航海少女マリアンヌ -2nd Logbook(開拓編)-

宮嶋いつく

第1話 金がいるなら仕事しよう

 世界の中心にある中央大陸から、東に2400マイル。そこには、ディカルト諸島という島々がある。別名を「旭日の海」とも言う東大洋上に浮かぶそれらの島々は、約300年前から、移民によって開拓された土地である。新天地として、ゼロの状態から開発がなされた辺境のフロンティアも、今では「ディカルト諸島連邦共和国」という国家機構のもと、中央大陸に割拠する大国とも肩を並べることのできる国にまで成長した。もっとも、未だに大陸からは「辺境の島国」程度にしか認識されていないが。

 島国であるゆえに、農耕を行える土地は狭い。農業生産力が低いことは、経済的に大きなハンデになる。だが、島々の地下に埋蔵された鉱産資源、島国であるがゆえに必然的に発展した、世界トップレベルの航海技術と造船技術。なによりも、ディカルト人に綿々と受け継がれたフロンティア精神で、ディカルト連邦は発展を、とりわけ経済的な成長を続けている。近年、長い間関心を払われず、うち捨てられたとも言える状態だった外洋航路が世界的に見直され、海運に注目が集まってきた。経験を積んだディカルトの船乗りたちが活躍する場は、世界中に広がってきている。

 この海洋冒険物語の中心舞台であるディカルト諸島はこのようなところである。

 そのディカルト諸島の西端に位置するティシュリ島。その中心都市であるティシュリ市は、ディカルト諸島の玄関口として、また、エメラルドや鉄鉱石といった島の特産物の集積地としてにぎわう港町である。

 街の玄関である港に隣接して広場があり、そこから島の幹線道路が北、東、西に延びている。北に向かう道路は町の中心部を通って、山地の諸都市に向かう。東に向かう道路はティシュリの下町を横切り、連邦海軍の基地のそばを通って、70マイルほど離れたコーソンという村に至る。北に向かう道が鉱山都市とティシュリを結ぶ道なら、こちらの道は近郊の農村とティシュリを結ぶ道なのだ。

 港前の広場から西に向かう道は、ティシュリ下町を横切り、海岸線に沿って島の西側の村々を結んでいる。この道路の沿線には町工場が多く、鉄工所から景気よく鉄を叩く音がにぎやかに聞こえてくる。鋼材や鉄器の生産もこの街では盛んなのだ。

 聖皇歴990年11月25日の昼下がり。マリアンヌ・シャルマーニュは、アッシャー・バニパルとジュリアス・セザールの二人を連れて、この道路を歩いていた。

 マリアンヌ・シャルマーニュ。976年生まれの14歳。しょうが色の長い髪をした、顔立ちの整ったなかなかの美少女だ。生まれも育ちもこのティシュリの下町という、生粋のディカルト娘。物怖じせずあっけらかんとした性格も、陽気で社交的なディカルト人らしい。一見そんな、どこにでもいるようなふつうの女の子だが、職業は船乗り、しかも、私設艦隊を率いる提督なのである。

 マリアンヌたちは幹線道路を歩いて、町中を流れるハーマン川にかかる橋を渡り、ベンフォード地区にやってきた。ここはティシュリ市内で一番工場が集まっているところである。ここから南に行くと、砂州状の半島があり、砂州の上にサンダース地区という街がある。そこはティシュリの漁港になっており、魚市場もある。砂州の先には、エタニム山という、海抜200フィートほどの小山があり、その山頂には「十月の塔」という砦が建っている。十月の塔は共和国防衛軍の基地であり、ここから港や街を見張って、市民の安全を守っているのだ。

 ベンフォード区のハーマン川沿いから海沿いまでのあたりは、造船所が軒を連ねている。その中の一軒をマリアンヌたちは訪れた。

 造船所のドックにあげられているのは、マリアンヌの船インフィニティ号だ。その船を整備している黒人の若い船大工に、彼女は声をかけた。

「タイロン、調子はどう?」

「やあ、マリアンヌ。うん、もう修理は終わったよ。あとは修理跡を塗装して完成さ」 

 若者は彼女のほうを振り向いて言った。

 彼の名前はタイロン・ロー。プライマリースクール時代のマリアンヌのクラスメートで、卒業後から見習い船大工としてここの造船所で働いている。学力もスポーツも特に秀でていなかったが、小さい頃から手先が器用で、機械いじりが得意だったことから、マリアンヌたちも彼を便利屋のようにいいように使っていた。

「タイロンが修理したの?」

「そうだよ。最近は修理くらいだったら任されるようになったんだ」

「へえ、腕あげたのね」

「まあ、少しはね。でも、親父っさんにいわせるとまだまだ半人前にも行かないって。立派な船を造れて初めて船大工だからね」

 彼女はタイロンを改めて見つめた。五分刈りの頭に顔立ちは年相応だが、体つきはだんだんと職人らしくたくましくなってきている。彼女は少し彼を見直した。

「棟梁のゼップさんはいる?」

「うん。親父っさんに用事なら、事務室に行って来なよ。ぼくは今のうちに塗装を済ましておくから」

 そう言って、タイロンは船の修理に戻った。

 屋根付きのドックに隣接して事務所の建物がある。マリアンヌたちはその中に入った。建物の中では、白髪頭に、日焼けした赤ら顔の、いかにも頑固そうな親父がパイプを吹かしていた。彼がこの造船所の棟梁のルイス・ゼップ氏で、ティシュリでも有数の腕利き船大工として知られる。

「おお、シャルマーニュのお嬢ちゃんかい。なんの用だ」

 ゼップはパイプをくわえ込んだまま彼女に声をかけた。

「あたしの艦隊の船を増やしたいのよ。それで、どんな船があるか見に来たの」

 彼女は振り返って、同行してきた二人の若者、アッシャーとジュリアスを見た。

「新しい仲間も増えたことだしね」

 マリアンヌの当面の目標は、本格的な艦隊を結成することだ。

 これまで艦隊提督という肩書きでこの二年、ディカルト諸島周辺で交易などを行い、先頃には中央大陸のコスバイア皇国に出向いて商売をしてきた彼女だったが、彼女の指揮する艦隊は現在旗艦のインフィニティ号一隻だけだ。近海で細々と商売をするにとどまらず、活動範囲を広げていこうと彼女は考えていたが、ディカルト諸島と中央大陸の間に広がる東大洋を往復するに、一隻だけでは心細いし、効率も悪い。ましてや彼女の大きな夢、世界一の航海者になるという目標を達成するのに、船一隻では心許ない。

「豪儀なもんだな。中古もあるが、新造なら大歓迎だぜ」

「中古船だとなにがあるの? 見せてもらえないかな」

「中古なんていやだよ。ボクの乗る船は新品じゃなきゃ」

 マリアンヌの背後からアッシャーが口を出した。

 アッシャー・バニパル。968年生まれの22歳。少しオレンジ色のかったさらさらのストレートヘアー、細面で色白の顔、涼やかな瞳が特徴。少し軽薄そうな雰囲気を漂わせてはいるが、なかなか美形な青年だ。実家は金持ちで、それは彼の着ている、ベルベットの上下と上質の絹のシャツにも表れている。

「新造だと手持ち資金でいいのが買えるかどうかわからないでしょ。中古でも、安くて状態のいいのがあったら、新造船買うより得じゃない」

「だって、中古船なんて貧乏くさいもの。セレブのボクに釣り合わないよ」

「貧乏くさいなんて決めつけないでよ。整備次第で新造並みにきれいになるらしいわよ」

「きれいにしても中古は中古だよ。安物になんか乗りたくないな」

「おい、アッシャー。ぐだぐだとわがまま言うんじゃねえ。てめえの実家と違って、提督はそんなに金持ちじゃねえんだぜ。むしろ貧乏提督なんだ」

 見かねたジュリアスがアッシャーをたしなめた。

 ジュリアス・セザール。965年生まれの25歳。6フィートを越える長身で、たくましい身体付きをしている。アッシャーと対照的にいかつい顔立ちで、目つきは抜き身の刃物のように鋭く、額と右頬にくっきりと刀傷が残っている。平たく言えば悪相だ。艶なしの黒い髪はぼさぼさで、ヘアバンドを使って無造作にまとめている。元連邦海軍士官だったが、事情があって退役している。今も着ている、ずいぶんとくたびれたフロックコートは連邦海軍の士官服で、彼が元軍人だった証だ。

「貧乏提督ってはっきり言われるとへこむわね。ジュリアスは中古でもかまわないのね?」

「船にまた乗れるだけでオレはうれしい。文句はねえよ」

 ジュリアスはいったんそう言ってから、付け加えた。

「だけど、注文は付けとくぜ。オレは戦が専門だからな、戦闘仕様の船じゃなきゃ乗らないぜ」

「それならちょうど良かったわ。あんたには護衛艦に乗ってもらおうと思ってたとこだから」

 想定していた範囲の注文だったのでマリアンヌは幾分ほっとした。

「おーい、話はすんだか」

 置き去りにされていたゼップが声をかけたので、マリアンヌははっとして振り返った。

「あ、ごめんなさい。とりあえず、どんな船があるのか見せて」

「そうだな……まずおまえさんがどんな用途に使うかによるわな」

「用途?」

「そうだ。その船をどんな目的に使うかによって、船体のタイプも変わってくる。商船だったら荷物をより多く積み込めるようにキャパシティのでかい船がいい。戦艦だったら、乗組員が多くて、頑丈で、小回りの利く船がいい。探険に使う船なら、必要な人数が少なくて船足の速い船がいい」

 ゼップは彼女に船選びの講釈をした。

「なるほどね。だったら、輸送船向きの船が一隻と、護衛艦が一隻、合わせて二隻増やしたいの。それに向くのはどんな船かしら」

「輸送船向きなら、代表格はキャラックだな。商船仕様の大型船だが、改造次第では戦艦にもなる優れ物だ。あと、こいつは大陸で一番人気のある大型船の型でな、大量に出回っている。その分、中古市場ではだぶついていているから、中古からの整備なら安くできるのも強みだな。ただ、この型は喫水が深いから船足は鈍る」

