愁いを知らぬ鳥のうた

ゆあん

愁いを知らぬ鳥のうた

 彼女の存在を認識したのは、残暑厳しい夏の終わりだった。駅の陸橋で、ギターを片手に一人歌っているのを目にした。

 ――うまくないな。

 それが私の第一印象だった。

 公の場で歌う人は珍しくない。政策としてストリートミュージシャンを誘致しているこの駅では、毎晩のように若者達が自分の存在意義を叫んでいる。彼女もそんな一人だと思った。ルックスが優れているわけでも、声が特別なわけでもない。垢抜けないワンピースが貧相な体を浮き立たせていて、人を惹き付けるものがない。事実、誰も立ち止まっておらず、置かれたギターケースに銭は入っていなかった。

 人に響くものを持っているかどうか。それはアーティストが備えていなければならないものだ。彼女にはそれが無いのだと。

 音楽業界で長く仕事をしていると、才能が開花する瞬間より、枯渇していく瞬間の方に多く立ち会う。人の才能はやがて枯れる。だから我々は、新しい蕾を探し回る。咲いてみなければどんな花なのかもわからない、そんな蕾を。そうして人々の心に届く花束を作り続けることが、自分の仕事なのだと思っている。その裏で見向きもされずに朽ちていく花に、目をつむりながら。私が彼女を摘みあげることは、ない。


 仕事に追われているうちに、二ヶ月が立った。終電で帰れば、夜風が身に染みた。こういう時、人は寂しいと思う。玄関を開けて冷え切った床を踏む、その瞬間を味わいたくないのだ。

 ――酒でも飲んで、温まって帰るか。

 そして陸橋に差し掛かった時、再びあの声が聞こえた。この時驚いたのは、彼女が未だに歌い続けているのだということよりも、私がその声を覚えていたということだった。

 私は彼女の前に立ち止まった。名も知らぬ歌だ。おそらく彼女のオリジナルなのだろう。ギターケースには変わらず何も入っていない。観客は、私一人だ。

 誰にも聞かれぬ歌にどんな価値があるというのだろうか。

 彼女は一体何のために歌い続けているのだろうか。

 私の中には関心とも言える疑念が膨れ上がっていった。こんな少女に惹かれるなんて、どうかしている。きっとそれも寂しい心がそうさせるのだ。

 自分の感性の歪みを放置しておくことは、音楽家にとって致命的だ。私は財布から千円札と、風で飛ばないようにと五百円玉をギターケースにそっと置き、その場から離れた。すぐに演奏が止み、「ありがとうございます」と聞こえたが、私は振り返らなかった。

 その晩、風呂に入りながら、彼女の歌を思い出していた。荒削りで、やっぱりイケてない。もしかしたら、リハーモナイズすれば、あるいはアレンジすれば。音楽脳が、勝手に作業をし始める。振り払うようにしてシャワーを顔面から浴びても、耳の向こう側であのメロディが鳴り続けていた。


 それからしばらくしたある日、手塩に掛けていたアーティストが活動休止を願い出てきた。彼は私が才能を見出し、デビューまで導いた一人だった。過去に有名番組とのタイアップ曲もあった。年齢を重ねるほど歌に深みも出た。反対に、ヒット作に恵まれなくなっていた。

「書けないんです」

 俯き、拳を握りしめるその姿を見て、私はそれを受け入れるしかなかった。

 また一つ、才能が枯れた。


 感傷にふける時、人は不可解な行動にでることがある。私もそうだ。私は再びあの陸橋にいた。目の前には彼女の姿がある。

 数曲、黙って聴いた。その間、立ち止まる人はいない。私だけが、彼女の観客だった。

 彼女が歌い終わるのを見計らってギターケースに札を置くと、彼女は演奏を辞めて「ありがとうございます」と言った。歌声とは違う、そのハスキーな声に、少しはっとした。

「素敵な曲ですね」

 有り体な言葉だった。それ以上、言えなかった。ここに来るまでにどんな矛盾があったのか、自分にはよくわかっている。

「そんなことを言ってくれたのは、あなたが初めてです」

「はは」

 不格好な愛想笑いしかできない。私は彼女を直視することができなかった。自分の価値観が認めないものに相対しているという事実が、不気味で、気持ちが悪かった。歪んでいる。私は今すぐにここを立ち去るべきだと思った。だが、次の彼女の一言で、私の足は再び動かなくなった。

「あなたが、最後のお客さんです」

 その一言は、私の好奇心を鷲掴みにした。それは今日の、という意味なのか。それとも金を払うのが私だけという意味なのか。私は好奇心に突き動かされ、初めてその時、彼女の顔を見つめたのだ。笑っていた。

