推しのコスプレしてたから「撮っていいですか?」って声かけたら上司だった時の話

@yu__ss

推しのコスプレしてたから「撮っていいですか?」って声かけたら上司だった時の話

 その直後、私は「血の気が引く」という言葉の意味を経験知として理解することになった。

 動悸がして、冷や汗が噴出するような感覚に襲われる。先ほどまでシャッターを切っていた手は震え、止めることができない。まるでコントロールが効かず、自分の体ではないかのような感覚に襲われた。

 不自然に喉が渇き、唾を飲み込む。震える膝が崩れ落ちそうになるのを必死にこらえる。自分の顔が笑顔を作っているのか、ただ筋肉が引きつっているだけなのか判断がつかない。

「……あの?」

 急に様子がおかしくなったことに疑問を持ったのか、彼女の方から声をかけられる。

 先ほどまで被写体にしていた大好きなRPGのコスプレをした彼女は、今はもはや完全に別人に見える。スマートフォン越しの彼女は相変わらず麗しいけれど、踏んではいけない大きな地雷にも見えた。

 その人は、百パーセントの確証こそないものの、恐らくは上坂かみさかさくさん。三十歳、大手食品会社勤務の主任。商品開発部の上坂チームのリーダー。将来を嘱望され、上司・同僚からの信頼も厚い。

 その上坂さんは、私の会社の上司だった。






 秋らしい茶色の脛丈フレアスカートと、灰色のカーディガンに身を包んだまま空いてしまった日曜日。

 埋めようと訪れた国内最大級のゲームイベントは、想像以上に大きな会場だった。

 幕張にある大きな会場内は、ブースに設置された照明やモニターの光がほぼ唯一の光源で、昨日、勢いで購入した最新のスマートフォンのカメラ性能を確認するにはもってこいの会場だ。

 何枚かの写真を撮ってみると、噂以上のカメラ性能には舌を巻いた。調子に乗った私はゲーム画面やブースの様子だけでなく、コンパニオンさんやコスプレイヤーさんに声をかけて写真に収め始めた。

 正直原作の作品がわからないものばかりだったけど、どの衣装も個性があって面白くて、それを素直に伝えると殆どの人が嬉しそうにしてくれた。だから私はますます調子に乗った。

 そこで、一人のレイヤーさんが目についた。


「わー、可愛いですね!」


 くるりと振り向いた彼女の顔色が少しづつ青くなっていくように見えたけど、会場内は暗いので多分気のせいだろうとその時の私は気に留めなかった。

 それよりも、その衣装に目を奪われた。

 それは私が大好きだったRPGの『魔術師と百合』シリーズの登場キャラの衣装。ずいぶん前に完結したシリーズだが、今でもマイフェイバリットといえる作品で、中でも推しキャラがこの。