 ゼップは紹介しながら、川沿いにあるドックに彼女たちを案内した。そこには中古の船が五隻ばかり、整備途中の状態で保管されていた。そのうちの一隻の船体を彼は平手でぽんぽん叩いた。

「この船ならだいぶん状態はいい。竜骨はしっかりしているし、130フィートの大型キャラックだから輸送船に申し分ない。整備費込みで安くしておくぜ」

「ふーん、安いってどのくらい?」

「1万5千ターバルだな」

 値段を聞いてマリアンヌはしばらく考え込んだ。値段を下げて1万5千ターバルだが、彼女にしては高い買い物なのだ。それに、想定していたよりもずっと高い値段だった。

「船足が遅いのはちょっといやだな。提督の旗艦はクリッパーだから置いて行かれてしまう。船足を速くできないかな」

 マリアンヌの頭越しにアッシャーが訊ねると、ゼップは「できる」と答え、マストを指さした。

「こいつの艤装は前二本のマストにメーンスルとトップスルの二層だが、マストを伸ばしてもう一枚帆を追加すればいい。そうすりゃ、最近流行りのトギャランスルの付いたバーク帆装になる。それに加えて、マストとマストの間にステースルを張ることもできるな。そうやって帆を増やす分だけ推進力も上がるって寸法だ。ただし、トップヘビーになるから横揺れに弱くなるし、マストに負担がかかって壊れやすくなるがな」

 ゼップはひとつ咳払いし、今度は船底を指さした。

「もう一つの方法は、船底の部分を銅張りにすることだ。木製の船は水の中で抵抗力を受けて船足がある程度鈍くなるもんだが、金属張りにするとその抵抗力が弱くなる。それと、船底を重くするから、重心が下がって安定する。ただ、壊れたときに修理がしづらくなるのが難点だな」

 彼はアッシャーの顔を見た。

「わしとしては、改造するなら両方ともやることを勧めるが、どうするかね。工賃は全部で8千ターバルかかるが」

「ちょっとストップ」

 マリアンヌが二人の間をさえぎり、振り返ってアッシャーに小声で言った。

「勝手にお金のかかることをしないでちょうだい。今、貯金をはたいても資金が2万5千ターバルなのよ。この船にお金かけ過ぎたら、ジュリアスの船を買えなくなるじゃない」

「それっぽっちしかないの? ボクの持っていた会社でも50万ターバルの資本金があったのに。ほんとに提督は貧乏な零細提督なんだなあ」

 アッシャーは本気で驚いた。マリアンヌはむかっとしたが、アッシャーの実家はディカルト諸島有数の複合企業、バニパル=シンジケートの会長である。大富豪のボンボンと下町の庶民出身では金銭感覚が違う。彼女がなにか言い返したところで無駄だった。

「じゃあさ、ボクの船だけ買ったらどう? そして、またお金ができたらジュリアスのも買えばいいじゃない」

 アッシャーの意見はもっともらしいが、彼女は首を振った。

「あんたにいい船を買って、ジュリアスが後回しじゃ不公平よ。だから、とりあえずは二人とも自分の指揮する船を乗れるように考えたいの」

 彼女はゼップのほうを向いて言った。

「ゼップさん、とりあえず改造は後回しにするわ。それより、もう一つ見繕ってほしいんだけど。護衛艦に向く船はどれかしら」

「なんでえ、改造はなしか。まあ、いいだろう」

 ゼップは不満そうに言ったが、すぐに気を取り直して、ドックに並べられた船のひとつを彼女たちに見せた。

「戦闘向きの上物があるぜ。120フィート級のバーク艤装フリゲートだ。連邦海軍の軽巡洋艦だった物の払い下げさ。建造されてからかなりたっているが、造りはしっかりしているし、砲列甲板付きだから大砲も搭載できるぜ。船の大きさからして8門までだがな」

「おっ、そいつはいいな。戦闘用の船なら大砲は最低限なきゃならねえ」

 物件を見てジュリアスはうれしそうな表情をした。

「残念ながら、今は大砲を外している。搭載するには別注になるが」

「ファルカン砲やセーカー砲は弱いから論外だ。10ポンド砲ぐらいは最低でも搭載してえな。あと、ラム(衝角。船首部分の喫水線より下に設置し、敵艦の横腹に激突して船体を破壊する、紀元前より用いられた兵器)を取り付けてくれよ。オレは海軍にいたときは駆逐艦乗りだったから、突撃戦が得意なんだ」

 マリアンヌの頭越しにジュリアスはいろいろと注文を付けた。

「10ポンド砲をつけるとなると、一門あたり800ターバルが相場だな。8門載せりゃあ6400ターバルになる。こいつは別注だから値引き出来ねえ。ラムを取り付けるのはたぶん無理だぞ。今時の軍艦には付き物のバウスプリットにジブスルがついているからな。ラムを取り付けるにはジブを外さなきゃならねえが、どうする?」

 バウスプリットとは、船首から斜め前方に突き出したマストのことで、フォアマストとバウスプリットの間にジブと呼ばれる三角帆を展開する仕組みになっている。この形はディカルトで造船される新鋭艦には標準装備になっている。

「ああそうか。オレの乗っていた強襲コルベットみたいにはいかねえな。じゃあ、ラムを取り付けるのはなしとして、防弾装甲をつけてくれよ。最近は大砲を搭載した海賊船も現れるからな」

「いいぜ。それなら、整備費用もひっくるめて、合計2万6千ターバルで売るぜ」

「ちょっとストップ」

 マリアンヌは会話をさえぎって、ジュリアスのほうを向いた。

「ちょっと注文付け過ぎよ。あたしの手持ち資金は、貯金をはたいても2万5千ターバルなのよ。船を買った時点で破産してしまうわ」

「おいおい、それっぽっちで船を二隻も買おうとしたのか? 高々2万5千ターバルじゃあ小型船か安い中型船くらいしか買えねえぜ。提督、もうちっと考えて行動しようや」

 ジュリアスは彼女の話にあきれ顔で反応した。マリアンヌはむうっとむくれたが、彼の言うことは正解だったので、言い返したところで無駄だった。

「提督。それなら、オレの船だけ買うのはどうだ? そのあと商売して金ができたら、アッシャーの船も購入すればいいだろ」

 先ほどのアッシャーと同じようなことをジュリアスが提案した。彼の意見ももっともなところはあるが、彼女は首を振った。

「戦闘向きの船って、維持するのにお金がかかるのよ。商売に使えないし。今、護衛艦だけを買ったら、いくらがんばって商売しても貯金出来なるなるわ。それに、あんたにだけ船を買って、アッシャーが後回しだと不公平よ」

 現状で船の購入は無理っぽいと判断したマリアンヌは、申し訳なさそうな顔でゼップに向かって手を合わせた。

「ゼップさんごめんなさい。予算が足りないの。だから買えないわ」

 彼女が断りを入れると、ゼップはとたんに機嫌の悪い顔になった。

「なんでえ、冷やかしかよ。気張って損したぜ、くそめっ」

『ありゃ、怒らせちゃった。やばいなあ』

 ゼップは腕利きの船大工としてのみならず、ゼップの鉄火親父と呼ばれる、ティシュリ指折りの癇癪持ちとして知られている。気が短く、瞬間湯沸かし器のようにすぐに怒りが爆発する。しかも、どこで怒り出すかわからない。船の購入を断ったのが彼の怒りの信管に触れてしまったようで、彼女は弱ってしまった。

『買ったら機嫌も直るんだろうけど、今の手持ち資金じゃ無理だし……いちかばちか』

 彼女はしかめ面でパイプをくゆらすゼップに切り出した。

「じゃあさ、せっかく紹介してもらった船だし、買うことにしたいんだけど、予算の都合があるから……二隻合わせて2万5千ターバルにしてくれない?」

 値切ってでも購入すれば機嫌が直るかも、と考えたマリアンヌの判断は大はずれだった。ゼップ氏は赤熱した鉄瓶のように顔を真っ赤にし、頭から湯気を噴火させた。

「冗談も休み休み言いやがれ! わしの手がけた船をそんな値段で買いたたかれてたまるか! ふざけたことぬかすと、シャルマーニュのお嬢ちゃんでも承知せんぞ!」

「ご、ごめん。冗談よ」

「冗談もへちまもあるか! 船の価値もわからん奴はとっとと出て失せろ!」

「うわわ。みんな、逃げよっ」

 ここまで来ると暴れ牛と同じで手がつけられない。かんかんに怒ってしまったゼップ氏に追い出される形で、マリアンヌたちは造船所を後にせざるを得なかった。


 ティシュリ港と隣接する広場から、国道を挟んだ山の手側は、酒場などが建ち並ぶ歓楽街になっている。通りに常夜灯がともされ、夜になってもこの周辺は明るく、店から漏れる音楽や歌声、笑い声や騒ぎ声、通りに立っている、いかがわしい店の引き込みの呼び声などでにぎやかになっている。船乗りや港周辺で働く労働者たちが、晩になるとここにたむろし、夜が更けるまで飲んで騒ぐ。

 その日の晩、マリアンヌは仲間たちと、この酒場街の中心にある、船乗りの集まる大衆酒場、星の水鳥亭でテーブルを囲んでいた。

「あーあ、艦隊結成は無理なのかなあ。にしても、ゼップさんもあんなに怒らなくていいのに」

 褐色の発泡酒を飲みながら、彼女はため息をついた。ビールのように見えるが、実はホッピーをアクアヴィット(ジャガイモを原料にした強い蒸留酒)で割った混合飲料である。安いが、あまりおいしいものではない。

「棟梁が怒るのは無理もないですよ。職人は自分の腕に自信を持っているから、それを安く評価されたら腹も立つものです」

 ため息をつく彼女の横で、黒人航海士のセレウコス・ニカトールが諭すように言った。

 セレウコス・ニカトール。954年生まれの36歳。マリアンヌの艦隊で、旗艦インフィニティ号の船長を務める、腕利きの航海士だ。そして、マリアンヌの親代わり的な存在で、良き相談相手だ。6フィート4インチの長身で、屈強かつ均整のとれた身体付き、精悍な顔つきの、なかなかの美丈夫で、常に磨き上げているスキンヘッドの頭が特徴だ。

