シナプス

@TearsThatAreBlue

シナプス

眼前に蹴られたボールをとっさに弾くと、試合終了のホイッスルが鳴った。


「角田くんって、サッカーやってたの」

僕は黙って首を横に振った。

「……そうなんだ、キーパー上手かったよ」

「……ありがとう」

「……」

「……」


県庁所在地の市内にある進学校。

社交性に欠けた高校三年生。

願わくば、空気のように透明な魂でありたい。


前の席の奴がこちらを振り返って訊く。

「角田はシナプスって知ってる」

「脳に関するものである、としか」

「ニューロンとニューロンとのつなぎ目のことなんだけど」

「ニューロンは脳のネットワークみたいなものだっけ」

「そう、ニューロンは迷路みたく複雑に絡み合っていて、シナプスでそれぞれに繋がって信号を伝える――たまに脈絡なく繋がって、無関係な記憶を結び付けてしまうこともある」


僕というくうな存在は、知的好奇心をたぎらせた学徒の、その熱量のはけ口にふさわしく、それゆえ聞き役としての存在意義が与えられている。

たとえばボクサーの家にサンドバックがあるように、無機的でも手ごたえのある存在は、一応、需要があるらしい。

しかしそれは僕の「透明願望」には程遠く、そんなふうに、願望に相反するような行動や思考をしてしまう僕を僕の中に見つけるたび、僕は僕を嫌悪する。


網目構造をしたニューロン――脈絡なく統合する生の活動――


生きるというのは、体系化するということだと思う。

一方、この世界は無秩序であると思う。

つまるところ、生きるというのは、無秩序なものを体系化する、虚しい営みであると思う。

ちょうど今ここにある体が、いつかは灰になるように。


家に帰るために電車を使う。

建物の間隔がだんだんとまばらになり、市をまたいで僕の住む町へと向かう。

十八年間住み続けた町であり、十八年前とは違う町でもある。

降りる駅が近づくと意識が水面から顔を出し、僕は現実を知覚する。

その時までは、いつもと変わり映えしない駅のホームがそこにあることを信じて疑わなかった。


――

――


広い敷地に、丁寧に整備された芝生が張られていた。

そこに、サッカーボールを持った少年が現れた。

僕らはいつものようにサッカーをした。

僕はこんなところでサッカーをしたらいつか職員に怒られるんじゃないかとビクビクしていた。

少年は「いちいち細けえんだよお前は」と僕を殴った。

少年の名は中道修斗といった。

彼は僕を支配下に置きたがった。


修斗の家は文化会館の隣にあった。

いかにも貧しげなボロ屋敷として有名だった。

僕の家もその近くにあった。

だから小学校への集団登校や家への集団下校で一緒になることは避けられず、彼との関係を絶つことはほぼ不可能だった。


僕らはひとしきりサッカーをして、それから僕の家に向かった。

母が二人分のジュースを持ってきて、

「修斗くんは、やっぱり、プロサッカー選手を目指してるの」

と尋ねた。

「もちろん」

修斗は自信満々に答えた。

「それじゃあ、この子が相手だと物足りないでしょ、翔馬くんとは一緒にやらないの」

翔馬というのは、同じ学年にいる、サッカークラブに通っている奴のことだ。

「いやあ、こいつはド素人だから逆にいいんすよ、動きが予測できなくて」

修斗はなぜか熱心に続けた。

「それにこいつ、意外と上手いんすよ、キーパーやらせたら反射神経がよくて」


僕はその時ふと思いついた。

修斗は僕とサッカーがしたいんじゃないし、支配下に置きたいわけでもない?


「あらあら、それは嬉しいわ。そうだ、修斗くんに、今のうちにサイン貰っとかなきゃ」

「え、俺、サインとか書けないっすよ」

「普通に書けばいいじゃん、修斗、しんにょう上手いんだし」

僕はそう言って修斗のご機嫌をとった。

彼は先生に、「中道」の「道」の字のしんにょうが汚いことを注意されて、それからしんにょうばかり練習して、先生に褒められていた。

「しんにょうが上手いって、どういうことなの」

「見ていればわかるよ」

修斗はペンを軽く握り、「中道修斗」と丁寧に描いた。

「ほんとうだ、この『道』のしんにょう、とても上手。ありがとね、修斗くん」


僕は雑学を思い出して、

「ところで、『道』の漢字の成り立ちって知ってる」

と問いかけた。

修斗と母は異口同音に「知らない」と言った。

「しんにょうは道を表している。じゃあ、この『首』は何だと思う」

二人は皆目見当がつかないようだった。

「実は『首』はそのまま『首』を意味していて、その昔、道を歩く時に、刎ねた首を持って悪霊払いしたことに由来するらしい」

修斗は「怖えーよ」と突っ込んだ。


「そういえば、この子の夢が何か、修斗くん知ってる」

「え、知りません」

「そうなの、わたしも知らなくて。小さい頃は『路線図になりたい!』って言ってたのよ」

「ふはは、なんだそれ。てか路線図って。何がいいんだよ、路線図の」

僕は少しうんざりしながら、昔を思い出して、

「いろんな路線がぐちゃぐちゃしているのって、なんだかワクワクしたんだよ。それをでたらめになぞっていったら、何だか知らないところに辿りついたり、同じ場所に戻ってきたり。『あれ、交差しているところで別の路線を辿っちゃったかな』って」

