泳がない人魚姫
仲咲香里
泳がない人魚姫
ぶくぶくぶく。 ぶくっ? ……ぶほっ。
「ゲホッ! ゴホッエホッ」
タイムはっ?
水しぶきと共に顔を上げた私は、急いで側に置いていたスマホの画面をタップした。ストップウォッチの数字が止まる。
やった、新記録!
五秒達成ーっ!
「……何、やってるの?」
「きゃっ! もうっ、ゲホッ、驚かさないでよっ、ゴホゴホッ」
午後十時のバスルーム。振り返ると仕事から帰宅したばかりの夫の姿があった。「ごめん」って謝りつつ、怪訝そうに、顔周りだけびしょ濡れになって両腕を掲げる私と、洗面台の上に置いた洗面器を交互に見つめてる。
「息を止める練習してたのっ。プールで、一秒でも長く潜って、あの子の姿を見たいから」
タオルで顔を拭きつつ答えると、それだけで夫は全てを理解してくれたようだ。昼休憩に送ったラインのメッセージを、思い出してくれたんだろう。
「俺も、手伝うよ」
「えっ? 疲れてるのに、また休みの日でいいよ?」
「だって、俺たち家族のことだろ。手伝う」
「……うん。じゃあ、後一回だけ頑張るから、時間測ってくれる?」
「分かった」
夫が一度、寝室に娘の寝顔を見に行った後で、私の練習に付き合ってくれた。
私たちの一人娘は、先天性疾患による肢体不自由児。恐らく一生、車椅子との共同生活を余儀なくされる。
生まれたその日。娘に負けないぐらいの声を上げて、私も泣いた。
妊娠中、何をすれば良かった?
何をしなければ良かった?
それとも出産の時?
返る言葉は、その全てを否定するものだった。確率論が、仕方ないって責めてくる。
産休前と同じように働くつもりでいた仕事も、積むはずだったキャリアを捨てて、自分の未来像と一緒に笑顔でサヨナラを告げた。
仕方ない、から。
そんな私が娘と二人、新たな門出を迎えたのは、障害児のための発達支援施設。
施設利用のためにも身体障害者手帳を取得することは、私にとって、高い高い心のハードルを越える必要があった。もちろん、この施設に入園することだって。
ここでは、先天的、後天的に関わらず、小学校入学までの、脳性まひやダウン症などにより、身体に障害を持つ子どもたち、または、ADHD、自閉症スペクトラム障害といった、知的障害を抱える子たちが親子で、若しくは一人で通園し、様々な支援を受けながら一日を過ごしている。
その多くが、複合的な障害を併せ持っていることが珍しくなく、だから誰一人として、全く同じ状態の子はいない。
なのに、この子との違いを見つけては一喜一憂してしまう私は、本当にダメな母親だ。私にとっては、常に精神的孤独を抱えながらの通園となった。
それでも、忙しい日々に追われ、施設での生活にも何とか慣れ始めた頃、担任の先生が告げた。
「来月から、水泳療育を始めます」
二重の意味で驚きを隠せなかった。
一つは、毎日のお風呂でさえ苦労してるのに、水泳なんてできるのかという不安。もう一つは、私自身が、顔を水につけるのさえ苦手なのにという恐怖。今だから言えるけど、学校のプールですら、適当な理由を付けてサボってたくらいなのに。
とは言え、どう足掻いたって私に拒否権なんて無いんだろう。
そして、とうとうその日が来た。
「お子さんに、前向きな声掛けをしてあげて下さいね」
この施設に入園してから、もう何百回聞いただろう。
案の定、初めての室内プールに泣き叫ぶ娘を見て、私の方が泣きたくなった。
せめて、少しでも娘が楽しい気分になれるようにと選んだ、可愛らしいフリルが付いた青色の水着。
「ほら、人魚姫みたいよー。可愛いねー」
やけくそみたいに言葉を繋いでく。
どうせ無理。早くこの時間が終わればいいのに。
週一回の水泳療育の日が、娘と共に、嫌で嫌で仕方なかった。
先生は毎回、取ってつけたように娘だけを褒める。
「今日は前回より、スムーズに入れたね」
だから何だと言うんだ。
私の、未消化のまま鬱積していく行き場のない思いなんて、知りもしないで。
相変わらず、後ろ向きな思考は笑顔の下にひた隠して、施設からの帰り道、そっとため息と共に吐き出していた。
その嫌な時間が変わったのは、水泳療育が始まって半年程経った、プールの中でだった。
「わぁ、上手に歩いてるね!」
先生の声に、一瞬、誰のことなのか分からなくて辺りを見回す。先生の視線が注がれているのは。
娘?
