人犬

 秋になったのに青いままの紅葉をベンチから眺める。空に浮かんだ海の向こうから、太陽は薄ら寒い光をそれでも必死に投げかけてくれる。世界は黒いフィルターがかかっているようだと思った。公園の竹林の中から漏れる光柱の光と太陽とでやっと少し明るい。

 隣で愛犬のポコタが吠える。

「もう少しゆっくりして行こうよ」

 ポコタは一年前にこの公園から連れ帰ったのだ。大きい野良犬だった。

 もう一度ワン! と吠えられ、その鋭い目にじっと見られると仕方がなく立ち上がる。

「ゆっくりしている間に道が消えるぞ」

 それは確かに手に持った綱の先から聞こえた。

「聞こえないフリすんのか? それでもいいけどな」

 俺はポコタの顔を見ていた。長い口が器用に動いて言葉を発する。

「ポコタ?」

「そうだが、俺はポコタじゃない。デグチだ。変な名前で呼ぶのは止めてくれよ」

「ご、ごめん」

 つい謝ってしまった。

「お前、あれが何か知ってるか?」

 デグチが鼻先で光柱を指す。

「よくは知らない。爺ちゃんから、昔は影だったって聞いた事がある程度」

 あれが影だったなんて考えただけでもぞっとする。どれだけ暗い世界だったのだろうと思って爺ちゃんに聞いたけれど、今よりずっと明るかったなんて言うから嘘だねと笑った。

 デグチはまるで違う犬かのような表情で俺を見る。足の先から指の先まで舐めるように。いつもみたいにベロベロ舐めてくれた方がマシだと思った。

「特別な何かになりたくて家を飛び出して五年か。大学も卒業しちまったしなぁ。どうするかなぁ?」

「うん……。でも絵は物になりそうなんだ! ほら、この前のコンテストさ、結果をお前も見ただろ?」

「あぁ、見たさ。二次選考通過止まりだったな」

「ようやく二次選考まで行ったんだよ!」

 デグチは溜息を吐く。もう犬だとは思えなかった。いくら茶色い尻尾をパタパタさせていても、犬には見えなかった。

 デグチに聞きたい事がある。でも言葉は怖い。聞かずにいれば何事もなく通り過ぎるかもしれないのに、言葉次第で俺は食われるのだと思う。

「光柱に飛び込め」

 それは「太陽に飛び込め」と言うのと同じだと、犬には分からないのかもしれない。

 犬にはあれが何だか楽しそうな物に見えているのかもしれない……。

「あの向こうには光り輝く世界がある」

 黙ったままの俺にデグチは言った。

「あんなの疲れた人の譫言だよ」

「お前は見た事ないだろう? なぜ言い切れる?」

「そりゃあ、見たら帰って来られないから」

「そうだな。楽しすぎて帰って来られないだろうな。紫の星々は海を泳ぎ、ゆったりと流れ落ちる滝に生まれる命。姿は売り買いできる。全ての物はまぁるい硝子玉にして取り出す事ができるのさ。この姿は今日までの分を買ってある」

 デグチは愛らしい手で、ネクタイを正すみたいに胸毛をはたく。

「デグチは、ここで何してるの?」

 聞いてしまった。

「選別」

 それ以上は何も言わない。

「それで? 来るのか?」

「だって……死ぬかもしれないでしょ?」

「どうせ今だって死んでるようなもんじゃねぇか」

 そうだね、としか言えない自分に気が付いた。俺は五年も何をやっていたのだろう?

「これはチャンスだ。お前は俺に選ばれたんだ。ここは影。陽の世界には陽の人間が生きるんだ。お前は影のままでいいのか?」

 信じてみようと思った。

 泳ぐ星が見たかったわけじゃない。デグチが、これはチャンスだと言ったから。チャンスは信じて飛び込むのが良い。それだけは知っている。

 俺はデグチの首輪を外し、光柱に向かって一緒に走る。

 眩しくて、痛くて、こんなに明るい光だったのかと愕然とした。

 瞼に刺さる光がパッと消えるように和らいだ。

 上へ上へ重なる鉄の町と、その頭上を飛ぶ龍を見た。俺の知っている太陽よりも明るく煌めく何か、青白い光の玉が空にあった。蛙が丁寧に頭を下げて目の前を横切る。

 誇らしさに胸を張る。龍が僕を見ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水毬遊び 小林秀観 @k-hidemi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