第3話 大草原のお豆畑

 12月6日。この日の未明には小雨が降っていたが、夜が明ける頃には雨も上がり、今は薄曇りになっている。いかにも冬空というような、グレーの雲が空にベールをかけているが、西の空から、少しずつ晴れ間が見えだしている。これからの天気は回復しそうだ。

 マリアンヌたちはダイヤンの街からでて、かつて開拓村につながる道路だった道を歩いていた。道路とは言っても、草原の中に轍が残っているだけというもので、その轍すら時々雑草に覆われて、途切れていることがある。気をつけて歩かないと容易に道に迷ってしまう。

 先頭をプトレマイオスが荷車を牽いて歩き、その後ろに、ロバの牽く小さな車をセレウコスが導いて続いている。マリアンヌは、ロバの牽く車に積み上げられた、荷物であるマメ類の種子の入った麻袋の上に座っていた。

 この車は、今からスコット・サザーランド氏の農園に荷物を届けに行くに当たって、ダイヤンの交易所で借りてきたものだ。

 もともと積み荷の運搬用として、インフィニティ号に荷車を積み込んでいたのだが、ティシュリでそれをプトレマイオスが破壊してしまった。その修理が出航に間に合わなかったので、マリアンヌはプトレマイオスに新しい荷車を調達してくるように言った。彼は言うとおりに調達してきたのだが、それは以前持っていた物より一回り小さかったのだ。

 ティシュリ農大で受け取った荷物は、以前の荷車に、限界ぎりぎりですべて積載したほどの量だったので、それより一回り小さい荷車だと全部を積み込むことは不可能だ。それに昨晩ドリスから、目的地まではかなりの道のりがあると聞いていたので、マリアンヌは、別に車を借りて、荷物を車二台に分けて運ぼうと考え、荷車を持っていそうなところ、港近くの交易所を訪れた。

 交易所の店主は荷車を貸してくれた。それがロバの牽く車だった。

 ただし、車を牽くのは、見るからによぼよぼした年寄りロバで、車はというと、動くたびに車軸がギーギー音を立てる、これまたポンコツの車だった。彼女は交易所の店主にそれのレンタル料として、金貨10ターバルを要求された。

「10ターバル? 冗談じゃないわ。ティシュリでこれくらいの車を一日借りるとしても、せいぜい金貨1枚よ。おまけにぼろい車のくせに、ぼり過ぎもいいところよ」

 ティシュリ市価の十倍のレンタル料を請求された彼女は、腹を立てて店主にそう言ったが、しなびたへちま顔の店主は表情を変えずに答えた。

「うちも商売道具をお貸しするわけだから、それくらいはいただかないと。別に支払うのがいやでしたら、こちらもお貸ししないだけですからかまいませんよ。もっとも、この街では、荷車を貸し出すことのできるところはほかにないですがね」

「う~」

 彼女はぶうっと頬をふくらませた表情でうなったが、ほかに貸してくれるところがないのなら仕方がない。手持ちの荷車ひとつでは荷物を運びきれないので、背に腹は代えられない。店主の言い値でレンタル料を支払って車を借りたわけだが、彼女はぼったくられた不満とくやしさでいっぱいだった。

 船から取ってきたグリスを車軸に塗り込んで、ギーギーきしむ音はたたなくなったし、よぼよぼの年寄りロバは、いざ働く段になるとかくしゃくと動く。交易所で車を借りたこと自体は正解だった。

 だけどダイヤンの街を出発しようというときから、マリアンヌはずっと仏頂面だった。

「あーあ、まったくやんなっちゃう。輸送の仕事はなんだかあだになっちゃったし、島の人たちは全然やる気ないし、おまけにけちだし、がめついし、それに寒いし……こんなにやりがいのない仕事ったらないわ」

 彼女は荷物の上に転がりながらぶーぶー言っていた。その横では、彼女のペット、ミニドラゴンのピクルスが小さく丸くなっている。

 ダナン島は北緯43度に位置する。北国なので当然冬は寒い。12月のこの時期も、最低気温はふつうに氷点下に達するし、最高気温は10度を超えない。ただし、今日に限っていえば、夜から朝にかけて曇っていて、雨もぱらついていたので、現在気温は4度くらい。夜中に天気が良かったら、放射冷却現象で氷点下になっているところだ。

 ただし、北緯32度の地点に位置する、温暖なティシュリで育ったマリアンヌからすれば十分寒い。彼女は寒さにわりと強いほうで、冬でも薄着でいることが多いのだが、この島に来てからは毛織りのショートコートをずっと着込んでいる。ペットのドラゴンのほうは寒さに強くないのか、めったに動くこともなくじっと丸くなっている。

「お嬢、そんなにぶーぶー言ってたら豚になっちまうぜぇ」

 先頭で荷車を牽くプトレマイオスが陽気な声で彼女に言い、懐から取り出したネルソンズブラッドの瓶をくわえて、中身をぐびぐび飲んだ。彼はこの燃料がきれない限り、寒さに凍えることはない。たとえ常にでべそをのぞかせていたとしても、酒さえあれば寒さに負けることはない。

「豚になるなんて、プットに言われたくないよ」

 彼女はぶぅとうなってつぶやいた。

「なんにしろ、我慢が大事です。この輸送の仕事が終われば、島との関わりもなくなるわけですから、もう少しの辛抱です」

 ロバの手綱をつかんでいるセレウコスが彼女に静かに言った。彼女は不満顔のままだったが、彼に言われると素直に黙った。

 道を進むうちに、雲は徐々に晴れていき、穏やかに陽光が射すようになった。そうなると少しでも暖かく感じる。太陽の光を浴びているうちに、彼女の機嫌も少しずつ良くなってきた。

「お嬢、いつまでたっても何も見えねえぜぇ。この道で合ってんのかぁ?」

 プトレマイオスの間延びした声が響いた。確かに、行けども行けども、集落どころか人家の一軒も見あたらない。周囲は一面の草原で、それ以外何もない。

「こっちの道でいいはずだよ。街の人からそう聞いたもん。だいいち、ずっと一本道だったんだから、道を間違えるわけないよ」

 半身を起こしてプトレマイオスのほうを向いて、彼女は答えた。

「嬢ちゃん、自慢の『嗅覚』で道を探し出したらどうかの?」

 ロバ車の横を歩いていたカッサンドロスが彼女に言った。彼女は、なにか変わったことや危険なことを「におい」でかぎ分ける特技がある。とはいえ、それは直感であり、決して文字通りの嗅覚ではない。ただ、彼女はそういったことを察知するときに、鼻をひくつかせるクセがあるが。

「あのねえ、犬じゃないんだから、においで道がわかるわけないでしょ」

「そうじゃのう。嬢ちゃんより犬のほうが役立つわい。恩を忘れることもないしの」

「ちょっと、どういうこと? あたしが犬より役に立たないって言いたいわけ? だいたい、恩を忘れないってどういうことよ」

 カッサンドロスのいやみに彼女は腹を立てて、彼の顔をにらんだ。

 彼はちらりと彼女の顔を見て、それからすねたような顔になった。そういえば、彼は今朝からずっとすねた顔をしていた。

「じいさん、もしかしてゆうべのことをまだ怒ってるの?」

 彼女に訊かれて、彼はすねた顔をまた彼女に向けた。

「わしがおねーちゃんもいない酒場で、おもしろくもない男臭い酒を飲んで、さびしい夜を過ごしておったというのに、だというのに、嬢ちゃんとアッシャーはきれいなねーちゃんの家に泊まりにいったなんて、あんまりじゃわい。どうして教えてくれなかったんじゃ……。わしに一声かけてくれれば、ゆうべはそのねーちゃんとよろしくできたというに……」