と言って、少し恥ずかしくなった。

「おもしれーな、それ」

修斗は意外にもその話に興味を持ち、笑った。

「実際に、ループして同じ場所に戻ってくる路線もあるけどね、山手線とか」

母も話に乗ってきたので、僕は安心した。

「え! じゃあずっと乗ってたら、一周できるってこと」

修斗は目を輝かせて言った。

「そうね、まあ一周したところでって話だけど」

「え、でももう一周したら、新しい発見があるかもしれないじゃん」

僕はそう言った。

母は「それもそうね」と笑った。


それから修斗は僕を外に連れ出した。

日が傾いていた。

「サッカーをするにはもう遅いぞ」などと思っていると、保育園に辿りついた。

修斗はさも当然のように柵を乗り越えて敷地に入っていった。

僕が戸惑っていると修斗は

「はやくこいよ」

と不機嫌そうに言った。

僕が何か言おうとすると修斗は

「はやくこいっつってんだろ!」

と怒鳴った。


保育園のグランドは小さかった。

修斗は水道の蛇口を開き、ホースを使って散水し始めた。

グランドは瞬く間に水浸しになり、それが流れて川が作られた。

「なにやってんだよ!」

と僕が堪えかねて叫ぶと、修斗は

「楽しいからいいんだよ!」

と声を張り上げた。

水の粒が斜陽に照らされて宝石のように光っていた。

それらが集まって虹の橋を架けていた。

「怒られても知らないぞ!」

と僕がさらに大きな声で言うと、

「怒られるって?! 誰に! 何を?!」

と修斗は開き直ったように咆哮した。

あまりにも常識外れの問いにかえって戸惑っていると、

「お前はいちいち考えすぎなんだよ!!」

と修斗はホースをこちらに向けた。

水の軌跡が蛇のようにうねって僕を目指した。

その一粒一粒が狂喜的に躍動していた。


ばしゃばしゃばしゃ


冷たい水は朝の目覚めの合図だ。

僕はもう一度水を掬って顔にかけた。

ばしゃばしゃばしゃ

顔を拭いて高校指定の学生服を着る。


駅に向かって歩く。

文化会館の隣にあった修斗の家は更地になってしまった。

修斗は苗字を変えて別の場所に引っ越した。

僕に相談も何もなく、突然に彼はいなくなった。

しんにょうが上手いサインを書く「中道修斗」はもうどこにもいない。

プロサッカー選手になるという彼の夢は、案外、翔馬が叶えてしまいそうだった。

翔馬は僕の通う高校の近くの私立高校に通い、県内唯一のJユースに入っていた。

彼曰く、修斗の名前は聞かないそうだ。


青年は制服を着て、無表情で立っていた。

青年の顔はその修斗の顔の面影を残しつつ、全く別の誰かのようでもあった。

「久しぶり」

と青年は僕に声をかけた。

「修斗か」

と僕が言うと、彼はほんの少し笑って、

「何年ぶりかな」

と返した。

彼の態度はいたって紳士的だった。

ひるがえって、彼の手には生首があった。

その生首は、かつて僕を圧伏させた奴のそれだった。

それはあまりに超現実的シュールな光景だった。

僕は堪えかねて吹き出した。

「ふはは、なんだよそれ、何で生首持ってんだよお前、ふはは」

彼は虚を突かれたような顔をして、

「いやいやいや、お前も生首背負っておきながら、何言ってんだよ」

と言った。

「は」

僕は背中に手を回した。

ぬめっとした感触がした。

見ると、それは少年の日の僕だった。

「ふ、ふはははははは!」

僕は恐怖と困惑と、それを上回るおかしみから、腹と生首を抱えて笑った。

「ふはは!」

彼もそこで初めて笑った。

「おいおいマジかよ、何でこんなことになってんの」

僕は笑いながら言った。

「いや知らねーよ、いつの間にかこうなってたんだ俺ら」

彼もおかしそうに言った。

「もうやめようぜ、こんなくだらないこと!」

僕は生首を投げ捨てて叫んだ。

「ああ! こんなもの必要ない!」

彼は僕より大きな声でがなった。

「やめちまおう! こんな少年の日をいけにえにするようなこと!」

僕は学生服を地面に叩きつけて哮りたった。

「さっきから何かいちいちむかつくんだよお前!!」

彼は理不尽にも僕の右頬にパンチを見舞った。

懐かしい痛みがした。

僕は笑った。

彼は泣いた。

僕も泣いた。

彼は笑った。

僕は笑って言った。

「おかえり、修斗」


眼前に蹴られたボールをとっさに弾くと、試合終了のホイッスルが鳴った。


「角田くんって、サッカーやってたの」

僕は首を振って、

「小さい頃に友達とよくやってただけ」

と答えた。

「へー、キーパー上手かったよ」

「ありがとう」

そう言って僕は笑った。


前の席の奴をつついて僕は言う。

「なあ、トポロジーって知ってる」

「数学だっけ」

「そうそう」

「どういうやつなの」

「んー、例えば、トポロジカルに言えば数字の『9』とひらがなの『み』は同じだけど、漢字の『九』は仲間外れになる」

「え、どういうこと」

「粘土を想像してほしい。数字の『9』の『ひげ』の部分をぎゅーっと押し込んでいくと、だんだんと形は数字の『0』に近づいていく。ひらがなの『み』も同様だ。でも、漢字の『九』はいくら押し込んでも『輪っか』ができない。だから仲間外れと見なせる」

「あー、確かに」

「ようは穴の数で図形的性質を分けているんだ。これは例えば路線図に応用されていて、見やすくするために縮尺がいくら変わろうと、『路線のどことどこが繋がっているか』という図形的性質が変わらなければ、路線図としての体を成す――」


生きるというのは、体系化するということだと思う。

一方、この世界は無秩序であると思う。

だからこそ、何かを体系化する営みは、生きるということそのものだと思う。

ちょうどニューロンが、無数のシナプスを通じて他のニューロンを刺激するように。

僕らは邂逅を繰り返して生きていく。

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