「でも、明日には船を取りに行かないといけないのに、ゼップさんかんかんになってたから、会ってくれないかも」

「その心配は無用でしょう。ああいう手合いの人物は、腹を立てても一晩眠ればころりと忘れてしまっているものです。もし不安なら、自分が船を取りに行きましょう」

「うん。そうして。あと、ゼップさんに謝っておいてくれない?」

「承知」

 彼女は一口混合ビールを飲み、またため息をついた。

「船ってあんなに高いものなのね。せっかくアッシャーとジュリアスが仲間になってくれたから、これで艦隊が結成できると思ったのに」

 正直なところを言うと、彼女は船の相場についてまったく知識を持っていなかった。彼女の使っている船は、彼女の父親で、今世紀最大の航海者と呼ばれた名提督、ジョゼフ・シャルマーニュが所有していた船で、彼が二年前に消息を絶ったとき、彼女が船を引き継いで使っているのだ。そのようなわけで、彼女はこれまで自分で船を買ったことがない。当然、船の相場を知る機会もなかった。

「ねえ、アッシャー。アッシャーの家からお金を借りられない? バニパル=シンジケートは金融もやっているんでしょ?」

 彼女はもぐもぐポークステーキを食べているアッシャーのほうを見た。アッシャーは食べる手を止め、少し考え込んだが、

「……難しいと思うよ。シンジケートには金融系の子会社があるけど、シンジケート内部の資金融通が主な業務だからね。それに、パパはあまり船乗りに融資したがらないんだ。グランパの代からの家訓に、『船乗り相手にはトイチの条件でも貸すな』って言うのがあるから」

「なによそれ」

「船乗りは金を貸しても踏み倒される場合が多いかららしいよ。だから、提督が頼んでもうんと言わないと思うな」

「そう……。ねえ、アッシャーのカオでなんとか貸してもらえない? 会長の御曹司だったらなんとかなるでしょ。5万ターバルあれば、艦隊を結成できるのよ。そうしたら、あんたの希望通りの船を買えるかもしれないよ」

 マリアンヌはアッシャーの顔をのぞき込んだ。アッシャーは指先で頭をかくと、困ったような表情で答えた。

「でも、ボクはこの前のビール組合乗っ取り未遂事件でパパの信用をなくしちゃったからね。それに、ボクは責任をとって役員を辞任したから、もうバニパル=シンジケートに対して、なんの力もないんだ」

 今年の初夏、ティシュリ島のキャンベル村にあるビール醸造組合に入るはずの大麦が、何者かに買い占められ、横取りされる事件が起きた。そのため、ビール組合は操業できなくなり、ティシュリ名物のビールが街から消えてしまった。

 これはアッシャーの仕業だった。大人気のビールを製造して利益を上げるビール組合をバニパル=シンジケート傘下に組み込むため、大麦を買い占めてビール組合をにっちもさっちもいかない状況に追い込んだ。その上で、大麦と引き替えにビール組合を乗っ取ろうと画策したのである。その交渉役(脅し役)兼護衛として、浪人中だった海賊のジュリアスを雇った。

 アッシャーのたくらみが成功しかけていたとき、ビール大好き娘のマリアンヌが、ビール組合と直談判して、中央大陸はコスバイア皇国産の大麦を仕入れる契約をし、大陸に飛んだ。アッシャーたちはその動きを知り、妨害するためにコスバイアに向かった。水面下の攻防に加え、ついにこのビール組合乗っ取り計画をめぐって、海戦にまでなった。戦いの結果、マリアンヌは辛くも勝利し、敗北したアッシャーとジュリアスは、降参してマリアンヌの配下になったのだった。

 このあたりの詳細は、1st Logbookを読んでいただきたい。

 このあと、アッシャーはビール組合への補償のために、自分の持ち株をすべて売却して補償金に充て、事件の責任をとってバニパル=シンジケートにおけるすべての役職を辞任した。そして、今はマリアンヌの艦隊の一員に加わっている次第である。

 なお、この事件の時に、アッシャーは貨物船のロード=オブ=オーシャン号に、ジュリアスは護衛艦のブラッディ=ウルフ号に乗っていたが、両船ともバニパル=シンジケートの所有する船なので、航海終了後に返却している。

「そこをなんとかならないかな? あんたも自分の船がほしいでしょ? 資金の手配さえつけば艦隊結成はできるし、もっと大きな航海もできるんだから」

「そうだけど……まあ、提督がそこまで言うならパパに頼んでみるよ。でも、期待しないでほしいな」

 アッシャーは渋々と言った感じでうなずいた。

「やったね。これで資金が手に入れば、すぐにでも本格的な艦隊を結成できるわ。あたしも、堂々と提督を名乗れるわね」

「お嬢ちゃん」

 セレウコスが割り込んできた。

「自分は賛成できません。艦隊結成にはまだ早いと思います」

「どーしてぇ?」

 気分に水を差されて、彼女は不満顔でセレウコスを見た。

「船を増やすとその維持費もまた増えます。借金をしてまで船を増やすと、維持費と返済で首が回らなくなるのは目に見えています」

「……そうかもしれないけど、船を増やせばもっと大きな商売も、長距離の航海も可能になるよ。だから船を増やして大きな商売すれば、資金もすぐに増えると思うけどな」

「それはうまく商売をすることができればです。逆に失敗してしまうと、損失も大きくなります。それに、今までの範囲で商売をしても、大きな利ざやが望めるとは思いませんし、大陸とディカルトを結ぶ交易で儲けることを考えても、遠距離航海に必要な運航経費を見ておかねばなりません。お嬢ちゃんが考えているほど簡単に資金を増やすことは不可能ですよ」

 彼女はむうとうなった。

「セルがそう言うなら、あきらめるわ。あーあ、艦隊結成は夢のまた夢なのかな」

「自分は、借金をした上で艦隊を結成するのには賛成できませんが、船を増やすこと自体に異議を唱えるつもりはありません。まず、艦隊を結成するのに必要な資金力を身につけるのが先決でしょう」

 セレウコスの言い分はまっとうだったので、彼女は黙って、グラスに残っていた酒を飲み干した。

「お金がいるなら仕事しろってことか。まあ、そのとおりよね」

 空になった彼女のグラスに、セレウコスが酒をついだ。

「わかったわ。明日、ギルドに行って、金になる仕事の話をもらってくるわ。それで仕事をこなせば、自分の力で資金力を作ったことになるわよね」

「金になる話など、そうは転がってないと思いますが……」

「わからないよ。案外おいしい話ってみつかるものだって聞いたもん。あたし運がいいし、いい話が聞けるかも」

 彼女はそう言って自信満々に笑顔を作ったが、その自信にはまったく根拠がない。

「そう言えば、ほかのみんなはどこに行ったの? プットは? ジュリアスは? じいさんもいないよ?」

「プットとジュリアスは奥です」

 セレウコスは酒場の奥の方を指さした。

 酒場の奥で、ジュリアスと、でっぷりと太った男が、ラム酒の樽を持ち上げて、ぐびぐび酒を飲んでいた。この二人の周りには、空になったラムの樽と、この飲み比べに参戦し、酔いつぶれてしまった男たちが転がっていた。

「あと、じいさんは色街に行きました。金が足りそうにないから、お嬢ちゃんにつけを回すとか言っていましたが」

「絶対断るから。あーあ、あたしの周りってどうしてこうも金遣いが荒い人たちが多いのかしら。それも、お金が必要なときに限って」

 マリアンヌはため息をつき、グラスに入ったホッピーを一気に飲んだ。


 翌26日。マリアンヌはティシュリ航海者ギルドに向かった。

 大きな港町には、船乗りたちのギルド(職業組合)が存在する。その街の周辺海域で商売する上での利権を守るのが主な目的で、大小の海運業者や、個人で船を所有している船長、期間雇いの航海士らもギルドに参加している。マリアンヌも、ティシュリ航海者ギルドに参加しているひとりだ。

 ギルドの仕事は情報提供や、航海に必要な技能の訓練などに加えて、仕事を斡旋することも含まれる。組合員に仕事を斡旋するのがふつうで本筋だが、仕事の内容によっては組合員以外に仕事が回されることもある。

 ギルドハウスに入り、彼女はギルドの親方に仕事の話がないか尋ねた。 

「仕事が欲しいのかい。いくらでも仕事はあるが、あんたに向くような仕事といえば……」

「今まであたしがしてたような、輸送や購入みたいな仕事じゃない方がいいわ。なんだか地味だし、あちこちの港に行ったり来たりしなきゃならなくてたいへんな割に、お金にならないんだもん。あたしはもっとお金になる仕事がしたいのよ」

 彼女の申し出に、親方は怪訝な顔つきになった。

「金になる仕事だと? 言っておくが、報酬がでかいもので、あんたにできそうな仕事はないと思うぜ」

「そんなのやってみなくちゃわからないじゃない。とりあえずどんな仕事があるのか教えてよ」

 マリアンヌが口をとがらせると、親方は仕方なさそうな顔をして、いくつかの書類を取り上げた。

「報酬が多いと言えば海賊退治だ。海賊リッチー・リガールを討ち取れば、10万ターバルの報酬が手に入るぜ」

「海賊退治ねえ……。戦闘は経験したし、あたしの艦隊にはプットとかいるから……」

 一瞬、海賊退治もできそうかなと思った彼女に、親方が付け加えた。

「言っておくが、リッチー・リガールは十把一絡げの小物海賊じゃねえぞ。中央大陸の東大洋沿岸に縄張りを持ってる、手下一千人を束ねる大物海賊だ。コスバイア海軍もゲイマージ海軍も手こずる相手だから、討伐は命がけだぜ。現に、挑んでいった腕自慢の冒険者が何人も、未だに帰ってこねえ」

