第3話恋をしに行く

 つまらない嘘をつき続けた僕の行く末なんて、きっと大したことなどないのだろう。


 僕という存在がなんであるか、などということは、実にじつに瑣末なことでしかなかった。

「ねえ、貴方はどこへ行くの? 」

 熱い日差しを避けて、どうにかこうにかやってきた公園で、少女に話しかけられた。少女は暑い中、文庫本を小脇に抱えて、僕の顔を覗き込んでいた。余程疲れているように見えたのだろうか。僕は、少女の顔を碌に見ることができなかった。かつての自分を見ている気がして、ならなかったから。


 ねえ、君は何を読んでいたんだい。僕は尋ねそびれてしまった。帽子をかぶりなおし、また道を歩き出した。


 僕はひとりの小説家に恋をした。それは、小さな嘘を孕む文だろう。けれど、その嘘すらも、受け入れなくてはいけないのだ。もう僕には許されない思いだったのだから。遠い遠い果てで、それでも僕は「好き」と思わずにはいられなかった。そして僕は、どうして「好き」だったのかを考え続ける羽目になる。眠る暇があるのならば、僕は考えなくてはならなかった。なぜ。どうして。


 僕は確かに、「小説家」の死を望んでいた。なぜなら、小説家は死ななければ、「文豪」にならないのだから。ノーベル文学賞でもとることになれば、「文豪」と呼ぶのも違和感がないのかもしれないが、けれどやはり、死んでいないとしっくりこない。ノーベル文学賞受賞者でも、川端康成ならばしっくりくるのだけれど、大江健三郎には、なんだかふさわしいと思えない。そういうことだ。


 僕は、あの「小説家」の亡骸をまっさきに発見することになった。僕が敬愛した「小説家」の亡骸を懐に抱きたいと願っていた僕は、新聞でそのことを知って、駆け付けたはずなのに。僕は、あの「小説家」の屍を発見した最初の人間であったそうだ。警察の人はおろか、唯一「小説家」と取引をしていた編集者ですらも、そう言っていた。ほんとうのことなのだろう。編集者は、「ひとつ、大事なネタを落としてしまった」と地団太を踏んでいた。憐れみの情すら浮かばなかった。小説家自身が、その作品を超えるような喜劇を演じることも悲劇を演じることもありえないことにも気づけない。そんな人間が、この作家の「編集者」であったことが、ただただ残念でしかなかった。


 そうだ。僕は、ほんとうはこの「小説家」の編集者になりたかったのだろう。打鍵したワードプロセッサは、もう幾つかキーが取れかかっていた。もう日本において現役で活動している、数少ないワードプロセッサであったということは、容易に想像できる。きっと「小説家」はコンピュータなぞは使用しなかっただろう。「小説家」は小説を書く機械としてのみ、生きていたのだから。ああもちろん、「小説家」のエッセイにはそんなことは一言も書いていない。映画の話だとか、音楽の話など、がちゃがちゃと書いているのを知っているだけだ。おそらく、「小説家」には無縁のそれらが、「小説家」の手になるものとして発表されているのは、ある意味での喜劇だった。それらのエッセイも面白いことには違いなかったが、それは現実を面白おかしく伝える、という種の面白さではなく、どこまで虚構と現実の狭間を描くか、という実に小説的な面白さだった。間違いなく、大風呂敷を広げすぎた嘘は、真実、面白おかしい小説に等しい。


「きれいですね」

 僕はその小説家の死に顔を見て、まっさきにそう言った。

「なにを言っているんですか、貴方は」

 あとから駆け付けた編集者に、そう言われた気がした。私がプロデュースした、エッセイの中の「小説家」のほうが余程素敵ではないか。そんな声も聞こえた気がする。不謹慎だから、そんなことは言わなかったような気もする。そんな理性を、僕も「編集者」も持っていたのか、甚だ怪しいものだが。僕らが最愛の「小説家」を喪った、ということは確定的な事実だったのだから。


 冷房によって、ひんやりと、と表現するよりむしろ、冷え切ったと形容する方が正確であろう室内には、絶筆原稿が遺されていた。それはみごとに完結していた。それは、私が覗き見た新聞そのものだった。編集者は、「成程、変形的小説だ」などと感無量の様子。やはり、この編集者は虫が好かない。


 新聞記事には、作家の餓死のニュースが掲載されていた。あの時の僕は見出ししか見ていなかったのだろうが、記事内容は正確に現在の状況を写し取っていた。第一発見者は作家の大ファン。第二発見者は編集者。ただ、それらは自己申告であるため、正しいのかは見当がつかない。警察は二人を容疑者として連行したが、死因が餓死、孤独死であることが判明し娑婆に連れ戻される。それはつい今しがた繰り広げられた状況だ。容易に想像つくことだったのだろう。しかし、編集者がかけつけることは想定できたとして、一ファンがやってくることが、どうして想定されたのだろうか。それはあくまで、ご都合主義の物語にすぎないのか。


