3話目
長い坂を車で一気に登る。
祖父も眠る菩提寺は高台にあって、今日は母と連れ立って、墓参りにやってきた。
陽子には墓参りに行くことは伝えてあったから、泳ぐのはまた明日。
明後日の午前中には、海斗は家に帰る。だから本当は、今日だって午後からでも泳ぎたい。だけど今日は午後から雨の予報で、明日が陽子と会う最後の日になってしまう。
(でも、じいちゃんの墓参りはしたい)
墓参りをして、ちゃんと謝って。
そのことを、陽子にも報告したい。
「やあねえ、降りそう」
車から降りた母が空を見上げた。うっすら日は差しているものの、山の方には黒い雲が立ち込めていた。
「海斗、水桶持って」
水道にずらりと並ぶ、家名入りの桶。木に囲まれた水場は、ものすごい蝉時雨だった。桶置き場の裏に、台風で折れたのか背の高い草木が積まれていた。
「あら」
不意に母が声をあげた。
こちらに向かってくる人影を見つけた。一つは母と同じくらいの女性。もう一つは、少し小さい。
「まあ、志村さんじゃないの。お久しぶり」
母が呼び止めると、相手も高い声をあげた。
「あらー!お久しぶりー。なに、今帰ってきたの」
「明後日には帰るんだけどねえ」
母は世間話に花を咲かせる。台風のせいで、お墓参りこんなに遅くなっちゃったわあ、とか。水桶が重いので早くしてほしい。
「海斗くん、すっかり大きくなっちゃって。誰だかわかんなかったわあ」
「海斗、覚えてる?伯父ちゃんたちと同じ町内の志村さん。志村のおじいちゃんも、ずいぶん久々ねえ」
言われても全く記憶にない海斗は、女性と並ぶ『志村のおじいちゃん』の方を目にとめた。こちらも記憶にはない。
「ああ、ヒデちゃんとこの娘っ子と孫坊主か。あーあー、久しぶり」
ヒデちゃんとは、祖父の事だろうか。祖父の名前なんてあまり口にしないから、ピンと来ない。
「おじいちゃん、お墓参りに一緒に来るなんて元気ねえ」
「ほんと、困っちゃうのよお。暑いんだから、無理しないでって言ってるのに」
「そりゃおまえ、うちん墓には先祖だけでなくて、妹も入ってんだ。あんな若いうちに墓入って、来てやんなくちゃ可哀そうだろがよ」
杖を突きながらゆっくりとした足取りで、志村のおじいちゃんは墓地へ向かっていく。
「まあでも、去年ヒデちゃんがあっち行ったから、陽子も寂しくないだろうよ」
しみじみと呟かれた言葉に、海斗の心臓が跳ねた。
「……陽子?」
「志村のおじいちゃんの妹さん。若いうちに亡くなったの。海難事故で」
瞬間、一切の音が遠のいた。蝉の声も、母たちの会話も聞こえない。
代わりに潮騒が、海斗の頭の中に鳴り響いていた。
「陽子は可哀そうだったなあ。孫坊主と同い年くらいん時、海で溺れて、そのままな」
志村家の墓は自分たちの墓と同じ区画にあるらしく、四人連れ立って歩いた。
若い頃に命を落としたという、『志村陽子』さんの話を聞きながら。
(陽子なんて名前、ありふれてる)
そう言い聞かせて、海斗はなんとか歩いた。
「陽子とヒデちゃんは同い年でな、仲が良かったんだ。よく二人で海に泳ぎに行ってて。陽子、泳ぐの嫌いだったんだけど、ヒデちゃんと海行くようになってからは、楽しそうにしてたなあ」
――私に泳ぎを教えてくれた人がいて。その人がいっつも楽しそうに泳ぐから。
陽子の言葉が耳に蘇る。
「でも。溺れた日は陽子、一人で海に行っててな。それで、助けてくれる人もなく、溺れちまったらしい」
おじいちゃんは、小さく息をついた。
「ヒデちゃん、ずいぶん気にしてたな。俺が一緒に海に行ってやらなかったからって。そんなん、ヒデちゃんのせいじゃないのにな」
「じいちゃんが海斗に、海に行くなってうるさく言ってたの、陽子さんのことがあったからなのよ」
海斗は唇をかみしめた。
ああ、だから。あんなにも。
熱くなる目頭を押さえる。もう歩けなくなりそうだった。
「あれ?」
先頭を歩いていた、志村のおばさんが声をあげた。
「誰か来たのかな。なんか供えてある」
志村家の墓の方が手前にあったらしく、おばさんが立ち止まる。
「あら、ミドリ屋の梅ジュースじゃない」
墓前には、淡い琥珀色のジュースが置かれていた。
「ミドリ屋の?そいつは、陽子の大好物じゃないか」
