慟哭が響く聖堂の異世界

 佐藤さんが家の玄関を開けると、両側に白い柱がずらりと立ち並んでいました。

 三時間前に退勤・帰宅してから、また出勤しようとしただけなのに。


「このタイミングで異世界……勘弁してくれぇ」


 片頭痛を覚えながら周囲を見渡します。背後の玄関は消えていましたが、大きな両開きの扉を見つけました。しかし押しても引いても開きません。とりあえず屋内であることは分かりました。


 床には二色のひし形模様が規則正しく並び、中央の通路を挟んで両側に長い椅子がいくつも背中を見せています。遠くの壁には教壇のような四角い物体が見えました。


 気だるい足で反対側に向かうと革靴の足音が反響します。人の気配はありません。


 天井を見上げれば随分と高く、ゆったりと丸みを帯びていました。手の込んだ芸術的な細工が見て取れます。


「教会というより聖堂って感じか」


 内部の造りが豪勢というだけで、佐藤さんはここが聖堂だと判断しました。宗教的な知識はゲームから得たものだけです。


 寸分のズレなく揃えられた椅子は佐藤さんの身長よりも長く、足を伸ばしても充分横になれました。


「これは寝られる……でも硬いから起きたら全身バッキバキだな」


 目をつぶり深く息を吸うと、お香のような匂いの混じった空気が鼻を抜けます。


「あぁあぁぁ仕事行きたくない。メンタルポイントはマイナスなんだよ」


 目に置いた右腕を浮かせて時計を見ると、文字盤の数字はゼロから二十一まで増えており、すべての針が二十を指していました。何時なのかさっぱり分かりません。


 再び両目に腕を置きます。眼球を圧迫する重さが心地いい。


「やっぱり一人はいいなあ……不特定多数の大勢の人間と会わなくていい仕事がしたいなあ。モラルが標準装備されている人間の世界に行きたいなあ」


「佐藤さん」


 優しい女性の声が聞こえてきました。


「佐藤さん。こちらへ来るのです」


「……嫌です。寝ます」


「佐藤さん。こちらへ来るのです」


 何度拒否しても頑なに要求してくるので、根負けして椅子から立ち上がりました。

 声は中央通路の先、教壇から聞こえてきます。


 近づいていくと、教壇の上に何か白いものが浮いていることに気がつきました。

 さらに近づくと、どうやら小さな布きれのようなものです。上部は丸く、下部はひらひらとしていて、人が頭からすっぽり布を被ったような形です。


 佐藤さんは教壇の前にやってきました。背後の壁を見上げると、世界史の教科書でしか見たことないようなステンドグラスが三面鏡のように構えています。


 空には羽の生えた天使が浮かび、地上には天に向かって両手を伸ばす人々の姿。そんな一枚絵に見えました。


 降り注ぐ神聖な光彩を浴びながら、佐藤さんは宙に浮く物体に臆せず話しかけます。どうせ普通に会話できるだろうと慣れた態度で。


「てるてる坊主が俺に何の御用でしょうか。その前になんで聖堂?」


「ここは人間を救済するための場所です。苦しみから解き放つのです」


「なら睡眠時間をください。もしくは二億円前後ください。それで俺は救われます」


「それでは救済になりません」


 サラリーマンの生涯年収を要求したことを軽く流したてるてる坊主が、ゆっくりと顔をこちらに向けました。目をつぶって口元がニッコリと笑う、マジックペンさえあれば誰でも書けるような、簡素な表情。


「佐藤さん、あなたを苦しめる存在を告発なさい」


「告発?」


「日々のつらいことや、自分ではどうにもできない理不尽。生きることに苦痛を与えるものを、今ここで明らかにするのです」


 うさんくさい。誰かを信じる心が希薄な佐藤さんは、推し量るようにてるてる坊主の顔を見つめます。描かれた表情は一切変わりません。


「それともあなたは満たされているのですか? 苦労がなく人々に笑顔を振りまく日常なのですね」


「んなわけあるか! こっちは毎日メンタル削って営業スマイル振りまいてんだよ」


 努力と忍耐を否定する物言いに、佐藤さんはせきを切ったように話します。


「前提として客と店員なんて限りなく赤の他人に近い人間関係だぞ。なのに金もカードもクーポンも投げ渡してくる、質問しても返事しない、初対面でタメ口! 接客業に就くだけで人間として格下に成り下がるのか? 人間扱いされないのか? まだ江戸時代なのかよ!」