「フィオですね! 可愛いー! 撮ってもいいですか!?」

「あ……はい」


 許可をとった私は、深緑色のローブの金髪美少女の格好をした美人にスマートフォンを向けてシャッターを切っていく。

 レイヤーさんはなんとなく居たたまれなそうにぼんやりと立ち尽くしていた。

 さっきまでの人たちは自然と決めポーズを取ってくれていたので少しだけ不思議に感じた。


「戦闘開始のポーズしてくれませんか?」

「あ、はい」


 私の声に、レイヤーさんは腰に手を当て、金色の髪をかきあげるポーズをとった。その姿が余りにも様になっていたから思わず「ふぉぉ」と口から漏れた。

 カメラとして使っているスマートフォンを再び覗き込み、彼女の麗しい姿を五百十二ギガバイトのローカルストレージに落とし込んでいく。


「いいですね! 可愛いです!」

「あはは……」


 レイヤーさんは苦笑いしながらも、キメ顔で私に視線を送ってくれる。

 完成度の高さに肉眼で確認したくなりスマートフォンを覗くのを一旦やめる。もう十年くらい前のRPGだけど、私の青春時代に好きだったキャラクターがそこにはいた。


「最高……」


 呟いてから、またスマートフォンを覗き込んだ。


「勝利のポーズも頂けませんか……!」

「あ、はいー」


 私の要望に、レイヤーさんは右手を顎に当ててキメ顔をした。


「ありがとうございます!」


 スマートフォンを覗き込みながらお礼を言うと、またしてもシャッターを切り始める。


「可愛い!! 最高です!!」


 私がそう言うと、レイヤーさんは一瞬キメ顔を崩して困ったように笑う。

 その瞬間、急激に脳が目を覚ました。

 よく思い起こせば、違和感は最初からあった。

 その声や雰囲気が、どこか覚えがあるような気がしていた。けれど私の知り合いにここに来るような人はいない。だから、脳は想像することをしなかったのだろう。

 しかしその顎に手を当てるポーズは、あの人が考えるときの癖だった。

 困ったような笑顔も、まさに上司の、上坂さんのものだった。

 上坂さんと思しきレイヤーさんは、私の十五万六千七百円のスマートフォンを向けられ、困ったようにポーズを決めている。


『君のような勘のいい……』


 脳内には好きな漫画のトラウマシーンがリフレインする。

 私はガクガクと震える唇で「ありがとうございました……」と言ってその場を離れることしかできなかった。






 私は上坂さんに憧れている。

 すらりと引き締まったスタイル、ブラウンがかったおしゃれベリショ、ナチュラルな仕上がりのメイクテクニック、完成度の高い顔のパーツ。

 そして何よりもその人間性が好きだった。

 私の仕事できる人のイメージって、自分にも他人にも厳しいタイプの人かと思ってたけど、全然そんなことはなかった。

 周囲と協調を大切にしながら、カドが立たないように上司に意見したり部下を注意できたりする。

 いつも余裕があって周りが見えている。

 口数は多くないけど、大事な時にはちゃんとサポートしてくれる。

 そんな人が本当に仕事ができる人なんだと、上坂さんは教えてくれた。

 そんな私の敬意は、趣味がコスプレだからって揺らぐものじゃないし、むしろ親近感が沸いた。意外な趣味には少し驚いたけれど。

 だから別に、内緒にする必要はないと思うけどなぁ……。

 と、そんなことを思いながら、ちらりと斜め前の椅子にかける上坂さんを伺う。

 シンプルな黒のスキニーに、同じくシンプルな白のブラウス。切れ長の知的な瞳がこちらに気づき、不思議そうな顔をする。


前野まえのさん?」

「あ、いえ」


 小さく首を横に振ると、主任は可笑しそうに微笑んで、口角の先にえくぼを作った。


「そうですか……では、朝会を始めましょうか」


 上坂チームの朝会は毎朝十時、週替わりの司会の挨拶から始める。今週の司会は私だ。


「あ、では、おはようございます」

『おはようございます』


 オフィスの横にある小さな執務スペースに集まった五人が、それぞれ会釈をする。


「では、アイスブレイクから……うーん、そうですね」


 挨拶の後はアイスブレイクという、まあ言っちゃえば雑談みたいなもの。場を温めてから会議を始めるための手法らしい。週初めくらいは話題があるのだけど、週末に近づくと話題が枯渇するのが定番だ。

 土日の話題といえばあれだけど、まあ私から話すわけにはいかないよね。えーっとどうしよう。


「あ、そういえば、スマートフォンを変えましたよ」


 と、自分のスマートフォンを掲げる。

「おー、トリプルカメラだ」「高いやつ?」「使いやすい?」と各位から声があがり、少し誇らしい気分になる。ふふん。


「噂通り、カメラ性能はすごいですね」

「おー、なんか撮った?」

「そうですね、家の周りの景色とか、あと」


 小さく唾を飲み込む。


「ゲームのイベントに行って、何枚か撮りました」


 そう言って、周囲の様子を伺うのと一緒に、上坂さんの様子も伺う。これくらいならセーフかなと思って話したけど、上坂さんの反応はとても意外なものだった。


「ああ、幕張の? ニュースで見ましたよ、写真見せてもらえますか?」


 とまあ、至極普通。もっと焦ったりとか、逆に『私も行ったんです』みたいな反応かと思ったけど。そういうのは一切なく、普段と変わらない反応をしている。

「これです」とスマートフォンのロックを解除して見せたイベントの写真。

「あー、暗いけどよく撮れてるねー」「色味がいいねぇ」「このコンパニオンさんかわいいー」と、まあ、上坂さん以外は概ね想像通りの反応。


 しかし上坂さんの反応だけはやっぱり意外で、「楽しそうですね」なんて妙に冷静なコメントをしている。んん……?


「では、そろそろ」

「あ、はい、じゃあ、業務報告に……」


 上坂さん? のコスプレ以外の写真を一通り見せたあと、上坂さんに笑顔で促されて業務報告に移り、その話はここまでになってしまった。

 昨日はほぼ確実に上坂さんだと思っていたけれど、やっぱり別人だったのか……? 確かにゲームの話題は聞いたことがない。

 それとも、やっぱり言いたくなくてごまかしてるだけ……? 確かに言いづらい趣味ではあると思うけど……。

 うーん……。

 とまあ、そんな疑問を抱えたままその週の業務はスタートした。






 そして、来たる土曜日。

 私は池袋にあるイベントスペースを訪れていた。

 あれから私は疑問を払拭するため、コスプレイヤーやカメコ用のSNSで「まえか」という名前でアカウントをつくり、『魔術師と百合』のフィオちゃんのコスプレをしているレイヤーさんを漁った。

 女性、関東近郊が主な活動場所、基本的に週末、という条件に合う人が何人か見つかったけど、写真を見てこの人しかいないという人を特定した。

 それが『心月しんげつ』さん。偶然かもしれないけど上坂さんの下の名前「朔」は新月の意味だと妖怪の漫画で読んだことがある。

 その心月さんのイベント予定、先週のゲームイベントで、今週はこの池袋でのコスプレイベントとなっていた。どうしても気になってやってきたけど、別にいいよね?

 というわけで、会場の屋外イベントスペース。

 会場自体は先週に比べるとずっと小さいけど、今回はコスプレ専用のイベントなのでスペース的には十分な広さだ。

 会場時間から少し経ってから入ったけれど、中ではすでにあちこちでシャッター音が聞こえていた。

 出入り口付近の噴水とか植え込みとかの映えそうなところを背景にレイヤーさんがポーズを決めて、カメラを構えた人たちが周囲を囲う。先週よりもスマホカメラの人がぐっと少なくてちょっとだけ恥ずかしいけど、まあ仕方ない。

 さてお目当ての心月さんはと会場を回ると、会場の隅の方でフィオちゃんの格好で歩いている人を見つけた。


「すいませんー」


 声をかけて近くによる。彼女の瞳が私を捕捉したことを確認する。


「心月さんですか?」

「はい……えっと?」

「先週撮らせてもらったんですけど、綺麗だなって思って!」


 と伝えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 やっぱり顔のパーツは上坂さんに似ている、ような気がする。もう少し普段のナチュラルメイクに近ければ確信をもてたかもしれないが、コスプレ用にがっつり盛っていてよくわからない。

 髪型はウィッグで隠されているし、体型もほとんどのレイヤーさんと同じく細身のすらっとしたタイプ。

 まあ、わからないよね……。


「撮らせてもらってもいいですか?」

「はい、大丈夫ですよ」


 声は、うーん上坂さんよりも少し高い気がするけれど、キャラに寄せて声のトーンをあげる人もいると聞いたことがあるしなぁ……。

 それに、もし上坂さんが内緒にしたいと思っているんだったとしたら、こんなにフレンドリーに接してくれるかなぁ……?

