エピローグ

エピローグ

 空は澄み切った青に満たされているし、その青の下にある音広ねこうの街では春の訪れを示すかのように、あちこちで桜が咲き誇っている。おまけに、時折頬を撫でてくる風のとても優しいこと。そりゃあね、人間じゃなくったってご機嫌にもなるわけだ。

 そんなわけで、にゃか女の正門前。三毛猫が二匹、朝から心地好さげにごろんと寝そべっていて。無防備に晒されたその子たちのお腹を目にしてしまえば、もうあたしにはスルーなんて選択肢はない。

 モモとの会話をぶった切り、その子たちに駆け寄って。それからすうっとしゃがみ込むと、


「よぉーしよしよし、いい子いい子」


 なんて言いつつ、もふもふとしたお腹を撫でまくる。

 ご機嫌なその子たちはあたしに怒ることもなく、寧ろもっと撫でろと言わんばかりにゴロゴロと喉を鳴らすのだが。


「さーらーさぁー」


 うん。今、確かに聞こえてきた。ひどくご機嫌ナナメな声。

 その声を発したのが誰かなんて、振り返らずともわかるよね。


「んー? なあに、モモ」

「なあに、じゃねえよ。わたし、猫はダメなんだってば」


 あたしの背後に立っているのであろうモモが、心底不機嫌な声で抗議してきた。

 まあね。モモが猫ダメなのはわかっているし、そういう声になるのもしょうがないとは思う。けれど、それでもこんなもふもふが目の前にあるとなれば、猫が好きなあたしとしてはもうちょっと堪能したいとも考えちゃうわけで。


「もうちょっと。ねえ、モモ。もうちょっとだけ」

「無理」

「あと三分」

「バカじゃねえの?」

「あと一分」

「長い!」

「じゃあ、あと三十秒は?」

「ダメだってば!」

「意味わかんないんだけど」


 三十秒も無理だなんて、さすがにケチすぎない?

 三毛猫たちから目を離し、振り返ってモモを見る。するとモモはモモであたしのことをじっとりとした目で睨んでいて、一瞬、あたしたちの間を流れるのは沈黙。


「なあ、更紗」


 その沈黙を先に破ったのは、あたしじゃなくてモモの方だった。


「おまえさ、今日なんのためにいつもより早めに登校したと思ってるんだよ」


 なんのため、って。


「それはあれじゃん、ほら。今日から二年生になるからさあ、新しいクラス名簿が掲示板に張り出されるでしょ。それで混雑する前にって――」

「そう! それだよ! わたしが猫ダメって以外にも、今日はちゃんとした理由があるんだ。だから、」

「……とかなんとか言っておいて、結局は一刻も早く猫から離れたいだけだったりして。だってモモだもんねえ」

「んなっ! こんにゃろう……なんだよおまえ、『だってモモだもんねえ』って!」

「あっは、図星だった?」

「うがあああっ、図星じゃねえし!」


 リンゴほっぺを真っ赤に染めて怒るモモは、やっぱり図星だったようにしか思えないけれど。


「相変わらず仲がいいね。二人とも」


 あたしのものでもなく、モモのものでもない、落ち着いた深みのある声が上から降ってきて。そこであたしたちの舌戦は終わりを迎えることになった。


「お、おはっ……わわっ!」


 その子の声に、モモが動揺するのはいつものこと。

 一目惚れしてそろそろ一年が経つのだから、いい加減まともに話せるようになった方がいいんじゃないかって思わなくもないけれど、ひとまずその件には触れずにゆっくりと腰を上げ、あたしは先刻の声の主に視線を向ける。そして、


「……サク、どうかしたの?」


 あたしの口からぽろりと零れ落ちたのが、そんな言葉だった。

 いや、だってね。にゃか女のイケメンとされる古武朔弥が、なぜだか手で鼻を覆っているのだから、そりゃあ何事? って感じでしょ。――ううん、ちょっと待って。もしかしたら、もしかすると。その理由、わかっちゃったかも。


「ねえ、サク。この時期だし、もしかして花粉症とか?」


 もしかして、なんて言っておきながら結構自信はあった。

 けれど、


「いや、花粉症ではないんだけど」


 すぐに否定されてしまった。


「じゃあ、なあに?」

「うん。……ちょっと、嫌われてしまったというか」

「嫌われた?」

「頭を撫でようとしたらさ」


 この子、一体誰の頭を撫でようとしたんだろう。

 そんなことをサクが言うから、ほら、モモがこの世の終わりみたいな顔してる。


「猫に、ね」

「うん?」

「だから、猫に。嫌われたのよ、朔弥は」


 あたしと、おそらくはモモも抱いたに違いない疑問に答えてくれたのは、サクの隣に立つ彼女だった。腰まで届く濡れ羽色の髪と、それから冬の夜空みたいな瞳を持つ――そう、鮫島雫である。

 彼女が言ったあとで、サクがそろりと手を下ろした。するとなるほど、サクの鼻の頭には猫の引っ掻き傷が生じていて、それほど深く抉られたわけではなさそうだから傷痕が残ることはないだろうけど、まあ、しばらくは目立つに違いない。


