第2話 はじめてのお仕事

 幻想種、インクの蜂鳥インク・ビー・バード

 この種が現れたのは、五〇年前と歴史は浅い。

 産業革命期──はじまりは雨の多い島国の都市部だったと記録に記されている。


 一般家庭に産まれた五ヶ月目の女児が、床に落ちた絵本の文字を舐めた。

 原因も治療法も不明だった謎の栄養失調が、みるみるうちに改善していった。勿論その女児が舐めた絵本の文字は無くなっていた。


 この症例は世界的に見つかり、人々は文字食いと呼ぶようになった。

 原因は分からないが統計をとって分かったことは。


 全員女性であること。

 容姿は遺伝関係なく美形。

 声は独特でエコーがかかる。

 文字以外は栄養にならない。


 などなど。


 産業革命による公害だと声をあげる団体まで現れ、彼女たちは差別の対象となった。迫害、と読んだ方が正しいかもしれない。

 何より彼女たちは美しく、ミステリアス、未知の異端者。

 金になると人身売買が裏社会で多発した。親が気味悪さを感じて売った事件もある。ある貴族たちの間では合法として愛玩動物にされることもあった。

 彼女たちの人権ができるのに三〇年。

 女性活動家が寄付を募り、技術者を集めて大陸を作ることを目指した。文字食いのための楽園を。名のある貴族ゆえか、多額の資金、賛同と批判、文字食いの切実な思い。

 人権ができたと同時に稼働した大陸こそ、「渡り鳥」である。



 勤務初日。カルロッタはエレオノーラに職場を案内してもらっていた。道中文字食いことインクの蜂鳥と「渡り鳥」の説明をしてもらいながら。小学校で散々学んだが、カルロッタは改めて聴き入る。

 何度通ってもきっと慣れない大理石の廊下を進む。壁には婦人とハチドリが戯れる絵画が様々な構図となって飾れていた。まるで婦人たちに監視されているかのようだ。


「それにしても、どうしてインク・ビー・バードなんですか? インクのハチドリインク・ハミングバードの方が正しいですよね」

「インクの蜂鳥は極東人の学者が誤訳してしまった結果です。それが広まったのでしょう、その方が言いやすいですし」


 ハチドリとの区別化もあったかもしれない。

 エレオノーラが付け足す。


「私たちの仕事はインクの蜂鳥のための食事を用意することです。ただの食べ物を食べる子もいますが、栄養にはなりませんから」


 エレオノーラよりも、カルロッタよりも、大きな両扉。脇に垂れている小さな看板には、「執筆調理室」と記されてある。


「ここが私たちの仕事場です。昼時と夕時はインクの蜂鳥がお腹を空かせてこっそり入ろうとするので気をつけてくださいね」


 金細工のハンドルを持ち、エレオノーラが戸を引く。

 広がる景色、聞こえる騒音、浪漫の匂いが閉じ込められていた。


 景色──ヴァイオレットの制服を身につけた女性たちが、忙しなく紙を運び、タイプライターに向き合う。内部は三階建てに作られており、壁は本棚が絵画の如くずらりと座っている。


「灰かぶりの猫、完了しました!」

「次はこれのタイプをしてちょうだい! ミステリ好きでしょ?」

「こらっ。読んでないでタイプしなさいっ」


 騒音──タイプライターの交響曲だけではない女性たちの会話が楽しげに飛び交う。紙の擦る音も小刻みに聴こえる。

 匂い──インクと紙の柔らかさ。家具の木材の香り。


 好きなものが揃っている。

 心臓の奥から、きゅっと切ない思いが湧きでた。夢を想って諦めていたものがそこにある。


「カルロッタ・イルチェローです。よろしくお願いします」


 中途半端に入職した新人を、同僚たちは温かく出迎えてくれた。忙しいなか、優しく笑んでよろしく、と返す。

 新人の初仕事は本棚の整理から始まり、インクリボンと紙の補充。そして童話をタイプライターで写本する。

 童話は必ずインクの蜂鳥たちの朝食らしい。ハッピーエンドと決まっている。

 世界各地の蔵書に触れながらの仕事は意外にも重労働だった。ジャンルごとに整理された本棚から指定のものを探すのは一苦労で、一番上の段にあると細い木製脚立をスライドさせて登らないといけない。のだが、落下してしまいそうになって、カルロッタは心臓がぎゅうっと縮こまってしまった。

 タイプはもっと疲れてしまった。一文字の脱字、誤字は許されない。修正することはなんとか可能ではあるが。時間は非常である。ミスに対する緊張でカルロッタの肩はガチガチに駄目になってしまった。凝り固まった筋肉が悲鳴をあげる。

 昼食休みの時間のベルが鳴り、ワインレッドのタイプライターの前で突っ伏す。小麦の収穫並みの労働だ。明日は筋肉痛かもしれない。


「途中で立ったり、体を伸ばしたりした方がいいわよ」


 先立からのありがたいアドバイスを、カルロッタはメモに記入した。



 広大な城内に全てのインクの蜂鳥がいるわけではない。一〇代前半から一八までのインクの蜂鳥がこの城で安全に学業を修めることになっている。思わず教科書の文字を舐めて笑われることなどなく、指を差される心配もない。

 一八まで静かに城で過ごしたあと、彼女たちは「渡り鳥」に残るか、また地上での生き方──人権確立が進んでいる先進国が数カ国現れている──を目指すかに分かれる。大半はこの大陸で一生を終えたいと願うのだが。


 そのヒナドリたちが食堂で静かに文字が来るのを待っていた。


 芸術品よりも美術品。

 花よりも芳しい。

 鳥の鳴き声さえただの雑音と化す。


 長方形に広く作られてた空間に入った時、カルロッタはあまりの美しさにため息を漏らし、惚けた。

 壁に飾られた聖女の宗教画よりも、インクの蜂鳥たちへと視線がいってしまう。


「カルロッタさん?」


 呼ばれて我にかえる。カルロッタを呼んだのは、同僚のローゼル。ルビー色の瞳が特徴的だ。それが三日月に悪戯に笑う。


「もしかして見惚れてた?」


 図星を突かれて頬が熱くなる。それを見たローゼルはにこやかに言葉を続けた。


「分かるわ。私も最初はそうだったのよ」


 見惚れない人間なんて逆に怖いわ、と。

 配膳も新人の仕事だと言う。一人一人の前に、紙の束を置くには注意が要る。


 一つ、逆さまに紙を置かないこと。

 二つ、乱暴に扱わないこと。

 三つ、静かに置きなさい。


 貴族に仕えるメイドにでもなった気分だ。一つでも粗相してしまうと途端に解雇されてしまうのでは。

 配膳する手が震える。

 最後の一人になる時までカルロッタは緊張で致し方ない。さっきまでクスクスとインクの蜂鳥たちに笑われているが、それにも気付いていなかった。


「新しい方?」


 年長組のテーブル奥、その人物はすぐ近くに立つカルロッタを見上げた。



 息が止まるかと思った。


 そこに座っていたのは、最も魔性の輝きを放つ少女だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インクの蜂鳥 本条凛子 @honzyo-1201

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