 よくわからないまま、とりあえず二人で隅の方によって撮影を開始した。

 カメラを向けると、また腰に手を当て、髪をかきあげるフィオちゃんの戦闘開始ポーズをとってくれた。うーん、やっぱりかわいい。


「かわいいですね!」


 と声をかけると、彼女は楽しそうに笑ってくれた。カシャカシャ。


「笑顔もかわいいー!」


 ただでさえ元から可愛いのに、笑顔なんて向けられたらそりゃあ可愛いだろう。彼女は照れたようにはにかむ。


「あー、その表情かわいいなー!」


 彼女はますます恥ずかしそうに苦笑する。やばい。どんな表情されても可愛い。

 というか楽しい。

 上坂さんだったら普段は絶対に言えないようなことがいくらでも言える。

「目元もキレーです!」「メイク上手ー」「まつげ長いですねー」などなど。

 会社ではどんなに思っていても口に出せないことが、次々に出てくる。


「足長いー」「スタイル凄くいいですね!」「小物へのこだわりを感じる!」「キャラクターへの寄せ方うまいですねー」「とにかく顔がいい!」「キャラ愛を感じる……」「目がすごく好き」「おでこも好き!」「指キレーですねー」「可愛さの中に美しさがある」「衣装の完成度高いですね!」などなどなど。


 半分くらいは私が上坂さんにぶつけたかった感情の吐露となっている。実際顔もいいんだよね……。

 私が声をかけるたびに、いちいち可愛らしい反応をしてくれるのも相まって、私は語彙の限りに褒めちぎった。


「背景に公国の王城が見えますね!」「一首詠みたくなる瀟洒なスタイル!」「涼やかな目元がローテンブルクの町並みを思わせてくれます!」「新緑の木漏れ日の中を歩いてる気分になれる小指の爪です!」「最高です!!」「最高です!!!」「最高です!!!!」


 結局私の語彙が枯渇するまで撮影は続いた。口を動かすのが楽しすぎて時々シャッターを切り忘れながら、時折何人か寄ってきては離れていく様子が見えたような気がしたけど、あまり気にしてる余裕はなかった。


