第8話 帰還

数ヶ月前、いや半年?一年前だったろうか。

台風が来た。


上流のダムは水位の調節のために、吐水量を増やした。

大雨が降ると毎回それを行う。


サイレンが鳴り、水位が上がるので川から出るようにとスピーカーから録音されたメッセージが流れる。


そうなのだ。


水位が上がる。


雨の日に川を見ると、最大で1メートルほど水位が上昇しているのを何度か見た。


いま、自分が立っている川岸はその時は水没している。

その時、ここは川の中なのだ。


今、雨が降って来れば逃げ場がない。


空を見上げる。


曇天。


重く厚い灰色の雲が空一面に覆いかぶさっている。

今にも降り出すかもしれない。

風には雨が降る前特有の湿り気が感じられる。


時間がない。

急がなくてはならない。


しかし何を急げばよいのかがわからない。





結局最初の看板までもどってきた。


ここに来るのは何度目だろう。


総合病院とここの間を何往復したのか、もはや覚えていない。


くたびれた。


座り込む。


座るのは良い。


立っているより、川に落ちる可能性は低くなるだろう。


何故今まで座るということをしなかったのか。



腰を下ろしてみて、その理由がわかった。


水面が近いのだ。


視界が低くなり、水面がまるで襲いかかってくるかのように感じて、急いで立ち上がる。


立ち上がった瞬間、立ちくらみが起こり川の方によろけてしまい、恐怖を感じる。


今まで座らなかったのは、こうなることがきっと本能的にわかっていたのだ。



困った。


座れないとなると、急に足が重く感じ始めた。


腰を下ろして足を休めたい。


もう何時間も立ったままだ。


いや、何日もそうしているように思う。



途方に暮れる。


そういえば、病院とここの中間くらいに大きな岩があった。

あの岩に座れば、視界を高い位置に維持したまま足を休めることができるだろう。


また歩き出そうとして、どこかで何か聞き覚えのある声を聞いた。



なんだろう。

思考に薄い膜がはり、考えがまとまらない。


なにかの鳴き声だ。


耳に響いて神経がざらつく。


しかし、同時になにか懐かしい。

これを無視してはいけないという気がする。


声はどこから聞こえるのか。


上だ。


あの看板の裏から聞こえる。



その時


看板の下の潅木ががさりと揺れたと思うと、そこから茶色い何かが飛び出してきた。





犬だ!

芝犬だ!

見覚えがある。


そうだ、芝犬の散歩の途中で看板を見つけて……

芝犬は怯えた目をして、尻尾を力なく下ろしながらも私に飛びついてきた。


足元に立ち、見上げている。

その表情は、早くここから出ようと懇願しているようだ。


犬が降りてきたところを見やると、かすかだがまだ判別が可能だった。

灌木に隙間が出来ている。


私は芝犬を抱え上げると、潅木に頭から突っ込んだ。




気がつくと、コンクリートの階段の上にいた。

残りの数歩を駆け上がり、道路に出た。


膝がガクガクと震えている。


目の前にはいつもの日常の風景が見える。


通りの向こうでは自動車が走っている。


学生たちが数名、自転車を漕いで目の前を通り過ぎた。


腕の中で芝犬が暴れて、地面に降りようとしている。


見ると、リードが切れていた。


リードは川に降りる階段の横のガードレールに結わい付けた筈だ。


繋がれていたリードを噛みちぎって助けに来て来れたのだ。


後ろを振り返ってリードの先を確認する勇気は出そうになかった。


両腕の中の愛犬を強く抱きしめた。

犬は嫌がってもがいたが構わず力を込めた。

あれほど、川を嫌っていたにもかかわらず助けに来て来れたのだ。


私は後ろを振り返らず、川が視界に入らないように自宅へと向かった。


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スーホ @suho48

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