海が太陽のきらり

いいの すけこ

1話目

 吹き付ける熱風は、潮をはらんでいた。

 べたべたするし、なんだか生臭いし。不愉快とは言わないけれど、どうも肌に合わなかった。

 黒の樹脂製サンダルでぺたぺたと歩く。砂浜をスニーカーで歩くのは嫌だなと思って、道すがらコンビニで買ったものだ。普通、コンビニにサンダルは売ってないだろうと思ったが、さすがは海水浴場から一番近い店なだけはあった。

 商店街の中にあるコンビニからは、まだ海は見えない。

(海の傍に住むのは勘弁だな)

 家も車も、あらゆるものが潮風で傷みそうだし。洗濯物を干すのも困りそうだし。

(なんて言ったら、伯父さんに悪いか)

 海斗は母親の帰省に付き添って、伯父の家に来ていた。海斗一家の住む都会のマンションと比べると、あまりにも広くて立派な一軒家は、海まで歩いて五、六分ほど。

(良いところなのかもしれないけどさあ)

 思わずため息を吐く。

 来たところで、することがない。伯父夫婦と母の酒盛りに交じれるわけでもないし、いとこたちはすでに独立して、遊び相手もいない。泳ぎが苦手なので海水浴もしない。


 いい思い出もない。


 そう母親を説得したら、「おじいちゃんの新盆なんだから今年は来なさい」と一言で説き伏せられた。海斗だって、祖父が亡くなって初めての盆に、なんの感慨もないというわけではないけれど。


「盆、終わってんじゃん」

 海斗は思わず声に出した。

 当初、予定していたお盆の帰郷は叶わなくなってしまった。お盆の真っ最中に台風がやってきたから。

 予定変更を余儀なくされ、けれど、じゃあ俺は行かなくていいよねとはならず。仕事の都合がつかなかった父親を残して、母と二人、伯父宅までやって来たというわけだ。


 商店街を抜けると、一層と潮の香りが濃くなった。海沿いに伸びる道路を横断すると、車の音にかき消されていた波の音が聞こえて。

「おー……」

 我知らず、声をあげた。


 視界いっぱいに海が広がっていた。

 波は繰り返し押し寄せて、返り、どこまでも海面に白い波頭を生み出す。

 あまりにも大きくて、無限を感じさせたからか。海はなんだか自由だ、という気がした。

 

 それなのに、なんでこんなに息苦しいんだろう。


 砂浜に踏み出すと、足を取られてよろけた。歩みを止められて、そのまま立ち尽くす。


 海は憧れだったし、怖れでもあった。


(じいちゃん)


祖父の姿が脳裏に浮かんだ。


どうどうと波の音は限りない。


「ああ、やめやめ」

 色々と思い出して、海斗は首を振った。

 台風通過からは数日が経っていたが、お盆も過ぎて、海水浴をする人はまばらだった。ほとんどが慣れた地元民といった風情だ。

(お盆過ぎたら、海水浴って良くないとかいうしな)

 そんなことを思いながら、海を眺める。

(あれ?) 

 海斗は目を凝らした。

 多くの人が遊んでいるところから外れて、一人、泳いでいる少女がいた。ほとんどの人が波打ち際で遊ぶ程度だったから、泳げるほどに深いところにいるのは少女だけだった。

(危なくないのか?)