「話を聞く気がないなら最初に『袋いらない』『カード作らない』とか全部口頭で言え! じゃなきゃ片耳のイヤホンはずせ! もしくは一言もしゃべらないレジ接客員のいる店で買い物してくれ! はずしてからもう一回言えよみたいな顔すんな!」


「『袋』『現金』『ポイント』単語だけで話すな! 『ブーブー』『ワンワン』って言ってる子供と一緒だぞ! 外見と中身を比例させてくれ、見た目は大人で頭脳は子供か!? 社会人だろ!」


「金を出さないなら代金出した後はサインを出してくれ! 一九五〇円の買い物で二千円札出したあと財布をまさぐられたら、こっちは五十円玉出す可能性があると思って待つんだよ! もう金出してるじゃんみたいな顔するな! これで払うとか言ってくれ!」


「お札もクーポンも紙くずみたいに丸めた状態で出すな、ちゃんと広げてくれ! 金払ってんだからいーだろとかそういう問題じゃない、人としての礼儀の問題だ!」


「カード持っているか声をかけたときに、どこの店か確認するために店名の入った看板探すの一体何なんだ!? 何屋だと思って入ってきたんだよ!」


「代金置くための受け皿があるのに、その真横に小銭置くってなんだ嫌がらせか! あとカードは台の上に置いて小銭は受け皿って使い分けはなんだ、どっちも受け皿に置いてくれ! 取りづらくて時間かかるから、回りまわってそっちの時間を消耗することになるんだぞ!」


「電子マネー支払いなら何で払うか言ってくれ! いま世の中に何種類の支払い方法があると思ってるんだ! 全部操作が同じじゃないんだよ! カード見せてるから分かるだろって、裏面じゃ判断できないっつーの! せめて表面向けてくれ! 読み取り専用機の上にカード置いて無表情で待つな! まだスキャンしとるんじゃい!」


「金置いた瞬間立ち去るな! 過不足がないとこっちが確認するまでいてくれ! 足りなくても多くてもこっちは追いかける必要があるんだ、急いでいても五秒前後は待てるだろ! 待てないくらい切迫してる状況なら、買い物できると踏んだそっちの状況判断が甘いことに他ならないから! こっちはこれ以上早くできないわ!」


「積んである買い物カゴにレシート捨てるな! いらないならレジに置いてけ!」


「他社の洗濯洗剤を混ぜて使っていいのかなんて聞かないでくれ! 各メーカーが他社製品と混ぜて使っていいなんて公に言うわけないだろうが! やるなら独断で、自己責任でやってくれ! 怖くて確認するくらいならやるな! もしくはお客様相談センターに直電しろ! ……はぁはぁ」


 佐藤さんはネクタイを緩めて呼吸の乱れを整えます。一気呵成いっきかせいに連ねた日頃のうっぷんは自分が思っている以上に多く、脳の酸素を欠乏させました。


 本当はまだまだありますが、とりあえず酸素を優先します。一番近くの椅子に腰かけ、熱を帯びた頭を聖堂の空気で冷ましました。


「よく分かりました。とてもつらい目に合っているのですね」


 共感しているように聞こえない穏やかな声が、佐藤さんの血圧を高めます。


「苦しみから救いましょう」


「……全員がいい年齢の大人として、社会人としての道徳や倫理を実装させてくれるのか?」


「個々は変えられません。だから一層するのです。私の目の前に立ってください。そして『糸』を切るのです」


 何のことか分からず教壇の前に立つと、てるてる坊主の首元から真上に向かって、一本の光の線が続いていました。壇上には美容室で使われるような、細身の銀のハサミが一本置いてあります。


