2話目

 それから、毎日陽子と海で泳いだ。

 最初の滞在は三日の予定だったけれど、一週間に伸ばしてもらった。

 三日でも長い、とぼやいていた海斗が、できればもう少し伯父宅にいたいと申し出たら、伯父は喜んでくれた。子供達も去り、祖母は施設に入所し、祖父は亡くなって。夫婦二人では広すぎる家に、寂しさを感じているようだったから。

 母も賛成してくれた。小さい頃から、伯父宅――当時は祖父・伯父宅――にあまり滞在したがらなかった海斗に、少なからず母は思うところがあったらしい。先日の台風で菩提寺に繋がる道路が通行止めになって、墓参りが済んでいないというのもあるのだけれど。

 

 滞在を伸ばしたことを、陽子も喜んでくれた。

「じゃあ、もう少しいっしょに泳げるねえ」

 にこにこしながら、陽子は波と、海斗と戯れる。

 会って間もなく警戒心が解けたからか、それとも、遠く離れた地に住む人だからか。陽子には何でも話せる気がした。

 海の自由な雰囲気が、そうさせるのかもしれない。

「海斗はさ、なんで海、苦手なの?」

 だからそう聞かれた時も、ためらいなく話してしまった。


 自分の、心のひっかかりを。


「俺のじいちゃんが、海に行くなって言ったんだ」

 浜辺に座って、海斗は静かに話し始めた。

「小さい頃、伯父さんちに遊びに来てもさ。危ないから海斗は海に行くなって。大人が連れて行くって言っても、海斗を絶対に海に近づけるなって」

 子供が犠牲になる不幸な事故は後を絶たない。だから、まだ未就学児の海斗の身が祖父は相当心配だったのだろう。

「でもさ。夏、ここまで遊びに来てさ。海に行けないなんてつまんなくて。いとこたちは気を使って家で遊んでくれたけど、そもそも、ちょっと年も離れてるから、そんなにいっぱいは構ってくれなくて」

 少しは海斗を気にかけてくれたいとこたちも、そのうち友達と連れ立って海に遊びに行ってしまった。近くに住んでいるからには、いとこたちはある程度の年齢になってからは、注意はされても止められることはなかったようだ。年齢も海斗よりは年長であったし。

「俺、どうしても海に行きたくて」

 伯父の家に向かう車の中から、ガラス越しに見る海。あっという間に過ぎ去ってしまう、あの青いきらめき。

「ある時に、みんなの目を盗んで、一人で海に行ったんだ」 

 海の香りが、こんなにも漂ってくるのに。こんなにも、海斗を海に誘うのに。広い庭で遊びながら、どうしても、行きたい気持ちを抑えられなくて。

「一人で、こっそり?」

「うん」 

 だけど、初めて海に行った時のことを海斗は覚えていない。

「俺、溺れたらしいんだ」

 初めて踏んだ砂の感触も、海水の心地よさも、記憶にはもうなかった。

「全身ずぶ濡れで、浜辺に打ち上げられてたらしいんだ。溺れたとこを見た人はいなかったみたいだけど、気づいたら浜で気を失ってた」

 陽子は黙って海斗の話を聞いていた。

「もうそれで、じいちゃん怒り狂っちゃって。親よりすごい勢いで。それから、海どころか、外にも出してもらえなくなった」

 勝手に海に行った罪悪感を抱えたまま、家に閉じ込められるのはつらかった。そのうち、遊びたい盛りに外に出られない理不尽さに、いら立ちが募っていった。いとこたちは遊びに行ってしまうし、ほとんど家にいる祖父には近づけなかったし、何にも楽しいことなんてなくて。

「俺が小学校に上がっても、ずっとそんな感じだったから。だから俺、ここにはあんまり来なくなったんだ」

 ここはずっと息苦しかった。

 ずっと近づけなかった。

「そっかあ」

 囁くような声で、陽子が言った。

「おじいさん、海斗が大事だったんだよ」

 陽子に言われて、海斗はぎこちなく首を回して彼女を見た。

 海斗が大事だから。

 散々、言われてきた。じいちゃんがあんなにうるさいのは、海斗が心配だからよと。あまりに聞き飽きたから、そんな言葉はそのうち何の慰めにもならなくなった。

 だから、陽子に同じようなことを言われて、どう反応していいかわからなくて。

「海斗!」

 呼び止められるのも構わず、思わずその場から逃げ帰っていた。



「……って、俺の馬鹿!」

 海斗は走っていた。一刻でも早く、陽子に会うため。

 昨日は、あまりにも悪いことをした。一方的に話を聞いてもらっていたのに、無視して帰るような真似をした。

 びゅんびゅん車が走ってる道路で、もどかしい信号待ち。青に変わった瞬間に横断歩道を走って渡る。浜の砂を蹴りながら、陽子を探した。

「海斗」

 海斗が陽子に呼びかけるよりも先に、名を呼ばれる。振り返ると、陽子がいた。

「ごめん!」

 海斗も彼女の名を呼ぶよりも先に、何よりも先に、陽子に謝る。

「昨日はごめん。態度、最悪で。黙って帰って」

「私こそ、何にも知らないのに」

 陽子は小さく首を振った。

「あの、これ。お詫びって言っちゃなんなんだけど」

 陽子の前に、透明のパックを差し出す。ストローの刺さった点滴袋みたいなパックは、ほんのり淡い琥珀色の液体に満たされていた。

「これ、もしかしてミドリ屋の梅ジュース!」

 感激したように目を見開いて、陽子はパックを手に取った。

「ミドリ屋?これ、そこのコンビニで買ったんだよ。自家製梅ジュースとは、書いてあったけど」

「あそこのコンビニね、前はミドリ屋って酒屋さんだったの。コンビニになったけど、オーナーさんはミドリ屋さんのままだよ。ミドリ屋の時代から、夏はこの梅ジュース売ってるの。昔っから」

「ああ、だから自家製ジュースなんてフリーダムなものが置いてあんのか」

 珍しいと思って買ったものだった。こんなものは、地元のコンビニでは見たことがない。

「この面白い入れ物になったのは、オーナーさんが若夫婦になってからかな。前は紙コップについでくれたから。わたしこれ、大好きだったのよー」

 梅ジュースのパックを頬につけて、陽子はいつもと変わらぬ様子で笑った。

「ありがとう」

「こちらこそ、本当にごめん」

 それから、二人で浜辺に並んで座って梅ジュースを飲んだ。爽やかなような、甘ったるいような、不思議な味わいの梅ジュース。

「俺、あそこが酒屋だったどころか、コンビニがあることも知らなかった」

「ほとんど来てなかったんだもんね」

「……じいちゃんが死んでさ。俺も、高校生になってさ。それで、もうひとりでも、海、行けるって、思ってさ」

「うん」

「でも、それで、最後にじいちゃんに、ひどいこと言った」

 

 また、話してしまう。

 陽子に、自分の棘を。

 昨日あんなにも感情的になったばっかりなのに。それを謝ったばかりなのに。


「去年の夏に、久々にこっち来たんだ。ずっと来てなかったけど、じいちゃんが、いよいよだって言うから。で、じいちゃんにも何年かぶりに会って」

 久々にあった祖父は、かつて溺れた自分を叱ったとは思えないほど弱々しかった。自宅療養で、昔と変わらず仏間を自室にしていた。薄暗くて線香臭くて、近寄りがたかったその場所で、布団に横たわる祖父。

「なんか、弱ったじいちゃん見てんの、忍びなくてさ。俺、部屋を出て行こうとしたの。そしたら」

 

 ――一人で出かけるんじゃないぞ、海斗。


 祖父の細い声が、背中を打った。瞬間、顔に熱が上って。


「いいかげんにしろよ、って、じいちゃんのこと怒鳴った」


 いつまで自分は小さいままだと思われているんだろう。

 いったいいつまで、この人は自分を縛ろうとするんだろう。

 そのまま、祖父を振り返らずに、足を乱暴に踏み鳴らしながらその場を去った。

 それが祖父と話した、最後になった。


「おじいさんは、海斗が最後まで大事だったんだ」

 陽子が、昨日と変わらない感想を口にした。今度は腹は立たなかった。海斗は抱えた膝に頭を落とす。

「でも、海斗はもう、一人で歩けるんだね」

 その言葉に、膝に頭をのせたまま陽子の方を見る。

「だって、海だって泳げるものね」

 柔らかい陽子の笑顔が胸に迫って、海斗は鼻をすすった。

「泳ごうよ」

 陽子に手を取られて、二人で海へ。

 海はどこまでも大きくて、ちっぽけな人間の悩みなんてすべてさらってくれるなんて、そんな都合のいいこと思わないけれど。

 少しでも後悔や、過去が、この海に溶けてしまえばいいなと、そんなことを思った。

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