「今日でこの場所ともお別れです」

 そういう彼女は、ギターをクロスで拭き始めた。弦を緩め、指板からボディに至るまで、まるで感謝するかのように、丁寧に拭いているのだ。

「活動拠点を変えるのですか」

 私は反射的に聞いていた。

「いいえ」

「ではなぜ」

 音楽家として、その探究心を抑えることができなかった。私は既に取り憑かれていたのだ。彼女が持つ、その不思議な魅力に。

「もったいない。続けていれば、きっと」

 私はそこまで言って、はっとした。それを彼女に伝えて、どうなるのだ、と。彼女の才能の蕾はまだ開いていない。そしておそらくこの先も咲くことはない。私の音楽人としての価値観は間違っていない。ならば、そんな期待をもたせるようなことを言うことに、どれほどの罪があるというのか。梅の木からは薔薇は咲かないのだから。

「優しいんですね」

 私がどんな顔をしていたのかは、見上げる彼女の表情が教えてくれた。彼女は優しく微笑んだあとで、言った。

「うたえなくなっちゃうから」

 その言葉の意味を理解するのに、どれほどの時間を要しただろうか。

「喉に、がんがあって。あした、入院するんです。手術したら、声を出すことはかなわないだろうって、先生が。だから、今日が最後なんです」

 彼女は言った。自分の声を、自分の唄を忘れないようにと、こうして毎日この場所に立っていたのだと。

「下手っぴだけど、好きだったから。忘れたくなかったから。声がなくなっても、きっと心の中で歌い続けると思う。けど、この声を誰かに届けることは、もうできないから」

 私はこの時、理解した。なぜ私が彼女に惹きつけられたのか。それは彼女の命が込められていたからなのだ。価値観を超えて、私の魂が、彼女の存在に揺さぶられたのだ。

「あなたはそんなあたしの最後のお客さんです。すみません、勝手に。気まぐれで来てくれただけだって、わかっています。押し付けがましいとは思うんですけど、でもあたし、あなたで良かった」

 名も知らぬ少女の、最後のコンサート。それが幕を引こうとしている。誰も知らないうちに散ろうとしている花が、目の前にある。ギターケースを閉じたら、終わってしまう。

 私は手伸ばし、ケースを掴んだ。

「アンコールを」

 驚いた彼女の瞳に、私が映っている。 

「コンサートなら、アンコールがないと。そうじゃなくちゃ、終われない」

 もしこれが、彼女の最後のステージなら、私にはそれを見届ける義務がある。おこがましいかも知れない。でも、それが責任だと思った。散っていった才能達を、見届けることができなかった、かつての私の。

「そう、ですね」

 彼女は柔らかく笑って、ギターを取り出した。ハーモニクスでチューニングをしながら、楽しそうに言う。

「アーティストなら、アンコールに応えないとですよね。じゃあ、一曲。何にしましょうか。と言っても、曲名も知らないか」

「それなら、あの曲を」

 私はあの日ずっとリフレインしていた曲を口ずさんだ。すぐに彼女が一緒にメロディを取った。私と彼女の、短いデュエットだ。

「それ、私もお気に入りなんです」

 彼女が深呼吸をする。アーティストとして、入っていく。

 私はスマホを取りだし、撮影ボタンを押した。この瞬間を逃してはならない。

 それに気づいた彼女が、私に言った。

「この曲は、あなたに贈ります。私にはもう必要がないから」

 彼女の指が、優しい前奏を奏でる。

「あなたの心に残って、あなたを通じて、誰かが再び羽ばたくためのエネルギーになれたら。そう願って、うたいます」


 翌朝。締め切ったカーテンから差し込む光が眼に眩しい。私は夜中、ずっと彼女のうたを聴いていた。そこには、名も知らぬ彼女の最後の輝きが、収められている。その想いが、込められている。

 私は電話をかけた。

 私にできることは多くないかも知れない。だが、できることはまだあるはずだ。私は届けなければならないのだ。

「今から会えないか。お前に、聴かせたいものがあるんだ」

 受話器の向こう側で苦しむ彼に、彼女からもらったエネルギーを。

 


 その後、彼女が現れることはなかった。

 彼女は本当に、声を失ってしまったのだろうか。

 それでも、彼女はきっと、こう歌い続けているのだろう。



 翼があるなら、なぜ羽ばたかないの。

 声があるなら、なぜ歌わないの。

 それさえあれば、どこへも想いを届けられるでしょう。

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