 カッサンドロスの不機嫌の理由は、ドリスに会うことができなかったというこの一点だけである。

「だって、仕方ないじゃん。急なことだったし、たまたま出会っただけだもん。そうだよね、アッシャー」

 マリアンヌは、一番後ろを歩いているアッシャーに言った。白貂の毛皮のコートを着込み、ファーの襟巻きを首に巻き、大きめのサングラスをかけている。まるで芸能界のスターのようなファッションだが、この人気のない草原でこんな格好は似合わないにもほどがある。もっとも、本人が言うには、ほかに防寒具を用意していなかったからしかたないそうだが。

「うん」

 彼はひとつうなずいてから、大きなあくびをした。よく見ると、サングラスの奥の目などに、明らかな寝不足の跡がある。

「ねえ、アッシャー。寝不足なの? せっかくドリスさんのところでゆっくりさせてもらったのに」

「あれ? わかる? ファンデーションで隠してたんだけどなぁ」

 アッシャーはコンパクトをのぞき込んで自分の顔をチェックした。それが終わると、彼は小走りでマリアンヌのところに近づき、小声で訊ねた。

「ねえ、提督。ゆうべはドリスさんの部屋で何してたの? ドアの向こうから物音がするたびに目がさえちゃって、そのうえ寝袋から出られないし、動けないし……提督がドリスさんにあんなことやこんなことされてるんじゃないかと思うと、心配で眠れなかったんだよ」

「ああ、あれね。あたしもベッドに誘われたときはびっくりしちゃったけど、別に何もしなかったよ。おしゃべりしたり、いろいろ教えてもらったりして、なんだかパジャマパーティーみたいで楽しかったよ」

 彼女はアッシャーに楽しそうな笑みを見せた。

「安心した?」

「安心したって言うか……なんか心配して損した感じだな」

「そうじゃねえんだろ、アッシャーよぉ」

 プトレマイオスの牽く荷車を押して歩いていたジュリアスがせせら笑うように言った。

「本当は、その部屋で提督とその女が何しているのか、想像しながら悶々していたんだろ。それで、動けないから、寝袋の中でモンキーバナナを握ってたんじゃねえの」

「そんなことするわけないじゃん! どうしてボクの王子様イメージを壊すようなこと言うかな? だいたいモンキーバナナってなにさ、失礼な」

 アッシャーがムキになって言い返すと、ジュリアスは大声で笑った。

「モンキーバナナ? なんのこと?」

 マリアンヌがきょとんとした顔で訊ねた。

「おいおい提督、かまととぶるなよ。男所帯の中にいるんだ、何度も見たことあるだろ」

「まあジュリアス、そう言うでない。嬢ちゃんはまだねんねじゃからのう。なんなら嬢ちゃん、わしのバナナでも握ってみるかの? わしのはモンキーバナナじゃなくて、幾多の女を泣かせた暴れん坊ジョニーじゃがのう」

 そう言うやいなや、カッサンドロスはマリアンヌのほうを向いて、着ていたコートをばっと広げた。シンクロしてズボンをずり降ろし、ジョニーをむき出した。

 マリアンヌは顔を赤く染めると、

「乙女にいきなり見せるなぁっ! このセクハラジジイ!」

 と叫んで、カッサンドロスの顔面に真空飛びひざ蹴りを食らわせた。草むらの中に吹っ飛んだ彼に、マリアンヌはマウントポジションから七、八発くらいグーパンチを浴びせた。怒りの攻撃を食らって、彼は草むらの中に大の字になってのびた。彼のジョニーはちぢこまっていた。

 カッサンドロスをぶっ飛ばして少しは気が晴れたのか、マリアンヌはすっきりしたような表情で戻ってきて、ロバの荷車に乗り込んだ。

「まったく、うちの男たちってみんな下品なんだから。あたしがヴァージンだってことをみんな自覚して欲しいわ」

「みんなって、自分もですか?」

 話に参加していないのに、一くくりに男たちは下品と言われたのがいやだったのか、セレウコスが彼女の顔を見て、言った。

「うん。だって、鬼のようにおっきいの持ってるんだもん」

「……」

 セレウコスはなんだか納得がいかなかった。

 一行がバカな話題に盛り上がりながら道を進んでいくと、草原の中に木立が現れた。道はその木立の中に向かっている。少し狭いようだが、木々の間に道があり、その間を通っていくことができる。

「話は変わるけどよ、酒場でこんな話を聞いたぜ」

 木立を抜ける道を進んでいるときに、ジュリアスが話を切りだした。

「この島の北には山地があるんだが、誰もそこに行く奴がいないんだと。何でも、人喰い熊が現れるとかで、恐れられる場所だって話しだぜ」

「えー、そうなの?」

「お嬢、心配するねぇ。熊が現れたら、俺様がさばおりで仕留めてやるぜぇ」

 プトレマイオスが鼻息を吹き散らしながら息巻いた。

「でも、誰もそこに行く人がいないのに、どうして人喰い熊が現れるってわかるんだろ」

 アッシャーが首をひねった。

「さあな。だからオレも疑ってる。でも、島の人間はその噂を信じてるみたいだな。もったいねえよな。山地に入れば、木を切り出して材木にするとかできるだろうによ」

「そう言えば、自分も似たようなうわさを聞きました」

 セレウコスがぼそりと言った。

「お嬢ちゃんは気づきましたか? 港に漁船らしいものが一隻もなかったでしょう」

「あ、そうだったね。ふつう、離島には漁師が多いはずなのに、漁船がないなんておかしいね」

「それで、雇った人足のひとりにわけを尋ねたら、なんでも、この島の周辺には怪魚が生息するとかで、それに恐れをなして、海に乗りだす漁師はひとりもいないのだそうです」

「山には熊で海には怪魚? なんかうそ臭いなぁ」

 マリアンヌが言うと、セレウコスは首を横に振った。

「自分もそう思いましたが、島の人間に言わせると証拠があるそうで……何でも、怪魚が住むと言われる島の北方の海域に行った船はみんな戻ってこないそうです。それに、海に出た人間が、遺体になって浜に打ち上げられたことがあり、その遺体には、なにかに食いちぎられたような跡があったというのです」

「えー、ほんと? なんか恐いな」

「しかし、山にも海にも危険があるとすると、開拓民の行動は必然的にダイヤン周辺に限られるのう。どんな危険があろうと、開拓に挑んでいくのがフロンティア精神というものなのじゃが」

 さっきマリアンヌにぼこぼこにされて、ひっくり返っていたカッサンドロスが一行に追いついてきて、話に加わった。

 もう少しで木立を抜けようかというとき、突然アッシャーが大声を上げた。

「みんな、止まって! 前からなんかやってくるよ」

 先ほど話していた話題からすると、もしかしたら噂の人喰い熊かもしれない。一行は足を止めた。アッシャーは、荷車に乗せていた自分の弓を取って、矢をつがえて隊列の前方に出た。

 マリアンヌたちの進行方向から、大きな影が近づいてくる。

「出たか人喰い熊。俺様のさばおりを食らいやがれ」

 プトレマイオスが拳をぼきぼき鳴らしながら舌なめずりした。

 荷物の上から身を乗りだして様子を見ていたマリアンヌは、息を飲んで、近づいてくる影を凝視した。

「おや、これは珍しい。こんなへんぴなところにお客とは」

 影が立ち止まり、太いが温和な声で、人間の言葉を発した。

 木立から薄く漏れる光に影が照らされた。熊のように口ひげとあごひげを蓄え、頑丈そうなデニム地のオーバーオールと、毛皮のジャンパーを羽織った、大柄な男性だった。身長は長身のセレウコスと大差ない。恰幅も良かった。