 編集者は、僕のことをじいっと眺めながら、ぶつぶつと呟く。

「妻子の類があったとは聞かなかったが」

「気のせいなのだろうか」

「嗚呼、家族……

ということもあるか」

「なるほど、この小説家は面白い」


 編集者は、なぜこの「小説家」に焦がれたのか。それは、「小説家」の歪な生きざま故にだった。馬鹿馬鹿しい、と僕であれば一蹴する。……いや、しただろう。その時の僕は、やはり「小説家」のことを知らなかった。己のことも知らなかった。僕が記憶にとどめていたのは、「小説家」のことばと、その死を伝える記事であった。編集者に改めて尋ねられるまで、僕は何者なのか、と考えることを失念していたのだ。


「君、この小説の主人公ではないかね」


 まさしく彼が指し示すのは、新聞記事のコラムのようなところに載っている小説であった。これは正確な表現ではない。いま目の前にある新聞は、すべての記事が小説である。私小説であり、幻想小説といえる、代物だった。編集者が見せてくれたのは、「文字禍」と題されたもの。ほんとうに短い小説であった。それは、僕の人生そのものであった。……改めて、僕は「小説家」の亡骸を眺めると、僕はえもいえぬ感情を抱くこととなった。それをすこしずつ文字化していくと、結局は「恋」に落ち着くのだった。それは激しい熱情であった。いかんともしがたい肉欲であった。


 僕は結局おとことして、おんなである「小説家」を愛していた。けれど、「小説家」はおとこであろうとした。「小説家」は僕に愛されたくなどなかった。僕というキャラクターを女々しく書いておんなのように見せ、「小説家」というキャラクターをおとこのように見せ、それで済ませてしまおうと考えていた。こうやって新聞にしてしまえば、既成事実になると信じているようだった。たしかに、僕は「小説家」を幼きころには「お兄様」と呼んだことはあったけれど、「小説家」をおんなだと信じて疑わなかった。僕は「小説家」という属性を愛したのか、「小説家」の手になる「小説」を愛したのか、それとも「小説家」の肉体を愛したのか、わからなかった。確かなのは、僕は「小説家」をひとりの人間として愛することはできていなかっただろう、ということだけだ。人間になりそこねた者が、人間らしく愛することは不可能だったのだ。


 僕は、躯の服を剥いだ。骨と皮だけになった身体を撫ぜた。なににも替えることなどできなかった。僕は、この肉体を欲していた。死なねば文豪になれない、だなんておべんちゃらだ。ただ、生きているあいだに、己の器量では身体を開かせることが無いだろうという諦めにすぎなかった。美しい嘘で糊塗することで、自分が許された気になるだけ。何も変わるわけがないのに、それを己で信じたのだった。


 かさかさに乾いた肌は、僕の汗を始めとした体液によって湿っていく。僕は穿つ穴をひたすらに探していた。いっそのこと、眼窩でもよかった。鼻の穴でもよかった。ただ、受け止めきれるのは、口か、あとは想像できる限りあの場所でしかなかった、というだけだ。僕は何に興奮しているというのだろう、と途端に冷めて、そうすると体液が飛び出した。彼女の服を汚すだけで済んだ。放心状態でぼんやりと考え、けれど答えが出ないままにまた一点に血は溜まっていく。


 僕は彼女の名前を叫びたかった。しかし、思い出せなかった。あの家では、名前に意味などなかったからだ。僕は名前という一番縋ることが容易なものですら、持ち合わせていなかったのだ。だからこそ、穴を穿つことで、文字通り楔を打ったことにしたかった。証がほしい、それはおんながよく言う台詞なのだろうが、僕にとっては関係が無かった。僕だって、証がほしかった。愛されていないのなら、もっと明確に拒絶してほしかった。僕に愛を教えたのは、貴方だったじゃないか。僕はただ無心に腰を動かすことしかできない。おそらく、彼女は処女だったろう。僕は処女を犯すことで証としたかったのだ。そんなもの、嘘でしかない。ただ、性欲にまかせた愚行だ、ともいえる。どちらでもよかった。僕は彼女がほしかった。ほしい、ということばに集約されるのは、独占欲ではない。「対象をもの扱いしている」という思想だ。


「ねえ、編集者さん」

僕は冷房がひどく効いた部屋で汗を流しながら、呂律が回らなくなりながら言う。

「どうか、僕の物語を、書いてはくれませんか」

おそらく僕が言いだす前から、編集者は、僕の狂った様を眼でもって記録していた。彼だって間違いなく「小説家」なのだ。


 僕の出しきった精は、何者にもなることができず、ただ屍体の汚れとしかならない。

僕は僕で、何者にもなることができず、ただ屍体の片割れに居たいと願う屍じみた人間にしかなれない。

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文字禍 詩舞澤 沙衣 @shibusawasai

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