「ほらっ、ね? 一生懸命、足を動かして。すごいねぇ!」
「え、ウソ……」
そんなはずない。確かに、プールにもすっかり慣れて、泣いて嫌がることは無くなったけれど。
だって、娘は。
でも、現実は。
その日の休憩中、夫にラインを送った。
『今日ね、あの子がプールの中で歩いたの! 私、来週までに水に潜れるようになって、自分の目で直接見てみたい!』
***
ついに来た翌週の水泳療育の日。
現在のところ、潜水最高記録は十秒。
娘の介助を先生にお願いして、思い切り息を吸い込んで水に潜った。
ゴーグルの中の目を見開く。
青い水の中で底上げされた床。その上を進む白く細い足と、プールの色と同じ、青の水着。
確かに、自力で歩いている娘がいた。
正確には、流体力学がどうとか、人体力学がどうとかの小難しい理論と、娘の見よう見まねの動きで、歩いてるように足を動かせてるってだけなんだけど。
それでも。
「水の中では浮力がはたらくから、とにかく人は沈まないし、誰でも必ず泳げるようになりますよ」
事前の説明会で、そう先生が言っていたのを、他人事のように聞き流していたっけ。娘には関係ないって。
泣きそうになって、慌てて立ち上がってしまった。
思い切り咳込む私に、娘が「ママ、だいじょうぶ?」って言いたげな顔で、心配そうに私を見てくる。急いでゴーグルと顔に付いた水を払って、娘に応えた。
「うん、大丈夫よ。ママね、すごくビックリしちゃっただけだから。本当にすごいね! 上手に歩けてるよ! とってもカッコいい!」
泣き笑いでグッドのサインを送る私に、晴れやかな笑顔を返してくれる娘。
「水泳療育はね、陸上では行うことのできない運動を体験できるのが魅力なんです。それに、自律神経が鍛えられて身体の健康にも繋がるし、何より、水の中では自由に、手足や身体を動かすことができる。水泳は、どんなに重い障害を持った人でも楽しめるスポーツなんですよ」
あの日の先生の言葉一つ一つが今、初めて実感を伴って受け入れられる気がする。
「お母さんも、水に潜れるようになったんですね。頑張りましたね。偉い、偉い!」
突然、先生に言われて、思わず真顔で見返してしまった。
あれ、先生って今まで、娘のことだけを見ていたんじゃないの?
「あ、りがとう、ございます……」
私が褒められたのって、本当にこれが初めてなのかな……。
娘の動きに合わせ、水中で青のフリルが尾びれのように揺らめいている。
一、二、一、二。
右、左、右、左。
ゆったりと、堂々と。親バカかもしれないけど、いつか投げやりに言ってしまった、人魚姫の称号がぴたりとはまる。
やがて、プールサイドにたどり着いた娘が、嬉しそうに私を振り返った。
その誇らしげな笑顔を見ていると思う。
自分の経験から可能性を狭めて、何かを一つずつ諦めていたのは私の方だ。
私の心の正当防衛が、娘にとっての過剰防衛だったのかもしれないと。
今日、初めて気が付いた。
「んー。あーっ」
私に向かって手を伸ばし、大きな声を発する娘。その声は、その顔は。
そのサインは。
私には分かる。
「うん、うんっ。次は一緒に、歩こうね!」
いつか本当の人魚のように、この子が自由に泳ぐ姿を見てみたい。それは実現可能な夢なんだろうか。
後で先生に聞いてみよう。
その時、私は……。
水中でぎゅっと娘の手を握ると、自然とプラスの言葉を紡ぎたくなった。
「ママも一緒に練習するから、もっとうまくなって、二人でパパをビックリさせようね」
彼女は今、こんなにも無限の可能性で溢れている。
もしかしたらそれは、私だって。
泳がない人魚姫 仲咲香里 @naka_saki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます