どれを飲みますか?

佐藤アキ

第1話どれを飲みますか?

 僕は人に興味がないようだ。名前覚えが悪ければ、顔も覚えない。流石に毎日顔を合わせれば話は別だが、数回会ったくらいでは記憶に残らない。

 だからおかしいと思えばよかった。ただ視界に入った彼女に目が止まったことを。


 彼女を初めて見たのは、八月、家の近所の区立図書館。

 そこは、区民館やプラネタリウムなどを併設する大きな建物に入り、蔵書が豊富な図書館だ。大学で助教をしている僕にとって、大学に行かなくても専門書にありつける貴重な場所。

 そんな図書館の地下一階は、机があり自習に使用できる空間だ。吹き抜けになっており、一階からの日の光も差し込む、よい環境。その階に目的の本があるため、僕は大学に行かない日はここに通うのが習慣だった。


 お目当ての有機化学の専門書。その本が並んでいる棚に向かって歩くと、棚の前の机にいる女性が、目に入った。何の気なしにその全体像を見ると、彼女よりもその机の上の物が目に飛び込んで来た。

 それは、うちの研究室の教授が執筆した本、前期の実験で配布した課題ノート、そして見覚えのある紙の束だ。紙の束は前期テストの過去問、つまり彼女はうちの大学の生徒。確か、あと二週間で追試験があったはず。

 人物に目を移せば、手は動いておらず固まっていた。少しでも動けばサラサラと流れそうな黒い腰まである髪の毛も、ピクリとも動かない。

(まあ、頑張れ)

 柄にもなく、彼女を気にしつつ、僕は自分の勉強をするため席に戻った。


 その次の週、同じ席で彼女を見た。先週に比べて必死さは増しているようで、唸っているのか、音を立てずに髪の毛はサラサラ揺れていた。思わず見入ってしまった。そしてすぐに、比べられるほど彼女を覚えていた自分に驚いた。


 しかし、それがいけなかった。

 僕の視線に気づいたのか、それともたまたまかは不明だが、顔をあげた彼女は僕と目が合ったのだ。僕が彼女の茶色い目を見たその瞬間、彼女の口が「あ」と、開かれた。実験で配布する課題ノートを持っているということは、彼女は三年生。実験は教授筆頭に、院生まで手伝ってもらうのだから、当然僕もいた。だから、彼女が僕の顔を実験中に見ていてもおかしくない。


 それに、自慢じゃないが、僕は比較的女子生徒には人気がある。

 年齢的に若いのと、清潔感からだろう。学生時代にはモテた記憶もないのだから、顔というよりは雰囲気なのは間違いない。まあ、そんな理由からだが、今年の春先は大変だった。三年になった時に配属される研究室決めがごたついたのだ。僕目当てにやって来る生徒を振るい落とすのが大変だと准教授が嘆いていた。


 そんなわけで、黒髪の彼女と目が合って、生徒が抱く先生像を崩さない様に、僕は笑顔を作った。そんな僕に、彼女は髪を押さえつつ、頭をこくり、と下げた。


 昼が過ぎ、帰ろうと本を戻しに行った。彼女はいまだに机に向かっていた。熱心はいいがお昼はどうしたのだろうか。頭を抱えている彼女の机の上には、線が引かれた教科書、ノートに書かれた有機化学の単語や構造式、解いたであろう過去問のプリント。だが、自己採点したであろう答えには、「正解」のマークは少なかった。

(これは大変そうだ)

 思わずため息が出た。だが、静かなこの場所で、それは意外にも大きな音になってしまった。

 慌てて本棚に戻した視線、だが、その視界の端には彼女が振り向いた様子が映っていた。だが、僕は気にせず本を戻し一階へと足を急がせた。ちら、と一階から吹き抜けの下を見下ろすと、彼女は机に向かっており、僕を見てはいなかった。

(また気にするなんて、我ながら珍しい)

 うちの生徒だから気にする、ということはない。そこまで生徒思いではないのは自負している。とすれば、彼女に何かしらの思いを抱いている、ということだろうか。しかし、相手は生徒でその歳の差は八歳。まあ、大学だから歳はまちまち、ここは八学年違い、と言いなおしておこう。ともかく、二十歳かもしれない子供にそれはない。


