第4話 わけのわからぬことだらけ

「スコットさんが行方不明って……どういうこと?」

 マリアンヌは驚いてミシェルに聞き返した。ミシェルは心配顔で首を横に振るばかりで、なかなか言葉を出さなかった。

「いやあ、嬢ちゃん。年寄りを追いてくなんて、敬老精神が足りんぞい。それはそうと、なにかあったのかね?」

 やっと追いついてきたカッサンドロスが訊ねた。

「スコットさんが行方不明になったんだって」

「なんと。それは奥さん、さぞや心配でしょうな。ところで、ご主人が姿を消したのはいつのことですかの」

「……マリアンヌさんたちがお帰りになってから、二日後のことですわ」

 ミシェルはぽつりぽつりと話し始めた。

「帰られた次の日に、主人は、東の川の様子を見に行くと言って家を出たんです。来年、川から灌漑水路を掘る計画をしているので、その工事地点を調査しにいったんですわ。その日は日が暮れてから帰ってきたんですが……そういえば、これまで見たこともないような難しい顔をしていましたわ。それで、『明日、街に行って、総督に面会する』と言い出したんです」

「総督に面会するって、なんのためかしら」

「その時はわたしもわかりませんでした。工事の許可をもらう手続きをするのだと思っていたのですが……」

 ミシェルは憂い顔で天を見上げた。

「主人はたいてい、どんなことでもわたしに話してくれるんですが、今回ばかりは何も詳しいことを話しませんでした。少し気になったので、主人が出かけるときに『総督に何の話をするの』と訊ねましたが、主人は首を振って『君は知らないほうがいい。害を被るといけない』といいました。それで、ダイヤンの街に行ったきり……」

「帰ってこないのね」

 マリアンヌが後を受けて言うと、ミシェルは小さくうなずいた。

「そりゃ、明らかに総督がなにか関わっとると見ていいじゃろうのう。総督官邸には行ってみたのかね?」

 カッサンドロスが訊ねた。

「ええ。それで、主人のことを訊ねたら、その日に総督と面会して、次の日に帰途についたというのです。街の人に訊ねたのですが、街の人たちも、その日の晩は宿屋に一泊して、次の日の朝に街を出るのを見たと証言されました」

「じゃあ、街から農場に帰る間になにかあったのかしら」

 マリアンヌははっとして目を見開いた。

「もしかしたら、うわさにでてた人喰い熊に襲われたとか……」

「人喰い熊? まさか。この島に熊はいませんわ。体長3フィートくらいある山猫の仲間には出会ったことがありますが、熊の姿はもちろん、足跡も糞も見たことがありませんよ」

 ミシェルはあっさり否定した。

「そうなの? でも、街の人たちは、人喰い熊が山地にいるって信じてるよ?」

「ええ、それは知っていますが、熊がいるって言う証拠は何もないんです。なので、街の人たちがそれをなぜ信じているのか、わたしたち夫婦はわかりかねているんです。うわさの出所もわかりませんし」

 彼女は首を傾げながら言い、付け加えた。

「かりに熊がいたとしても、主人は熊に倒されるような人ではありませんわ。ティシュリ島の山地で熊と遭遇して襲われたことがありますが、主人はその熊をジャーマンスープレックスで沈めたと言っていましたから」

「そりゃすごいわ……」

 マリアンヌとカッサンドロスはうなった。スコットの、あの熊のような体格は伊達ではないらしい。

「嬢ちゃん。もし、農場とここをつなぐ道沿いでスコット殿がなにかに襲われたのだとすれば、その形跡が残っておるはずじゃ。奥さんがそれに気づかぬことはなかろう」

 右手であごひげをなでながら、カッサンドロスがマリアンヌに言った。

「それもそうね。じゃあ、どうしてスコットさんが行方不明になったの?」

「それがわからぬから、奥さんも困っておるのじゃろう? ただ、街を出たところからの足取りがわからぬし、街での行動の情報も不足しておる。スコット殿の行動などを、改めて調べてみる必要があるじゃろうのう」