「これで吊ってる糸を切ったら、どうなるんだ?」


「元凶は地獄に堕ちるでしょう。悩みのない世界がやってきます」


「そりゃあすごいな。理想郷ユートピアだ」


 手にしたハサミは案外と軽く、佐藤さんの顔を映し出すほどぴかぴかです。開いたり閉じたりするのに力もいりません。刃はとても鋭そうです。


 切れ味を見定めた後、右手のハサミを開いて、糸の前後に当てがいます。


「さあ閉じるのです。そうすれば愚かな存在は断罪、根絶され、地上から争いは一切なくなるでしょう。すべて解決するのです」


「これ以外に俺の悩みを解決する方法ってないのか」


「ありません。これが佐藤さんを救済するたった一つの方法ですよ」


 銀色が照り返す光に赤みが混じります。見上げると、ステンドグラスから差し込む光が燃えていました。

 一枚絵の上には逆さになった老若男女が地に向かって両手を伸ばしています。まるで真っ逆さまに落ちていくように。その下には揺らめく炎と骸骨の集団。


「さあ、あなたの手で世界を救うのです。大地を清浄してください」


「こんな簡単なことで悩みが解決するのか?」


「ええ。糸を切れば現実世界の変更が実行される。あなたはボタンを押すだけ」


 異世界が現実世界に影響を与えるとは。何の創作物フィクションだよだなまったく。

 佐藤さんは今まで観たり読んだりした作品を頭に思い浮かべました。


「……俺も考えたことあるんだよ。どうすれば俺の悩みが解決するか」


 ハサミを構えたまま、てるてる坊主に語りかけます。


「俺の悩みってさ、俺自身がいくら努力してもなくならないんだよ。広い心を身に着けるとか、そういうことじゃなくて。問題自体を改善することが不可能なの」


 てるてる坊主は穏やかな表情のまま、話を聞いています。


「自分が変わる以外の方法を俺なりに探したんだ。仕事を辞める決断ができない人間だからさ、外に希望を探した。考えて考えた結果、どうしてもひとつの結論にしかたどり着かない」


 人間が滅びるしかない。

 発した言葉を拾い上げるように、聖堂は佐藤さんの声を響かせました。


「きわめて現実的な答えだ。人間同士が争わない世界なんて、アニメやSF映画に登場するディストピアにしか見えないね。それくらい非現実的ってこと」


「だから滅ぼすのですよ。私を落として、一切の人間を堕とすのです。審判を下しましょう」


「勝手に人類代表に仕立てるな。一切の人間って言ったら俺も含まれてるだろ」


 佐藤さんは持っていたハサミを元の場所に置きました。


「別に長生きしたいなんて思ってないけど、嫌な奴らと一緒に心中ってのが気に食わない。だったら人間をアップデートさせて一定以上のモラルを実装してくれ。人類を運営している奴らは分かってないね」


 教壇に背を向けて中央通路を戻ります。向こう側にある大きな扉の隙間から白い光が洩れていました。いつの間にか鍵が開いたようです。


「では佐藤さんはこれからも苦しみを背負い、心を削りながら生きていくのですね。理不尽な世界に意味のない悪態をつきながら」


「挑発しても無駄だよ」


 背中を向けたまま声だけを返します。


「ただ疲弊していくだけの世界で、あなたは何をよりどころに生きるのです?」


「来月好きなゲームの新作が出るんだ。いまのところはそれを楽しみに頑張ってる」


「あなた自身に世界を変える力はない。待っていても変わらない」


「それなりに歳取ってるから知ってる。難儀な仕事を続けている自覚はあるよ」


 たどり着いた入り口の扉に手をかけました。大きい割にあっさりと動きます。隙間からもれる光はまぶしくて、外の景色を直視できません。


「すがったり格好つけたりして、生きていくしかないんだから」


 佐藤さんは光満ちる世界へと出ていきました。




「お願いします。袋はいりません」


 佐藤さんはレジ台にカゴを置き、受け皿にカードを置きました。


「千五百円でお願いします」


 買った物をバッグにしまってから三十円のお釣りをもらい、財布にしまいます。レジの店員と互いにお礼を言いあう。どちらも笑顔でしたとさ。

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玄関開けたら佐藤の異世界 竹乃子椎武 @takenoko-shi-take

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