 その次の日曜日、その日は大学に用事があり夕方に地元に戻った。図書館は駅から家までの道を少し外れたところにある。つまり、図書館によると遠回りだ。しかし、足は迷うことなく図書館へと向かった。閉館時間まであと一時間、彼女はいるだろうか


 手慣れた足取りで地下に向かいかけたが、一階から彼女はよく見えた。いつもの席で、あろうことか彼女は寝ていた。

(大丈夫か? 追試は三日後の水曜日だぞ)

 辺りの席は空いていた。いつも通り本を取りに行こうと思ったが、珍しいことに、彼女の隣の席の人がその本をとった。

(有機化学辞典なんて使う人がいるのか、珍しい)

 彼女は後ろに気配を感じたのか、顔をあげて背後を確認すると勢いよく辺りを見渡した。一番初めに見たのはいつも僕が座る席だ。そこにいるのが違う人間だとわかると、背を伸ばし、ぐるりとフロアを見渡した。しかし、それでも見つからず立ち上がった彼女は、隣の席を見て再び席に着いた。

 本が無いことに気づいて、僕がいると思ったのだろう。少し残念そうな顔をした彼女は見ていて面白かった。


 彼女は席に着くと、机の上の物をバッグにしまい、一応借りていたらしい本を、有機化学の書籍棚に戻して階段へとやって来た。


 彼女に見つからないように先に図書館を出た僕は、ロビーにある自販機で飲み物を買うことにした。夕方とはいえ真夏の晴れた日、うだるような暑さの中を歩いてきたのだ、だから喉が渇いた、だから買う。なぜか自分にそう言い聞かせ、自販機に向かった。

 だが、そこで思わぬことに気づいてしまった。

(財布と、家の鍵がない……。大学か)

 忘れ物に気づき、思わず舌打ちしたが、携帯があれば飲み物は買える。便利な世の中だ。


 自販機のミルクティーとミネラルウォーター、どちらにする? 普段なら『水』一択なのだが、今日は不思議と別のものに目がいってしまう。迷っているうちに、図書館の自動ドアが開き彼女が出て来た。手早く二回ボタンを押し、取り出すと、ドアに向かって足を進めた。


 ロビーは広い、しかし、今は僕と彼女の二人だけ。自分に向かって歩いて来る僕はさぞかし目立っただろう。目を丸くした彼女に「どうぞ」と、ペットボトルと差し出すと、ミネラルウォーターを取った彼女は「平林ひらばやし……ティーチャー?」と口にした。一気に気が抜けた。


「その変なよび方やめてくれないかな。誰が始めたのさ、うちの院生かい?」


 今年の三年の実習、その前半クラスで、僕を『平林ティーチャー』と面白がってよぶのが流行った。間違いない、彼女はうちの三年生、しかも学籍番号は真ん中より前の生徒だ。


「先生! 私に有機化学を教えてください! 三日後に追試なのに、もうさっぱりで……」

「うちの教授の試験でしょう。答えになりそうなことは教えられないよ」

「誰も問題を教えてとは言ってません! 基本がわからないんです!」

「……つまり、うちの教授の授業はわからないと?」

「はい」


 まあ、わかりやすい授業とは言えない。それは、自分が学生のときを振り返っても同意する。好きでなければ、うちの教授の授業は厳しいだろう。まあ、考え方を教えるくらいなら構わない、だが、それはできない。


「悪いけど、君は明日、明後日も休みだろうけど、研究室は休みじゃないんだ。教えてはあげられないよ」

「そんな! せめて今日この後だけでも!! さわりだけでも!!」


 冗談、だってこれから僕は大学に戻らないといけない。財布ならともかく、鍵がないと――


「これから大学に戻るんですよね、先生?」

「は?」

「今の先生は困ってます。財布ならともかく、家の鍵を忘れてしまって、そうでしょう?」

「どうしてそれを……」


 驚いて、思わず肯定してしまった僕の手元を見て、彼女はニヤ、と笑った。


「その飲み物、先生が飲むんですか? 先生の趣味じゃないですよね、いつも『水』しか飲まなかったのに。それとも、ここ数カ月で心境に変化でもありました? その、濁った色の飲み物」


 僕は彼女の視線につられて、思わず手元を見た。確かに、僕のミルクティーは濁っている。だが、だからといって何なんだ。


「知ってます? テレビでやってました。ラベルのない、正体不明の飲み物を選ぶとき自分の思考が出るんですよ。無色透明の物、つまり水を選ぶ人は、何か混入されている可能性を考えてしまうんですって。それって裏を返せば、自分が同じことをするという考えがあるからなんです」