「はー、ありがとうございました……」

「あ、こちらこそ……」


 やや呼吸を荒くしながら握手を求めると、彼女も困ったように微笑んで握手に応じてくれた。


「……すみません、調子乗っちゃって」

「いえ、そんな、私も楽しかったです!」


 ありがとうございました、と会釈して立ち去ろうとすると彼女は足元のバッグから一枚の名刺を取り出した。


「名刺です、よければまた撮ってくださいね」

「あ、ありがとうございます」


 手渡しで受け取ったコスプレ名刺には「心月」と書かれていた。

 受け取るときに、彼女は笑ってくれていた。カメラ越しでは気付かなかったけれど、口元には小さなえくぼができていて。

 それを見た私は、やっぱり上坂さんなんだと確信した。







 一人暮らしのマンションに戻り、ベッドに横たわったまま、受け取った名刺を電灯に透かす。

 特になんの変哲も無い、おそらく手作りの名刺。名前と顔写真、SNSのアカウントと連絡先が載っている薄い長方形の紙。

 今日のことで、私の中で心月さんは間違いなく上坂さんだろうという確信が持てた。

 だからこれ以上、心月さんにつきまとう必要はなくなった。

 上坂さんがどんな趣味を持っていても私には関係ないし、接し方が変わるわけではない。

 これまでと変わらず、仕事ができて尊敬できる上司として接するだけ。

 これでこの話はおしまいにしても良かったと思う。

 だけど、私はもう少し心月さんを追いたくなってしまった。

 彼女はまた撮ってくださいと言っていたし、私もまた彼女を撮りたいと思っていた。

 会社ではとても頼りになる上司で、イベント会場では可愛らしくはにかむレイヤーさん。

 充電ケーブルにさしたままのスマートフォンを手に取って、今日撮った彼女の写真をめくる。会社では見たことのない笑顔は、私にだけ向けられている。

 彼女のことが、なんとなく、心の中に焼印されて取れなくなってしまったような、そんな感覚。

 ブラウザを立ち上げて、彼女のコスプレ用のSNSを見ると、すでに来週も再来週も参加イベントの予定も決まっている。

 フォローボタンを押すと、しばらくしてからフォローバックの通知と一緒にダイレクトメッセージが飛んできた。


『今日たくさん褒めながら撮ってくれた方ですか?』

『はい、まえかと申しますー』

『今日はありがとうございました! 今日の写真で気に入ったのがあったらぜひあげてください!』


 そう言われて、先程まで眺めていた写真をアップロードする。

 すると心月さんから、『可愛く撮ってくれてありがとうございます!』と笑顔のついたメッセージが送られてきた。


『あと、たくさん褒めてくれて、嬉しかったです!』


 そのメッセージは、なんだか妙に心に引っかかるものがあった。たくさん褒められるなんて、上坂さんにはなんでも無いことの様に思えるけれど。

 ……来週はどんな言葉をかけてあげようかな。

 ブラウザを立ち上げて『褒め言葉』と検索して出てきた言葉の中に「君は特別だよ」という言葉が目についた。

 私は今日撮った彼女の写真を画面上に表示させる。

「……特別」

 うーん、よくわからないけれど、彼女は私の特別になってしまったのかもしれない。






 初めて訪れた会社のそばの古民家を改築した和食のお店は、ランチタイムのせいか、かなりの盛況ぶりを見せていた。

 うちの会社は社内食堂があるので、外で食べるのはたまーに客先に出たときくらいだけど、今日はちょっと特別だ。


「ランチは魚系と肉系が選べますけど、どちらにしますか? あとお味噌にこだわっているお店で、お味噌汁を赤・白・合わせからから選べるのですけど」


 目の前にかける上坂さんは、私の方にメニュー表を向けてくれる。


「うーん、肉かなぁ……、お味噌はどれがいいですかね?」

「どれもいいですけど、私は白が好きですね」

「じゃあ白にしようかな」

「おかわりもできますから、他のが気になるならあとで頂きましょう」


 そう言って、上坂さんは笑顔を向けてくれる。

 いつもよりフレンドリーな気がするのは、やっぱり心月さんだからなのだろう。

 上坂さんは私の分までスマートに注文をすませると、改めて私に向き直った。


「さて、前野さん」

「はい」

「……緊張してます?」

「あ、そうですね、少しだけ」


 私の返答に、上坂さんは手を口元にあてがって微笑む。

 今日のランチは、上坂さんからなにやら話があるからと誘われた。社食ではなく、他の社員のいない外で。一体なにを話されるんだろうか。

 まさか、コスプレのことだろうか? いやそれはないだろうけど、でもそれ以外にはあまり考えられないが……。


「えっと、単刀直入に言いますね」

「はい……?」


 こほん、と小さく咳払いをする。


「最近、困ったことがありませんか?」

「……?」

「ああ、ごめんなさい。最近の前野さん、少し元気がないように見えるから」

「あー……」


 なるほど、とりあえずコスプレのことではないらしい。いやまあ、私の中ではコスプレのことなんだけど。

 正直、私が元気がないのは、上坂さんのことを考えて寝不足だからということになる。なんとなく気になってSNSの履歴を追いかけたり、過去にあげたコスプレ写真を漁ってみたり、フォローを追いかけてみたり。

 そんなことをして何になるかはわからないし、意味があるとは到底思えないのだけど、なぜかやらずにはいられない。

 仕方なく睡眠時間を削っているのだけど……。


「いえ、ちょっと、最近気になることがあって……」

「へぇ……それは、聞いてもいいですか?」


 うーん、聞いてもいいかと言われればもちろん良いのだけど、貴女のことですと言うわけにもいかんしなぁ……。


「えーっと、このあいだ行ったイベントで知り合った人のことが気になっていて……」

「……はい」


 話し始めると、急に上坂さんが真剣な表情をしたから、こちらが逆に驚いてしまった。どう言うべきか少し考えてから伝える。


「すっごく可愛い人なんですけど」

「……へぇ」

「いや、本当に可愛い人で、私の推しキャラのコスプレをしてくれてるんですけど、それがすごく似合っていて」


 そこまで語ると、上坂さんは右手を顎に当てる。考えるときのポーズだ。


「スタイルも本当に良くて、メイクも上手で、衣装にもこだわりを感じて……」

「ふ、ふむ……」


 だんだんと心月さんというか上坂さんを褒めるのが楽しくなってきて、どんどんと伝えるのだけど、上坂さんの方をよく見ると唇がわずかに震えている。何かを我慢しているように見えるけど気のせいだろうか?


「性格も良くて、対応も良くて、笑顔が可愛くて、もっとたくさん撮影したいなって」

「そうなんですね……」

「いつか個人撮影に付き合ってくれないかなぁ……」


 上坂さんは口元に手を当てて、顔を斜め下に向ける。肩も震えているように見えるけれど……。


「あの、大丈夫ですか?」

「申し訳ありません、大丈夫ですよ」


 椅子に座りなおして体制を整え、再度こちらに向き直る。


「……なるほど、その方のことが気になっているんですね」

「ええ、それでその人のSNSを追いかけたりしていると、つい寝不足に……すみません」

「いえ……」


 そうですか、と呟きながら上坂さんは腕を組む。


「何かに取り組むのは良いことだと思いますけど、健康に支障がないようにしてくださいね」

「……すみません」


 申し訳なさで小さくなって謝ると、上坂さんは胸をなでおろすように小さく吐息を漏らした。


「……でも安心しました」

「え?」


 言葉の意味を聞き返そうと口を開こうとしたところに、店員さんが二枚のお盆を持って現れたため、この話はそこで打ち切られた。


「美味しそうですね、では頂きましょうか」

「あ、はい……」


 やや煮え切らないものを抱えながら始まった食事の最中、そういえばと上坂さんは切り出す。


「彼女にしてほしいコスプレとかあるんですか?」

「え、うーん……」


 どういった意図の質問かを掴みかねながら、素直に回答する。


「同じシリーズの、大きくなったシロちゃんとか似合いそうだなって思いますけど……」


 私の答えに何か満足したのか、上坂さんは柔らかに微笑んだ。






「上坂さんは、何か困っていることはないんですか?」


 食事を終えた頃に、ふと思い出して尋ねることにした。上坂さんはなんだか不思議そうな顔をしている。


「いえ、あの、私だけ悩みを聴いてもらうのも悪いかなって思って……」


 と言って、伺うように小首をかしげる。

 本当は少し前「コスプレする人の心理」みたいな言葉でググってみたのだけど、あんまり良くない結果が出てきたからだった。

 曰く「今の自分を否定したい」とか「自己満足度が低い」とか。仕事ができて周囲との関係も良好な上坂さんに限って、そんなことはないと思うけど……。

 でももしかしたら、家族仲が良くないとか、本当は仕事を辞めたいとかあるかもしれない。

 そう思って聴いたのだけど。


「うーん、今の所、前野さんに聴いてもらうような悩みはないですかね」


 全然的外れだったみたい。


「まあ、最近寝つきが悪いとか、目と肩が疲れているとか、そういうのはありますけどね」

 と、上坂さんは苦笑する。結構人並みの悩みを持っていることに少し驚いたけど、本当にそれだけなのかな。


「本当にそれだけですか? 例えば、うーん」


 何を聞こうかと、少し悩んでから出た言葉。


「何か、誰にも言えない悩みとか、抱えてませんか?」


 私が尋ねた瞬間に、ほんの一瞬だけ真顔になったのを、私は見逃せなかった。

 けれどすぐに先ほどまでと同じように苦笑して上坂さんは言うのだった。


「ないですよ、何も」


 その声音は、どこか底冷えするように冷たく響いた気がした。






 その週の土曜日は、同人誌即売会のイベントだった。屋内の会場で、大きめのイベントスペースを貸し切って運営されているらしい。レイヤーさんもそれなりにいるけれど、大半は本が欲しい人たちみたい。