「あの、あなたは?」

 マリアンヌは男性に尋ねた。

「わたしはスコット・サザーランドです。この先で農場をしているものですよ」

 スコット・サザーランド氏は穏和な目を彼女に向けて名乗った。


 マリアンヌたち一行はスコットに案内されて、彼の経営する農場にやってきた。白いペンキで塗られた柵には、「サザーランド=パイロットファーム」と書かれた手書きの看板が掲げられている。柵の内側に入ると、数軒の建物があった。とはいえ、そのほとんどは人気のない、朽ちた家屋だ。十年近く前までは、ここは六、七軒の開拓農家が集まった集落だったと、スコットは説明した。

 その集落の真ん中に、平屋建てで、緑色の切り妻屋根の家があった。そこがスコットの自宅だった。マリアンヌたちは誘われるままに中に入り、そのうえ食事をもてなされた。

「わざわざティシュリからはるばる来られましたのに、この程度のもてなししかできなくて申し訳ありません」

 スコットはそう断ったが、マリアンヌたちにとってはこの程度どころか、ごちそう様々だった。根菜類のクリームシチューに野菜サラダ、ライ麦パンという、ささやかな食事であったが、乾物や保存食が中心になる船の上の食事に比べると、立派なごちそうである。

「いやいや、たいそうなごちそうですぞ。特にわしら船乗りは、普段野菜に飢えていますからの。それにしても、奥さんは本当に料理がお上手ですのう。家事がからっ下手の嬢ちゃんに、爪の垢を煎じて飲ませたいものですわい」

 カッサンドロスが満足げに笑いながらほめた。彼の言うとおり、保存の利かない船内では野菜をめったに食べることができない。野菜を煮詰めて作る固形スープが実用化されるようになって、船内食の栄養の偏りはある程度解消されるようになったが、生野菜にありつくことができる機会は限られている。だから、提供された野菜づくしの料理はむしろごちそうなのだ。

「ふんだ。どーせあたしは料理も裁縫もへたくそだもん。でも、ほんとにおいしいわ。このシチューなんて、かぶもいもも口の中でとろけるほど柔らかいし、食べたら身体の芯からほっかほかしてくるよ」

「いえいえ、お粗末様です」

 スコットの妻ミシェルがほほえんで頭を下げた。見たところ年頃は30代後半と思われるが、丸顔のかわいらしい女性だ。大男のスコットに対して、ミシェルは5フィート足らずの小柄な体格で、好対照だった。

「わたしが言うのもなんですが、良く出来た家内でして。家内がいるから、わたしもこの草原で野生化せずにすんでいますよ。菜園作りや狩猟から、料理までしてくれますから」

「主人の選んだ生き方をわたしが邪魔するわけにいきませんもの。主人がここで農場を経営すると決めたなら、それを支えるのが妻の役目ですから、できることをしているだけですわ。大したことじゃありませんよ」

 ミシェルはさらりと言った。夫婦仲はすこぶる良いようで、好感が持てた。   

「でも、街から遠く離れたところに二人きりってさびしくないかな?」

 アッシャーがスコットに訊ねた。

「二人きりになるわけでもないんですよ。春から秋にかけて、ティシュリ農大から五、六人ばかり学生が来て、研修名目で働いているんです。その間はそれなりににぎやかですよ。もっとも、冬の間は二人きりですが、それこそ、夫婦の濃密な時間にできますから」

「うーむ、厳寒の冬季も、この家はアツアツのようですのう」

 カッサンドロスがしみじみと言った。

 柱時計の鐘が鳴った。

「二時になりましたね。荷物を降ろして、帰ることにしませんか」

 しばらくくつろいでいたが、肝心の荷物はまだ外においたままだ。このままいつまでもゆっくりしているわけにもいかないので、セレウコスがマリアンヌに提案した。

「この時期は日が短いですから、今からここを発ったとしても、街に戻る頃には日が暮れてしまうことでしょう。我々の家はこの通り狭いもので、納屋にしかお部屋を準備できませんが、皆さん、今夜はうちに泊まっていかれてはどうでしょうか」

「それはなんだか申し訳ないわ。あたしたちはギルドで依頼された仕事でここに来ただけなのに、食事まで出してもらって、そのうえ一晩泊めてもらうなんて」

 スコットの思わぬ申し出にマリアンヌはびっくりした。

「荷物を持ってきていただいただけでも、わたしとしては大変感謝ですよ。お礼は当然のことです。それに、うちには来客が少ないもので、なかなかよそから来られた方と交流ができませんのでね。なるべくゆっくりしていっていただきたいのですよ。島外の情報を聞きたいですしね」

「なるほど。それなら、お言葉に甘えてもいいかな。でも、せっかく泊めていただくわけだから、あたしたちもなにかお返ししないと……そうだ」

 彼女は仲間たちのほうを向いた。

「せっかくスコットさんの農場に来たんだから、なにかお手伝いしようよ。まだ日は昇ってるんだし、屈強な男たちがそろってるんだから」

「提督、今は冬だぜ。農場で仕事はないんじゃないか?」

 ジュリアスが口を挟んだ。

「あ、そうか」

「いえ。もし手伝っていただけるのでしたら、雪が降る前にしておきたい仕事があるんですが。とりあえず、皆さんにわたしの農場をお見せしましょう」

 マリアンヌたちはスコットに連れられて家の外に出た。

 母屋の並びに、二階建ての納屋があり、その隣には家畜小屋がある。倉庫も小さいながら数棟あるようで、スコットの家全体はなかなか大きい。

「こちらが耕作地です。はじめは1エーカーほどでしたが、5年がかりで20エーカーほどの広さにできましたよ。混合農業の試験農場ですので、耕作地を四区画にわけて、四圃式輪作を施行してます。本格稼働は去年からなので、成果はこれからですが」

 彼は、草原のただ中に開墾された広い農地をマリアンヌたちに見せた。今は農閑期なので作物はないが、きれいに開発された畑だった。

「ほお、これはなかなか立派な」

 カッサンドロスが感心してうなずいた。

「はじめにここに村を作った開拓者たちが、ある程度下地を作っていましたから、思ったよりも大変ではありませんでしたよ。5年前にここに入植したときに、この村の跡を好きに使っていいと言われましたから、遠慮なく利用させてもらっています。学生たちを研修と称して、労働力に使っていますしね。わたしひとりではここまでできませんでしたよ」

「これだけ立派な畑なら、たくさん作物もできるよね」

 マリアンヌが言うと、スコットは首を振った。

「まだ開発段階です。麦もマメも、種子用にほとんどを取ってあって、出荷にはまだ回していません。来年から、市場に出荷できるほど生産できるのではないかと思っていますが」

「作物を出荷してないの? じゃあ、スコットさんと奥さんはどうやって生計をたてているの?」

 アッシャーが訊ねた。

「食べるのはうちで作って作物で食べていますし、収入はわたしの論文の原稿料ですね。一応、身分は学者ということになっていますから。農閑期はレポートの執筆で、それなりに忙しい日々を送っていますよ」

「ふーん。あ、そうだったわ。スコットさん、今のうちにやっておきたい仕事って何?」

 今度はマリアンヌが訊ねた。

「一番手前の区画は休耕して、牧草を育成していたところなのですが、来年度は小麦を植える予定なのです。なので、雪が降る前にある程度土壌改良をしようと思っていまして、鋤起こしを計画していたのです。それに、ちょうどよくあなた達が荷物を持ってきてくれましたので、お礼起こしをした上で、持ってきていただいた荷物の一部を畑に放そうと思いまして」