「つまり、君は、買った僕は危険だと?」

「いいえ、危険だなんて思ってませんよ。それに、どちらかというと、水を選んだ私が危険になりますから。でも、そもそも先生の持っている飲み物はラベルがあって中身がわかりますから、前提条件が違います。それに水を飲みたい人だっていますもんね。そんな人には失礼な診断ですよ!」


 そう大げさに首を振った彼女は、「でも」と、付け足した。


「もし、私が買うとしたら、間違いなく『無色透明』を選びます。昔……、といっても、今年の春先くらいの私なら、大好きなミルクティー一択、薄茶色の白濁した飲み物、だったんですけどね。何故だと思います?」


(今年の春先?)


「論文の発表はいつですか? 代わってあげたんだから、お礼でもしてくださいよ」


 春先、論文?

 僕の研究の手伝いに学部生はつけていないし、この子はうちの研究室の生徒じゃない。そもそも、この子がうちの研究室を希望していたとも思えない。流石にここまで有機化学が苦手なら、僕目当てであっても入らないだろう。それに、一体僕が何を代わってもらったと?


「あ」


 思わず声が出た。そして、その僕を見て彼女は笑い、自分の鞄から出した飲み物に口をつけた。無色透明、水だろう。


 春先、僕にもう一つあった出来事といえば、ポスドクから助教への昇進だ。運よく、ポストが空き、実験に費やすために、それまでずっと続けていたバイトを辞めることにした。学生のときから続けていたその仕事は、辞める時には代わりを紹介せねばならず、それに僕は頭を抱えていた。誰かれ構わず連れて行けるものでもない、適性が必要だ。

 そう悩んでいたとき、運よく彼女が現れた。


 僕のいる研究室を希望したのは彼女の友人の『長谷はせ』という女子生徒。だが、生徒選びでひと悶着どころか、ふた悶着あったうちの研究室は、最終的に課題を出して選ぶ事にしたのだ。しかし、その提出日に長谷は体調を崩してしまい学校に来れず、長谷に頼まれ言伝てに来たのが親友の彼女だ。そのとき、彼女は僕に言った。


『平林さん、ポスドクの人ってアルバイトするものなんですか?』


 アルバイトのことなんて誰にも言っていない。教授ですら知らないことだ。それを言い当て、「人がいなくて大変そうですね。疲れてますよ」などと口にした。僕のことを調べ上げたのかと思ったが、それはない。見つからないことに関しては絶対の自信があった。


 とにかく、僕の悩みを言い当てた彼女を、理由をつけてバイト先に呼び出した。親友の長谷のこととでも言っておけば彼女は疑いもなく来てくれた。そのまま、僕は彼女に仕事を押し付け、自分は晴れて自由の身になった。


「三月は大変でした。ひかる、あ、長谷はせがインフルエンザになって、代わりに先生のところに行ったら、まんまと先生に乗せられて。ね、先生、っていうか、?」

「やっぱり、僕がバイトを引き継いだ――」

「そうですよ。とんだ不思議なバイトですよ、訳あって、まっとうに表の道を歩けない者のための、裏道案内だなんて。嘘をついていないかどうか見分けるのに、人の悩み事がわからなければ務まらないんですよね。あのとき、平林先生を気遣った自分を、過去に戻って殴ってやりたいくらいです」

「それは……」

「それに、今使っている仕事道具、仕様なのか、いまいち馴染んでくれないんですよ。おかげで手際が悪くて、勉強する間もないんです。だから私のために現実的な裏道を教えてくださいよ。試験の問題を見るなんて簡単でしょ?」

「そ――」

「なーんて嘘ですよ! 後ろめたいことをすると、自分が仕事でドツボにはまりますから結構です」

「……」

「話し戻しますけど、今から大学に戻って帰ると、往復で二時間かかりますよね。私が直通の裏道を作ってあげますから、浮いた時間だけ個別指導してくださいよ」

「そ、それなら、まあ……」


 結局、その日以来、日曜日は彼女と図書館で落ち合うのが習慣になった。言っておくが、約束をしたわけではない。


 彼女の名前は聞いたことがあるはず、だが思い出せない。長谷に聞けば一発で解決するのだろうけど、学校での接点が無い僕らにとってそれは不自然極まりない。春先のことを今更むし返してたずねるなど、長谷に面白いネタを提供するようなものだ。それに、後期が始まり、長谷を学内で見かけても、彼女と一緒にいたためしがない。それどころか、彼女自身を学内で見かけないのだ。授業を覗いても探し出せない。