 私の目当てはもちろん心月さんで、会場を歩きながらあちこちに視線を送っていると、


「まえかさん?」


 と声をかけられ、そちらを振り向くとお目当ての女性が立っていたのだけど、その格好が。


「シロちゃん……!?」


 私が先日上坂さんにリクエストした、フィオちゃんと同じ『魔術師と百合』シリーズに登場するシロちゃんだった。あまり手入れされていない銀髪に、フィオちゃんと同じく深緑色のローブと、それを飾るいくつもの褒章。


「……お探しなのは、私でいいですか?」


 恥ずかしそうに微笑みながら笑顔で問いかける彼女に、私は全力で首を縦に振った。


「心月さん……! その衣装は……!」

「あ、これは以前作ったものなんですけど、もしかしたらこっちもお好きかなと思って」


 心月さんはそう言って、くるりと一回転して見せてくれた。


「けっこう出来が良くて気に入ってたんで、また着たいなと思ってたんですよ?」


 もう一度、恥ずかしそうに微笑む彼女。


「かわいいです……、それはもうかわいい……」


 極まりすぎて泣きそうになるのを必死でこらえていると、彼女は可笑しそうに笑ってくれた。


「……気に入ってもらえて、よかったです」

「ええ、もちろんです!」


 いや、本当に可愛い……。ずいぶん前の作品だけど、プレイした当時の思い出が蘇ってきた。初めて感動して泣くということを体験した作品で、それ以来涙腺が脆くなった気がした青春の一ページ。

 そして何よりも、彼女が私の好みを汲んでくれたことが嬉しかった。

 この間の質問の意図がわかって、ついついにやけてしまう。


「いいです……本当に!」

「よかった……今日も撮ってくれますか?」

「ええ、ええ!」


 勢いに任せて何度も何度も頷く。

 相変わらず楽しそうに笑ってくれる彼女を見ていると、幸せな心地が溜まっていく感覚があった。

 と、私が幸福感に浸っていると、一人の女性が彼女の後ろから声をかけた。


「心月さーん」

「あー、みとさん、リザちゃん似合いますねー」

「ありです! 心月さんと合わせたくて頑張りました!」

「ほんとですか? それは光栄ですね」

「ほんとですよー、今日はシロリザで頑張りましょー」

「ですねー!」


 そう言って二人で笑いあっている。

 みとさんと呼ばれていた人は、同じシリーズのリザちゃんのコスプレをしていた。


「こちらは?」

「まえかさんです、撮ってくれるそうです!」

「おお、よろしくです!」


 彼女はにへっと人懐こく笑うと、握手を求めてきたので応じた。


「みとさんは私よりずっと有名なレイヤーさんなんですよ」

「そーなんですよー、私ちょっと有名なんです!」


 彼女は冗談めかして笑いながら、手を握ったまま楽しそうに上下に振った。


「撮影エリア向こうなんで、一緒に行きましょー!」


 と楽しそうに笑うみとさんに引っ張られるように会場の端っこまで移動した。すでにいくつかの囲みが出来ていて、私たちは端っこに移動した。


「シロちゃはやりたいポーズあります?」

「うーん、特に無いですけど」

「じゃあじゃあ、あのおぶるスチルでまずやりませんか?」

「了解ですー……いいですか?」


 と心月さんが私に水を向けたので、私も頷いた。「おぶるスチル」というのはゲーム内の名シーンの一つ。

 そのスチルのように、シロの格好をした心月さんが、リザの格好のみとさんに背中から覆いかぶさる。

 少しだけ中腰になったみとさんの後ろで、首から手を回しておぶさる様にする心月さん。


「どうですかー?」

「あ、えっと……かわいいですよ!」


 そう言ってから、私はスマートフォンのカメラを向け始めた。みとさんは無邪気に笑っている。


「いいですね……! とっても」


 声をかけながら何枚か撮影する。なぜかわからないのだけど、この間の様に沢山の言葉は出てこなかった。


「あ、じゃあ次は頬キスで!」


 みとさんはそう言いながら、くるりと振り返って心月さんと頬を合わせた。これは戦闘にリザとシロが参加している時の勝利ポーズ。ファンの間では頬キスと呼ばれる仕草。

 これもすごく可愛い。みとさんも、もちろん心月さんも楽しそうに笑っている。


「いいです! すごく可愛いです!」


 そう声をかけながらカメラを向けてシャッターを切っていると、カメラを携えた男性が近くに立っているのに気づいた。


「自分も撮影いいですか?」

「どうぞどうぞ!」


 と、みとさんが笑顔で応えると、男性は二人に挨拶をしてからカメラを構えた。

 暫く二人が頬キスのポーズをとっていると、また何人かのかめこさんが寄ってくる。みんな同様に礼儀正しくて、挨拶をして許可を取ってから撮影の囲みに加わる。


「じゃあ、連携技のポーズにしますねー」


 今度は二人で見つめ合い、両手を恋人つなぎにする。

 心月さんもみとさんも凄く真剣な表情で、お互いを見つめ合う。

 このポーズもやっぱり可愛くて、周囲の囲みからはシャッター音が何度も何度も鳴り響く。

 私も負けずにシャッターを切り続ける。囲みはずいぶん大きくなって、十四・五人くらいの規模になった。

 沢山のシャッター音とフラッシュの中で、上坂主任はみとさんと見つめ合っている。


「……ありがとうございました」


 小さくつぶやいて、私はその場を離れた。






 カロリーのことを気にせず鳥の唐揚げを食べ、生クリーム系の甘い物を食べ、お風呂に持ち込んだタブレットでお気に入りの動画を再生することで、私はストレスに対抗出来ることを知っている。

