第7章―6

「母に好かれていないのは、もう、ずっと前から知っていたの」


 あたしの腕の中で、肩に顔を埋めたまま。ぽつりぽつりと鮫島さんが、言葉を落としていく。

 氷のように冷たかった彼女の身体は随分と熱を取り戻していて、いまや心地好いぐらいの体温を感じながら、あたしは彼女の言葉に耳を傾けていた。


「私はね、前の父親に似ているのよ。いつだったか、母に一度言われたことがあるの。どうしてあいつに似たあなたを、私が育てなきゃならないんだって。……時々それを思い出しては、どうしようもなく寂しくなった。学校で思い出してしまったことも、少なくないわ。……そんなときにはね。私、決まって屋上へ足を運んだの。ナゴに、会いに。ナゴといると、なんだか寂しさも紛れるような気がしたから」

「……そっか」

「あの日、屋上であなたと会ったときもそう。母の言葉を思い出して、寂しくなってしまったの。……結局あの日、ナゴは屋上にいなかったけれど」

「うん」


 そう。そうだった。それであたしは、ナゴの代わりに見つけたんだ。自分の左腕に歯を立てていた、鮫島さんを。


「ねえ、鮫島さん」

「ええ。なにかしら」

「うん。……あのさ。聞いても、いいかな」

「そうね、構わないわ。今はなんだって話すつもりよ」

「そっか。うん、ありがとう。……じゃあさ。ねえ、どうして、」


 今、この瞬間。

 衝動が、あたしを襲っていた。

 それは知りたいという衝動だった。

 どうして鮫島さんは自分の左腕を噛んでいたのか。

 鮫島さんがそうするのは、自分と会う前からだって、以前に古武さんが言っていたけれど。

 なぜ、そういう行為に及ぶのか。その理由まではあたしは知らない。

 だから知りたい、と。

 ――だけど、だ。

 知りたいという衝動をどうにか抑えて、


「……どうして、屋上のことを知っていたの? いつから?」


 代わりに別のことを尋ねたのは。

 今は、今だけは、彼女の傷に触れることを躊躇う自分が、知りたいという衝動で動こうとするもう一人の自分にまさったからなのだろう。

 鮫島さんは先刻の言葉通り、すぐに答えてくれた。


「入学式があった日。階段に座って、目崎さん、上を見て話していたでしょう」

「うん、話してたね」

「中津ヶ谷の猫の話は知っていた。だからあなたの行動を見て、あそこに猫がいるんだって思ったの。それで屋上のナゴのことを知った」

「そっか。じゃあ、あの日鮫島さんがあたしを見てたのはそういうことだったんだね」

「ええ。そうだけど、ところで目崎さん」

「……うん?」


 肩にあった温もりと重みがふっと消えた――と思ったら、あたしの視界に鮫島さんの顔が映り込んできた。

 さっき泣いたからかな。あたしを見据える黒の瞳は濡れていて、その濡れた瞳をすうっと細め、なんだか面白がっているような表情の鮫島さんに、へえ、こんな顔もできるんだね。……なんて思っていたら、


「そんなことよりも、もっと他に知りたいことがあるのでしょう」


 と。彼女の口から飛び出したのはそんな言葉で。

 どくん、と跳ねる。あたしの心臓。


「なあに? いきなりさあ。別にないよ、他なんて」


 咄嗟に肩を竦めつつ言ってはみるものの、うん、結構わざとらしい感じになっちゃったし、視線も泳いでしまったものだから、鮫島さんはますます瞳を細めて悪戯っ子みたいな表情をつくる。

 そして案の定、


「知りたそうな目をしていたけれどね。あなた」


 からかうような口調で告げてきた。


「うーん。気のせいじゃない?」

「そうかしら。私にはそうは見えなかったけれど。だってあなた、さっき私の左腕を見ていたわ」

「左腕。あはっ、……やっぱり気のせいだって。鮫島さんの」

「案外嘘を吐くのがうまくないのね」


 いつもだったらもうちょっとうまくやれるんだから、と心の中でぼやいておく。

 そのぼやきまではさすがに伝わらなかったと思うし、伝わってしまったら伝わってしまったでアレなのだけど、鮫島さんは小さく笑うと、さっきとは打って変わって穏やかな口調で言葉を紡いだ。