 どうやら、彼女の顔は覚えたが、即座に見つけられるほどの運命的なものは、僕らの間にはないようだ。


 残るは、気が進まないがこれしかない。


 僕がその店の戸をくぐったのは、金曜日の夜、九時を回ったころだ。

 戸を開くときも、店の廊下を歩いていても、「なんでお前がここにいる」と、語りかけてくる周りの風景を軽く流し、廊下の奥の引き戸を開けると、もわっとした霧に襲われた。


 入って左に高座の番台。板張りの広い空間に置かれた荷物置き場とその奥の部屋に通じるガラス張りの木戸。漂っている霧といい、昔の銭湯のような場所だ。


「なんでここに? 絶対に来ないと思いましたよ」


 高座から彼女の声がかかった。見上げると、絶対来ないと思っていたという割には楽しそうな顔をしている。


「先輩、私の周りをウロチョロしすぎです。隠れる私の身にもなってくださいよ」

「なんで隠れるのさ」

「私たちが現実世界でかかわる必要ないからです、そうでしょ?」

「……何時までここにいるの」

「人の話聞いてませんね。もうすぐ帰ります。あと一人帰ってくれば終わりなんです、ほら」


 部屋に充満する霧が一段と濃くなった。別室を隔てるガラス戸が開いたからだ。出て来たのは、帽子を目深にかぶりうつむいた男性。顔は帽子で半分隠れており、さらに、それを手で押さえているため腕でも顔が隠されている。絶対に顔を見せたくない、という意思が現れた仕草だ。


 裏道は、ただ単に早く物事を達成したい人から、誰かを貶めたい私利私欲が絡んだ思いを抱く人、犯罪すれすれのことを成し遂げたい人、利用者は千差万別。だが、少なくとも、表に胸張って理由を言えない者たちであることは間違いない。コイツがここに来た理由は一体なんだ?

 思わず凝視してしまった僕の腕を彼女は引っ張り、こそっと「見るなんて失礼!」そう言った。

(そういえば、そんなルールだった)

 思い出して慌てて目を逸らすと、その男性は番台に鍵を置き無言で出て行った。


「さ、帰りますよ。てか、早く出てください、そして離れて歩いてくださいね」

「なんでさ、この前みたいに送ってくれれば……」


 送ってくれればいいと言いかけて、口をつぐんだ僕に、ニヤリと彼女は笑った。送ってくれ、とは、セリフが男女逆だ。


「この前は、私が先輩をお客さんにしたから。今日は違うでしょ?」


 僕が外に出て二十メートルほど歩くと、後ろで戸が閉まる音に続いて鍵の落ちる「カシャ」という音がした。この春先までは自分がしていたことだ。詳細を少しずつ忘れてはいるが、耳に染み付いた音の記憶は忘れないようだ。

 僕が歩くスピードを緩めれば、彼女もそれに合わせる。距離は永遠縮まらない。すると、肩を誰かに叩かれた。

(まさか、彼女?)

 そう思い振り向くと、別の研究室にいる同期だった。その同期のせいで歩みが遅くなった僕を、彼女は何食わぬ顔で通り過ぎて行った。今の僕が話しかけないとわかってのことだ。まあ、電車は同じなのだから、ホームで追いつけばいい。


 しかし、踏切手前まで来た時に、音が鳴り遮断機が下りた。しかも、両方面の電車が同時に来てしまった。ホームごとに改札が異なるその駅、逆方面の同期は慌てて改札をくぐり電車に飛び乗ってしまった。再び、踏切が開くと、当然のことながら僕の方面のホームには誰もいなかった。

(あいつ、本当タイミング悪いな)