「畑を耕すのか。それなら俺様に任せろぉ」

 プトレマイオスが、丸太のように太い腕をぶんぶん振り回して言った。

「プット、畑仕事できるの?」

「あたりめえよ。俺様はライザスの農家の生まれなんでぇ。ガキの頃から、牛と一緒に鋤を引っ張ったもんだぜぇ。畑仕事なんざ、鋤起こしから草むしりまでなんでもこいよ」

 彼は大きな鼻息をひとつたてて言い、土手っ腹を叩いた。

「それは助かります。では、鋤返しをおねがいできますか」

「おう、任せとけ」

 プトレマイオスは、足音もどしどしと、納屋に向かっていき、牛が一対になって牽くような大きな鋤を肩に担いできた。

「提督、農場の手伝いもいいけど、その前に荷物をどこかに降ろしておこうぜ」

 ジュリアスに言われて、マリアンヌは本業のほうを思い出した。

「あ、そうだったね。じゃあ、セルとジュリアスで荷物を降ろしてくれる? スコットさん、荷物は納屋の中でいいでしょ?」

「ええ。ありがとうございます。あ、そうそう。あの木箱だけは納屋に入れずに、外に置いてもらえますか」

 荷車とロバ車から、荷物が納屋に運び込まれていく。怪力プトレマイオスはいないものの、セレウコスとジュリアスという、負けず劣らず強力な男たちがする作業なので、早いペースで荷車の積み荷は空になった。

「ボクは力仕事が苦手だからなぁ……あ、カモの群れだ」

 アッシャーが空を見上げると、ちょうど農場の上空を、V字型の隊列を組んで、カモの編隊が東に向かって飛んでいくところだった。

「この近くに水場があるのかな」

「ええ、ありますよ。ここから東に半マイルほどいくと、川が流れているんです。川に紅マスがあがってくるので、わたしと家内で良くマスを取りに行くんですよ。冬場の保存食になりますので」

 スコットの言うとおり、納屋の壁際に、干した紅マスが何十尾もつるしてある。そして、そのうちの一尾にピクルスが食らいついていた。

「ちょっと、だめじゃないピクルス。スコットさん家の大事な食べ物なのよ」

 マリアンヌはあわてて、いたずらっ子のミニドラゴンを引っ張り上げた。ピクルスは手もなく引き離されたが、がっちりくわえ込んだ紅マスは離さなかった。

「ははは。まあ、一尾くらいでしたらかまいませんよ」

「だめだめ、スコットさん。そんなこと言ったら、ピクルス調子に乗ってばくばく食べちゃうから」

 彼女は抱きかかえたピクルスにひとつデコピンを加えた。ピクルスは素知らぬ顔で、干した紅マスをがじがじ噛んでいる。生魚と違い、なかなかかみ切れないようだ。

「じゃあ、ボクはカモ撃ちに行って来るよ。今夜みんなで鴨肉パーティができるくらい捕まえてくるからね」

「それはいいね。期待して待ってるよ、アッシャー」

「うん、任せて。じゃ、着替えてこよっと」

 そう言うと、アッシャーは一度家の中に引っ込んだ。しばらくして、タータンチェックのジャケット、ベスト、ニッカーボッカーの三つ揃いにキャスケットという姿で外に出てきた。

「着替えもしっかり持ってきてたのね。道理で荷物が多いなって思ったのよ」

「当然でしょ。用途に合わせてファッションも選ばなきゃ」

 そう言って、彼は弓矢を担ぎ、鳥撃ちに出かけていった。

「お嬢ちゃん、荷物の運び込みは終わりました」

 一仕事終えて、セレウコスとジュリアスが納屋から出てきた。

「助かりました。ありがとうございます。荷車のロバは、家畜小屋に空きスペースがあるのでそこで休ませるといいですよ」

 スコットに言われて、セレウコスはロバを家畜小屋に連れていった。

「で、このあとは何をやりゃいいんだ?」

 ジュリアスの質問を受けて、スコットは一度、プトレマイオスが鋤を牽いている農地に目をやり、それから、外に出したままの木箱に視線を向けた。

「鋤起こしも順調のようですね。じゃあ、あの木箱の中身を、起こした土の中に放しましょうか」

「あ、あれね。わかったわ」

 マリアンヌはさっそく木箱に駆け寄ると、目の細かい金属製の網が張ってある蓋に手をかけた。この荷物を引き取ったときに、ゼノンから「箱を開けないほうがよい」と言われていたことをすっかり忘れて、彼女はばっと蓋を開いてみた。

 箱の中には、おがくずの中を、濃いめのピンク色をした線状の身体の生き物が無数に、所狭しとうねうねうごめいていた。

「いやぁっ! 何これえ、気色悪いぃ~」

 彼女は悲鳴を上げて、その場にへなへな座り込んでしまった。

「ミミズかよ。さすがにここまでうじゃうじゃいると気持ち悪いな」

 のぞき込んだジュリアスも顔をしかめた。

「はは、確かに。ですが、ミミズは農民にとって、ありがたい生き物なんですよ」

 スコットが箱の中のミミズを、手で一すくい取りあげた。

「なかなか活きがいい。型も大きいし、身の太りもいいですね」

「どうしてこんな気持ち悪いの、こんなたくさんいるの? いくら何でも、こんなに食べられないでしょ」

「食べはしませんよ。このミミズはゼノン博士が培養に成功した、中央大陸の冷涼地に生息する種でして、わたしがゼノン博士に譲って欲しいと頼んでいたんです」

 彼は答えて、すくい上げたミミズを箱の中に戻した。

「ここダナン島の土地は農耕にむくという政府の発表でしたが、実のところ、表土の深さは浅く、その下は湿り気を帯びた粘土の層です。枯れ草などが土中に分解されきっていないまま堆積していて、土地があまり肥えていないのですね。ここに移り住んでから改めて地質を調査していたのですが、その時に、この島にはミミズがあまり生息していないことがわかりました。ミミズは地中の有機物や微生物を食べ、糞を出すことによって、作物を育てるのに適した土を作ってくれます。それによって、地中に空気が入って、耕した状態にしてくれますしね。それで、土壌改良計画として、耕作地にこれらを放す試験をしてみようと考えました。ゼノン博士の話では、適応力が高いから、土着して繁殖できるだろうとのことでしたが、これもまた試験してみないとわかりませんからね」

「あの先生、外見も怪しいけど、研究していることも怪しいのね。絶対に友達になりたくないな」

 彼女はおそるおそる手を伸ばし、ミミズを一匹つまみ上げた。指にからまるようにミミズがうねうね動いたので、彼女は短く悲鳴を上げて、またはこの中に放り込んだ。

「それにしても、この量は圧巻じゃのう。ミミズ千匹なんぞ目じゃないのう」

「お試しになりますか?」

「遠慮するわい。腫れるどころか、もげてしまうわ」

 カッサンドロスとスコットの会話に、マリアンヌははてなという表情をした。

「起こした畑に、一畝につき、片手一すくいほどの割合でミミズを放しますので、それを手伝ってもらえますか」

「あたしはいやだな。ミミズ苦手だもん。ジュリアスやってよ」

 マリアンヌはジュリアスを振り向いて言った。

「オレだってやりたくねえよ。言い出しっぺは提督だろ。提督がやれよ」

「提督命令よ。ジュリアスがスコットさんを手伝うの」

「汚ねぇな。提督命令って言われたら、逆らえなくなるだろうが」

 ジュリアスは文句を言いながら、とりあえず、ミミズの入った木箱を耕作地に引きずっていった。ロバをつないで、家畜小屋から帰ってきたセレウコスも、マリアンヌの命令で、耕作地にミミズを放ちに行かされた。

