束の音は僕の耳を打つ。

 

   すべての冬は僕の身裡に帰って来る、

   怒りと怨み、戦きと恐れ、厳しい強ひられた辛労、

   その時僕の心はもはや、極北の地獄に燃える

   太陽にも似て、赤い凍つたかたまりに過ぎないだらう。

 

 死にいく最後の力で、彼はせめてもの腹癒せに和子という名の子どもを時間の隙間に捕らえたのかと、問うたところで答える者はもういない。

 先ほどの詩の続きを、私は口のなかで諳んじる。

 

   僕は愛する、切長のあなたの眼に浮ぶ緑の光、

   やさしい恋人よ、しかし今日すべては僕に苦い、

   そしてあなたの愛、あなたの部屋、暖く燃えるゐろり、

   何ものも、海の上に照り渡る太陽に如くものはない。

 

   それでもどうか愛して下さい、思ひやりのある人よ、遠い日の

   母の慈みに、恩を知らぬこの僕を、心よこしまなこの僕を。

   恋人よ妹よ、どうか僕に輝かしい秋の日の、

   まだ西に沈む太陽の、はかない身にしみるやさしさを。

 

 

 絢爛たる詞章は、ひとのありように彩りを添える。美辞麗句を餞に、もはやよみがえらぬひとのことなど忘れてしまえばいいのかもしれなかった。

 それでいて、詮ないことを私は考える。

 「人生は一行のボードレールに若かない」、その言葉は、「本屋の二階」、「日の暮」の「西洋風の梯子」の上で、「小さかった」「見すぼらしかった」人々を前にうまれ出た。夕闇迫るさなか、本棚を背に、脚立の上でいざ死に赴かんとしたとき、ふと小さくみすぼらしい子どもが現れたなら、見立て遊びが好きだった男が最期の興を湧かせてもおかしくはないのかもしれなかった。

 言葉とはおかしなものだと、小さくつぶやく。そうしながら、自分の口元がすこしゆるんでいることにはしばらくしてから気づいた。

 どこかで烏の鳴く声がした。それはいつか叔父の室で聞いたものとよく似ていた。

 赤陽が辺りを染めていく。

 あのひとはいったい誰だったろうか。

 夕暮れどき、縊死をとりやめた彼はいったいどこに行こうとしていたのだろうか。

 答えはみな、時間の彼方に眠っている。ボードレールのように、死して百年ののちにまで揺り起こされることもなく。

「言葉は、ひとのためにあるのです」

 つまらない付け足しだとわかっていながら、私はそう口にする。

 夕日はいつしか、山並みの向こうに沈んでいた。

 

 引用:芥川龍之介「或阿呆の一生」

    シャルル・ボードレール「異邦の薫り」「秋の歌」(福永武彦『象牙集』)

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