 彼女に追いつけなかった不満を同期に擦り付け、ただ次の電車を待つばかりだ。


 複雑な気持ちで地元の駅の改札を出ると、何故だか彼女が正面に立っていた。意図せず駆け足になり、自然と彼女の前に進み出てしまった。


「ここで待つくらいなら、何も距離を置かなくてもいいんじゃないのか」

「何を言ってるんですか。大学では赤の他人ですからね。そんなことより……」


 そう言って彼女が取り出したのは、四角く固い素材でできた手のひらに収まるサイズの箱。中央には線が入っており、そこから二つに割れる。中は柔らかい素材でできており、そこに、依頼人の条件や願望などもろもろ詰込み、鍵の型をつくる。最後に依頼人が代金を支払い、それを型に流し込み、依頼人専用の裏道の鍵を作る。今は彼女が、そして春先までは僕が使っていた『不定形ふていけいかぎ鋳型いがた』だ。


「この鋳型、使い勝手が悪いんですよ。他の道具も同じです。前の持ち主が私を完全に信用してくれないと、彼らも私を信用してくれず、身をゆだねてくれないんですって」

「で?」

「だから、私を信用していると態度で示してください、先輩」


 そう言って彼女が差し出したのは、四本のペットボトル。ラベルは全て剥がされ、キャップの上は黒く塗りつぶされていた。ボトルの中身は、『白』『黒』『オレンジ』『無色透明』。しかも、無色透明のボトル以外は全て量が三分の一しか入っていない。つまり、すでにふたが開けられている。


「さて、先輩が飲むならこの中でどれを飲みますか?」


 ―――――


 五分後、駅の改札近くにある小さな噴水の周囲に腰を掛け、僕はうな垂れていた。そして、その隣では彼女がクスクスと笑っている。


「いやー、面白かったですね。まさか、三本飲むとは思いませんでした!」


 うなだれている僕に、彼女は『天然水』のペットボトルを差し出した。

 色のついた飲み物を三本飲んだ僕は、水分でお腹は膨れていたが、口の中の奇怪な後味と、胸の気持ち悪さを拭い去るのに、水を飲まずにはいられない。


「なんだい、あの飲み物は……」

「力作ですよ。白いのは豆乳と飲むヨーグルトにプロテイン。黒はコーラとコーヒーにオイスターソース。オレンジはオレンジジュースに砂糖を限界超えて溶かしました、ジャリッとしてたでしょう? 電車一本分の時間の割には、随分工夫したと思うんですけど」

「それで、君は満足かい?」

「ええ、とりあえず先輩の心意気はわかりましたから、もういいです。道具の調子はまた仕事のときに確かめますよ」

「きみ、今の仕事、続けるの? だれか、代わりは――」

「押し付けますか? 自分にされたことをそのまま?」

「それは――」

「まあ、私も二十年近くやったら先輩みたいに思うかもしれませんね。ただ、今は別に構いません。意外と面白い事もあるんです」

「僕がしていたときは面白いなんて思わなかったけど?」

「そうですか? 私、昔から人の考えてること、特に困っていることは手に取る様に見えたんです。でも、誰かれ構わず助けると自分が酷い目に遭うと学習してからは、我関せずを貫きました。ここではそれが仕事で報酬ももらえる。しかも、人の二面性も見れて人間観察にはもってこいですよ」

「いや……」

「あの時、思わず平林先生に、バイトのことを聞いた私のミスですよ、気にしないでください。」


 そう言って立ち上がった彼女は、人一人分空いていた距離を詰めて、僕の近くに座りなおし、右側の髪の毛をかき上げた。


「私、毎週日曜日に図書館にいますから」

「それで?」

「いついなくなるかわからない、行方不明になるかもしれない、私の生存確認してくださいよ。どこにいるか見当つくのも、道具を使えるのも先輩だけでしょ?」


 困ったことに、今の彼女の思考だけは嫌になるほど見て取れる。そんな能力、この春で手放したと思ったのに。いや、これは彼女の表情がわかりやすいだけだろう。


「「私が仕事している間は、危なくなったら助けに来い」」


 声がハモった。


「正解です、先輩。私この仕事辞めませんから、よろしく」


 そう言ってさっさと帰って行く彼女の後ろ姿を見送ると、肝心なことを忘れたのに気付いた。


「名前、聞き忘れた……」



 一カ月、二カ月経ち、さらに一カ月経っても、彼女の仕事は完璧で、助けに行くなんて羽目にはなりはしない。おまけに、僕が学会とその準備で大学にこもり切り、一カ月くらい図書館に行かない日もあったが、べつにそれを咎められることはなく、彼女の名前もわからずじまいだった。