 十分に自分を甘やかしてから、お風呂の中で今日の出来事を反芻した。

 シロちゃんのコスプレをしてくれた心月さん。それがすごく嬉しかったのは間違いないのだけど。

 みとさんに話しかけられて、沢山のカメコさんに囲まれて、心月さんは輝いていて。私は逃げるようにその場を離れてしまった。

 意地を張って、そういうんじゃない、と言いたいところだけど、そういうのなんだと自覚していた。

 ……まあつまり、寂しくなってしまった。

 私だけが知っている上坂主任の秘密は、心月さんになればみんな当然のように知っているわけで。

 心月さんとしての上坂さんと私の関係なんか、まだ数回程度しか会ったことのない仲なわけで。

 私よりも仲良しの人はいっぱいいるわけで。

 でも私には、あの会場での知り合いは一人しかいない。

 やりたかったことも、心月さんと会って、心月さんとお話しして、心月さんの写真を撮って、それくらい。

 はー……。

 まあもちろん、誰かが悪いってわけでもなくて、勝手に期待して勝手に落ち込んでる私がいるだけで。

 だからまあ、一人で落ち込むくらいのことしかできないのも仕方ない。誰かに言うわけにもいかないしね。

 防水ケースに入れたスマートフォンで、今日撮った写真を見返した。楽しそうに触れ合う二人を見ると、また少し心臓の辺りにストレスが溜まった心地がする。

 みとさんはさすが有名を自称するだけあって、顔は可愛いし衣装のアレンジも上手い。自分の魅せ方をよくわかっている人だと感じた。

 けれど私から見たら心月さんの方が絶対に魅力的だし、心月さんの方が絶対に可愛い。

 それは多分にひいき目が含まれていることも自覚している。だって私にとっては、やっぱり心月さんは特別だから。

 そう、心月さんは私にとっては特別で、少し遠い人なんだ。

 だから少し寂しいけれど、少し離れたところからこれからも応援しよう。

 ずっと知らない振りをして、彼女が活動を続ける限りエールを送り続けよう。それがきっと、私が心月さんのためにできる最善のことだろう。

 心月さんはレイヤーさんで、私はいちファンで。

 そう考えると、自分の気持ちが少し整理できた気がした。

 来週も心月さんの写真が撮りたいと、素直にそう思えた。

 スマートフォンを操作してブラウザを立ち上げ、心月さんのSNSを覗く。少し見るのが怖かったけれど、今はフラットな気持ちで見ることができた。


「……え」


 思わず口から漏れた声は、静かな浴室に反響する。

 今朝まで入っていたはずの、来週以降の彼女の予定がすべて消えていた。






『リアルが忙しくなってしまった』という活動休止の理由は、いちファンとしては納得できなかったけれど、何かすることもできなかった。

 会社での上坂さんには特別な様子はなくて、いつも通りの理想的な上司だった。それだけに私には、活動休止がどうしても理解できなかった。

 すでに定時もだいぶ過ぎて、オフィスに残る人影もまばらになっている。

 この日も私の意識は心月さんのことばかりに囚われていて、まともに業務にならずにいた。

 その心月さんは私の斜め前のデスクで、何やらカタカタとキーボードをタイプしていた。今日もカッコいい。


「前野さん?」


 視線に気付かれていたのか、不意に上坂さんに声をかけられた。

 微笑むような口角の先のえくぼは、心月さんと同じものだ。


「いえ……すみません」


 と謝罪の言葉を口すると、上坂さんは眉根を寄せた。

 そのあと、何か言いかけたように口を開き、また閉じて、苦々しげに俯いた。

 その表情を見ていると、やはり何かあったのだろうかと感じてしまう。

 ……力になってあげたい。

 もういっそ訊いてしまおうか。いやでも、私が知っていることを話さないと……。


「少しだけ、良いですか?」


 と、顔を上げた上坂さんに問われた。

 悲痛なという表現が多分一番しっくりくるだろう。そんな表情に向かって頷くと、上坂さんは会議室に向かう。

 私も後を追った。



 広い会議室の奥、隠れるように隅っこで二人で立っている。


「伝えたいことがあります」


 と上坂さんは切り出した。いつもの様に優しげな笑みをたたえているけれど。


「もう気付いているかもしれませんね」


 そう言われたことで、彼女が何を話そうとしているか察しがついた。


「……心月さんのことですか」


 そう呟くと、上坂さんはその表情のまま頷いた。


「……私が、心月です」

「……活動休止の理由を、聞いてもいいですか」


 主任が頷いて「ごめんなさい」と小さく呟いて俯いた。


「私は、貴女を傷つけてしまいましたね」


 ……?