「い、痛そう……」


 昔、猫に引っ掻かれたときのことを思い出したのか、モモが首を横に振りつつ苦い表情で洩らした。


「機嫌がよさそうだったから、もしかしたら撫でても大丈夫かもって。そう思ったんだけど」

「んー……なんだろうね。あれかな、サクの目って猛禽類みたいな感じじゃん。それで猫が敵と勘違いしちゃった、とかさ」

「うおぉい、何言ってんだよ更紗!」

「けれど、案外間違っていないかもしれないわね」

「さ、鮫島さんまで!?」

「やっぱり雫もそう思う? だとしたらもうサクは諦めた方がいいよ、猫に構うの。そのままじゃ猫の引っ掻き傷だらけになっちゃうって、顔。せっかくにゃか女のイケメン枠ってことになってるのにさ、それじゃあまずいってば。……ねえ、モモ。モモもそう思わない?」

「は、……はあ?」


 なんでわたしに振ってくるんだよ、みたいな顔でモモがあたしを見る。

 そういう顔をされるとさ、別に他意はなかったけど、なんだかこう、もっと悪戯をしたくもなってくる。だから、


「ねえ、サク」


 歯を剥き出して威嚇するような表情を向けてくるモモのことは知らんふりで、あたしはサクに告げるのだ。


「この際、猫に構うよりもさ。モモに構ってみたら?」


 刹那。

 ぶるぶるぶる、と凄まじい勢いでモモが首を横に振った。

 ちょんまげにした前髪が、その動きに合わせてひょんひょんと揺れている。


「……向笠さんに?」


 あたしの言葉の裏に隠された意味には気づいていないのだろう、サクは首を傾げるとあたしとモモへ交互に視線をやる。そこでモモの焦りがピークに達したらしかった。


「ふ、ふふふふ古武しゃん! こいつの言うことは、その、全然気にしなくていいから!」

「でも――」

「ホントのホントに気にしないでくだしゃい!」


 これってさ、絶対にあとでモモに怒られるパターンなんだろうね。

 だけど自分ではそんなに悪いことをしたなんて思ってないし、それどころかサクと関わるキッカケをつくってあげたんだから、寧ろモモには感謝してほしいぐらいなんだけど。


「ねえ、更紗」


 パニクったモモにサクが気を取られている間に、雫がそっとあたしの耳元へ唇を寄せてきた。


「もしかして、だけど。向笠さん、朔弥のこと――」

「あっは! モモ、あんなにわかりやすいのに、雫も気づかなかった?」

「ええ、知らなかったわ。まったく。……でも、そうね。言われてみれば向笠さん、そういう感じなのかも。朔弥は向笠さんの気持ちに気づいていないのでしょうけど。……あの子、自分のことになると疎いから」

「疎い、ねえ」


 毎日のように女の子にキャーキャー言われてるんだから、そこは鋭くなってもいいと思うけど。まあ、人間なんだから得意なことも不得意なこともあるか。


「とにかく、」

「うん?」

「二人のこと、見守っていきたいわね」

「……ふふ。そうだね。さァて、どうなるかな。楽しみだよねえ」


 そうしてあたしと雫は二人、顔を見合わせて笑う。

 笑っていたら、あたしたちに気づいたサクが、


「どうしたの? 雫も、目崎も」


 事情を一切知らないまま、純粋に疑問を投げかけてきた。

 そのサクの隣では、モモが先刻よりも顔を真っ赤にしていて、助けを求めるようにあたしを見つめている。

 あたしと雫はそんなモモに笑みを深めて、それからサクにはなんでもないと、そう言って。けれどまた笑うのだ。

 笑っていたら、ふと正門の向こうに、あの子の姿を見つけた。

 宝石みたいに綺麗なグリーンの瞳と、オレンジ色の体毛、茶色のトラみたいな縞模様を持つ、それは茶トラ猫のナゴだ。

 今、間違いなく目が合って。そうしたらナゴが、尻尾の先をぴこぴこと揺らしてみせる。


『おまえ、楽しいのか』


 なんだか、そんなことを聞かれているみたいだった。

 だからあたしはきゅっと口端を吊り上げる。

 吊り上げて、声には出さなかったけれど、心の中でナゴに語りかけるのだ。


 ねえ、ナゴ。あたしさ、今、すっごく楽しいよ。

 案外、世界はつまらなくなんてなかった。

 たくさんの楽しいを、驚きを、そういうものをあたしにくれるんだから。

 たとえば、そう。ナゴがくれたチョコレートのように。

 だからさ、あたしはね。

 そういうものを見つけながら、受け取りながら、これからは生きていくの。

 どう? 考えただけで、あたしはわくわくするよ。


 するとナゴが鳴いた。お馴染みの低い声で、『なぁーご』って。

 あたし、目崎更紗は人間だ。だから猫の言葉なんて、わかるわけがないけれど。

 だけど、それでもだ。


『それならまあ、よかったじゃねえか』


 なんて。

 今、ナゴはそう言ってくれたんじゃないかって、あたしはそんなことを考える。


 ――さあ。今日はどんな楽しいことが、あたしを待っているんだろうね。


 澄んだ、澄み切った青を見上げて。

 きっとあたしは、今、キラキラと目を輝かせているに違いなかった。



 Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つまらない世界からの贈り物。 杜奏みなや @Minaya_Morikana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