 関係が変わったのは年を越して二月。もうすぐ彼女に仕事を押し付けて一年経とうという時だ。大学は後期の授業とテストが終わり、今は入試シーズンだ。しかし、それの合間に学生には『追試』が待ち構えている。

 それは、追試者の学籍番号を貼りだす掲示板、そこに朝早くに後期の結果を貼りに行ったときのことだ。今日は土曜日、朝早いにもかかわらず、一人の生徒が立っていた。


「君、どうしてこんな時間に?」

「げ、平林先生。今日はこれから仕事なんです。だから、結果を先に見ようかと思って……」


 彼女の視線の先には僕の持つ追試者の紙。彼女の成績は知らないが、前期で追試、なら後期もその可能性はあるかもしれない。僕の持つ結果の紙には十名の学籍番号が書かれている。鍵でガラスケースを開け、紙を張ると、彼女は顔をひきつらせた。


「どうしたの? 追試?」

「……また教えてくださいよ」

「追試なんだね。一体、毎週日曜は何を勉強してるんだい?」

「仕事の下調べですよ。本当にまずい時は勉強しますけど……。有機化学はどうしてもだめなんです。他は追試なんてないですから!」

「まあ、いいよ。また明日ね」

「はい!」


 そう答える彼女は普通の生徒と変わりがない。そして今の会話もごく普通だ。ましてや彼女と明日をきちんと約束する日が来るとは思わなかった。研究室にもどり、前期にあった実習の発表資料を見返し、思わず口元が緩んだ。院生に「変なものでも食べたのか」と、言われもしたけど、今は気にならない。明日の彼女の反応が楽しみだ。


「あ! 先輩!」


 早めに図書館に行くと、彼女は列に並ばず待っていた。約束をしているという意識が彼女にもあるのだろう。彼女はそのまま図書館の列に並ぼうとしたが、今日はそれだと都合が悪い。


「今日は図書館じゃなくてその辺のお店にしよう。いくら勉強を教えると言っても、図書館じゃ迷惑になるよ」

「それもそうですね。前期のときみたいにロビーは邪魔ですもんね」

「どこがいい? 井川いがわ沙良さらさん」


 昨日の僕の予想では、驚いて、職権乱用とでも言いだすかと思った。でも、彼女、井川さんは口を開けて驚きはしたものの、「追試者で分かったんですか? やっとですね」と、すぐに笑った。


 名前が分かれば彼女は隠れる気はないようで、四年になってからは長谷と一緒にいる姿をよく見かけるようになった。相変わらず連絡先は知らないし、学内では話もしないけど、僕は貴重な休日を彼女と過ごすことがほとんどで、彼女の仕事を心配するようになったのには驚きだった。


 何度目かは数えてないけれど、ファミレスで彼女の仕事の相談をされた時、いつも誰かが注いだ飲み物は水しか飲まない彼女に、温かいミルクティーを持って行ったことがあった。テーブルに置いて気付いた僕は、別のを持って来ると席を立とうとしたが、彼女はそれを止めた。


「平気ですよ。ミルクティー好きだって前に言いましたよね。ありがとうございます」

「自分で淹れたものじゃないのに?」

「だって、先輩が淹れたんですよね? 何の問題もないですけど」


 そういって平然と口をつける彼女をみて、柄にもなくうれしくなった。しかし、彼女は一口飲むと、少し顔をしかめた。嘘だ、何もしてはいないぞ。


「先輩これ……」

「え、普通に淹れたはず――」

「甘すぎます、一体砂糖どれだけいれたんですか?」

「スティックシュガー四本?」

「は? 先輩どれだけ甘党なんですか! 私は一本で十分です!」


 そう言って飲み干した彼女は、カップを突き付けてきた。


「もう一回!」

「……ふっ、はいはい」


 二杯目はお気に召したようで何も言われなかった。その後彼女が僕に入れてくれたミルクティーは四本分砂糖がいれてあり、それを平然と飲む僕を信じられない顔して見ていた彼女の表情は、今までで一番嘘偽りない、面白い顔だった。


「四本じゃ足りないかも、もう一本入れようかな」

「一緒にいるときにそれやったら、これからも全力で止めます」

「これからもねぇ。そういえば、前の砂糖を溶かしたオレンジジュースは、意外といけたよ」

「うげ」

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