「わかったわ。ミシェルさん、あたしたちもスコットさんの行方を追ってみるわ。きっと見つけてみせるから」

「ありがとう、マリアンヌさん。おねがいします」

 ミシェルは頭を下げた。

 インフィニティ号の接岸が終わったようで、仲間たちがぞろぞろとマリアンヌたちのところに集まってきた。彼女は、スコットが行方不明になったという話を仲間たちに伝えた。

「お嬢、そいつは一大事だぜぇ。ぐずぐずしてねえであの先生を捜し出そうぜぇ」

「そうね。でも、まずは情報を集めないと。みんなで手分けして、スコットさんの行方を聞き込むのよ」

「全員でなくともよいのではないですか」

 セレウコスが静かに言った。

「どうして? スコットさんのことが心配じゃないの? 一分でも早く見つけないと」

「自分とて、心配していないわけではありません。お世話にもなったわけですし。しかし、聞き込むにしても、小さな街ですからそう時間のかかることではありません。それに、我々には大切な仕事があります。そのために、またダナン島に来たのですから」

 彼の指摘したとおり、ダナン島の開拓民を支援して、彼らが再び開拓に戻ることができるようにする目的で、マリアンヌたちはダナン島にやってきた。そのための必要物資もインフィニティ号に積み込まれている。本業をほったらかしにすることはできない。

「そっか。セルの言うとおりね。じゃあ、あたしとセルは交易所に行って、荷物を降ろしてきてから、港周辺で話を聞いてみるわ。ほかのみんなは街でスコットさんの情報を集めて。夕方に、酒場で落ち合うことにするわね」

 マリアンヌの指示で、仲間たちはそれぞれに散っていった。


 マリアンヌとセレウコスが交易所を訪れると、そこには交易所の店主のほかに、自治会長のオジジアンと鍛冶屋のマックスウェルも待ち受けていた。

「会長さん、マックスウェルさん。また来たよ」

「おお、船乗りの嬢ちゃん。首を長くして待ってたぜ」

 マックスウェルが太い腕を広げて、彼女たちを出迎えた。

「鋼鉄と石炭を仕入れてきたわ。これで、たくさん農機具を作ってね」

「ありがとよ。そりゃ、期待に応えねえとな」

「お嬢ちゃん。礼を言わせてもらおう。よそからやってきて、わしらのために動いてくれる人物は初めてじゃ。それだけでもありがたいわい」

 オジジアンが、生え際の後退した頭を深々と下げた。

「会長さん、お礼はまだ早いよ。大切なのはこれからだもん。みんなが開拓に戻っていけるように、手助けをしようと思ってここに戻ってきたんだから」

 彼女は店主のほうを向いた。

「大麦が100樽にジャガイモが60樽、あと木材と木炭を持ってきたわ。こっちに今持ってくるからね」

「ありがとうございます」

 インフィニティ号のほうでは、船員たちと荷揚げ人足が、艀に積み荷を積み込んでいるところだった。

「食料も燃料も不足気味になることが予測されていましたので、ほんとうに助かります。では、買い取り値段のほうですが、3070ターバルになります」

「ずいぶんと安いですね。仕入れ値とほとんど変わりませんよ」

 セレウコスがマリアンヌに向かって言った。

「不景気のため、この街では物が売れないんで、相場が下がっているんです。食糧が不足気味になることはわかっていますが、だからといって食料品物価を上げると誰も買えなくなってしまいますので、価格調整をしているんですよ。そう言うわけで、この額以上はお支払いできないんです」

 店主は言い訳した。

「別にいいよ。今回の交易はあたしたちの利益を期待してないもん。まず手始めに、ここの島の人たちが無事にこの冬を越すことができるように、必要な物を持ってきたわけなんだから。支出の分だけ返ってきただけでももうけものと思わなきゃ」

「わかりました。ところで、キシュ産の鉄製品はどうするのですか? この交易所に持ってくる品目には入っていませんでしたが」

「あれは島のみんなに配るわ」

 セレウコスの質問に、彼女はさらりと答えた。

「わしらに配るだって?」

 オジジアンが驚いて言うと、彼女は微笑を浮かべた顔で続けた。

「あたしなりに、島の立て直しに貢献できることがあるかなって考えて、思いついたの。冬になったら畑を耕すことは無理だと思うけど、街作りならできないこともないでしょ。道路を直したり、港を直したり、水路を造ったり。それで、シャベルとかつるはしとか、土木工事に使うような道具を持ってきたのよ。島の立て直しに協力すると約束してくれた人たちに、道具を配るの。なかなかいい考えでしょ」