「そんな相手をあたしたちにどうしろと言うのよ。パス」

 さすがに船一隻で大海賊相手に戦いを挑むことはできない。命がいくらあっても足りない。

「まあ、無理だとは思ったがな。それならこの仕事はどうだ。簡単な仕事だ。公海上である輸送船が海上に投棄する荷物を回収して戻る。それだけで4万ターバル用意するとさ」

 親方は別の仕事を提案した。

「変な仕事。でも報酬はいいのね。その荷物ってなんなのかしら?」

「知らん」

 親方はぶっきらぼうに言った。

「て言うか、知らん方がいい。おれも詳細については聞いていないんだがな。まあ、こういう仕事で扱うのは尋常の品物じゃねえな。密輸してきた武器だとか、麻薬だとか、はたまた人買いの船か……」

「ちょっとちょっと」

 マリアンヌは両手を振って話をさえぎった。

「犯罪の片棒担ぐ仕事なのぉ? ギルドがそんな仕事も扱っているなんて知らなかったわ。あたしはそんなのやらないからね。まっとうな仕事はないの?」

「ふん。仕事の白黒など考えていたら、報酬のでかい仕事なんかできないぜ」

 親方はそう言いながら、別の書類を開いた。

「まっとうな仕事で、最高に報酬のでかいネタがあるぜ。報酬は30万ターバルだ」

「30万ターバル? すごーい。それだけあれば、新造ガレオンの艦隊が結成できるわ。で、どんな仕事なの? 教えて」

 彼女が目を輝かせて言うと、親方はひとつ咳払いをして、言った。

「ヤリクジラを仕留めてきてくれ」

「パス」

 仕事内容を聞いて、彼女は間髪入れずに断った。

「そんなの絶対無理よぉ。死にに行くようなものじゃない」

「だから30万ターバルの報酬があるんじゃねえか」

「その仕事、30万でも安いわよ、絶対」

 ヤリクジラ(lancer whale)は体長60フィートから100フィートの大型の歯クジラで、額から15フィートから30フィートの角が一本生えているのが特徴だ。その角は硬質かつきめ細やかで、彫刻の素材として最高級と言われる。また、良質のアンバーグリス(マッコウクジラの胆嚢から採れる動物性香料。竜涎香とも言う)を採ることができる。肉は繊細で味わい深いと言うが、部位によっては「どこかに飛んでいくようなしびれた感じ」がするらしい。

 ただしこのヤリクジラという動物は、きわめてどう猛な性質を持つ。向かってくる船を見るや、槍のような角でもって突進し、これを沈めてしまうのだ。実際この巨獣に襲われて、海の藻屑と消えた船や船乗りたちは数知れない。それゆえ、船乗りたちに一番恐れられる存在になっている。

「なんかさあ、そう言う難しい仕事じゃなくて、もっと簡単な仕事ってないの? 簡単で、報酬が大きくて、まっとうな仕事って」

「そんなもんあるわけねえだろう」

 親方の言葉はにべもなかった。

「だいたい、楽して一攫千金を狙おうって言う根性がいけねえ。報酬は苦労した上で手に入れるもんだ。苦労もなしにあぶく銭を稼ごうなんてのは外道だぜ」

「でも、実際に一攫千金を狙って成功する人もいるじゃない」

「そんな奴は一攫千金を狙う奴の中でも一握りだ。それも、多くを犠牲にして大金を手に入れるか、成功したと思っても次の瞬間には転落するもんだ。世の中、そんな風にうまくできてるんだよ」

 親方はテーブルを指先でこつこつ叩きながら、マリアンヌに説教を始めた。

「『悪銭身に付かず』って言葉があるだろう。博打で手に入れた金にかぎらねえ、相場に手を出したり、山師みたいな稼業で稼いだ金についても同じさ。額に汗して手に入れた財産じゃねえから、ありがたみがねえんだよ。だからそれがなくなるのも早い。世の中の表面ばっかりじゃなくて、もっとよく見てみろ。あこぎな商売で稼いだ成金野郎とかは、一頃は羽振りがいいもんだが、すぐに消えちまうもんだ。この街のバニパル=シンジケートしかり、ディカルトで活躍している大企業の創業者は、ほとんどが寝食を惜しんで仕事に励んで、その結果として身代を築いているんだぜ。一攫千金を狙ってたって、成功するわけじゃねえんだよ」

 親方はそこまで畳みかけるようにしゃべって、少し休止して、紙巻きたばこに火をつけ、一口ふかし、今度は少しテンポをゆるめて話しだした。

「昔の人は言ったもんだ。『苦労は買ってでもしろ』ってな。楽して儲けたいって言う気持ちはわからんでもないが、船乗りだったら、津々浦々飛び回って稼ぐのが本筋ってもんだぜ。そうやって苦労した上で財産を築けば、それと同時に、自分自身もその財産に見合った人物に成長する。あんたは世界一の航海者になるって言ってたじゃねえか。だったら、それに見合った苦労を重ねるべきだぜ。『艱難汝を玉にす』ってえことわざもあるんだからな。面倒でも、小さなことからこつこつと、地道に力を付けて行かなきゃならねえよ」

 親方の説教に、彼女は気をつけの姿勢で黙って耳を傾けた。いや、そうさせてしまう雰囲気に飲まれていた。

「あんたのおやじさん、ジョゼフ・シャルマーニュ提督だって、苦労と地道な努力を重ねて大提督になったんだ。汗と涙の下積み時代を経験し、ディカルト近海をかけずり廻って船乗りの技量を磨き、修羅場を何べんもくぐって戦闘力も身につけた。そうやって力を付けたことが、今世紀最大の航海者と呼ばれる、世界に名だたる提督になったことにつながったんだ」

 自分の目標、そして自分のもっとも尊敬する人を引き合いに出されては、マリアンヌも聞き入れざるを得ない。そして、奮起させられざるを得ない。

「楽な道を選ぼうとするんじゃねえ。面倒なこと、一見大変そうなことに正面からぶつかっていけ。人一倍努力してこそ、立派な航海者になれるんだ。わかったな」

「うん、わかった!」

 マリアンヌは目をらんらんと輝かせ、大きく鼻で息をつくと、両手で握り拳をつくって、強く言いきった。

「楽して稼ごうなんて、自分の力にならないもんね! やっぱり小さなことからこつこつと、一生懸命がんばって行かなきゃダメなのよ! あたし、がんばる。自分にできるところから努力して、力を付けて、世界を股に掛ける提督を目指すわ! やるぞぉーっ!」

 素直で、いい意味で単純でノリやすい性格なので、親方の説教に完全に感化された彼女だった。

「あんた、ノリがいいねぇ」

 自分がした説教なのに、親方は半ばあきれ顔で言い、話を本題に戻した。

「それで、仕事の件なんだがな……」

「そうそう。それなんだけど、少しでも多く稼げる仕事ってないかしら?」

 マリアンヌが言うと、親方は額にしわを寄せて彼女の顔を見た。

「おいおい、話を聞いてたんじゃないのか? また一から説教し直しじゃねえか。配達や輸送も立派な仕事だ。地味な仕事でもこつこつとこなしてだな……」

「そうじゃないよ」

 彼女は首を振った。

「親方さんがあたしに見合うと思うんなら、配達でも輸送でもよろこんで請け負うわ。でも、あたしもやっぱり少しでも多くお金を稼ぎたいのよ。一日でも早く艦隊を結成するために、少しでも資金をためなきゃいけないんだもの。だから、地道に、でも少しでも多く稼げる仕事を紹介してくれないかしら」

「それもまた虫のいい話だな。配達や輸送の仕事の報酬はだいたい相場が決まっているもんだから、難しいぞ」

 親方は腕組みをしてうなった。

「だったら、行き先が同じ仕事をふたつくらい請け負うのはどうかな? ティシュリ航海者ギルドにはたくさん仕事の依頼が入ってくるんでしょ。一度にふたつをこなすことができたら、こっちはふたつ分の報酬が入るし、ギルドは一度にふたつの仕事をさばけるし、一石二鳥じゃない」

「ふーむ、確かにあんたの言うとおりだな。それにしても、うまい言い方を考えつきやがるもんだ」

 親方は仕方なさそうな顔をして、書類を二枚ほど取り上げた。

「特別にあんたの言うとおりの仕事を斡旋してやろう。行き先はダナン島だ」

「ダナン島? あ、あの『見捨てられたフロンティア』って呼ばれてる?」

「そうだ。そのダナン島にダイヤンという港があるが、そこにランシェル産のワインを100樽輸送する仕事がひとつ。だから、ランシェルの交易所に行って、ワインを100樽仕入れて持っていかなきゃならねえ」

 親方のそう言って、仕事内容の書かれた書類を彼女に渡した。

「もう一つは、ダナン島にすむスコット・サザーランドという人に届け物をする仕事だ。これの依頼主はティシュリ農業大学だ。届ける品物は農大に保管してあるから、そこまで取りに行ってくれ」

 彼女はその仕事に関する書類も受け取った。

「ワインの輸送の仕事は8000ターバル、配達の仕事は2000ターバルの報酬だ。だからあわせて1万ターバルの報酬だな。引き受けるか?」

「もちろん」

 彼女は大きくうなずいた。

「それからな、今回はあんたに特別に仕事をふたつ斡旋したから、成功報酬も特例をつけるぜ。ふたつとも成功させたら、ボーナスを加えて1万2千ターバルの報酬をやろう。ただし、どちらかひとつでも達成できなかったら、報酬は全額なしだ。いいな」

「なんだか一方的ね。いいわ。あたしが言い出したことだし。ぜぇったいに仕事を成功させて、ボーナスもまとめてゲットするわよ」

 斡旋された仕事を引き受けて、マリアンヌはさっそうとギルドハウスを飛び出した。


 ティシュリ共和国の政庁など、官公庁の建物が並ぶティシュリ市の中心部から北東、山の手側に進むと、デインヒル区というところに着く。ここは市の文教地区で、大学などの教育施設や運動競技場(ディカルトではスポーツが盛ん)、公設の劇場や博物館、宗教関係の建物が集まっている。島の文化発信地といえる。

 デインヒル区の東はずれに、国立のティシュリ農業大学校がある。キャンパスは小規模だが、研究や試験に用いる農場があるので、敷地は広い。

 ダナン島にすむスコット・サザーランドという人物に届け物をするという仕事を引き受けたマリアンヌは、ギルドを訪れた翌日の11月27日、ティシュリ農大を訪れた。

 ティシュリで生まれ育ったマリアンヌも、文教地区には縁がないので、ここのあたりにはあまり来たことがない。通行人に道を尋ねながら、荷車に揺られて目的地のティシュリ農大に向かっていた。

「おう、お嬢。ゆうべは何で星の水鳥に来なかったんでぇ?」

 荷車を牽いていた、太った体格の男が、間延びした声で訊ねた。

 太った体格の男の名前は、プトレマイオス・ラゴス。949年生まれの41歳。身長5フィート11インチ(180センチ)、体重320ポンド(144キロ)、ウエストは4フィート(122センチ)という、スモウレスラーのような立派な体格をしている。怪力無双で、近隣の船乗りたちからは「豪傑プット」と呼ばれる、見た目通りのパワーファイターである。鬼神のごとき、いや鬼神も恐れをなすその戦闘力は、先にマリアンヌとアッシャーたちとの間で起きた海戦でも遺憾なく発揮された。戦闘の時以外は、荷車を牽くなどの力仕事担当である。

「来たじゃない。星の水鳥亭で、みんなに仕事のことを伝えたんじゃないの」

「そのあとすぐ帰っちまったじゃねえか。いつもならみんなで酒盛りするのによ」

「今は宴会にお金を使っている場合じゃないのよ、プット。船を増やして本格的な艦隊を結成するために、今は少しでもお金を貯めなきゃいけないの。毎日毎日宴会をしていたら、貯金なんかできやしないわ。だから昨日は飲まないで帰ったのよ」

「みみっちいぜぇ、お嬢。酒場じゃ宴会でぱぁーっとやって、稼ぐときに稼いだらいいじゃねえか」

 大好きなビールと宴会を我慢して、少しでも資金をためようとしているマリアンヌの涙ぐましい努力を「みみっちい」などと言われ、彼女はむっとした。

「プット。だいたいあんたが、まるでカバのようにたくさんお酒を飲むから、飲み代が高くつくんだからね。おまけに、ジュリアスもあんたに負けず劣らず飲むんだから、毎晩のように宴会なんかしてたら、お金がいくらあっても足りないわよ。みんなにちゃんと給料あげてるんだから、飲み代はそこから払ってちょうだいよね」

 プトレマイオスは天下無双の怪力戦士としてだけでなく、人並みを大きくはずれた大酒豪としても知れ渡っている。底なしとも、胃袋が亜空間につながっているともいわれる彼は、好物のラム酒、ネルソンズブラッド(アルコール77.5度)を、樽を抱えて飲む。樽で何杯も飲む。飲み飽きるまで、まるでクジラのように飲む。そんな男の酒代となると、放っておくと国家予算並みの金額に達してしまう。

「お嬢がそんなけちなこと言うなんて思っても見なかったぜぇ。ジュリアスとのビア樽勝負ができなくなるじゃねえか」

 プトレマイオスは仏頂面をつくって言い、懐からネルソンズブラッドの瓶を取り出して、ぐびぐび飲んだ。

 そんな会話をしながら、二人はティシュリ農大の門をくぐった。

 マリアンヌが大学の門衛に用件を告げると、門衛は彼女たちを、農場近くの倉庫に案内した。

「ふっふっふ。あなたがマリアンヌ・シャルマーニュ提督ですか。航海者ギルドから話はうかがっています。運んでいただく荷物を用意しますので、少々お待ちください」

 倉庫の前に、山高帽をかぶり、マントのようなケープを羽織った男が立っていて、彼女たちを出迎えた。彫りの深い、小麦色した顔は脂でぎとぎとしていて、妙にらんらんと光る目で彼女を見つめている。男はきれいに整えられた、艶やかに光るカイゼルひげを指先でひねり、笑顔を作った。白い歯がきらりんと輝いた。

 彼女は男の顔をじっと見ただけで、脂身ばかりのロースカツを食べたような気分になった。

「あの……あなたはどなたですか?」

「申し遅れました。わたしはこのディカルト農大園芸技術科で教官主任を務めるゼノンと申します。お見知り置きください。ふっふっふ」

 男は名乗ると、白い歯を見せて笑った。白い歯がきらりんと光った。

 大学の教官を名乗られても、その濃い出で立ちはどうみても、教育者というよりも怪しい手品師か、ペテン師のようにしか見えない。彼女は複雑な表情で首を傾げた。

 研究生と思われる数人の若者が、倉庫から大袋の荷物を次々と運んできた。それを荷車の上に積み上げていくと、山盛りになった。

「かなり大荷物になりますが、大丈夫ですか」

「平気よ。プットはすごい力持ちだから、このくらいへっちゃらよね」

「おう。こんくれえの荷物なんか、俺様には手荷物だぜえ」

 プトレマイオスは簡単にそう言うと、ぼんと土手っ腹を叩いた。

「ところで、この荷物は何なの?」

 彼女は荷車に積み上げられた大袋のひとつを軽く叩きながら、ゼノンに尋ねた。

「ふっふっふ、良い質問です。教えて差し上げましょう。これはサザーランド教授に依頼されていた、マメ科植物の種子ですよ。多くは教授が長らく研究していた、新品種の大豆ですが」

「教授?で、大豆の研究をしていた? あのう、スコット・サザーランドって人は、どんな人なんですか?」

 彼女は男に質問した。

「ふっふっふ、教授についてお知りになりたいと?」

 いちいちもったいを付けるゼノンの口振りと、時々鼻にかかった声の混じる、セクシーな低音で語る言葉は、顔のくどさと相まって、マリアンヌに胸焼けを起こさせていた。

「別に聞かなくてもいいような気がしてきたわ……」

「まあ、そうおっしゃらずにお聞きください。サザーランド教授はここティシュリ農大で教授を務められ、特にマメの品種改良の研究をしておられた方です。ですが、五年前に退官されて、自分の研究してきた農業技術を実践するために、ダナン島に入植されました。自らの研究の成果を、実際に農業に従事している人々のために用いたいと、常に思っておられた方ですよ」

「へえ。志のために教授を辞めるなんて、なんかかっこいいな」

「マメの研究をずっとしてきた先生なら、きっと豆みたいな人なんだろうなぁ、お嬢」

「それはどうかな……」

 プトレマイオスは勝手に決めつけたが、マリアンヌは彼の予想には首を傾げた。

「あとひとつ荷物がありますので、もう少し待ってください……あ、来たか」

 別の倉庫棟から、研究生が台車に大箱を載せてやってきた。一辺が3フィートあまりの正方形の木箱だが、よく見ると上蓋の部分は、目の細かい金属製の網になっている。

「荷車に乗るかしら……。あ、後ろにぎりぎりで乗るね。落ちないようにロープで縛っておかなきゃ」

 最後の荷物を荷車に積み込んでいるときに、男が彼女に注意した。

「箱が開かないように厳重に閉じてありますが、取扱にはくれぐれも注意してください。生物ですから」

「生物?」

「ふっふっふ、そう、生物です。あと、保管の時も厳重に管理してください。船員の方々は男性だと思いますが、間違ってもこの上に小便をかけないようにしてください。ふっふっふ、さもないと……」

 ゼノンはもったいを付けるように言葉を切り、真顔で続けた。

「……大変なことになりますよ」

「……なんかやばい荷物じゃないわよね。すごく気になるじゃない」

 彼女は少し不安になった。

「日光を当てずに、薄暗いところにおいておけば何の問題もありません。ただ、サザーランド教授のところに着くまで、蓋を開けないのが身のためですよ。ふっふっふ……」

「その言い方が不安にさせるのよ……」

 彼女はなんだか一抹の不安を抱きながら、荷物を牽くプトレマイオスと一緒にティシュリ農大をあとにした。帰り道で、荷物と一緒に荷車に乗る気にはならなかった。


二人がティシュリ農大をあとにして、もと来た道を港に向かって歩いているとき、マリアンヌは荷車の車軸がぎしぎし音を立てていることに気づいた。

「ちょっと待って、プット。荷車が壊れてるみたい」

「気にするこたねえぜぇ、お嬢。ちっとばかし急げば問題ねえ」

 プトレマイオスはかまわず荷車を牽いて進んだ。

 そこから数歩もいかないときに、荷車の車輪が、落ちていた石に乗り上げ、乱暴に着地した。そのとたん、

  バキバキッ

 荷車の車軸が折れ、左側の車輪が折れ飛んでしまった。荷車は左側に傾斜して、動かなくなってしまった。

「きゃっ」

 荷物が落ちて台無しになるといけない。そう思って、荷物を手で支えようとしたマリアンヌは、倒れてきた衝撃ではねとばされ、大きなしりもちをついた。

「おう、お嬢。大丈夫かぁ?」

「いたた……。あたしは平気よ。荷物は無事かしら」

 彼女は壊れた荷車を見ると、ロープでしっかり固定された荷物は、倒れた衝撃に負けずに荷台の上にしっかり乗っている。ただ、荷車は左側に傾いているので、いつ荷台から荷物がこぼれ落ちてしまうかわからない。

「お嬢、このままじゃ安定が悪すぎるぜぇ」

 プトレマイオスはそう言うと、残っている右側の車輪をひっつかみ、「ふんごっ!」と気合いを発すると、車輪をもぎ取ってしまった。

「これで座りが良くなったぜぇ」

「プット、これをどうやって港まで運ぶのよ」

 車輪のなくなった荷車など、なんの役にも立たない。荷物を満載した荷台は、道路の真ん中にどっかりと居座ったまま、動かしようのない状態になっている。

「そりゃ、持って運ぶしかあるめえ。俺様が前を持つから、お嬢は荷車の後ろを持ってくれ」

「無理に決まってるでしょ。あたしの力でこれが持ち上がるとでも思う?」

「んじゃ、俺様が後ろを持つから、お嬢は荷車の前を持ってくれ」

「全然変わんないから。同じだから。もう、どうしたらいいのかしら……」

 誰か手助けをしてくれる人がいたら、港までとは言わないまでも、少しはこの荷物を運べるかもしれない。そう思って、彼女はあたりを見渡したが、ここは静かな文教地区、人通りは少なく、手伝ってくれそうな手頃な人物は見つからなかった。

「おっ、お嬢。あそこにいるのはアッシャーじゃねえかぁ?」

 プトレマイオスが道路脇の広場の一角を指さした。

 その広場は、今マリアンヌたちが立ち往生している道路に面した施設、「武術調練所」の一角、弓術練習場だった。彼の言うとおり、練習場にアッシャーが立っていた。

「あ、ほんとだ。アッシャー……」

 彼女はアッシャーに呼びかけようとして、ふっと口を閉じた。

 ダークグレーのスーツに、つばの広い黒い帽子を目深にかぶった彼は、弓を構えて、じっと標的を見据えていた。その標的は彼から60ヤードは離れている。半弓ならとても届かず、長弓でも射程距離ぎりぎりの距離だ。

 弓をいっぱいに引き絞った彼は、帽子のつばの先で照準を合わせ、一呼吸置いた。その一呼吸分の沈黙を置いて、彼は引き絞った弓を解放した。うなりをあげて飛び放たれた矢は、放物線を描き、標的のど真ん中を貫いた。

「すごーい。アッシャーのくせにかっこいー」

 アッシャーの弓術の腕前に、マリアンヌはびっくりして歓声を上げた。

 アッシャーはマリアンヌたちに気づき、弓と矢をケースにしまうと、練習場から出てきて、彼女たちの所に来た。

「提督、プットさん。こんなところで会うなんて奇遇だね」

「おう。おめえ、ここで弓の練習をしてるのか」

 プトレマイオスの言葉にアッシャーはうなずいた。

「うん。家がこの近くだからね。昔からよくこの場所を使ってるんだ」

「そう言えば、アッシャーは弓がうまかったね。戦ったときにかなり苦しめられたもん」

 少し前、ビール組合乗っ取り未遂事件が起きたとき、マリアンヌたちとアッシャーたちは、敵味方に分かれて戦闘になった。アッシャーと一対一の勝負を仕掛けたマリアンヌは、アッシャーの射撃術に苦戦させられた。数秒のスパンで撃つ連射や、一度に二、三本の矢を同時に放つなど、高いレベルの技を見せられたことをマリアンヌは思い出した。

「でも、アッシャーが弓術をやるって、あまりイメージに合わないよね。どうしても金持ちのお坊ちゃんで、遊び人ってイメージがあるもん」

「遊び人はよけいだよ。バニパル家の家訓に、武術をなにかひとつ極めて、修練によって心身を鍛えよ、ってのがあるんだ。だから、ボクも小さいときから弓術の修行を積んでいたんだよ。ランシェルの大学にいた頃も、弓術の修行の一環でスポーツハンティングのクラブに入っていたんだ」

「へえ、そうなんだ。でもさ、その格好って、弓の練習にあわないんじゃない?」

 マリアンヌの指摘通り、スーツ姿は弓の練習に適当な格好ではないかもしれない。

「このスタイルだと、『早撃ちで狙った獲物は逃さない』ような雰囲気を見せれるでしょ。ボクは何でもカッコから入るんだ」

「カッコからねえ……。まあ、あんたがそう思うなら別にいいけど。あ、そうだ」

 彼女は大事なことを思いだした。荷物を港まで持って帰らなければいけないのだ。

「あたしたち、ティシュリ農大から荷物を受け取って帰るところだったんだけど、荷車が壊れて動かなくなったのよ。アッシャー、いいところで会ったわ。手伝ってよ」

「手伝えって、荷物を港まで持っていくってこと?」

「そうよ」

「無理だよ。ボク、弓より重い荷物を持ったことないんだ」

「……そう言ういいわけをするのはやっぱりお坊ちゃんなのよね」

 マリアンヌはため息をついた。

「港にいる荷馬車を呼んで輸送してもらえばいいじゃない。なにもボクたちの手で港まで運ばなくてもいいよ」

「そうだけど、荷馬車を港まで呼びに行かなきゃいけないでしょ。その間、荷物をここに置いたままにしておけないし……」

「それなら」

 アッシャーは右手を高く挙げると、指を鳴らした。ぺしんと軽い音がした。

 彼はしばらくそのポーズを取ったまま静止していたが、なにも起こらなかった。

「おかしいな」

 彼はもう一度右手を高く掲げると、指を鳴らした。ぱちんといい音がした。

 彼はしばらくそのポーズを取ったまま静止していたが、なにも起こらなかった。

「おめえ、さっきからなにしてんでぇ?」

 プトレマイオスが訊ねると、アッシャーははっとして頭をかいた。

「黒服を呼んで、港まで行って荷馬車を呼んでこさせようと思ったんだけど……バニパル=シンジケートの一員じゃなくなったから、もう黒服が付いてきていないんだった。忘れてたよ」

「そっか。誰かに呼んできてもらえばいいんだわ。じゃあ、あたしに任せて」

 マリアンヌはベストのポケットから、細長い形のホイッスルを取り出して吹いた。

「お嬢、耳元で笛吹くなよ。うるせえじゃねえか」

「……これ犬笛よ?」

 犬笛は、人間には聞こえないほどの高周波の音が出る笛だ(犬には聞こえる)。だからプトレマイオスの耳にも聞こえないはずなのだが。

「お嬢、俺様は耳元でうるさい音たてられるのが嫌いなんでえ。笛の甲高い音なんて、頭に浮かんだだけで歯が浮いちまうぜぇ」

「……自分も普段から、大いびきや雄叫びで周りに迷惑かけてるくせに」

 マリアンヌは白けた目でプットを見た。自分の行動が人にどんな迷惑をかけているか、自分ではあまり気づかないものである。

「あ、来たわ」

 ひとつの小さな影が、空を飛んでマリアンヌたちのところにやってきた。大きさは小型犬程度、ライトグリーンの胴体色のドラゴンだった。マリアンヌがコスバイアの門前市で購入した、ペットのミニドラゴンだ。名前はピクルス。

 マリアンヌは左手の指を軽くくわえて口笛を吹き、右腕を差し伸べた。ピクルスは急降下すると、彼女の右腕をかすめて、地面に腹打ちした。そのまま前のめりに倒れて、ひとつ前転して止まった。

「おつかいしてちょうだい。港の荷馬車屋さんに手紙を届けて欲しいの」

 彼女が言うと、ピクルスはぷいと横を向いた。拒否の姿勢だ。ペットのくせに生意気である。

「しょうがないなあ。おつかいしてくれたら、あとでするめをあげるから」

 彼女が条件を付けると、ピクルスは彼女のほうを向いて、小さくうなずいた。承諾の姿勢だ。現金なペットである。

 マリアンヌはメモ帳からページを一枚ちぎり取ると、簡単に依頼を書き付け、それを細いひもでピクルスの前足に結わえた。ピクルスはふらっと飛び立つと、低空飛行でゆっくりと港に向かっていった。

「これでよし。あとは荷馬車が来るのを待てばいいわ」

「だけど、提督。どうしてはじめから荷馬車に頼まなかったの? そのほうが早かったのに」

 アッシャーが至極当然な質問をした。

「荷馬車を頼むと手間賃がいるもの。プットが荷馬車を牽いて運ぶんなら手間賃いらないし……」

 そう答えてから、彼女はため息をついた。

「あーあ、少しでも節約しようと思ったのに、これじゃ馬車の手間賃と荷車の修理代で出費が増えただけだわ。修理はタイロンに頼んで安くしてもらうとしても……少しでも手持ち資金を増やしたいのに、どうして思い通りにいかないんだろ……」

「だから言ったじゃねえか、お嬢。けちけちしねえで金を使って、儲けるときにしこたま儲けりゃいいって。みみっちいことばっかり言っててもつまらねえぜぇ」

 プトレマイオスはそう言って、腹に響かせてガハハと笑った。

「儲けるときにしこたま儲ける、ねぇ……。提督、儲け話というわけじゃないけど、今度の仕事の行き先のことで、ちょっといい話があるんだ」

 アッシャーが思い出したようにぽんと手を打ち、彼女に言った。

「いい話?」

「うん。ダナン島が連邦政府の『ネオフロンティア政策』で移民を送って、開拓を始めた島だってことは知ってるでしょ」

 ディカルト連邦政府は20年前から、ディカルト諸島の東側に広がる未開の海域『新大洋』に浮かぶ新発見の島々に開拓民を送り、植民地を広げる政策を手がけていた。これをネオフロンティア政策という。その新植民地第一号が、マリアンヌたちが向かう予定のダナン島なのである。

「だけど、今ダナン島の開発が手詰まり状態なんだ。開拓を始めたとたんに嵐に見舞われるわ、津波に襲われるわ、疫病が流行るわで、開拓民が次々逃げ出したからね。今も開拓民として島に残っている人は多いけど、政府が計画していた農地の開拓は、まったくと言っていいほど進んでないんだって」

「ふーん。それで『見捨てられたフロンティア』なんて呼ばれてるのね」

「だけどよ、アッシャー。それのどこにいい話があるんでぇ?」

 難しい話に顔をしかめながらプトレマイオスが口を挟んだ。

「話はここからだよ。連邦政府はネオフロンティア政策に威信を懸けてるから、ダナン島の開発を失敗したくないんだ。かといって、島の経営はうまくいかないし、好転する気配もないから、今のところダナン島を持て余しているのが現実なんだ。それで、半年くらい前に、連邦内の有力財界人に対して、ダナン島開発に協力を求める、ダナン島開発に貢献した個人や団体に、その功績に応じて報奨金を出す、っていう告示を出したんだよ」

「ふーん。でも、それってあたしたちに関係なくない? あたしは有力な商人なわけじゃないし、そんな政府のお触れも聞いてないよ」

「確かに政府の告示を受けたのは一部の財界人なんだけど、参加資格は誰にでもあるんだよ。これは政府の産業奨励策もかねていて、ベンチャービジネスマンの参画も歓迎しているんだって。だから、提督にも参加するチャンスがあるよ」

