玄関開けたら佐藤の異世界

竹鋸椎武

選択を敷く草原の異世界 前編

 佐藤さんが家の玄関を開けると、目の前には心地よい光と風に包まれた草原が広がっていました。

 出勤しようとしただけなのに。


「……んじゃこりゃあああぁぁぁぁ⁉」


 あり得ない光景に月曜のかったるい気持ちが吹き飛んだ佐藤さんは、現実を確認しました。


 後ろを向けば、たしかにそこは長年住んでいるアパートの一室。けれど前を向けば自転車置き場の代わりに大草原。理解が許容範囲を超え、佐藤さんは笑い声を上げました。wwと草が生えました。


「まさか30代半ばで異世界転生!? でも俺、トラックに引かれたりしてないしなあ」


 佐藤さんは最近のライトノベルに詳しくないので、異世界に転移する条件はトラックに引かれるだけだと思っています。他にもパターンはあるのに。

 気になったラノベは買ってみるものの、忙しくて枕のそばに積んだままです。


 とりあえず辺りを見渡す佐藤さん。ふと違和感を覚えます。


「この風景……よく知ってる。でも俺の記憶ではもう少しなだらかで……これは」


 職場で使用するWindowsのデスクトップ画面でした。思い出すと異世界へのワクワク感は急速に萎え、出勤時間と電車の時刻が心配になります。


「急がないと。玄関にカバン置きっぱなしだから戻らなっれぇドアがないっ⁉」


 振り返ると、さっきまであったはずの玄関が消失していました。

 風にそよぐ草原がただただ、どこまでも続いています。


「マジかよ。あーしかもカバンの中にスマホ入れっぱなしだ。今わかるのは時間だけか……なんだこりゃ」


 右袖をめくると、腕時計の針がきれいな「Y」の形で止まっていました。六時以外で単身が真下を指すことはないため、電池切れにも見えません。


「まあ俺がいなくても店は回るし、出勤しないときは時間を間違えてるか、もうこの世にはいませんって伝えてあるからいいよな」


 外した腕時計をポケットにしまい青空を見上げました。

 雲がのんびりと流れています。暖かさは春先くらいでしょうか。洗濯物を干せば程よく乾いてくれるでしょう。


「ここにいてもしゃーない。歩くか」


 なんとなく駅があるであろう方へ向かいました。スーツで草原を歩くなんて、俯瞰ふかんすればおかしな絵面だなと思いつつ、革靴で草を踏む音や感触に心地よさを覚えます。空気も美味しく感じました。


「異世界に来たなら特殊な力とか備わってたりするんじゃないか?」


 佐藤さんは開いた手のひらを前方に向けて叫びます。


「ファイヤーボール!」


 いい年の大人とは思えないほど本意気の叫び。

 しかし火の弾が出ることはなく、日頃のストレスがほんのちょっぴり発散されただけでした。

 

「おいおい、一般人が異世界に来たら魔法が使えたりズルいくらい強くなるんじゃないのかよ。本当に異世界かここ?」


 転生・召喚された現代人は、優遇オプショナルが付属されるとばかり思っていたので、佐藤さんは結構がっかりしました。これではただの月収が低い会社員です。


「サラリーマンがなんの能力もないまま異世界に来て何しろっつうんだ――ん?」


 靴底に風船のような弾力。見るとシャボン玉のような球体を踏んづけていました。


「うおっ! な、なんだ!? モンスター!?」


 毎晩のシップが欠かせない腰を抜かしながら尻もちをついていると、謎の物質から声が聞こえてきました。


「違うよ。ぷるぷる……ぼくは悪いスライムじゃないよ」


「大丈夫かそのセリフ」


 大作RPGとの利権関係を気にしつつ、立ち上がり身構えます。佐藤さんの格闘技歴は高校の体育でやった柔道だけです。


「まさか丸腰で戦闘!? 武器もないのに……負けイベント? え、ゲームオーバーって概念はどうなってるの? 教会でよみがえるの? 昨日ATMでお金おろしたばっかりだから財布に結構入ってるんだけど!?」


「落ち着いてください。ぼくは案内役だよ」


 穏やかに話しかけてきますが、目も口も見当たりません。


「佐藤さんを導く役目なんだよ。あの看板を見てよ」


 スライムがにゅっと体の一部を細く伸ばします。指し示す先には、ファンタジーRPGか遊べる牧場でしか見ないような、木製の看板が立っていました。


「見に行くけどさ……なんで俺の名前を知ってる?」


 佐藤さんは異世界でも個人情報の流出を恐れます。貯金は雀の涙ほどですが、それでも不正にだまし取られるとつらく悲しいから。


「案内役だからだよ」


 何の答えにもなっていない返答に正直イラっとしましたが、最悪ケンカになったら勝てないと感情を抑えました。佐藤さんは「怒りは六秒我慢すれば通り過ぎる」アンガー・マネジメントの特集を見ても「忍耐力を今風に言っただけだろ、それより確実に相手を黙らせる方法を教えてくれ」と毒づく人です。


 佐藤さんは後で絶対に確認してやろうと心に決めて、看板に近づきました。

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