あの日。陽子はあんなにも梅ジュースを喜んでいた。だけど、それを口にしていただろうか。
「まだ陽子のこと、覚えててくれてる人でもいるのかなあ」
「あらやだ、海斗君どうしたの!」
おばさんが驚いた声をあげる。
涙が止まらなかった。
翌日の海は、夜半の雨もやんでよく晴れていた。
降り注ぐ太陽の光は、それでも悲しい。
「ねえ海斗、今日は秘密の場所に連れてってあげる」
いつもと変わらぬ足取りで、裸足のまま焼けた砂浜を歩く陽子についていく。海斗もいつもと変わらぬ足取りを保ちながら歩いた。
「俺、じいちゃんの墓参り行って、謝ってきた」
あの後、涙を止めるのには随分と苦労したけれど。海斗は祖父の墓前に手を合わせて、きっちり謝った。ありがとうとも、伝えた。
「そっか。よかった!」
そう言う陽子の顔は、本当に晴れ晴れとした笑顔だった。
海岸の傍には神社と鎮守の森がある。森の中を歩いて行くと、だんだん坂道になっていって、いつの間にか高い崖の上まで来ていた。
「ここだよ」
森を抜けると、眼下に広がるのは海。飛び降りられなくもない高さだけど、それでも少し足はすくむ。
「……俺、この場所知ってる」
足元から震えが上ってくる。この場所は怖い。だって、ここは。
「いやなら、思い出さなくてもいいけど」
陽子が微笑んで言った。
もう少しで記憶のふたが開きそうだった。
怖いけど、思い出したい。
「……っ!」
海斗は海に飛び込んだ。
足から着水して、一瞬にして頭まで海水に沈む。ごぼごぼと鼻から、口からと空気がぬけて鼻がつんとした。足から着水したはずなのに、体がひっくり返って頭が下になった。方向を見失って、目の前が真っ暗になる。
(俺は、小さいときにも、こうなって)
ここは海斗が溺れた場所だ。
小さい頃に一人で海に遊びに行って、あの場から落ちて、溺れた。
あの時も今も、このまま真っ暗い海に、沈んでいくのだと、そう、意識を手放そうとした瞬間に。
「海斗!」
海面に、光が見えた。
降ってくる光の中に、手を伸ばしてくる人がいた。
――陽子。
「ぷはっ!」
海面に顔を出して、海斗はぜいぜいと喉を鳴らした。空咳を何度も吐き出す。
「大丈夫?」
陽子は一つも息を乱していなかった。心配そうに海斗を見つめる。
「陽子だったんだな。昔、俺を助けてくれたのは」
溺れた小さな海斗を、海から引き揚げてくれたのは。
今と変わらない姿のままで。
「うん」
そしてくしゃりと笑って言った。
「だって、海斗がいなくなっちゃったら、ヒデちゃんが悲しむもん」
いつも屈託のない陽子の笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうで。
思わず海斗は、陽子に口づけた。
陽子は驚いたように目を見開いてから、またいつものように笑った。
「さよなら」
陽子の姿が、光となって消えていく。
海面を照らす、儚い光だった。
相変わらず潮風はべたべたとして、少し生臭い。
けれど去年ほどは不快じゃなくて、海斗は海風に目を細める。
両手には、元ミドリ屋自家製の梅ジュース。
一年ぶりに思い出の海へとやって来た海斗は、崖の上からきらめく海を見下ろしていた。
「じいちゃんとこ行ったか、陽子」
今にして思えば、出会って間もない女の子にキスをするなんて、とも思う。だけど、短い時間でそれだけ誰かに心を寄せるということもあるのかもしれないし、もしかしたら、あの瞬間だけ、祖父が海斗の中にいたのかもしれない。
梅ジュースを飲む。
これを海に撒くわけにはいかないから、後で墓前に持って行ってやろう。
飲み切って、海斗は崖下を覗き込んだ。
勢いをつけて、海へと飛び込む。
ばしゃんと衝撃。泡をまといながら、海面を見上げる。
ゆらゆらとした太陽の光が、海の中にも届いた。
この光は陽子だ。
光は海斗を海上へと導くけれど、差し伸べられる手は、もうない。
だけど。
――海斗はもう、一人で歩けるんだね。
陽子の言葉も光となって、きっと海斗を導いてくれる。
海が太陽のきらり いいの すけこ @sukeko
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