 アッシャーはそう言ったが、マリアンヌは首を傾げた。

「でも、ダナン島開発に協力を求める、っていわれても、なにをしていいのかわからないし……。あたしは船乗りだもん。開拓とか開発とかってよくわからないわ」

「なにも農地を広げるだけが奨励策じゃないよ。形はどうあれ、島の経済を好転させて、人口の流出を抑えて、また島を活性化させることができればいいんだから。これをビジネスチャンスととらえて、バニパル=シンジケートもダナン島開発に動こうとしているんだ。三ヶ月前から調査員をダナン島に派遣して、商品化できる物産があるか調査しているんだよ。その物産を発見次第、商品の開発と販売を行う新会社を立ち上げる計画をしているよ。そうやって島の特産品を創る、ひとつの商業投資をしようとしているんだ。この分野なら、提督も十分参加できると思うな。それに、艦隊結成のために資金が必要なんでしょ。政府からの報奨金は大きな収入になると思うよ」

 彼女はアッシャーの説明を聞いて、しばらく考え込んでいたが、首を横に振った。

「あたしたちにできることじゃないと思うわ。政府が言いたいのは、島のために投資をしろってことでしょ。今のあたしたちにはそんな資金の余裕はないわ」

「そうか。それもそうだよね。提督は人助けが好きだから、もしかしたらこの話に乗ってくるかもって思ったけど、現実的じゃないもんね」

 そう言うアッシャーの顔をじっと見て、彼女はぽつりと言った。

「人助けになるんなら、ほんとはしたいんだけどね……」

 もともとマリアンヌは、困っている人を放っておけない性格をしている。そんな心優しい、悪く言えばおせっかいな面のある彼女だから、見捨てられた開拓地の住民のためになにかしてあげられたら、とは考えているのだが。

「おっ、お嬢。荷馬車が来たようだぜえ」

 プトレマイオスが声を上げた。街のほうから、一頭牽きの荷馬車が走ってきていた。

「うん、あの車なら余裕で荷物が積めるね。プット、荷物の積み直しを手伝ってあげてね。それから」

 彼女は車輪がふたつともはずれた荷車を指さした。

「この荷車をゼップさんの造船所に運んでちょうだい。見習い大工のタイロンがいるから、彼に直してもらってよ。あんたが荷車を壊したんだから、責任もってちゃんとやっておくのよ。それと、修理代はあんたのお給料から天引きね」

「俺様が壊したっていうのかよ。ちぇ、お嬢も冷たくなったもんだぜぇ」

 プトレマイオスはぶつくさつぶやきながら、壊れた荷車に積んであった荷物を、荷馬車に詰め替え、荷車を背中に担いで、街のほうにすたすた歩いていった。アッシャーは家に帰り、マリアンヌは荷馬車に便乗して港に向かっていった。


 明くる日の11月28日、その朝10時。旅支度を調えたマリアンヌは港に姿をあらわした。

 ティシュリ港の東埠頭の一角に、タイロンが整備してくれたインフィニティ号が係留されていて、その上では、航海士たちと船員たちが、出航準備に当たって動き回っている。彼女はタラップを駆け上がって船に乗り込んだ。

「みんな、おはよ」

「おう、提督。言われたとおり、いつでも出航できるようにしておいたぜ」

 出航準備をしていたジュリアスが彼女に言った。

「うん、ありがと。あと、ほかに頼んでおいたことはしてくれたよね?」

「船員の補充だろう? もちろん、抜かりはないさ」

 前回の航海で、インフィニティ号とアッシャー船団との間で戦闘が起き、その際に何名か死傷者が出た。また、航海を終えた時点で、船を下りて陸に戻る船員も数名いたので、新しく船員を募集する必要があった。

「この船の船員船室には45名まで収容できるからな。いっぱいになるまで荒くれどもを集めておいたぜ」

 ジュリアスの言葉に、マリアンヌは驚いた表情で彼を見た。

「満員にしたの? セルが『30人いれば十分船を運航できる』って言ってたから、今まで30人体勢でやってたんだけど」

「セル船長の言うことも道理だけどな、船員の人数は多いに越したことないのさ。人数が多い分だけ、船員一人あたりの労働負荷は軽くなるしな。それに、最近は海賊の出没も多くて物騒だからな、戦う準備もしておかなきゃならねえ」

「ふーん……言われてみればそうかも。でも、船員の大部屋といってもそんなに広くないのに、満員にしたらそれこそすし詰めよ。なんかかわいそうだわ」

 インフィニティ号の大きさは全長115フィート、最大幅17フィートと、決して大きくない。船員の居住区はさらに狭くなる。実際に、船員船室には、やっと人がひとり歩けるくらいのスペースほどを空けて、3段ベッドが15基設けてあるような部屋で、実に窮屈なところだ。船員のプライベート空間は、それこそ自分の寝床の上だけという、極めて限られたスペースしかない。

 もっとも、これはなにもインフィニティ号に限らない。多くの外洋帆船の船員居住区は似たような環境で、もっと悪い環境の場合もある。その上、大多数の船では、一般の船員は酷使され、虐待され、抑圧される。「船は沈む確率の高い牢屋だが、陸の牢屋には部屋もあれば、もっといい食い物も仲間もいるだけまし」という言葉があるほどなのだ。

「オレが海軍時代に乗っていたコルベット艦は、士官以外の居住区すらなかったぜ。艦長室もベッドひとつ分だったしな。それに比べりゃこの船はいい方だと思うぜ」

「……その船の乗組員はみんなどこで寝てたの?」

「砲甲板で雑魚寝したり、船倉の開いたスペースにハンモック掛けたり、雨が降ってなきゃ下甲板で寝てたりしてたな。場所を選ばねえで寝られるほどの図太さがなけりゃ、駆逐艦の船員はつとまらねえよ。それはそうと、提督に渡された金が余ったから、オレの判断で装備を買い込ませてもらったぜ」

 ジュリアスはそう言って、甲板上においてあったひとつのコンテナを開けた。その中には、アサルトボウガン(軽量小型の洋弓銃)が12丁、ピストルボウガン(片手で扱う小型洋弓銃)が19丁、それと専用の矢が詰まっていた。

「飛び道具?」

「海戦の時に一番重要なのは射撃戦なんだぜ。弓の撃ち合いが勝敗を決することが多いからな。敵艦への斬り込みは撃ち合いで体勢が決まってからするもんだしな。この船の武器庫を見させてもらったが、装備が不十分だった。さっきも言ったように、ここんところ近海でも海賊が出没するし、公海上は無法の海だから、自分の身は自分で守らなきゃいけねえ。大砲を搭載できたら言うことはねえんだが、飛び道具をこれだけ装備しとけば、万一敵に襲撃されても、うまいこと追い返せるだろうぜ」

 元海軍軍人のジュリアスは戦闘の専門家だ。軍備や防衛に関しては彼の助言を聞けば間違いないだろう。納得して彼女はうなずいたのだが、

「資金が余ったなら返してくれれば良かったのに。手持ち資金にそんなに余裕はないんだから」

 マリアンヌはそれが不満で、口をとがらせた。  

「万が一への備えを考えるのは提督の大事な仕事だぜ。もし海賊にやられでもしたら、資金もなにもかも洗いざらいはぎ取られて、下手すりゃ命もなくなるんだからな。まあ、セル船長に豪傑プット、それにこのオレがいれば、たいていの海賊をひねりつぶせるけどな」

 そう言ってジュリアスは胸を張った。

「頼もしいね。でも、航海中にそんな事態にならないように願いたいわ」

 マリアンヌは船員に指示を出して、新しく購入した武具を三号船倉に持っていかせた。

「食料や水のほうもちゃんとしといてくれたわよね」

「もちろん。今、プットさんが物資倉庫に運び込んでるとこだと思うが」

 ジュリアスの言葉を聞いてマリアンヌが見ると、下甲板の落とし扉が開けられて、船倉に次々と食料の樽が運び込まれていた。麦粉の樽に、塩漬けの豚肉や塩漬けの魚肉が入った樽、野菜の固形スープが入ったコンテナなど、ざっと見て一月分の食料がある。

 プトレマイオスが船倉から甲板に顔を出した。

「ご苦労さま、プット」

「おう。そういやお嬢、積み荷倉庫にイワシの塩漬けが詰まった樽があったけどよぉ、あれも俺様たちの食料だろう? 物資倉庫に積み直しとくぜぇ」

「だめよ。あれはランシェルで売る予定の交易品なんだから。依頼された仕事以外のところでも、商売でなるべく稼ぐようにしないと、いつまでたっても資金がたまらないんだからね」

「ちぇ。いい酒の当てだと思ったのによ」

「食べ物だったら十分あるでしょ。あんたはただでさえ人の十倍は食べるんだから、ちょっとは食い意地も控えてよね。それはそうと、昨日言ったとおり、荷車をちゃんと直したでしょうね?」

「おう。そいつはな、直ってねぇぜ」

 平気な顔で言うプトレマイオスに、彼女はぷっとほおを膨らませて、彼の顔をにらんだ。といっても、もとがかわいい顔なので、にらんでもあまり恐くない。

「責任もってちゃんと直してきなさいよって言ったじゃない。ちゃんとタイロンのところに持っていったの?」

「持っていったぜぇ。けどよぉ、あの小坊主が言うにゃ、車軸が折れていてすぐには直らないってよ。小坊主を締め上げてみたけど、無理なもんは無理の一点張りよ。どんな腕の大工か知らねぇけどよぅ、壊れた荷車もすぐに直せねえようじゃだめだな」

「あんたが壊したのに人ごとみたいに言わないの」

 無理な注文をされた上に、妙な言いがかりをつけられて締め上げられ、おまけにだめ呼ばわりされて、船大工のタイロンにとっては、はなはだ迷惑な話だ。

「今すぐ新しい荷車を買ってきなさいよ。ないと陸上で荷物を運ぶときに困るんだから。でもって、お金はあんたの財布から出してね」

「ちぇ、荷車の一台や二台壊したからって、そんなに冷たくしないでもいいじゃねえか」

 ぶつくさつぶやきながらプトレマイオスは船を降りて、街に向かっていった。

 入れ替わりにアッシャーがインフィニティ号に乗船してきた。見るからに高価そうな、白貂の毛皮のコートを着込んで、ファーの襟巻きを首に掛け、派手な羽根飾りをつけた帽子をかぶっている。彼の後ろからバニパル家の使用人が、大きなスーツケースを二台と、アッシャーの武器である弓矢をもってついてきていた。

