憧れあふれる味噌バターラーメンの異世界
佐藤さんが家の玄関を開けると、そそり立つ白い壁と脂ぎった茶色い
近所のラーメン屋に行こうとしただけなのに。
「十三連勤明けの休みで脳が止まってるのかな……とりあえず戻ろ――ってまたか」
振り向くと玄関は消失していました。あり得ない事態に焦りを見せないのは起床してから一時間も経っておらず、まだ思考が鈍いためです。
昨日は明け方まで仕事の準備をしていました。寝て起きたら夕日が沈もうとしていて、休日の喪失感が半端ありません。
「しかし暑いな……熱気がすげえ」
パーカーの袖口をまくりつつ、きょろきょろと辺りを見渡します。四方を囲む海にはところどころで何か浮いていますが確認できません。
足元は薄い桃色でところどころ白みがかっていました。地面はアパートの自室程度しかなく、孤島のようです。天頂には黄色がかったまばゆい太陽。
「泳ぐにしてもこんなギトギトの油が浮かぶ水には入りたくないし……それにしてもさっきから味噌くさいな」
空っぽのお腹がぐーと鳴って、夜ご飯を食べに行くために外出したことを思い出しました。
佐藤さんは陸地の端で濁った海を覗き込みます。よい香りは海から沸き立っていました。
「嗅げば嗅ぐほど食欲を刺激するこの香り……まさか」
水面に首を伸ばし、水面にペロッと舌先をつけました。口の中で転がし、今度は唇をつけて吸い上げます。
「味噌だ……いや、味噌にバターが溶かしてある」
原料をただ溶かしただけではなく、鶏がらベースのような味わいが味噌のコクと調和した飲みやすさ。奥にニンニクの存在も感じます。そして全体を引き立たせるマイルドな舌触りはバターしか考えられません。
「もしかしてあそこに浮いてるの、コーンか? あっちの白くて細長いのはもやし、船みたいに浮かんでいるのはタマゴ……っつーことは」
ぺろりと簡単にめくれた地面を口に入れて咀嚼しました。味噌バターのだしが染み込んでいて柔らかく、噛めば噛むほど
遠くの白壁はよく見れば、なだらかな坂になっています。
「もしかしてここ……味噌バターラーメンのどんぶりの中!?」
味噌バターラーメンは佐藤さんの地元ではメジャーな商品です。しかし関東ではスターティングメンバーには入れてもらえないようで、メニューに名を連ねている店は多くありません。ちなみに佐藤さんはしょう油派です。
「久しぶりに飲んだよ。美味しいけど……え、夢だよな? でも味噌バターラーメンのことなんてここ数年頭になかったし……これって異世界転移? こんな異世界あるか? でも現実世界じゃないし……美味しいけど……」
むしゃむしゃとチャーシューをほおばりながら考えても答えは出ず、やがてお腹が満たされてくると、だんだんどうでもよくなってきました。
「夢なら覚めないでほしいけど、もし異世界に飛ばされたとしたら……いや味噌バターラーメンの異世界ってなんだ? なんで麺はないんだ? 食べ終わったあとか?」
どうせなら麺も味わってみたかったと思いながらスープの海を眺めていると、遠くでぽちゃりと波紋が広がりました。しぶきも上げずに水面を揺らす影が、少しずつ近づいてきます。
「な、なんだ、モンスターか!」
影はチャーシューの海岸にたどり着くと、ぺちりと身体を陸地に打ち上げました。薄っぺらく、柔らかな木の板を想像させるそれは、海老ぞりをするように頭を持ち上げると元気いっぱいに叫びます。
「おいらはメンマ!」
この数秒で得られた情報に脳の処理速度が追い付かず、佐藤さんは一時停止してしまいました。
メンマには目も鼻も口もありませんが、明らかに佐藤さんに自己紹介しています。
中学生のころから様々なライトノベルやマンガ、アニメ、ゲームをたしなんできましたが、メンマがしゃべる作品に出会ったことはありません。
「どうしたの佐藤さん、具合が悪いの? おいらを食べれば元気百倍だよ、ほらほら!」