「じいさんもあれを手伝うのよ」

「わしはの、奥さんの仕事を手伝うことにしておるんじゃ。もう話を付けておってな。先約は優先せねばならんのでのう」

 カッサンドロスはすまして答えた。ちょうどその時、家の中からミシェルが外に出てきた。

「じゃあ、カッサンドロスさん。手を貸していただけますか」

「ほいほい。お安いご用ですぞ、奥さん。して、何をすればいいですかの」

 カッサンドロスがでれでれした表情で調子よく言うと、ミシェルはにっこり笑顔を作って、大きな牛刀を見せた。

「罠で生け捕りしたイノシシをさばこうと思いますの。カッサンドロスさん、イノシシを押さえていていただけますね」

「……うーむ、わしゃそう言った血なまぐさいことはちょっとのう……」

「ミシェル。アッシャーさんがカモを撃ちに行っているんだ。イノシシはまた別の機会にして、今夜は鴨肉パーティをしよう」

「あら、そうでしたの。この前マックスウェルさんが鍛えてくださった牛刀の切れ味を試す機会でしたのに。わかりましたわ。じゃあ、毛糸を取っていただけますか? 主人に新しいセーターを編みますの」

「それでしたら、いくらでも手伝いますぞぅ」

 ミシェルとカッサンドロスは家の中に入っていった。

「じゃあ、あたしは何をしようかな」

 仲間たちはいろいろな仕事に散っていったが、マリアンヌだけ仕事がない。農場の仕事を手伝うと言い出したのは彼女なのに、自分だけ何もしないのはおかしいし、仲間に悪いし、手持ちぶさたなのはいやだった。

「そうですね。マリアンヌさんにもできることと言えば……、家畜小屋の掃除と、家畜に飼い葉を食べさせてもらえますか」

「家畜小屋の掃除ね。わかったわ。プライマリーの時にヤギ小屋の掃除を何度もしたから、けっこう得意だよ」

 彼女はそう言うと、鼻歌をならしながら家畜小屋に歩いていった。プライマリースクールでのヤギ小屋掃除は、悪さをしたとか遅刻したとかでの罰としてやらされたことなので、本当は自慢にならない。

 小春日和ののどかな農場で、航海者たちは普段と違った汗を流した。マリアンヌの思いつきは、彼女にとっても仲間にとっても、リフレッシュに良かったようだ。


「くっくどぅーどぅるどぅー」

 サザーランド農場の納屋のロフトの中に、リアリティのないニワトリの鳴き声が響いた。寝ていたマリアンヌが目を覚ますと、ピクルスが一足先に起きていて、窓際にちょこんと座って「くっくどぅーどぅるどぅー」と鳴き続けていた。

 最近になって動物の鳴き真似をするようになったピクルスだが、すべての鳴き真似がなんだかわざとらしくてリアリティに欠ける。ついでに言うと、ピクルス自身が実際にどんな鳴き声をするのか、マリアンヌはいまだ聞いたことがない。

彼女は起きあがって、小さな窓から外を見た。良く晴れた朝の空だった。

 ゆうべは、アッシャーが良く肥えたカモを五羽捕まえてきたので、鴨肉パーティをみんなで楽しんだ。食事とおしゃべりを楽しんだあと、サザーランド夫妻が用意してくれた、納屋の二階の広い部屋と、ロフトに分かれて眠りについた。マリアンヌはロフトでひとり部屋、男たちは二階で雑魚寝である。乙女のマリアンヌと、むさい男たちが一緒の部屋になるのはまずいと、スコットが配慮してくれたのだ。

 彼女は服を着て、納屋の外に出た。風はないが、晴れた冬の朝なので、空気は肌が切れそうなほど寒い。吐く息も白かった。

 庭ではセレウコスが、ブーメラン型のビキニショーツ一丁という姿で乾布摩擦をしていた。

「おはようございます、お嬢ちゃん」

「おはよ。セル、元気ねえ。この寒いのに、半裸で乾布摩擦なんて」

「日課ですから」

 なんでもないことのように彼はさらりと言い、タオルで頭を磨き始めた。

「どうりで、どんなに寒い日でもタンクトップで平気なんだ」

 彼女は納得しながら、寒さでかじかんだ手に、はあっと暖かい息を吹きかけた。

「おはようございます。今日も暖かい陽気になりそうですね」

 母屋からスコットが外に出てきた。彼は手に、湯気をもこもこ立てているマグカップをふたつ持っていた。

「小豆のポタージュです。小豆は体を温めますよ」

 スコットはそう言いながら、二人にマグカップを渡した。マリアンヌはさっそく小豆のポタージュに口を付けた。

「あ、けっこう甘い」

「そうですね。砂糖も加えてますから。はるか西にあるジェペニアという国では、小豆を甘味料として使っているそうですね」

 小豆のポタージュ、簡単に言えば、しるこである。もっとも、甘すぎない味にしてあるので、口の中に甘さがくどく残ることはない。

「今、家内が朝食を用意しています。もう少ししたら食事にできますので、それまで待っていてください」

「何から何まで痛み入ります。それでは、中で待たせてもらいます」

 セレウコスはそう言うと、母屋に向かった。

「セルのあのカッコだと、奥さんびっくりするんじゃない?」

「まあ、大丈夫でしょう。家内は度胸が据わってますから」

「そういう問題かな?」

 マリアンヌは改めてスコットの顔を見上げた。

「スコットさん、ひとつ訊ねてもいい?」

「なんでしょう」

「スコットさんはティシュリで大学の教授をしてて、なんの不自由もなかったのよね。ゼノンって人から、スコットさんは自分の農業技術を、実際に農業をしている人たちのために用いたいと願って、大学を辞めたって聞いたけど、何でわざわざ、こんな島にやってきて、試験農場を作ったの? ここじゃなくて、開拓の成功している植民地でも、もしかしたらティシュリででも、自分の技術を役立てることができたんじゃないかな? 政府からも、ここに実際に住んでいる人たちからも見放されている土地で、苦労して農場をやることもないんじゃないかしら? そう思わなかった?」

 スコットはマリアンヌの目を見つめた。優しそうな瞳だったが、その奥には、信念の固さを映し出したかのような光があった。

「朝食まで少し時間があります。マリアンヌさん、少し出かけませんか?」

「え?」

「マリアンヌさんに、わたしの夢を見せたいんですよ」

 彼は真顔になってそう言い、家畜小屋に向かった。そして、一頭の芦毛の馬を表に出すと、それに鞍を置いた。

「ここからほど近いところです。さあ、どうぞ」

 馬にまたがったスコットが手を差し出した。マリアンヌは言われるままに、彼の手をつかんだ。彼女を前鞍に座らせて、彼は馬の横腹を蹴った。芦毛の馬はゆっくり歩き出し、徐々にスピードを上げて駆け出した。


 スコットが連れていったのは、廃村のはずれにある小高い丘だった。坊主頭を思わせる丸い頂の上からは、スコットの農場はもちろん、その向こうに広がる大草原から、東に流れる川、さらにその先には砂丘もうかがうことができる。砂丘の向こうには、かすかに海を見ることもできた。

 雄大な平原の風景は、昇ってくる朝日に照らし出されて、輝きを得ていた。寒い朝なので、一面の草原にはうっすら霜が降りている。それに朝の光が反射して、小さな宝石がいくつも集まったかのように、きらきら光っていた。