 あんな、周りに人がいないようなところ。

 思わず、海斗は海に向かって走り出していた。

 波に足をくすぐられ、一瞬ぞわっとする。だけど少女の事しか目に入らなくなって、ざぶざぶと波をかき分けて進んだ。海水が口に飛び込んで塩辛い。


「おい!」

 声をあげて、少女の腕を掴む。びっくりしたような顔で振り返った少女は、近くで見ると同い年くらいだった。黒い大きな目をぱちぱちとさせる。

「……はい?」

「大丈夫か」

「大丈夫ですけど」

 何を聞かれているのかわからない、という風に少女は表情に困惑を滲ませる。少女は溺れてもいなければ、特に苦しんでもいないわけで。

「えっと、こんなとこで泳いでて、平気なのかって」

 なんで自分はこんなにも焦っていたのだっけ。

 海斗も我に返る。お盆後の海は危ないというし、周りに人がいないところで泳いでいたから。だから、駆けつけたのだけど。

「遊泳エリアですし。足、付きますし」

「いや、でも周りに人いないし」

「小さな子供づればかりだからじゃないかな。みんな浅いところで遊んでる」

 言われてみれば、海水浴客のほとんどは家族づれで、本格的に泳ごうとしている人たちには見えなかった。

「あ、じゃあ。危なくないならいいです。それじゃ」

 途端に恥ずかしくなって、海斗は浜に向かって踵を返した。海水が重くて、不自由な動作になる。

「ね、泳がないの?」

 今度は海斗が腕を掴まれた。

「海水浴に来たんでしょ」

「いや、この近くの伯父さんちに遊びに来ただけで。海は、苦手だから」

 あまりに暇だから、なんとなく足が向いただけで。

 小さなころから、海にはほとんど近寄らなかった。

「じゃあ、泳ぎ教えてあげる」

 少女はにっこりと笑う。

「泳ぐのって、楽しいから!」



 屈託のない笑顔で誘われて、抗いがたいものを感じた海斗は、翌日の午前中から海に出向いた。

 途中の、海水浴に必要なものなら大体置いてあるコンビニに寄って、水着を買った。泳ぐつもりなんてなかったから用意がなくて買ったけれど、妙に浮かれた柄か、でなければ地味なデザインのものしかなかったので、とりあえず無難なものを選んだ。

(最低限の品ぞろえじゃ、選びようもないか)

 真っ黒の生地で、白の三本ラインが入ったデザイン。ジャージかよ、と思いつつも水着のデザインなどこだわりはない。海斗は海水浴場の更衣室でちゃちゃっと着替えて、浜に向かった。

「来てくれたんだね!」

 嬉しそうに言って、少女は海斗を出迎えた。

「一応、せっかくだし」

「いい天気でよかったよねー」

 出会ってすぐの相手とは思えないくらい自然にふるまう少女に、海斗は肩の力が抜ける。

「名前、なんだっけ」

 だから押されっぱなしだった海斗も、今度は自分から少女に話しかけた。

「ようこ」

「ようこ。えーと……」

「太陽の、陽子」

 自ら陽の光の子と名乗ったようこは、まさしく陽子がふさわしいなと、そんなことを思った。大洋の子でも似合うけど。でも、太陽の子のほうが、それらしい。

「そっか。俺は海斗」

「かいとのかいは、海?」

「そう」

「そっか」

 それっぽいね!

 陽子もまた、海斗の名前をそれらしいと言って笑ったのだった。 


 きっちりと準備運動をして、二人は海へと向かった。

 焼けた砂があまりに熱くて、海斗はサンダルを脱げなかったけれど、陽子は裸足のまま平気で準備運動をしていた。慣れてるんだろうなあと思いながら、陽子の動作をなぞるべく、彼女の足先から頭までを見つめる。

 きっちり編まれた二本の三つ編みが、体操の動きに合わせて揺れる。ワンピースの水着は真っ黒で、スクール水着と変わりない。海斗の水着よりもずっと地味だ。

(まさしく田舎の子だな)

 大いに偏見だけれども。実際、地元のグループと思しき女の子たちだって、ビキニだったり、カラフルだったりバリエーションに富んだ水着を着ているし。

 陽子だけずいぶんと、時代遅れな感じだ。

(だけど、負けてない)

 溌溂とした陽子は、名前の通りに眩しくて。なににも負けてないと、そう思った。


 あれほど近寄りがたかった海は、思ったよりも快く自分を迎えてくれた。

 陽子が傍にいるからなのか、自分があまりにも苦手意識を持ちすぎていたのか。

「なんだ。泳げるじゃない」

 海斗の手を掴もうとしていた陽子が、意外そうに口にした。海斗は海が苦手なだけで、泳げなくはなかった。だから、陽子が小さな子供にそうするように手を伸ばした時に、手を掴まれる前に泳いで見せた。

 ざばんざばんと打ち寄せてくる波は泳ぎの邪魔をしなくもないけれど、体を揺らすその感触は愉快だった。

「海斗は怖がってただけなのね」

 そう言って、陽子はすぐに並んで泳ぎ始めた。怖がりを指摘されたけれど、彼女の声に呆れや嘲りは一切なかったから、ちっとも不快ではなかった。

「私と一緒ね」

「陽子と?」

「うん。私もね、海、苦手だったの」

 思いがけないことを口にして、陽子は泳ぐのをやめて立ち上がる。

 濡れた髪が、肌が、陽の光にきらきら輝いて、眩しかった。

「でもね、私に泳ぎを教えてくれた人がいて。その人がいっつも楽しそうに泳ぐから。それから、私もだんだんと海が、好きになっていったんだ」

 陽の光よりもなお眩しく、陽子はにっこりと笑った。 

 

   

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