インクの蜂鳥

本条凛子

タイプライターと小説家

第1話 楽園にようこそ

 空中移動大陸「渡り鳥」。

 名前の通り空に浮かぶ、移動する大陸だ。大陸といっても極東の島国のほんの一部ほどしかない。

 建物と植物、土が覆うその下には、鋼鉄の機械が蒸気を吐いて移動を可能としている。渡り鳥と名付けられたのも、なるほど。頷ける。繊細な技術と設計によって作られた鉄の翼が左右合わせて六つ。雄大さをもって羽ばたく。

 空中にある大陸だからといって不便なことは何一つない。この大陸を製造した技術者たちが旨を張って保証しよう。

 まず娯楽だ。代表的なのは演劇だろう。この大陸中央部に二つある。時間帯によって喜劇や青春、幻想、などなど。豊富な種類の演劇が催される。特に人気なのが、王子さま然とした登場人物がいる恋愛もの。観客たちは頬を染めて上演後も惚けてしまう。

 演劇ばかりではない。世界的絵画を定期的に展示してくれる美術館が四つ。歴史、植物、生活などを飽きさせないように展示をする博物館が三つ。一つには植物園も設置されている。モノトーン無声映画を上映するモダン劇場が二つ。舌がよく回る語りは心を弾ませる。

 買い物に困ることもない。市場があり、毎日賑やかに新鮮な食材が顔を出す。歩くとパン屋から漂う香ばしい匂いに口の中がワルツを踊ることだろう。大きなデパートもあるので女性たちのお洒落の欲求は止まることを知らない。歩き疲れたらカフェで一休みすればいいだけだ。

 最後に忘れてならないのが本屋の存在。「渡り鳥」の大きな特徴とも言える。向かい、隣、数件またいで……。それが当たり前であり、普通の景色だ。本好きにはたまらない。

 出版社もあるので「渡り鳥」の識字率はどこよりも高い。文房具のロングセラーはいつだってペンと紙、レターセット。

 万年筆に、タイプライター。これらもこよなく愛され、重宝すべき代物だ。




 この大陸「渡り鳥」に文字を憎む者はいない。




 地上から空中へ行くには飛行船を使う。移動を一年中季節によって異なる空にいるため、場合によっては軽く四日以上はかかる。

 長かったような。

 短かったような。

 微睡みに似た時間をかけて、地上から「渡り鳥」へと、少女たちがやって来る。鋼鉄の大地を踏みしめるこの日から、少女たちは「渡り鳥」を居住とするのだ。地上に降りることは一年に数回。両手で数えきれる。

 彼女たちがここに来た理由は二つ。

 働きに来たのか。

 迫害から逃げてきたのか。

 この二つだ。

 特に後者がほとんどだ。彼女たちの表情をよく見ると分かる。

 安堵が八割、残りの二割は不安と緊張。ぎこちない笑みとともに小声で周囲と話している。幼い目線は忙しない。警戒を露わにしているようだ。

 小さな空港から不安げな少女たちの後ろを、二つ三つ年上の少女が一人続く。表情はどこか明るい。期待を胸に宿している。薄いベージュ生地にオレンジのストライプが雨のように走っているワンピース。おろしたての紺色のパンプスは履きなれずに靴擦れを起こしている。健康的に日焼けした手が持つ大きな牛革のトランクは、買ったばかりの新しいものだ。錠の役割を担う二本のベルトは上品なワインレッド。腰まである二つのおさげは黒に近いココアブラウン。

 都会に来るためにお洒落しましたと言わん限りの田舎娘だと見れば簡単に分かる。

 けれども、彼女の丸くて大きいコバルトグリーンの瞳は気恥ずかしさを持ってはいない。

 彼女がここへ来た理由、前述した二つの理由のうちの、数少ない前者。



「あなたが応じてくれて助かりました」


 迎えに現れたボックスカーの後部座席に案内される。重たいトランクは足元に置いた。

 運転席に乗り込んだ迎えの女性が、ミラー越しに安堵する。田舎娘の格好を見て嗤う様子はない。

 優しい運転手兼同僚となる人物は以下の格好をしていた。全てを閉じ込めてしまいそうなアンバー色の瞳、ブルネットの長い髪を編み込みにして無駄なくまとめている。

 糊のきいた白いシャツに紺色のタイ。上品なヴァイオレット色のジャンバースカートの胸元は逆三角形のラインが胸下まで。その下からは膝までゆっくりと裾が柔らかく垂れている。控えめな露出をするようにと念押しするように、靴は淡いブラウンのブーツ。

 聞けばその服装は職場の制服らしい。


「カルロッタさんにも支給されます」


 熱い眼差しを見破られ、カルロッタの頰が朱に染まる。

 日焼けした肌、迎え人とは大きく違うしっかりとした体格に、果たして上品な服はカルロッタを振り回すことがないだろうか。

 ここで不安が出てきて逃げるように話題を変える。


「あの……私が来る前の人はどうして、辞めたんですか?」


 本来ならば、カルロッタは「渡り鳥」に就職することはできなかった。

 技術の低さ。それが強く目立ってしまったから。

 転機が訪れたのはつい一週間前だ。突然「渡り鳥」運営議会から書簡が届いた。

 内容は職員が一人辞めてしまったので急遽な人事対応。もし就職先がまだ見つかっていなかったら、来て欲しいと。

 天にも昇る心地で忙しく準備をして今に至る。


「ああ……あの子は。食べられちゃったんですよ、お気に入りの小説を。それでずっと泣かれちゃいまして。大事に金庫にしまわずにいたから自己責任なのですけど。……カルロッタさんも気を付けて」