「私は、貴女を騙していました、貴女に褒められるのが嬉しくて、つい貴女に言えなくなってしまっていました」


 俯いたままに語る顔には、後悔の色が強く出ている。


「貴女を傷つけてまで、私はレイヤーを続けるつもりはありません」






「……違います!」


 我慢ができなくなり、彼女の言葉を否定した。


「騙していたのは私の方です!」


 躊躇いながら、低い位置で組んでいた彼女の腕をとる。


「最初から、わかってたんです、初めて撮った日から、ずっと……!」


 顔をあげた上坂さんの表情にはみるみるうちに困惑が広がっていく。


「最初からわかっていて……でも言い出せなくて……」


 私の告白に、主任は表情を失っていく。


「いっぱい、褒めてくれたのは、嘘ですか……?」

「……嘘じゃないです! 本心です!」


 それだけは信じて欲しかった。何を伝えればその気持ちが伝わるだろうかと考えたけれど、上手く纏まらない。


「だって、あの、主任が好きなんです……」


 纏まらないまま出た言葉は、自分でも意外な方向に進んでしまうけれど、止められなくなった。


「好きなんです……! 特別なんです……!」


 この言葉がどこから出ているのかわからない。けれどどこか冷静な部分で、これが本心なんだとわかっていた。

 私は、この人が好きなんだ。


「だから……やめてほしくないです……」


 届け届けと、腕を握る手を強くする。けれど彼女は益々顔を伏せる。


「もしも私が邪魔ならもう付き纏いません、主任が嫌なら会社も辞めますから……だから、お願いです……」


 懇願する声は届いて欲しいと願いながらも掠れてしまう。

 幾許かの沈黙の後に上坂さんはわずかな声量で私に告げた。


「……少しだけ、時間をください」


 主任の短い前髪でも目が隠れてしまうほど、俯いたまま震えていた。






 翌朝はベッドから起きられず、結局いつも家を出る時間になっても体が動かなかった。

 ストレスに対抗するための処置を取ろうにも、それをできるほどの気力も湧かなかった。

 わずかに残った義務感で社用スマートフォンから体調不良で有給取得を取得する旨を送信すると、ベッドの中から適当に放り投げた。

 あー、しんどい……。まあ私が悪いんだけど。

 気付いてないふりして、黙ったまま近づいて仲良くなろうとするとか、悪意があると取られても仕方ない。実際、最初は興味本位だったし……。

 ていうか、もっと早く好きだって気付いてればこんなことにはならなかったんだよ……。

 もっと心月さんとの距離を縮めて、主任とも二人でご飯を食べに行くくらいに仲良くなって、「もしかして……心月さん?」みたいなイベントをこなしてから、ちゃんと告白するみたいな計画が練れたのに。

 結局告白する時に好きだって気付いて、よくわからないままふられてしまった。

 もっと心月さんを撮りたかった。

 ただのいちファンとして、もう少し活躍を見ていたかった。

 結局、心月さんが活動を再開する見込みもないし、主任に近づかない約束もしてしまって、ついでに会社も辞めなければならないかもしれない。

 あー、しんど……。

 一夜にして色々と喪ってしまった。

 胃も痛いし、胸もなんか苦しい。

 とりあえず二度寝しよう……。



 何かの音で目を覚まし、私用の方のスマートフォンを確認する。時刻は昼前、特に着信はなくて、スマートフォンの音じゃないことがわかる。

 ぼんやりした頭で社用の方かもしれないと思い至るが、起き上がるのが億劫でゾンビのようにベッドから這い降りた。

 ずるずると足を引きずりながら移動して、眠る前に投げたスマートフォンを手に取って通知を開く。


『saku_kamisaka:今から行きます』


 メッセージを二度見してから、唾液を飲み込んでむせると、スマートフォンが震えた。

 画面に表示される「saku_kamisaka」の名前と受話器のマーク。小さく息を吸い込んでからタップして耳に当てる。


「あの、前野です」

『ああよかった、上坂です』


 電話越しに聞こえた、上坂さんの声。とても落ち着いていて、安心する声音だ。


『今、駅にいます。お邪魔してもいいですか?』

「……あの、本気ですか?」

『……はい』


 上坂主任がなんの考えもなく、理由もなくいきなりこんなことをする人ではないことは知っている。

 だからきっと、深い考えがあるのだろうけど……。

 私は手短に家の場所とマンション名を告げる。


『……ありがとう』


 そう告げられて切れた電話を数秒見つめてから、慌てて掃除を始めた。

 困惑と不安もありながら、主任が訪ねてくれた喜びと期待も少しずつ芽生え始めた。



 数分後に到着した上坂さんを部屋にあげると、なぜか上坂さんは黒い大きめのスポーツバッグを両脇に抱えていた。

「ちょっと待ってくださいね」と告げられると、バッグから取り出したネット? を頭に被せ、同じく取り出した鏡を見ながらメイクを始めた。


「……あの、上坂さん?」

「……待ってて」


 そう言われて、結局何も言えなくなってしまい沈黙が訪れる。

 床に置いたクッションに座りただじっと待っていると、次にバッグから取り出したのは。


「あっ……」


 見たことがある衣装だった。

『魔術師と百合』のシロちゃんのローブ。私が主任にして欲しいと要望を伝え、心月さんが来てくれた衣装。

 主任は大胆に着ていたブラウスとスキニーを脱ぎ捨てると、その深緑色のローブを身につけた。

 そしてバッグから銀色のウィッグを取り出し、鏡を見ながら頭に乗せて微調整する。


「……うん」


 そういって主任は立ち上がる。そこには、以前のイベントでシロちゃんのコスプレをしてくれた心月さんがいた。


「……どう?」

「……いや、あの、可愛いですけど」

「けど?」

「涼しげな目元と、手入れされてない銀色の髪が、シロちゃんっぽいです」

「他には?」

「ローブの上からでもスタイルの良さがわかりますね、あとローブについている褒賞がよく見たらかなり忠実に再現されていて作品への愛を感じます、それからすごく手が綺麗で、特に小指の爪の形が好きです……」

「あとは?」

「首元の鎖骨が艶っぽくて直視できないくらいです、眉の形が素敵で描くの上手で尊敬します、あとローブの下から見える足首から素足が可愛いです、さっきちょっと見えた下着が意外と可愛い系でぐっときました」


