第十七話 見ようとした時には見えない
宗教の話をしよう。
前世、私の読んでいたネット小説には書かれていなかったのだが、どうやら作者の知らぬところで設定はどんどん広がっていたらしい。
この世界には、世界を構成する要素として世界宗教の思想が蔓延している。
多神教で、それぞれ国ごとに崇めている神も違えば、国の中ですら個人によっては違う神を崇めるのだが、主神はどの国も唯一にして、共通である。
ロゴス神。
この国、クゥイリーヌス王国でも、最大規模の教会数を持ち、どんな人間でも一度は礼拝に訪れるという。
例えそれが孤児であっても、人生で一度は訪れなければ、人間として存在することができない。
なぜなら、ロゴス教の最大の役割が、名づけであるからだ。
この世界では、名こそが人間の心臓であり、粗末に扱うと文字通りの命とりとなる。
だから、人々は殊更に名前を大切に扱う。
そう、だからこそ、ハッターは私に言ったのだ。
「紙を燃やしてください」
「どの紙のことだ?」
ハッターは必死に抑えようとしている焦りも隠しきれずに、額から汗を垂らす。
「あっしをハッターと呼びましたよね。その前に、その名を文字として紙か何かに記したでしょう」
「確信めいて言うではないか」
「ええ。…口頭だけの名づけでは説明できない」
不思議であった。
私はペンをくるくると回しながら、首を傾げる。
なぜ、そこまでハッターは顔を青ざめ、私の部屋を探るのか。
私は、机の上を見回すハッターの頭上を見上げる。
空中に浮かぶ紙が奴には見えていないのか?
おぬしの探しているカミならそこにいるではないか。
メモ代わりの人物表を見上げながら、不足している情報に頭を巡らせる。
私はこう見えても、細かいところは気になる完璧主義的性質も持ち合わせているのだ。
私の前世の名前はともかく、今のところ真名が分かっているのは、ドミティウスとヴァレリウスのみ。
如何にして真名を手に入れるか…。
「そこで最初に思いついたのが、ロゴス教に渡りをつけるということだ」
ぬかるんだ地面に額を付けて、傾聴する観客たちに私は独白を零す。
といっても、先ほどまで黙り込んでいた私が何の口上もなく、突然話し出したのだ、戸惑いも強いだろう。
私の頭の中の回想シーンを上映できれば良いのだが、そんな都合のよい魔法など知らないし、そもそも私は魔法の何たるかも知らん。
「名づけの行われるロゴス教であれば、臣民の名を手に入れるなど容易いであろう?」
教会と言うのは得てして寄進によって成り立っている。
だから、私ができる範囲で慈善事業と言う立派なお題目で、ロゴス教に寄進することも考えた。
信徒として教会に入ることも。
だが、どちらも机上の空論で終わってしまう。
なぜなら私が、第二王子であるドミティウス殿下の婚約者であるからだ。
教会と国家のパワーバランスのゲームは少しのことで大きく傾く。
教会に肩入れしすぎて、婚約者を降ろされたら本末転倒だ。
では代案は?
「ロゴス教は孤児院も経営している」
解放奴隷の子どもが全員孤児というわけではない。
だが、大多数の人間が孤児であることは確かで、そしてアスターたちもその大多数に含まれている。
「おぬしたちは教会に潜入する機会も多ければ、何人かは教会に入信し、内部に入り込み、出世する人間もいるかもしれん。
いや、それは楽観論が過ぎるか。
それでも、教会の人間の名前を知ることはできるであろう?
おぬしたちは、私に知る限りの名を教えるだけで良い。
どうだ?簡単なことだろう?」
沈黙は肯定である。
私が言っているのだ、拒否なぞするわけがない。
「アスター」
私が書面を取り下げると、その場にいた全ての子どもたちが態勢を崩し、地面に倒れ込む。
小刻みに体が震え、息も荒い。
健気にも唯一アスターはリーダーとしてのプライドか、必死に両手をつき、立ち上がろうとしている。
生まれたての小鹿を見ているかのように応援したくなる光景だが、アスターには言っておかねばならぬことがあった。
「さすがに私に直接情報を届けることはできぬから、奴隷商人のハッターを仲介に置く。ギルドにいれば、その者から近いうちに連絡が行くだろう」
「………い…だと言ったら…」
「アスター、我儘を言うな。私の親切を無下にしたのはおぬしらの方だぞ」
やれやれ、と物分かりの悪い子どもに対して、私は大きく溜息を吐く。
私は最初取引で済ませてあげようとしたではないか。
「上の者は下の者に寛大であるべきだが、言いなりではいけない。
譲歩は一度だけ。一度言って理解できなければそれまでだ。
取引の受付時間は終了したのだ。
もっと、わかりやすく言おう。
命令だ。
私がやれといったら、やれ」
ぎこちなく頷くアスターの頭から帽子を取り、優しく撫でる。
払いのける気力もないのか、私の撫でられるまま黙り込むアスター。
お風呂にも碌に入れてないのだろう、黒髪がごわつき、油っぽい上に臭い。
前髪は長く目元が見えづらいし、後ろは自分で切ったのか、切り口がダイナミックすぎる。
汚れている上に、頬もこけていて、骨っぽい印象はあるが、遺伝なのかそこそこ体格は良い。
「よしよし良い子だ。働き次第では御褒美も検討するぞ」
私に大型犬の子犬が居れば、こんな感じなのだろうか。
ペットとの生活を夢想する私の肩が後ろから叩かれる。
振りむくと、羨ましそうにこちらを見ている美少女がいた。
ん、と頭を差し出してくるマーチを、汚れていない方の左手で撫でる。
うーん、やっぱり人間と犬は別物だな!!!
帰ったら、父上にワンコが欲しいとねだってみよう。
悪役令嬢は、悪役令嬢になりたい! 五百夜こよみ @nois
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