「きれい……」

 馬から下りて、景色全体を見渡したマリアンヌは、琥珀金のような光に照らされるダナン島の風景を前に息を飲んだ。

「そうでしょう。ここはわたしの好きなスポットでしてね。晴れて空気の澄んだ日には、よくここに来るんです」

 スコットは馬を下りて、彼女の横に立った。

「何もないところだと思ったけど、ダナン島のいいところを見た気がするわ」

「ははは。確かに何もないところです。ですが、何もないからこそ、何でもできる可能性があります。まっさらなキャンバスに、どんな絵を書き加えようか、まず想像するところから、絵を描く楽しみがあるように……」

 彼は草原を指さした。

「多くの人には、これらの広い草原がただの荒れ地にしか見えないでしょう。それは事実です。ですが、わたしは、ディカルト諸島の中に、これだけ広い草原があるところをほかに知りません。ディカルト諸島は総じて山がちで、耕作可能な土地が限られています。それを考えると、ここダナン島は、ディカルトにとって得難い土地なんです」

 そう言えば、ティシュリ島の農村も、山が迫っているようなところに畑を作っていたなと、マリアンヌは思い出した。

「わたしは、この草原を開拓して、今は荒れ野であるここ一帯が豊かな麦畑や豆畑になるのを思い描くことができます。東の川から灌漑水路を引いて、十分な用水を確保することもできるでしょう。そして、この丘の周辺など、放牧地には牛や馬が草をはむ。試してはいませんが、もしかしたら果樹園も作ることができるかもしれない。……この光に照らされた島の様子を眺めるたび、わたしは、農業の楽園となったダナン島の姿を想像するんです」

「でも、きっと現実には難しいよね」

「わたしひとりでできるとは思っていません。ですが、この島に渡った開拓民が力を結集すれば、この島を、ディカルト諸島有数の穀倉地帯にすることは、遠からぬ将来に実現できると思います」

「それこそ難しいことじゃないかな。島の人たちはもうやる気を失っているし、フロンティア精神も持ち合わせていないわ。そんな人たちの力を合わせるって、一番難しい気がするよ」

 彼女がそう言うと、スコットは彼女の目を見て、言った。

「わたしがこの島に入植する決心をした、大きな理由はそこなのです。開拓が停滞してしまってから久しいこのダナン島だからこそ、自分の培ってきた研究や農業技術を、もっとも人のために生かすことができる、そう思ったのですよ」

 スコットはいったん、昔を思い出すように空を見上げた。

「十年前にこの島にやってきたとき、わたしはこの島に大きな可能性を感じました。同時に、気力の萎えてしまっている開拓民の姿も知っています。もったいない話です。目の前にこんな宝があるのに、それに気がついていないのですから。ダナン島とここの住民は、助けを必要としていました。力になりたいと思ったのはその時です。わたしはダナン島へ移住する計画を始めました」

「……」

「口で教えることも、わたしが持っている研究成果を提供することもできるでしょう。ですが、実際に成果を見せることが、一番の教材になると思います。ここに試験農場を作ったのはそのためです。ですから、わたしはなんとしても、わたしの研究の結晶であるこの農場を成功させねばなりません。わたしの成功例を身近に見た上で、島の人たちにわたしの農業技術と心得を伝授すれば、きっとみんな動いてくれるはずです。そうすれば、わたしの夢である、この島をディカルト連邦でも一、二を争う穀倉地帯に、農業の楽園にすることが可能になると思うのです」

 彼はしっかりした口調で語り、改めて、太陽に光に照らされた大草原を見つめた。冬枯れの草が生い茂るただの荒れ地だが、彼の言うとおり、ここは真っ白いキャンバス。どんな絵も描くことができる、可能性を秘めた空間だ。

『スコットさんの夢は、島の人たちみんなの夢のはずだわ。みんな、ここに農場を作るためにやって来たんだから。ひとかけらの夢も無限大の可能性だもん。ここを豊かな農場にするのは、絶対にできないことなんかじゃない。きっと、あたしができることって、この夢を実現するためにみんなを助けることなんだわ』

 スコットの言葉の余韻を頭の中でリフレインしながら、マリアンヌは大草原をじっと見つめていた。


 朝食を食べてから、マリアンヌたち一行はサザーランド農場をあとにして、ダイヤンに戻った。

 スコットは、船内食の足しにと、麦を一袋と大豆を一袋、マリアンヌたちにくれた。一袋といっても、50ポンド入りの大袋である。大事な食料であるはずだし、それを街に持っていって売れば金に換えることもできるはずだ。マリアンヌたちは断ったのだが、スコットはどうしてもと言って譲らなかった。

「ほんとうに至れり尽くせりだったね。あ、そうだ。あたし、ちょっと寄るところがあるから、みんなは出航準備をしておいてね」

 ダイヤンの街に着いたとき、マリアンヌはそう言って、荷車から降りた。

 仲間たちが港に向かうのを見ながら、彼女は一軒の建物に入っていった。建物の中からは、カンカンと鉄を叩く音が響いていた。

「こんにちは、マックスウェルさん」

「ん? おお、船乗りのお嬢ちゃんじゃないか」

 マックスウェルは、赤く焼けた鉄を叩くのをやめて、顔を上げた。

「サザーランドさんの奥さんからお金を預かってきたわ。包丁の代金だって。スコットさんも奥さんも、マックスウェルさんの作る鉄器は出来がいいってほめてたよ」

「そりゃありがたいね。あの先生と奥さんだけだな、オレの仕事をほめてくれるのは。この年になっても、ほめられりゃ仕事にやりがいが出るもんよ」

 彼はいかつい顔に笑顔を浮かべた。立ち上がって、腰掛けを引っぱり出すと、彼女に座るように言った。

「腕のいい職人さんなんだね。鍬とか鎌とか、農機具を作る仕事ってあるの?」

「ああ、そうだな。昔はあった。だが、今は研ぎの仕事が多いな。農機具ってのは消耗品だ。研いでいって、刃がちびたら新しいのに取り替える。けどよ、この島の奴らは、頻繁に研がなきゃならんほど、鋤も鎌も使わねえ。ましてや新品の注文なんて、ここのところサザーランドの奥さんとこからしか舞い込まねえよ」

 彼は彼女の横に腰掛けると、ごつい腕を回して、彼女の肩を抱いた。

「お嬢ちゃん、聞いてくれ。オレの家は代々鍛冶屋でな、鉄の街ファンジルケームでも指折りの老舗なんだ。『マックスウェルの黄金のハンマー』って呼ばれてな。おやじも兄貴も腕利きの鍛冶屋だ。オレはおやじにしごかれて鍛えた鍛冶の腕を、世のため人のために使いたいって思って、移民船に乗ってこの島に来たんだ。開拓民の使う道具を作ることで、みんなの役に立とうと思ってな。……けどよ、島はこの有様だ。島の人間が開拓を棄ててしまってから、オレも腕の振るいようがねえ。オレはこんなところで、飲んだくれて生活なんかしたくねえ。かといって、島の役に立つってここに来た以上、ここを棄てて故郷に帰るわけにもいかねえんだよ」

 彼の言葉の最後は愚痴っぽくなり、時々涙声が混じった。筋肉系の中年男に肩を組まれて、そのうえめそめそ愚痴をこぼされて、彼女は迷惑そうな顔をした。

「島の人たちがまた開拓に動き出したら、きっとマックスウェルさんの仕事も増えるね」

「そりゃそうだろ。けど、無理だな。酒場で島の連中の姿を見たろう?」

「あたし、島の人たちがまた開拓に戻れるように手助けしたいの」

 マリアンヌの言葉に、マックスウェルはまじまじと彼女の顔を見た。

「本気か?」

「本気よ。スコットさんは、この島を農業の楽園にする夢を実現させるために、立派な農場を作ってる。ここにやってきた人たちだって、みんな夢を持ってここに来てるでしょ。それが小さなかけらになっちゃっても、心の奥に隠れちゃってても、それは無限大の可能性を持ってる。みんながもう一度、夢に向かっていく元気を出させてあげたいの。それが、あたしにできることだと思うから」