 それから、と続けようとすると上坂さんはゆっくりと私に近づく。クッションに座る私に徐々に顔を近づける。


「唇がつやつやで触れてみたいです、鼻筋がすっきりしていてかっこいいです」


 数センチほどの距離まで近づいた顔。少し寄せればキスできそうな距離。


「他には?」

「ええっと……」


 言葉に詰まる。あまりにも近くて緊張する。


「……あの、顔が好きです、あと優しい性格も好きで、仕事もできるし、困ってたらいつもフォローしてくれるし、あと困ってることにすぐ気付いてくれるし、丁寧に教えてくれるとこも好きです、大好きです」

「全部、嘘じゃないよね?」

「……はい」


 上坂さんは、その回答を噛みしめるように目を閉じる。


「ありがとう」


 そう小さな声で呟くと、上坂さんはゆっくりと両手を背中に回してくれた。ファンデか何かの匂いが鼻をくすぐる。

 抱きしめられたまま、とくとくと鼓動が脈打つ。汗が噴き出してくるのがわかって、匂いが気になってしまった。


「昨日ね、考えたの」

「……えっと」

「好きって言われて、どうしようって、私にとっても、貴女が特別なのは間違いないのだけど、じゃあどうすればいいのかなって」


 顔は見えない。かわりに銀色のウィッグが私の顔の前を覆っている。


「貴女が今日休むってみたら、急に不安になって、このまま、いなくなっちゃいそうだな、やだなって」


 上坂さんの声は掠れている。時折つまらせながら。


「だから、今日来たの」

「……そうなんですか」

「ええ」


 もう一歩、上坂さんは私に近づいてくれる。顔だけじゃなくて、胸までぴったりとくっついた。心臓は一層に早くなるけれど、これは私の音?


「私、今まで褒められることってそんなになくて」

「そうなんですか?」


 意外な言葉。上坂さんなら、今までいくらでも褒めてくれる人が周りにいそうだけど。しっかり者の上坂さんだからこそ、あまり周囲から構ってもらえなかったのだろうか。


「うん……でもコスプレしたら、いろんな人が褒めてくれて」


 でも、と小さく呟いてから少し言葉が止まる。


「……前野さんが、一番たくさん褒めてくれた。私のためだけにイベントに来てくれて、周りのことを気にせずに私のことを褒めてくれて、私だけを撮ってくれて、嬉しかった」


 何かを考えて、覚悟を決めたように抱きしめる腕が強くなる。


「貴女は、私を特別にしてくれる、私の特別な人、貴女が撮ってくれた私が、一番可愛い」


 上坂さんは耳元に唇を寄せ、囁くように問いかける。


「また私を、撮ってくれますか?」


 耳をくすぐるような言葉の答え。何も考える必要はないけれど、言葉に詰まってしまったのは、気持ちが昂ぶってしまって泣いていたから。


「……はい、お願い、します」


 私の答えに、上坂さんは安心したように吐息を漏らす。その吐息が耳の奥を温めると背筋がぞわりとした。

 そのままゆっくりと、上坂さんは頬に唇を寄せた。






 二人で残業をしないと決めた金曜日、誰かに見つからないように、かつ出来るだけ一緒にいられるようにということで、上坂さんのマンションの最寄駅の改札を出たところで落ち合った。

 今日はこれから晩御飯の買い物をして、上坂さんの部屋で撮影会の予定。そのあとはまあ、たぶんいつも通りの流れだろう。

 二人で並んでスーパーに向かって歩きながら、会社のことやコスプレのことについて雑談を交わす。


「そういえば最近、撮影のお誘いも来るようになったんだよ」

「え、そうなんですか?」


 嬉しそうに笑いながら話す上坂さん。私としては撮影に行って欲しくないので、過剰に褒めたくはないのだけど。

 ……上坂さんは不満そう。


「……それだけ?」

「あ、いや、すごいですけど」

「でしょ? もっと褒めてもいいよ」


 上坂さんはふふんと鼻を鳴らす。この関係になってから、事あるごとに褒めてアピールをしてくるのがウザ可愛い。


「まあ上坂さんはとってもクールアンドキュートに加えてスタイル維持の努力もしてるんで、私からしたらやっと世間が追いついてきたかなって感じですけど」


 にへっ、と相好を崩す上坂さん。会社では絶対に見られないデレを、私だけが享受できる贅沢な時間。


「で、行くんですか?」

「行かないよ、まいか、私に行って欲しくないでしょ?」


 そのとーり。ここまでわかられていると恥ずかしさもない。

 それにね、といたずらっぽく笑いながら下から覗き込む。


「だって私を一番可愛く撮れるのはまいかだから」


 その嬉しい言葉に、頬が上気してしまうのが自分でもわかる。上坂さんは意地悪そうににやにやしているけれど、特にそれ以上はつっこまなかった。


「みとさんもまた撮って欲しいってメッセージ来たよ」

「みとさん?」


 いつか心月さんのとの合わせで撮ったレイヤーさんの名前だ。でもなんでここで彼女が私に撮って欲しいなんていうんだろう?


「あー、言ってなかったっけ。あの時みとさんから合わせのお誘いがあったんだけどね」


 横断歩道を渡ろうとして、青信号が点滅しだしたので二人で立ち止まった。


「まいかの撮った写真を見て、私と合わせたいって思ったんだって」

「本当ですか? それはすごく嬉しいですけど……」

「本当だよ、ていうか最近フォロワーが増えたり撮影のお誘いがあったのもさ……」


 不意に言葉を切ったかと思うと、上坂さんは腕を絡める。


「一番可愛く撮ってくれる人に出会えたからだよ?」


 上坂さんは微笑んだ。

 その顔も残しておきたいと思ったけれど、まあそれは、私のメモリだけに焼き付けておこう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

推しのコスプレしてたから「撮っていいですか?」って声かけたら上司だった時の話 @yu__ss

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