「お待たせー。旅支度に時間がかかってちょっと遅くなっちゃったよ」

 悪びれもせずに言うアッシャーの後ろ頭にジュリアスのハイキックが入った。

「遅ぇぞバカ。集合時間は10時だろうが。遅刻する奴は置いていくって言ったのを忘れたのかよ」

「いたいな~。なにも蹴ることないじゃないか。着古しのフロックコートしか服のない君と違って、ファッショナブルなボクは旅支度にも時間がかかるんだよ。セレブと貧乏人のライフスタイルの違いをわきまえてもらわないと」

 文句を言うアッシャーに、ジュリアスはスリーパーホールドをかけて、首を締め上げた。

「艦隊勤務にセレブもセルフも関係ねえだろが。ぐだぐだ文句つけて船の規律を乱す奴は本当に殴るぞ」

「すでに一発蹴り入れてから言うせりふじゃないでしょ。て言うか、本気でのどに入ってるって。ちょ……ギブ、ギブアップ」

 アッシャーは、首を締め付けてくるジュリアスの左腕をタップした。ジュリアスが彼を解放すると、彼は苦しそうにせき込んだ。

「ねえ、アッシャー。ちょっと荷物を持ち込みすぎじゃないの?」

 せき込んでいるアッシャーにマリアンヌが言うと、彼は意外そうな顔をした。

「えー、そう? これでもずいぶん荷物を減らしたんだけどな」

「……はじめはどれだけ持っていこうとしたのよ」

「もちろん、ボクの部屋のウォークインクローゼットの中の衣装全部を持っていきたかったけど、この船に積み込める量でもないからね。厳選するのも大変だったよ。それでも必要最低限の服を選んで、38着程度にしたんだけどな」

「……あのね、この通りの船だから、あんたのために空けておくスペースなんかないわよ。航海士用の個室だって、ジュリアスとの相部屋なんだからね」

 マリアンヌの言葉を聞いて、アッシャーだけでなくジュリアスもいやな顔をした。

「個室って言っても、2ヤード平方程度の狭苦しい部屋じゃねえか。その上にこいつと相部屋かよ。監獄やタコ部屋じゃあるめえし、もっとましな居住区にならねえのかよ」

「ぶつくさ言わないの。大きな船じゃないことははじめからわかってたことでしょ。あんたたちの乗る船を手に入れるまでの辛抱よ。我慢しなさい。アッシャー、すぐ出航するから、さっさと個室に荷物を置いてきて」

 彼女にせき立てられるようにしてアッシャーは船室に向かった。バニパル家の使用人たちが彼についていって荷物を運んだ。それが終わると、使用人は船を降りた。

「さてと、プットが帰ってくればすぐ出航できるね。あれ? ねえ、ジュリアス。セルはどこにいるの?」

 マリアンヌは船の上を見渡した。けれど、いつも一番に船に乗り込んでいる黒人の船長の姿が見あたらない。身長6フィート4インチの巨漢のセレウコスだから、見落とすほど小さくはないのだが。

「セル船長だったら、今朝方酒場街で会ったぜ。少し遅くなるかもしれないって言って、ダミアン=アベニューに歩いていったな」

「なんで朝からそんなところに?」

 ダミアン=アベニューは歓楽街の一角で、娼館の立ち並ぶ色街である。夕刻から夜ともなれば、男たちが集まる街になるが、朝からそこに向かうというのは尋常じゃない。

 彼女が怪訝に思っていると、街から戻ってきたセレウコスと、白髪をうなじあたりで縛り、頭に紫色のトルコ帽をかぶった老人がインフィニティ号に乗り込んできた。

「すみません、お嬢ちゃん。遅くなりました」

 セレウコスが彼女に頭を下げた。

「いいわ。もしかしてセル、じいさんを呼びに行ったの?」

「はい。乗組員に今日が出航だということを通達していたのですが、じいさんにそのことが伝わっていないのに気づきまして」

「そう言えば、ここ数日じいさんの姿を見なかった気がする……」

「嬢ちゃんもわしの不在に気づかんとは、ひどいのう。着替えをのぞいたり、下着をぱくろうとしたからって、そこまで冷たくせんでも良かろうに」

 白髪頭の老人はぼやいた。

 この老人はカッサンドロス・リベール。924年生まれの66歳で、艦隊の最年長。インフィニティ号では船医兼測量士兼水先案内人を務める。白い口ひげとあごひげを伸ばし、伸ばした髪をうなじの後ろで束ね、いつも帽子をかぶっている。自称「世界を股に掛ける好色一代男」で、無類の女好き。色男を気取っているが、マリアンヌには色ぼけ寸前のスケベジジイにしか見えない。もっともそれは、これまで何度となく、着替えをのぞかれたり、下着を取られたり、身体を触られたりと、ありとあらゆるセクハラの被害を受けているからなのだが。

「別に冷たくしたわけじゃないわよ。気にかけなかっただけ。それにしてもじいさん、ずーっと色街にいたわけ?」

「そうじゃよ」

「いい身分ね。出港直前まで居続けで女遊びなんて」

「そうじゃないわい」

 カッサンドロスはぼやいた。

「わしのつけを嬢ちゃんが払ってくれんかったから、なじみの娼館で今の今まで働かされていたんじゃよ。それで、帰るに帰れなかったんじゃ」

「でも、女の人がいっぱいの場所だからうれしかったでしょ?」

「そりゃあもう甘露甘露……って、そんな甘いもんじゃないわい。医者の仕事ができるならまだしも、毎朝濡れ場の後かたづけをしたり、日がな一日娼婦のシュミーズを洗わされたりするのはつらいし、情けなくなるぞい。二度としたくないもんだわい」

 本当に身にこたえたらしく、彼はぐんなりした顔でぼやき続けた。

「出航というときに置いていくわけにもいきませんし、自分が残りのつけを払って、じいさんを引き取ってきたのです」

「来てくれたときには、セルが天使に見えたわい」

「感謝しなきゃね、じいさん。これに懲りたら、しばらく女遊びをひかえることね。さっ、今から航海だから、船の上でもしっかり働いてよ」

 マリアンヌはそう言って彼の肩をぽんと叩いた。

「うむ。しばらくの間、女は嬢ちゃんだけにするわい」

 そんなことを言いながら彼女の胸に手を伸ばしてきたカッサンドロスの顔面に、マリアンヌは一発ナックルパンチをお見舞いした。彼は「あーうち」と悲鳴を上げて、仰向けにひっくり返った。

「ほんっと、懲りないよね、じいさんってば」

「まあ、この性分は死ぬまで治らないでしょう」

 グーパンチをたたき込まれた鼻っ柱をさすりながら甲板に転がっているカッサンドロスを、マリアンヌとセレウコスはあきれ顔で見ていた。

「お嬢、荷車を手に入れてきたぜぇ」

 新しい荷車を肩に担いで、プトレマイオスがインフィニティ号に帰ってきた。プトレマイオスが戻ってきたことで、乗組員は全員そろった。

「みんなそろったね。さっ、いよいよ出航するよ。航海士は上甲板に、船員は下甲板に全員集合して」

 マリアンヌは全乗組員に呼びかけた。上甲板には彼女を含めて六人の航海士が、下甲板には45人の船員がみな集まった。

「配置を確認するわよ。いつも通りセルは船長、プットは甲板長、じいさんは測量士ね。アッシャーはマストのてっぺんで見張りをして。ジュリアスには操舵を任せるわ」

「ああ、引き受けた」

「うん、いいよ。マストのてっぺんて遠くまで見渡せるし、気持ちいいんだ」

 ジュリアスとアッシャーはうなずいた。

 彼女は船員たちのほうに身体を向けた。

「これからの航海は近場だけど、まったく危険がないわけじゃないわ。冬が近づいているから海も荒れるし、最近はディカルト近海に海賊が現れるという話も聞くから、気を引き締めていかなきゃね」

 彼女は言葉を切って、船員たちを見渡した。

「船を動かすにも、なにか悪いことが起きたときにそれに立ち向かうにも、みんなで力を合わせていくことが大切よ。あたしたちは同じ船に乗り込む仲間、言ってみればひとつのファミリーよ。あたしたちみんなが一致協力して、助け合って、楽しく航海しようね。さあ、みんな、行くよ!」

「出航する。総員、配置につけ」

 マリアンヌの言葉の後を受け、船長のセレウコスが命令を出した。航海士も船員も、それぞれの持ち場に散っていった。

「抜錨開始! 展帆全開! ランシェルに向けて出航よ!」

 当直甲板上にたったマリアンヌの、りんとした号令が船に響きわたった。

 タラップが引き上げられ、錨が巻き上げられると、船は少しずつ揺れだした。フォアマスト、メインマストに、横帆がすべて広げられる。折からの冬の風、山地を越えて吹き下ろしてくる北西の風を受けて、インフィニティ号は桟橋を離れ、航行を開始した。

 まずは順風満帆の出だしで、船はティシュリ湾を抜け、外海に乗りだした。

「周辺に異常なし。前方にも障害物はないよ」

 マストの上の見張り台から望遠鏡をのぞいているアッシャーが叫んだ。

「天候は晴れ。風向は北西、風速は20フィートじゃ。南洋から内海に入る暖流がわずかに北に向かって流れておる。航海コンディションは上々じゃの」

「うむ。よし、東に進路を向ける。取り舵90度」

「了解、取り舵90度。東に回頭するぜ。……よっと、もういっちょ回してやれ」

 セレウコスの指令をジュリアスが復唱し、舵輪を回した。インフィニティ号はぐぐっと左に旋回し、東に進路を向けた。

「航海も仕事も、こつこつ確実にやっていかなきゃね。さあ、がんばってお仕事して、がんがん稼いで行くわよ」

 彼女はそう言って、眼前はるか向こうの水平線に向かって右拳を突き出した。

 季節は徐々に冬に近づいてきている。濃い紺碧の色をした海の上を、白い帆を広げてインフィニティ号は悠然と帆走していた。


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