 彼女は真剣な眼差しで、きっぱりと言った。

 マックスウェルは彼女の目をしばらく見ていたが、ぱんとひざを叩いて、歯をむき出して笑った。

「お嬢ちゃん、気に入ったぞ。島の連中の中にも、きっとお嬢ちゃんの心意気がわかる奴がいるだろう。オレにできることがあったら、何でも言ってくれ」

「その前に、鍛冶仕事にいるものを教えてくれない? まず手始めに、島の人たちが必要としているものを仕入れてこようと思うの。その時に買ってくるわ。マックスウェルさんには、たくさん道具を作って欲しいからね」

 マックスウェルはしばらく考えてから、

「鋼が欲しい。あと石炭。鋼が足りなけりゃ、鉄くずで代用するから、それを頼むぜ」

「わかったわ」

 マリアンヌは鍛冶屋をあとにすると、駆け足で港に戻った。

「お帰り。遅かったね。出航準備は整ってるよ」

 港ではアッシャーが待っていて、彼女を艀に乗せた。さりげなくエスコートすることができるのは、日頃の王子様キャラがなせる業だろうか。

 インフィニティ号に乗り込むと、すでに、いつでも出航できる体勢になっていた。

「依頼された仕事はこれで完了ですね。ティシュリに戻りますか」

 船長のセレウコスが訊ねると、彼女は首を振った。

「ううん。今からオデルに向かうわ。オデルの総合交易所に行って、いろいろ買い込むの」

「提督。ここはいったんティシュリに帰って、報酬を受け取るのが先ではないですか?」

 セレウコスが意見したが、彼女はまた首を振った。

「ティシュリに帰る時間はないわ。ダナン島の厳しい冬がやってくる前に、オデルで物資をできるだけ仕入れて、またここに戻ってくるのよ」

「提督、どういうことだ?」

 ジュリアスが腕組みして首を傾げた。

「提督。やっぱり島のために投資をする気なんだね」

 アッシャーの発言に、マリアンヌは首を縦に振った。

「スコットさんに会って、この島の人たちのために、あたしに何ができるかわかった気がするの。確かに、島の人たちみんなを豊かにしたり、街を作り直したりするようなお金を渡すことはできないけど、みんなが昔の夢を取り戻して、また開拓に戻るきっかけを作ることが、もしかしたらできるんじゃないかって。具体的に何ができるかよくわからないけどさ、島の人が必要としているものを仕入れてくるとか、できることは何でもしておきたいの」

「嬢ちゃん。人の心を動かすのは、一番難儀なことかもしれんぞ」

 カッサンドロスが難しい表情を作り、諭すように言った。

「提督。酒場で島の連中にこけにされたじゃねえか。提督の説得を『ガキのきれい事』ってぬかしやがったんだぜ。そんな連中のためになんかしてやる必要があるのか?」

 ジュリアスも難しい表情で訊ねた。

「じいさんもジュリアスも、言いたいことはわかるわ。でも、うずいちゃって仕方がないの。ダナン島の人たちは、口には出さないけど、助けを欲しがってるのがわかるのよ。それに、夢を見失って、みんながくらーいお酒で飲んだくれているなんてもったいないし、そのせいで開拓地がほっておかれているのももったいないよ」

 彼女は右手で軽く握り拳を作り、胸のあたりに持ってくると、それを見つめながら言葉を続けた。

「手を差し伸べないで、いろいろ理由を付けることはできるけど、きっとあとで後悔する。何もしないで後悔するよりは、自分にできることをいろいろやってから後悔するほうが何倍もいいわ」

 彼女は言葉を切って、仲間たちの顔を見渡した。

「これはあたしの勝手よね。みんながだめだって言うなら仕方がないわ」

「いいじゃねえか。お嬢の言うとおりにしようぜぇ」

 先に発言したのはプトレマイオスだった。

「考えてもみろ。一番お嬢らしい決定じゃねえか。てめえのことばかり考えねえ、ほかの奴らのことを考えるのがお嬢だろう。それがお嬢の魅力なんだろうが。てめえら、それをわかってるからお嬢についてきてるんじゃねえのかぁ」

「……そうだな。わかりました、お嬢ちゃんの意向に従います」

「ふむふむ……艦隊で一番知性のない男に説得されるとはの……。プットの言うとおりじゃ。嬢ちゃんの一番の魅力を、仲間のわしらがつぶしてはいかんの」

「ボクははじめから賛成だったからね。もちろん提督に従うよ」

「提督は、オレの思った以上にバカだな……。島の人間にこけにされても、まだ島の人間のことを考えてやがるとは……。いい度胸だ、改めて惚れ直したぜ」

 仲間たちの賛成を得て、マリアンヌはにっこり笑った。

「よしっ。そうと決まれば、さっそく出航よ。セル、オデルまで全速力ね」

「了解。総員、配置につけ。出航する」

 セレウコスの号令を受けて、航海士たちも船員たちも、船の中を動き始めた。

 北国の冬空の下、インフィニティ号は帆を広げ、ダナン島をあとにした。


 オデル港はメインステート島の南端に位置する。連邦第二の都市であるキシュの外港であり、街の規模は大きくないが、この街には「総合交易所」と呼ばれる、ディカルト連邦内でも一、二を争う大きさの交易市場がある。総合交易所と呼ばれるのは、ここで扱われる交易品が、所属するアディル共和国及び母体都市であるキシュの産物だけでなく、メインステート島南部の諸国、セラーニ、シェートラント、バイザングルトの三共和国の産物も扱っているからである。

 12月10日。ダナン島からメインステート島に舞い戻ったマリアンヌたちは、オデル港に寄港した。上陸すると、さっそく総合交易所に足を向けた。

 交易所に行く目的は、ダナン島の島民が必要とする物資を買い込むことだが、マリアンヌにはもう一つやりたいことがあった。

「いらっしゃい」

 交易所で、顔なじみになっている番頭があいさつしてきた。

「50ポンドの大袋がひとつだけなんだけど、大豆を買ってほしいの」

 彼女は番頭に告げた。後ろから、プトレマイオスが大豆の袋を肩に担いで持ってきている。

 これはスコットが好意で彼女たちにくれた大豆の大袋である。彼は船内食の足しにということで渡してくれたのだが、彼女は、これを交易所に持ち込んで、商品価値を確かめてみようと思いついたのだ。

「大豆? どこの産物ですか?」

「ダナン島よ」

 番頭の問いに彼女が答えると、番頭は驚いた顔をした。

「これは驚きました。ダナン島に産物ができていたとは。もうとっくに見捨てられた場所だと思いこんでいましたが」

「まだ、本格的に生産しているわけではないわ。でも、もしかしたら、来年から少しずつ出荷されるかもしれないわね。今日は、この大豆にどれくらい価値があるのか、プロの商人の目で見てもらいたいと思ってきたの」

