虚から晴空を仰ぐ集合住宅の異世界 後編
柱の陰に置いてあったのは、ちりとりでした。
持ち手の短いフライ返しみたいな形ではなく、ショベルのように長い柄と持ち手がついた、蓋つきのちりとりです。
「もしかして喋りました?」
思わず佐藤さんも敬語で話しかけてしまいました。ちりとりであっても礼節を
「はい。
蓋を開いたり閉じたりさせながら、ちりとりは答えました。
「私はちりとりでございます」
「でしょうね。その姿で自転車の空気入れとか言われたらあごが外れました。それで俺に何の御用でしょうか」
「
「えっ、出口知ってるの?」
「ご案内できるかと」
佐藤さんは感謝と共に、しゃべるときにかぱかぱうるさいなと思いました。
「正解の扉はどこにあるんだ」
「どうか焦らずに。まずは上りましょう」
「屋上まで?」
「その必要はございません。ある程度上れば十分かと」
「助かった……」
マンションにエレベーターは設置されていないらしく、階段で上がって行くしかありません。面倒なことに階段は各階に一か所だけ、しかも下りと上りが背中合わせになっており、通路幅いっぱいに広がっているため、廊下をぐるりと一周しなければ次の上り階段にたどり着くことはできません。
「つくづく意味の分からない設計だな。デザイナーにコンセプトを問い詰めたいぜ」
佐藤さんはちりとりをぶら下げてぐるぐるとマンションの廊下を歩きます。階段を上がったら、またぐるぐると廊下を歩く。疲れてきたのか飽きてきたのか、大きなあくびが出ました。
「全額出されてもこんなとこには住みたくないな……人はいるのか?」
「私には分かりかねます。しかし入居者の有無など意味のないことです」
「取り壊しちまえ」
広い敷地を囲うマンションの廊下は当然それなりの長さがあります。佐藤さんは歩きながら、近所のコンビニ一往復より長いと参っていました。
「相方はどうしたんだ」
気分と距離を紛らわすために、ちりとりに話しかけます。
「相方と申しますと」
「ちりとりの相方はほうきに決まってるだろ」
「これは失礼致しました。ですが私めにパートナーはおりません」
「じゃあどうやってゴミを集めるんだ?」
「私めの役割は佐藤様のご案内。清掃に
「もう少しちりとりとしての誇りをもったらどうだろうか……」
「なるほど。『ちりとり』と『ほこり』をかけたお掃除ジョークとは面白うございます。かぱかぱぱ」
「全然かかってないだろ!
恥ずかしさをごまかす大声が閉ざされた空間に反響します。異世界には佐藤さんとちりとりが出す音以外、何も聞こえません。
ぐるぐると、ぐるぐると。もうどのくらい歩いたでしょうか。
階下をのぞむと地面はすっかり遠く、だいぶ上がってきたようです。しかし進行方向の景色はまったく変わり映えしません。
佐藤さんは着実に蓄積されているであろう乳酸を感じていました。
「なあー、あとどれくらいだ?」
「どれくらいだとお考えですか?」
質問に質問で返すちりとりにカチンときましたが、機嫌を損ねて蓋を閉じられても困るのでぐっと堪えます。
「もう次の扉が出口でいいと思う」
「ではそのようにいたしましょう」
おかしな返答に首を傾げながら、次の扉の前で立ち止まりました。
「ここがゴールってことか?」
「目標地点ではございません。ですが佐藤様がここでよろしければ、どうぞ扉を開いてくださいませ」
「意味の分からんことを……あ、開いてる」
外開きの扉の奥は佐藤さんの家の中につながっていました。
「うおおっマイハウス! しんどかった分、感動も
「お待ちくださいませ」
家の中に入ろうとする佐藤さんを、ちりとりが止めます。
「私めは異世界でのみ許される存在。現実に移ればただのちりとりとなり果てます」
「それは……置いてけってこと?」
「お察しの通りで」
普段は掃除機とカーペットのコロコロで部屋をきれいにしている佐藤さんにとって、ほうきのないちりとりなど無用の長物です。
別れる前に気になっていたことを尋ねました。
「この異世界って、結局なんだったんだ? どういう意味があるんだ?」
「意味などございません。この建物にも、敷地の道や芝生に咲く花にも私自身にも、意味などないのです」
差し出がましいようですが、そう前置きしてちりとりは蓋を開きます。
「佐藤様はあらゆる事象に対して意味を求めていらっしゃる。しかし世界には『意味のないもの』も存在するのです。意味がなくても存在できるのです。今までの人生の中で何度も出会っていらっしゃるはず」
「許されざる存在であっても、認めなくては――受け入れなければならないものは、誰にでもあります。どうぞ寛容に日々をお過ごし下さいませ。それこそが、人生を少しでも有意義に過ごす
「心が狭いみたいに言うな……もう一個だけ。屋上には何があるんだ?」
「さて、なんでしょう。ただここよりも広いのは確かかと」
吹き抜けの天井、遥か先の輝きを見上げると、佐藤さんは玄関先にちりとりを置きました。じゃあな、と軽い挨拶を済ませます。
「いってらっしゃいませ。佐藤様の
ちりとりはかぱぱぱ、と喜ばしく笑って見送りました。
扉を閉めてから腕時計を見ると、いつも家を出る時刻でした。
「あれだけ歩き回った時間が無意味……しかもこれから出勤……うげぇ」
現実を思い出し、佐藤さんは自分のふくらはぎを揉みます。いつもより弾力性が増している気がしました。
「いい運動になった、と思うしかないか」
再び玄関の扉を開きます。見慣れた光景が少しだけ広く感じましたとさ。
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