虚から晴空を仰ぐ集合住宅の異世界 前編

 佐藤さんは玄関の扉を開けようとして思いとどまりました。


「なんか今日は飛ばされそうな気がする」


 望まず異世界に踏み込んでしまう体験が、佐藤さんに警鐘を鳴らしました。


 また意味不明な場所にワープするのは御免だ。全力ダッシュで出勤して汗べっしょりになりたくない。汗臭いまま働けば「あの人近づくと変な匂いしません?」と事務所や倉庫で陰口を叩かれるに決まってる。


 必要以上に加齢臭を気にし始めた三十代中盤。被害妄想が滞りない出勤への渇望につながります。


「そうは問屋が卸さないぞ」


 誰に言うでもなくドアノブから手を放し、靴を持ってベランダに向かいました。


「要はドアを内側から開けなきゃいいんだ」


 理屈は不明だが、家の中から玄関の扉を開けると異世界につながる。


 過去の経験則から佐藤さんは対抗策を練りました。

 ベランダから外に出て、玄関から家に入る。その際に扉は開けっ放しにしておき、窓の内鍵を閉めて再び玄関から出れば、飛ばされることなく家を出られる。


 早くも異世界転移のからくりを見破った佐藤さんは、勝ったなガハハと胸中で扇子をあおいでいます。


 ベランダからアパートの裏手に出ました。今日は快晴です。一階に住んでいるので窓の向こうはすぐに足が着きました。近所の人が見たら通報案件でしょう。

 今日は風が強いのか、ぴゅるると木の葉が舞っています。そのせいで飛んできた薄紙が顔面にまとわりついてきました。


「ぶあっ! ちょ、なにコレ新聞? 家の中で読めよ……」


 佐藤さんが顔から新聞を引きはがすと、そこにはレンガ調のタイルで舗装された空間が広がっていました。

 ベランダから出て異世界転移の裏をかこうと思っただけなのに。




「玄関の扉を開けるのが異世界転移の条件じゃないのかよ……そしてやっぱり窓がない!」


 振り返るとブラウン一色。見慣れた窓なんて影も形もありません。

 視線を壁伝いに這わせていくと、離れたところに見知らぬ玄関の扉がありました。どうやら壁は緩やかに曲線を描いていて、大きく三百六十度を包囲しています。扉は等間隔でついており、部屋と部屋の間を蛍光灯の光が照らしていました。


「壁以外は高級マンションみたいな雰囲気だ。入ったことないけど」


 知らない場所だけど現実離れしていない。

 今までと雰囲気の違った場所に、もしかしてここは異世界じゃないのかと思考が一周してしまいます。


 佐藤さんが立っているのは一階。普通のマンションなら建物の内と外を隔てる壁があるものですが、ここにはありません。地続きで廊下の外へ出ることができました。


 玄関先に広がるのは品よく舗装された広場。レンガタイルの道が二本、〇×ゲームのマスみたいに交差し、一定間隔で立つガス灯が細々と明かりをたたえています。


 広場の中心には小さな芝生がありました。近づいて見るとぽつんと一輪だけ、棒状に実をつけた草が咲いています。佐藤さんは先週行った焼き鳥屋で食べたせいか、細長い串に刺さったつくねみたいだと思いました。


「異世界っぽくないけど、現実にはあり得ない建物だし……この造りに意味あるのか?」


 見たところ、敷地からマンションの外に出る道がありません。大金をドブに捨てる大まぬけな欠陥住宅です。

 周囲を照らすのは人工的な光のみ。家を出たのは午前中だったのに、今はまるで夜更けのようです。


 時刻を腕時計で確認すると、三つの針は中心ではなく外側についていました。それぞれが中心を指すように外周しているのです。針の根元と文字盤と照らし合わせる限り時刻の狂いはなさそうですが、見にくくて仕方ありません。


「構造自体変わっちゃってんじゃん……いい時計なんだから、ちゃんと元に戻ってくれよ」


 ため息を吹きかけ時計をポケットにしまいます。


「日照権ガン無視で売れそうにない物件だなあ。おしゃれだとしてもこれは暗すぎ……おぉお?」


 天気を確認しようと首を傾けた佐藤さんから、奇妙な声がれました。


 マンションの階層は果てしなく続き、先が見えません。中心に向かって狭まっていく視界の中心には米粒ほどの光が見えます。

 佐藤さんのいる敷地はマンションの吹き抜けでした。ただし外の光が下りてこないほど深い場所。外の様子はまったく分かりません。


「何百階建てだよ……とにかく帰る方法だな」


 試しに適当な扉を開けてみることにしました。ですが鍵がかかっているのか中に入れません。


「もしかして全部の扉を当てずっぽうで調べなきゃダメなのか。コマンド総当たり式のアドベンチャーゲームなんてファミコンの時代で終わっただろ……」


 小学生の頃にプレイした探偵モノを思い出しながら、数えきれない扉の数にうんざりします。


「上るにしても果てしない……なんか牢屋みたいに見えてきた」


 どこを眺めても扉、扉、扉。今にもガタンとはずれて一斉に襲い掛かってくるような圧迫感を覚えます。なんだか息苦しさも感じてきました。ネクタイを緩め大きく息を吸っても気分は晴れません。


「なんか悪いことしったけかなあ。一応、他人に迷惑かけないように生きてきたつもりだけど」


「……とう……ま……、佐藤さ……」


 どこからか名前を呼ぶ声が聞こえました。同時にかぱかぱと何かが開閉する音も聞こえます。


「こちらでございます、佐藤様」


 謎の呼びかけはどうやらガス灯の一角から聞こえてきました。声の元へ近寄ると柱の陰に何か置いてあります。

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