第7話 星
私は歩きながらさっきの二人のカヌーを思い出していた。
あの二人は救命胴衣を着けていたかどうか。
付けていたような気がするが、普段着だったような気もする。
二人の顔はよく覚えている……
いや、思い出せない。
目はあった。
鼻も口もあった。
当然だ。
だが耳はどうだろう。
髪の毛で隠れていたかどうかも出てこない。
目や口の形は思い出せる気はする。
しかし顔全体としてはぼんやりとしている。
私は人の顔は覚える方だという自覚はある。
それなのに、今は全く自信がなくなっていた。
この川岸ではすべてが曖昧だ。
空を見上げた。
星が見える。
しかし、さっきまで見ていた大熊座はどこにもなかった。
カシオペアも無い。
星は見えるが、星座として知っている形は何も見つからなかった。
あの二人はどうしてこの川に居たのだろう。
今日は平日なので、週末が休日ではない仕事の上司と部下だろうか。
同僚かもしれない。
何にせよ休日が同じ二人が、釣りでも楽しもうと思ってこの川の上流から川に入っていったのだろう。
私は二人が、後にこのような事態になってしまう事も知らずに川にカヌーを浮かべている姿を想像した。
二人が川に入った場所は『あぶないかわ』
ではなかったのだろう。
どれほど上流に行けば、普通の川になるのだろうか。
やがて二人は川を下り始めたのだろう。
そして気付くのだ。
自分たちが取り返しのつかない処に来てしまったのだと。
どうして『あぶないかわ』
にいると気づいたのであろうか。
私はあの看板だ。
あの看板がすべての元凶のようにも思えるが、事はそう単純ではないのだろう。
あの二人も私が見たのと同じ看板を見たのであろうか。
私はまだ川岸に居るだけマシにも思える。
あの二人はこの川の上に浮いているのだ。
おそらく身動ぎ一つ許されないであろう。
この悪意に満ちた川の上では、あの頼りないカヌーは少し揺れただけで容易に転覆してしまうだろう。
私と違い、二人というのはうらやましくもある。
話し相手がいるという事のなんと素晴らしい事か。
しかしあのカヌーの上での会話は危険だ。
川に潜む何者かに常に聞かれている。
カヌーの底を少し押されただけで、もういけない。
現に二人は声を出さなかったではないか。
それでも二人というのは良い。
一人ではないという、厳然たる事実はどれほど心強いだろう。
二人に出会ってから、私は独りぼっちだという事を強く認識していることに改めて気づいた。
さらに思う。
あの二人は、いったいどんな気持ちで川を下っているのだろうか。
私の様に、川岸を上流に行ったり下流を見に行くなどの自分で判断して行動することが許されない。
一方が置かれた状況に耐えきれずに暴れてカヌーを転覆させてしまう事もあるかもしれない。
いわばザイルパートナーだ。
自分の命は相手が握っているが、相手の命は自分が持っている様なものだ。
二人のあの貌。
あれはかなり長い間、ああやってカヌーで流れている表情だ。
その間、まったく会話をしない事はないだろう。
少しは話もする。
きっと、こんなカヌー遊びなど来るんじゃなかっただの、どちらが言い始めたか等の口論もあっただろう。
たとえ、無事に現世に帰れたとしても二人は元の関係には戻れないだろうと思う。
もし私がそんな境遇に置かれたなら、相手だけこの隙間の世界に残して自分だけ助かる方法を探すだろうと思った。
先ほどは二人は心強いと考えていたが、いまでは真逆の事を考えている。
私は自分の考えがまとまらない事を自覚し始めていた。
また空を見上げると、やはり知らない星座が瞬いていた。
しかし今は何時なのだろう。
時間の感覚もとても曖昧だ。
あの階段を転がり落ちてから、まだ一時間ほどしか経っていないハズなのに、星が見えている。
いや、五時間以上は経過しているかもしれない。
そもそも星が見えているのに、足元の岩なども見える。
薄暗い感じはするものの、夜という程ではない。
そうか、今は黄昏時なのだ。
またの名を逢魔が時。
魔に出会う時間帯。
トワイライトゾーン。
その時間、空間の隙間に落ち込んでしまったのだ。
考えたくもないが、そうなのだ。
安物のテレビドラマでしばしば見かける、不思議な空間。
それがこの川岸なのだ。
この私がはまり込んだ隙間の世界は、ハッピーエンドで終わるのだろうか。
この川を下っていくと、『あぶないかわ』
から脱出できるのだろうか。
川岸に看板を見つける。
土のある小さな広場があり、よく見るとそこに小さな畑の残骸があった。
川の岸はたしか河川法かなにか行政が管理する土地だ。
個人が勝手に農地利用できるのだろうか。
いや、おそらく勝手にやっていたのだろう。
そして行政の注意が入り、その猫の額のような趣味の農園は放棄されたのだ。
大きな雨水をためる樹脂製の樽や、柵が朽ちている。
そういえば上の道路から何度か見た事がある。
地元民が勝手に作った畑を行政が咎めて撤去するように指示した看板。
畑があるのなら、この川岸に下りてくる道がある筈だと気づく。
この川に一般市民が入っていたのだ。
道と言う程、立派なモノじゃなくてもよい。
しかし、人がある程度の荷物をもって昇り降りする方法がある筈なのだ。
ある。
探すと川の堤防に急だが階段があるではないか。
なぜ今まで気づかなかったのか。
階段の下に行こうとするも、気づかなかった理由はすぐに分かった。
例によって不自然なほどに枝の硬い背の低い木が繁茂している。
そして階段は下の登り口と、上の降り口にトタンや木の板を何重にも打ち付けて封印されていた。
新たに見つけた行政が注意の為に立てた看板は裏側を向いていた。
表側は川の外、つまり川の外側に向けて建てられている。
裏向いた看板の表を見る事に抵抗がある。
この川岸に入るきっかけが看板をのぞき込むことだったからだ。
しかし、今はまた事情が違う。
この新たに見つけた看板を見なければならないという強迫観念に似た感覚がある。
もしかして、この川岸からの脱出方法が書いてあるのかもしれないのだ。
相変わらず足に絡みつく草と戦いながら看板の表にたどり着いた。
なかば恐れ、なかば期待で覗き込んだ。
看板は書かれた文字もほとんど判別できない汚れを袖でふき取り、なんとか読んでみる。
何のことはない。
記憶にある通り、すっかり朽ちていて半分は読めないが、ある日時を指定して、それ以降は強制撤去すると書かれてあった。
今の自分の境遇には何の関係性もない。
あれほど強かった強迫観念もどこかへ霧散してしまった。
まったく無駄な体力を浪費したものだ。
たかだか十数歩の移動が恐ろしく疲労を誘った。
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