「なるほど。政府のやっていた『屯田』のシステムに似ている方法だの」

 オジジアンはうなずいた。

「屯田?」

「なんじゃ、知らなかったのかね。かつて南方へ進出した連邦政府が、開発推進と前線の食糧補給の一環として、遠征隊の兵士や人足たちに無償で農具を貸与して、平時は開墾をさせたんじゃよ。わしはてっきり、それをこのダナン島に応用したのかと思ったよ」

「いや、それを知らなくて、ただ思い付いたんならたいしたもんだぜ。それに、目の付けどころもなかなかいいじゃねえか。島の人間は街に閉じこもって、農地を結ぶ道路なんかは荒れちまってるわけだし、港も改修が必要だ。街の入り口が砦の残骸というのもいただけねえしな。街作りは島にとって必要なことだ」

 マックスウェルが太い腕を組んで、納得したようにうなずいた。

「しかし、協力を申し出る島民がいるのかが問題ですね」

 しなびたへちまのような長い顔をつるりとなでて、店主が問題点を指摘した。

「協力も何も、オレたちの島の話だろう。島のことを島の人間がやらなくて、誰がやるって言うんだ。それをまずわからせなきゃなるめえよ。なあ、自治会長」

「うむ、そうだとも」

 語気強く言い放ったマックスウェルの発言に、オジジアンは力強くうなずいた。

「わしらは今まで、島を襲った数々の災害や、開拓法による高い税率、連邦政府や総督など、いろいろなもののせいにして言い訳ばかりしておった。だが、それも終わりじゃ。そもそも、開拓民は己の意志と力を頼みに土地を切り開くのが本筋。他人の力を当てにしてはいかんのだ。総督も連邦政府も頼みにならんのなら、島の住民、開拓民である我々が立ち上がらねばならん。そうでなければ、わしらのためにいろいろと手助けしてくれているお嬢ちゃんに申し訳がたたん」

 彼はマリアンヌのほうを見た。

「わしはこの街の自治会長じゃ。自治会長の仕事として、この島の開拓民たちをまとめて見せよう。わしに任せてくれ」

「うん」

 マリアンヌは笑顔でうなずいた。

「今日これだけの入荷があるのだから、きっと明日には、街の広場で市が立つことでしょう。街じゅうの人が集まるはずですので、その時に、鉄製品の配布を行ってみたらどうですか」

 交易所の店主が提案した。

「あ、それはいいね。ひとりでも多くの人に呼びかけたほうがいいもんね」

「ならば、明日の朝に鉄製品の配布ができるよう、積み荷を用意しましょう。会長殿、場所の確保を頼めるだろうか」

 セレウコスがオジジアンに訊いた。

「ああ、広場の中心部に場所をとっておくようにしよう。人が一番よく集まる場所だ」

 話し合っているうちに、インフィニティ号から荷物を降ろした艀の第一便が、交易所の船着き場に接岸した。まず届いたのは大麦の樽だった。艀に乗ってきた数人の人足たちが、交易所内に荷物を運び込み、並べていった。

「じゃあ、あたしたちはもう行くね。あ、そうだ」

 用事が終わったので交易所をあとにしようとしたマリアンヌたちは、大事なことを思い出して立ち止まった。

「そうだわ。さっきミシェルさんから聞いたんだけど、スコットさんが行方不明になったんだって。会長さん、マックスウェルさん、なにか知っていることない?」

「ああ、そうらしいな。あのごつい先生が簡単に姿を消すなんて考えられねえが、なにかに襲われたのかね。あのごつい先生がなにかに襲われるのも考えられねえが」

 マックスウェルが表情を曇らせて、太い腕を組んだ。

「スコット先生が街に来た日の晩は、わしの家に泊めたんじゃよ。あの人と晩飯を一緒にしながら、島の開拓のことを話し合っておったんじゃ。次の日の朝に、街を出て行くところまで確認しておるんじゃが……そのあとのことはわからん。もちろん、そのことは奥さんにも話したんだがね」