「母に、ね。愛されたいって。きっとそんな飢えのようなものからくる行動だったのだろうって、私はそう思っているわ」

「それは、……鮫島さんが左腕を噛む、理由?」

「ええ」

「……そっか」

「けれどもう、きっと平気ね」

「平気?」


 それは、


「どうして」

「どうして、って」


 だってそうでしょう、と鮫島さんが言う。

 嘘みたいに綺麗な笑顔を浮かべて、だけど嘘なんかじゃない、本当の笑顔をたたえながら、


「――私、こんなにも大切に思われているのだもの」


 と。

 だからあたしは。あたしも、笑ってしまった。

 鮫島さんを抱きしめたまま。

 そうしてにゃか女の屋上に、二人分の笑い声。


『なごーぅ』


 ――ううん、訂正。二人と一匹の笑い声か。ねえ、そうでしょう? ナゴ。


 あたしたちの傍で丸くなっていたナゴに目をやると、ナゴはお馴染みの低い声でもう一度鳴いて、それから細く長い尻尾をゆらゆらと動かした。


「ねえ、なんだかさ。ナゴも鮫島さんのことが大切だって、そう言ってるみたいじゃない?」

「ふふ、……そうかしら」

「そうじゃないかな。っていうかそうだよ、きっと」


 まあ、あたしは人間だから、猫の言葉なんてわかりっこないけれど。でも、なんとなくそう言ってるんじゃないかって、あたしは勝手に想像してみるのだ。その想像は、時に間違っていることだってあるのかもしれない。いいや、寧ろ間違っていることの方が多いんじゃないかとさえ思う。だけど今回のは、案外間違いじゃないのかも、なんて。だってナゴ、あたしの言葉に怒らないんだもん。


「あっ、そういえばさ。ナゴで思い出した」

「なに?」


 首を緩く傾げて疑問符を浮かべる鮫島さんを前に、あたしはジャージのポケットに手を突っ込むと、目的のものを探り始める。それはすぐにあたしの指先に当たって、そのいくつかを引っつかむなり、


「手、出して」

「なんなの?」

「悪いものじゃないから。ね、早く」


 瞬きを繰り返しながら、それでも鮫島さんはあたしの言葉通り、手を出した。

 上に向けられた掌に、口端をきゅっと吊り上げつつ、あたしはそっとそれを落とす。

 すると鮫島さんが目を見開いて、それからゆっくりと、確認するようにそれの名前を口にした。


「……チョコレート?」

「うん、そう。チョコレート」

「どうしてこれを、私に?」

「どうして、って。だってほら、今まであたしが何度かナゴにもらったチョコレート、元々は鮫島さんのだったじゃん。もらいっぱなしでさ、全然返せてなかったから」

「そう。そういうことね。……けれど、私の記憶が正しいなら。目崎さん、このチョコレートって、多分、」

「うん。にゃか女が今日限定でばらまいてるチョコだね」

「ええ、そうよね」

「まあ、あたしはこのチョコ、モモからもらったんだけどさ」

「……それを私にくれようとしているの? 本気で?」

「うん」

「それはよくないでしょう」


 ああ、鮫島さんが呆れている。

 まあね、あたしだってよくないってことぐらいはわかってるよ。それを全部、鮫島さんにあげようとするのなら。でも、そうじゃなくてさ。


「ちゃんと何個かはあたしが食べるよ、当然。チョコは嫌いだけどさあ、やっぱりモモがくれたものだもん。だから、ね?」

「……ねえ。それってそういう問題?」

「そういう問題なんだって。だからほら、受け取って。それで食べちゃってよ。あたしから鮫島さんへの、初めての贈り物。めちゃくちゃ気持ち入ってるから」

「……あなたの考え方って、おかしいわ。とても」


 鮫島さんはまだ呆れているみたいだったけれど、それでもこうも言ってくれた。


「だけど。とりあえず、ありがとう。……なのかしらね」

「うん。どういたしまして。それで鮫島さん、チョコレートの感想は?」

「ちょっと待って」


 元は市販のチョコレートだし、しかも安いものだろうから、特別おいしいってことはないはずだけど。それでもチョコレートを口にすると、鮫島さんはとても幸せそうに瞳を細めた。そんな顔を見ちゃったら、ああ、なんだかチョコレートがすごくおいしそうに見えてくる。

 だからだろうか。知らずしらずのうちに、あたしは先刻ナゴがくわえていたチョコレートを冷たいコンクリートの上から拾い上げていた。じっと見つめて、というよりも睨んで。それからそろりそろりと包み紙をめくり始める。めくったら甘ったるいにおいがあたしの鼻腔に流れ込んできて、けれど怯んだのは一瞬。ぽーんとそれを、口に放り込んだ。


「……ん」


 チョコレートはあたしが舌の上で転がすたびに、どろどろに溶けていく。

 甘ったるい。あのお馴染みの味が、あたしの味覚を強烈に支配していく。

 けれど、どうしてだろう。不思議とそれはいつもと違い、不快なんかじゃなくて。


「とてもおいしいわ、あなたがくれたチョコレート」


 鮫島さんの言葉に、だけどあたしは相槌も打たないでチョコレートを転がしている。


「ねえ、目崎さん。そのチョコレートはどう?」

「んー……」


 ころり、ころり。まだ舌の上で転がして。

 結論が出たのは、あたしの口の中にあったチョコレートが、すべて溶けきったあとのことだった。

 鮫島さんをまっすぐ見る。

 それからふふ、と笑ってみせると、


「まあ、悪くはないね」


 なんて。

 嘘は吐いていない。無理だって、していない。

 だけどチョコレートをそんなふうに褒めるのは、きっとこれが最初で最後だろうなあ、って。

 そんなことをうっすらと、あたしは心のどこかで考えるのだった。

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