めんまは身体を揺らしてもにょもにょと近づいてくると、頭をぺちりと佐藤さんの顔面に叩きつけました。痛くはありませんがスープでびしゃびしゃです。
「ええぃ黙れ味噌臭い! トッピングの分際でぐいぐい来るな! 自分を食わせようとするのはあんぱんの専売特許なんだよ!」
「なんだい、柔らかくて美味しいのに」
「歯ごたえの話をしたか!? うわ、ぬるぬるするぅ……顔洗したい……」
袖口で顔をぬぐいつつ、メンマと距離を取ります。
「なんなんだよここは」
「味噌バターラーメンだけど?」
「一般常識みたいに言うな。で、お前はなにしてるんだ」
「体にダシを染み込ませていたんだけど?」
「イントネーションが腹立つ……染み込ませてどうする」
「もちろん食べてもらうんだよ。それこそおいらの――このどんぶりの中にいるすべての食材の夢! その瞬間を考えるだけでもう胸が弾んじゃう!」
「心臓ないだろ。人間だったら確実に精神病院行きの発言だ、メンマに生まれて良かったな」
喜びに一層背中を反り上げるメンマに、佐藤さんは冷ややかな視線を送ります。
「佐藤さんの夢はなに?」
「へっ、俺の夢? 別にないけど」
「えーっ、佐藤さんには夢がないの!? じゃあ何を目的に生きてるの? ただ生きてるの?」
「なんだ『ただ生きてる』って……あのなあ」
佐藤さんは立ち上がってメンマに詰め寄ります。
「スープに浮かんでいるだけの暇なお前と違って、こっちは時間のほとんどを労働に当てなきゃいけないの。働いて寝て起きて働く。貴重な休みは掃除・洗濯・買い物・
「仕事するのが目的で生きてるってこと?」
「それすげーつまんない人生じゃん」
「じゃあすごくつまらない人生を送っているんだね、佐藤さんは」
メンマは下半身を「く」の字に折り曲げ、正座するように背筋を伸ばしました。
「おいらには耐えられないな。嫌にならないの?」
「労働者の圧倒的多数は生活費のために仕方なく働いてんの。好きなことと仕事が直結してるやつは恵まれたごくごく一部。愚痴をため込んで生きるのが一般社会人だ」
「夢のない生き方なんて具材のないカップラーメンと一緒だよ。味気なくて飽きる」
佐藤さんはメンマのラーメン例えを腹立たしく思いました。
「大好物でも同じものしか食べられないと美味しく感じなくなるし、嫌いになるかもしれない。でも今度は違うものを食べに行こう、ちょっと豪勢なディナーにしちゃおうって考えれば、今のご飯だって嫌いにならないと思うんだ」
「発酵食品が俺の食生活に文句つけるな! お前こそ、食べ残しのどんぶりに浮いてるだけ夢が叶うと思ってるのか?」
「浮いてるんじゃなくて染み込ませてるの。それに食べ残しじゃないよ。ほら――」
めんまは空を見上げると、あたりが急に暗くなりました。黄色がかった光を隠すような塊が天を覆っています。
よく見るとそれは、細長いくだが幾重にも絡まっています。
「おかわりが来た」
「替え玉あぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁ!?」
身の危険を感じてスープに飛び込んだ直後、麺の塊がどんぶりの中に着弾しました。佐藤さんはもがきますが濁った海の中では方向感覚を働きません。
呼吸が苦しくなり、もうだめだと観念した佐藤さんの体は味噌バタースープの底へと沈んでいきました。
「………………ぶばぁっ! げはっ、ゴホッ」
顔を上げると、目の前の鏡には水滴がしたたる自分の顔。手をついていた洗面台には水が貯められています。
「深夜のバラエティ番組かよ……苦しいのになんで気がつかなかったんだ」
息を止めるまでの過程や理由はいくら考えても分からなかったので、とりあえず顔を拭き、佐藤さんは近所のコンビニでお弁当を買ってきました。
それからしばらく米とパンが食生活の中心でしたとさ。
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