 どきりと胸が鳴る。そして神妙に頷きを一つ。

 トランクのなかにはお気に入りが数冊、実家から持ち出した小説が入っている。


「突然の募集に応じてくれてこちらは大助かりです」

「精一杯、頑張ります」


 また頰が熱くなる。

 憧れの職場の面接に落ちたショックで他の就職口を探さずに引きこもっていたなど、恥ずかしくて言えない。

 話題がなくなり、カルロッタは逃げるように窓の風景に視線を移した。

 景色は地上の都会となんら変わりない。窓と雲がやけに近いだけ。

 市電、ボックスカー、カフェにレストラン。

 麦畑がどこまでも広がる実家の町とはかけ離れた都会の街並み。地上にあろうと、空中にあろうと、カルロッタにとって万華鏡の美しさに変わりない。見るもの全てが輝く、美しい未知。


 ボックスカーは進んでいく。建物の森林を抜けると、本物の森が見えてきた。落葉樹の並木道が巨人の口のように見えて、思わず体がぴんと伸びる。

 緑のトンネルの先。目に入ったのはまさしく花の王国。

 白い蔓薔薇のアーチは王国の入り口に過ぎない。


「窓を開けてみてください」


 言われてカルロッタはドアにつけられていた窓開閉手動ハンドルを回す。薄い硝子窓がドアの内部に降りる。

 入ってきたのは冷たい外気と甘い芳香。

 外に広がるのは美しき庭園。満点の夜空を花たちで再現している。

 点在する花の種類の多くは、薔薇が圧倒的だ。

 珍しい青い花はデルフィニウム。

 隣を一緒に揺れているのはひなげし。

 作られた小川の近くにはアイリスの大群。

 花の王国の奥にあるのは、城ではなくては。厚い石壁、鳥籠を思わせる窓たち。円柱の塔が四つ。見た目を重視したロマンチックな城だ。

 天の川をモチーフにしたモザイクアートの石畳の前にボックスカーは停まる。


「こちらです」


 トランクを降ろし、カルロッタは改めて城を見上げる。面接の際、同じ目的で会場に来ていた同い年くらいの少女たちが話しているのを聞いた。「渡り鳥」の城は別名薔薇城と呼ぶのだと。実際に見れば確かにそうだ。白の壁には抱きしめるように鮮やかな蔓薔薇が這っている。


「部屋までご案内します」


 城の大きな玄関に入り、長い回廊、中庭、そして今度は小さな細い回廊を歩く。

 靴音がやけに響く床は踏んでいくのが恐れ多いほどぴかぴかだ。

 内装の調度品は計算されたかのように置かれ、美をあるがままに表す。

 カルロッタの私室は裏庭に配置されていた煉瓦造りの建物だった。正確に言えば二階の隅。

 個室の内装はステンドグラスの窓二つに、ベッドとクローゼットが一つ。そして作業用の机。鍵付きの硝子戸の本棚。家具の購入はしなくて良さそうだ。

 二人の妹たちと同じ部屋を共有していたカルロッタにとって、個室は夢のよう。迎え人に隠れてこっそりと頰を抓ってみる。痛い。夢でないことに安堵した。


「明日から業務をはじめます。荷物を解いたら、制服の採寸を行うので、また出てきてください」

「分かりました」

「では、私は部屋の外で待ってますので」

「はいっ……あの」


 カルロッタは迎え人を引き止める。なんでしょう、とアンバー色の瞳が振り返った。ブルネットの艶やかな髪も一緒に翻った。畑仕事で日焼けしてココアブラウンに落ちてしまった己の髪が疎ましい。


「あの……私……頑張りますから。タイプは下手……じゃなくて、皆さんより遅いですけど、だから ……その、あの……色々と教えてくださると嬉しいです」


 次の日からの仕事の同僚だというのに、肝心な名前を聞いていない。


「あとお名前を……」


 慌てて付け足すと迎え人は、ああ、と小さく思い出す。


「エレオノーラです。明日からよろしく、カルロッタさん」

「は、はいっ」


 エレオノーラ。エレオノーラ。美しい響きを脳内に叩き込む。

 荷解きを終えて、エレオノーラに連れられてカルロッタは被服室と呼ばれる部屋に入る。木の材質のテーブルがたくさん並んだ部屋だ。戸棚には裁縫箱らしきものが詰められている。ここで採寸が行われた。

 新しい制服ができるまでの間、少しだけ大きめのお下がりを着用する。お古とはいえ、美しいヴァイオレットのワンピースは色褪せることなく、カルロッタの手のなかで咲いている。前の持ち主は二年前に結婚のために辞職し、地上のどこかで家庭を築いているとエレオノーラが教えてくれた。


 そういえばそうだった。

 男性のもとへ嫁いでしまったら、この大陸にはいられなくなる。


 カルロッタの手を白磁の美しい手が包む。ヴァイオレットの生地から顔を上げると、アンバー色の瞳がしっかりカルロッタを見つめた。離さない、と言いたげな。


「ようこそ」


 今度は三日月に笑う琥珀。



「ようこそ、麗しき楽園へ」



 訳あり以外、男子禁制の大陸。

 堅牢であり。

 城壁であり。

 迫害を一切受け付けない、女のための楽園。


 その鳥籠の大陸の名前が、「渡り鳥」だ。

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