「街の外でなにかあったということは間違いないようですね」

 セレウコスが思案する顔つきでつぶやき、オジジアンたちに訊ねた。

「総督官邸の人間や街の人間が、街の外にでていたということはなかっただろうか。スコット殿の姿を見たり、あるいはなにかこの件に関わっている人間がいるかもしれない」

「いや……それらしい人の動きはなかったと思うのだが。小さな街だけに、不審な動きをする者がおったら誰かが気づく。奥さんに先生が行方不明になったという話を聞いたとき、わしも街の者に訊ねてまわったのじゃ。だが、不審な動きをしている者をだれも見ておらんかった」

「先生は街の東の入り口から出ていったんだ。オレの鍛冶屋はその近くだから姿を見ている。あっち側の入り口は人があまり通らねえんだ。今時、街の外に出かけるのは、薪をとりにいく薪炭屋のおやじくらいで、薪を取りに行く林は北にあるから、東の入り口は使わねえ」

「となると、スコット先生は神隠しにでも遭ったのかね?」

 オジジアンとマックスウェルは顔を見合わせて首をひねった。

「わからないことが多いわね。あたしたちも奥さんと約束したし、スコットさんを見つけることにしているの。あたしたちも調べてみるわ。教えてくれてありがとうね」

 マリアンヌとセレウコスは交易所をあとにした。

 交易所内にはインフィニティ号から積み降ろされた荷物が次々に運び込まれ、殺風景だった場内がだんだんとにぎやかになってきた。

「おっ、がいに荷物が入ってきたな」

「大麦にいもか。食いもんが入ってきたがね」

 荷物が入ってきたことをかぎつけて、交易所に街の人間がやってきた。

「この前やってきた船乗りのお嬢ちゃんが、わしらが冬を越すのに必要な物をそろえて、運び込んでくれたんじゃ。今月の終わりに来るはずの定期便が入れば、今年の冬は食い物に事欠くことはないだろうのう」

「ああ……あの、人の生活に口出ししてきたおせっかいな小娘か。物好きなこった」

「そういう言い方をするんじゃねえ。あのお嬢ちゃんだけだぜ、この島に人間のことを考えて、実際に動いてくれた人間は」

 マックスウェルがいかつい顔をしかめてたしなめた。

「何にせよ、おせっかいで物好きなことに変わりねえだろ。まあ、これからの冬場に、その日の食い物の心配をしなくてよくなったのはありがたいこった」

「大麦やジャガイモもいいけど、牛肉や豚肉を積んできて欲しかったな」

 街の男たちは、大した感謝を示すこともなく口々に言った。

「お嬢ちゃんが持ってきたのは食料や燃料だけじゃないぞ。わしらのために鉄製の土木用具を持ってきてくれた。わしらがわしらの手で、街作りをできるようにな」

「は? 土木用具?」

「そうだ。明日、市場で我々に配ってくれる。それで、この冬の間に街を改修したり、道路や港を作り直すのじゃ」

 オジジアンの言葉に、街の男たちは少しの間言葉を失っていたが、次にはげらげら大笑いを始めた。

「はん、無駄無駄無駄。誰が好きこのんで働くかね。野良仕事もろくにせんに」

「やっぱし、島の現実を見てねえんだ。島のことを何もわからねえのに、横から他人様の生活に口出しするから、役に立たない仕事をすることになるんだ」

「なにを言うか。わかっておらんのはお主らだ」

 オジジアンは街の男たちを一喝した。

「あのお嬢ちゃんの気持ちがお主らにはわからんのか。この島がほうって置かれているのも、わしら開拓民がやる気を失っているのも見ていられないから、いろいろ親切に手を尽くしてくれているんじゃ。わしらはあのお嬢ちゃんに感謝しなければならんし、自分自身のこれまでを恥じねばならん。本来、開拓地は開拓民の物、わしら自身が努力して切り開いていかねばならんのだ。それができてないことを恥と思え。そして、開拓に立ち上がるんじゃ。お嬢ちゃんの親切に応えるためにもの」

