『無題』作:妻

深夜、私は寝台列車の中で目を覚ました。

一度起きて、また眠る気にもなれず、私は首をもたげ、寝台から起きだした。

コトリ、と床が鳴った。


コンパートメントを出て窓を見上げると、空に月の姿はなく、満天のみが広がっていた。

風のない、穏やかな夜だった。


気が付くと、廊下には一台の掃除機があった。

私はその掃除機からできるだけ体を離して歩いた。


掃除機の横を通り過ぎて数歩歩いたところで、ふと顔を上げると、いつに間にかニースが現れ、こちらを見ていた。


「やあ、ニース。いい夜だね」

「ああ、いい夜だね」

「最近どうだい?」

「変わらないよ。ここ5年ずっと一緒さ」

「そうか。私もそうだ」


数言の言葉を交わして、しばしの沈黙が私たちを包み込んだ。


夜はどこまでも静かで、私は記憶の中、温かい手が私をなぞるときを思い出していた。

満天の広がる夜、決まって私は夜に目を覚まし、あの人のもとへ行った。

柔らかい毛並みを楽しむように、あの人は私の頭を撫で、抱きしめた。

今はないその思い出に薄く包み込まれ、私はひととき目を閉じた。


「なあ、街には最近行ったかい」


ニースの言葉に、私は現実に引き戻された。


「いや、最近は行っていない。君はどうだい?」

「僕は先週の水曜日に行ってきた。沢山の草が生えていたよ」

「そうか。もうすぐ夏だからね」

「ああ、もうすぐ夏だからだ」


ニースは、懐かしむように、少し悲しげに、窓を見上げた。


「あの日から5年だね」

「ああ、あの日から5年だ」

「あのとき生まれた僕のこどもたちは、もう一人前だ」

「そうだね。もう一人前だ」

「塔が逆さまになったあの日、全てが変わった」

「ああ、全てが変わった。上と下が入れ替わり、遺物を載せて回り始めた」

「君はこれからどうする?」

「私はこれからも変わらないよ。ヒトのいない場所で同じように生きていくだけだ」

「そうか」


ニースは、そういうとするりと腰を上げた。


「行くのかい?」

「ああ、行くよ」

「そうか、ではまた満天の夜に」

「ああ、満天の夜に」


ニースは私の横を抜けて、歩き出す。

途中、掃除機の横を抜けるとき、ニースもまた私と同じように掃除機を避けた。

数歩進んだ先には、外につながる扉があった。

開け放たれたドアから、ニースは外へと飛び降りる。

ニースの足の下で、錆びたレールに生い茂る草が、クシャリとゆれた。


「なあ。君も掃除機が嫌いなのかい?」


ふと話しかけると、ニースはこちらを振り返った。彼の長い尾がふわりと揺れた。


「ああ、嫌いさ。だって、ヒゲや前足を持って行かれそうになるんだもの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夫婦三題噺 @aki89

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