「そうですか。とはいえ、産業の発展していないダナン島で初産の大豆ですから、あまり期待はしませんが……とりあえず、品物を見せていただけますか」

 プトレマイオスが袋を床に降ろした。番頭は袋の口を開けると、麻袋いっぱいに詰まった大豆を右手ですくい取り、粒をじっくりと吟味し始めた。

「ふむ……ふむふむ……。なかなか出来がいいですね。粒も大きいし、艶もいい。正直、品質がいいので驚きました。これなら、どこの市場に出しても恥ずかしくないですよ」

「プロが言うんだから間違いないよね。で、何ターバルの値段を付けてくれるの?」

 番頭はしばらくの間そろばんをはじいていたが、

「これ一袋の値段でしたら、3ターバルですね。船荷用の樽ひとつでしたら、22ターバルと言うところになりますね」

「ふーん。……けっこういい値段ね。小麦よりちょっと高い値段が付くんだ」

 思ったよりいい評価をもらって、彼女は満足そうにくちびるをゆるめた。ディカルト諸島の地域では、一般的な小麦は一樽あたり15ターバルから21ターバルの売価になる。交易所の番頭が付けた値段が大豆取引の底値だとすれば、大豆は小麦より高く売れることになる。

「東大洋沿岸に大豆の主立った産地が存在しないんです。大豆の主産地は西方大陸ですから。ですからディカルト周辺では、いい値段で取り引きできると思いますよ。もしダナン島で大豆生産が成功すれば、大きな産業になるかもしれないですね。ひょっとすると、ディカルト諸島のみならず、中央大陸に輸出できる産物になるかもしれません」

「へえ。そりゃいいこと聞いちゃった。ダナン島に帰ったらスコットさんに教えてあげよ」

 マリアンヌはにっこり笑顔になった。

「じゃあ、この大豆はその値段で買い取ってくれる?」

「はい。毎度あり」

 飛び込みで持ち込んだ大豆を売って、彼女は3ターバルを手に入れた。これはダナン島に戻ったときに、スコットに返すつもりだ。

「豆を売ったからよぉ、酒場に行こうぜぇ」

 プトレマイオスは一仕事を終えたので、酒をねだったが、マリアンヌはきっぱり「だめ」と言った。

「仕事は終わりじゃないわよ。今度はダナン島に持っていく荷物を買い込まなきゃ。こっちの仕事のほうがメインなんだからね」

 そう言うと、彼女はプトレマイオスを連れてしばらく交易所を歩き回り、商品の買い付けにいそしんだ。仲間たちと手分けして、キシュ産の鉄製品(つるはし、シャベルなどの土木道具)や鋼、バイザングルト産の木材や木炭、シェートラント産の石炭、セラーニ産の大麦やジャガイモ……ダナン島の島民が、厳しい冬を乗り越え、島の開発に着手するのに必要と思われるものを、インフィニティ号の積載容量の限界になるまで買い集めた。

 そして、買い付けが終わって交易所から引き返した時には、もう日が落ちていた。

 マリアンヌたちは、オデルでの行きつけの酒場『踊るヤリイカ亭』で一息入れることにした。ダイヤンにあった繁栄の大地亭と違い、船乗り集まる、喧噪と笑い声に満ちた店内で、彼女たちはやっと落ち着いた雰囲気になった。

「うひぃ~。やっぱり酒はネルソンズブラッドのもんだぜぇ」

 ダナン島ではありつけなかった好物にありついて、プトレマイオスはご満悦だった。

「やっぱこいつじゃねえと飲んだ気がしねえよ。よっしゃ、プットさん、勝負しようぜ」

「おうよ。受けて立ってやるぜぇ」

 同様に、好物のラム酒にありついて上機嫌のジュリアスが、プトレマイオスに、ラム酒の樽一気飲み勝負を挑んだ。そして、二人は怒濤の飲み比べを開始した。

「お嬢ちゃん。あの二人、また始めましたよ」

 白ワインの入ったグラスを傾けながら、セレウコスが酒豪二人にあきれたような目を向けて、マリアンヌに言った。

「今日くらいは許してあげるわ。たくさん働いてくれたから」

 マリアンヌも、大好物のビールにありついて上機嫌だった。

 六人が六様に楽しんでいるとき、彼女は近くの席から、航海士風の男たちがうわさ話をしているのに気がついた。何の気なしにその話を耳にしていると、こんな話が飛び込んできた。

「そういや、この間ランシェルから囚人船が出航したらしいぜ」

「囚人船? 今時珍しいな。開拓地に囚人を送る『流刑政策』は、ここ数年凍結されてたはずだろう」

「表向きはな。でも、小規模には続いていたらしいぜ。最近は移民希望者も減ってきてるらしいしな」

「で、その船はどこに向かったんだ?」

「何でも、ダナン島らしいぜ」

 マリアンヌは、酒場女をナンパしようとしていたカッサンドロスを無理に呼びつけると、うわさ話をしていた男たちの席に近づいた。そして、男たちにビールを一瓶渡した。

「ん、なんだ?」

「ねえ、その囚人船の話、ほんとうなの?」

 彼女が訊ねると、情報を出していた男はうなずいた。

「ああ、間違いねえらしいよ。この目で見て確認したらしいからな」

「これはひょっとすると、連邦政府もダナン島開発に本腰を入れることにしたのかもしれんぞ」

 カッサンドロスが言った。

「どうして?」

「ダナン島は人口流出が続いておる。志願しての移民が足りない植民地に、窃盗や暴力行為などの軽量犯の囚人を流刑囚として送り込んで、開拓を進めることは昔から行われていた。ディカルト諸島自体も、移民の一部は大陸から島流しにされた人間だからの。じゃから、労働力の減少が続いているダナン島に、政府が囚人を労働力として送ったということも考えられるわけじゃ」

 カッサンドロスの説明を聞いて、マリアンヌはうなずいた。

「もしかしたら、あたしたちがダナン島を支援しようとしているのも、グッドタイミングだったかもね」

「そうだとええのう。様子は、行ってみんことにはわからんがの」

 カッサンドロスはどこか合点がいかないのか、首を傾げてあごひげをひねった。


 オデルを出航して、インフィニティ号がダナン島の港町ダイヤンに再度入港したのは、12月13日のことだった。

「これだけの物資が入ってくるんだもの。島のみんな、きっとよろこぶよ」

 入り江に入り、港が近づいてくるに連れて、マリアンヌはうきうきした気分になった。やっぱり、人のよろこぶ顔を見るのが一番幸せなんだと彼女は思った。

「定期船も入ってきていないようですね。きっと、島民も物資を待ちわびていることでしょう」

 セレウコスが彼女の言葉を肯定するように言った。

「あれ? ねえ、港に来ている人がいるよ。もしかしたら、ミシェルさんじゃない」

 不意に、マストの上で見張りをしていたアッシャーが彼女たちに伝えた。

「え? ミシェルさんがわざわざここに来てるの?」

「ほほう。もしかしたら、わしがくるのを待ちわびておったのかのう」

「それは絶対にないと思うわ」

 マリアンヌは望遠鏡を受け取り、港をよく目を凝らして見た。

 サザーランド農場にいた芦毛の馬にまたがった、小柄な女性が、港でインフィニティ号のほうを見ているのがわかった。

「スコットさんはいないんだ……。なんかやな予感がする」

 彼女はなんだか不安を覚え、船員たちに指示を出した。

「カッターを出して。一足先に上陸するわ。じいさん、ついてきて」

 インフィニティ号から小舟が出され、マリアンヌとカッサンドロス、漕ぎ手の船員が乗り込んだ。そして、速度を上げて、桟橋めがけて漕ぎ出した。

 桟橋に近づくと、マリアンヌはさっと小舟から陸地に飛び移り、上陸にもたついているカッサンドロスを待つことなく、駆け足でミシェルに近づいた。

「ああ、マリアンヌさん」

「どうしたのミシェルさん。なんだか顔色悪いよ。スコットさんは?」

 農場を訪問したときには、丸顔の愛嬌ある顔に笑顔を絶やさなかったミシェルだが、今の彼女はひどく心配した表情になっていて、少しやつれている。

 彼女は一呼吸おいて、マリアンヌに言った。

「実は、主人が行方不明なんです」



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