 彼は熱弁を振るったが、街の人間には馬耳東風の様子だった。

「年寄りは理屈を並べるからいけねえ。そんな言葉ありがたがる人間はいねえよ」

「どうせこの島には先がないんだ。おれたちもネオフロンティア政策の捨て駒なんだ。今さら汗水たらして開拓したって生活は良くならないんだし、酒食らってその日を生きてれば十分だろ」

「やりたきゃじいさんたちだけでやりなよ。わしらには関係ないことだからよ」

 そう言い捨てると、男たちは街へと引き返していった。

「わたしの心配が当たったようですね」

 交易所の店主が困惑顔で言った。

「まったく、同じ島の人間として恥ずかしい野郎どもだ。ハンマーで殴って目を覚まさせてやろうか」

「やめい、マックスウェル。人の心を動かすのは難しいことじゃ。根気よく、開拓に戻るようみなを説得するよりあるまい」

 オジジアンは顔を紅潮させていたが、冷静に言った。そして、ぼそりと心配事を付け加えた。

「しかし、長い間ダイヤンの自治会長を務めるわしの言葉を聞かないんじゃ。よそからやってきたあのお嬢ちゃんが説得して、島の人間が果たして聞く耳持つだろうか」


 マリアンヌとセレウコスが港まで戻ってきたとき、街から港につながる坂道をアッシャーが下りてきた。馬を一頭引いている。そのまだら馬にマリアンヌは見覚えがあった。

「あれ、アッシャーどうしたの? それ、ドリスさんの馬だよね」

「あっ、提督。大変なんだ」

 まだら馬を引いて、アッシャーは彼女のところに駆けてきた。いつも何となくへらへらと軽薄な笑みを浮かべている彼が、いつになく心配そうな表情になっている。

「ドリスさんもいないんだよ」

「えっ? どういうこと?」

 マリアンヌが聞き返すと、アッシャーはまだら馬の鼻面をなでながら、

「ドリスさんの家に行ってみたんだ。エリュシオン(馬の名前)がいたからきっと家にいると思ってドアを叩いたんだけど、かぎがかかってたんだ。おかしいと思って、裏口に回って、戸が開いてたから中に入ったら、誰もいなかったんだよ」

「それはたまたま出かけていたからではないか?」

 セレウコスの問いにアッシャーは首を振った。

「違うと思う。エリュシオンの様子で、ドリスさんが何日も家を空けているってわかったんだ。飲まず食わずだったみたいで弱っていたんだよ。飼い葉桶と水桶を見たら、二日分くらいの餌と水を入れたあとがあったんだけど、それを食べ尽くしているってことは、ドリスさんはそれ以上家に帰っていないってことだよね」

 まだら馬エリュシオンの毛づやはたしかによくない。何日も飲まず食わずだったのなら、体力が落ちるのも当然だ。場合によっては命に関わる。

「うむ。その人はこの馬を置いて出かけたものの、予定を過ぎても帰らなかったということですね」

「そうね。何日くらい前にいなくなったのかしら。スコットさんの行方がわからなくなったことと関係あるのかな」

 マリアンヌが首を傾げていると、港の出航係の若者が近づいてきた。

「すみませんが、それって、よそから調査員としてこられた金髪の女の人のことですか?」

「そうだよ。なにか知ってるの?」

 アッシャーが勢い込んで訊ねると、若者は馬面の顔をこすりながら、少し困惑したような表情をして答えた。

「直接は関係ないことかもしれませんが、五日前、あの人が艀を一艘貸してくれないかと言ってきたんですよ。島にそれ以外舟がないからと」

「艀を?」

「ええ。それでわたしも『何に使われるんですか』と訊ねたんです。そしたら、『改造して帆をつけて、島の北海岸を調査する』と言われました。無茶な計画なので断ったら、あの人は肩をすくめて帰っていかれました」

「平底の艀で外洋に出たら間違いなく転覆する。確かに無茶だ」

 セレウコスはうなずいた。

「そうですよね。それに、北海岸のあたりには怪魚がいるんですから、命知らずもいいとこです」

「でも、ドリスさんもすごい行動力だね。艀に帆をたてて海に出ようなんて」

 マリアンヌがアッシャーに言うと、アッシャーもうなずいた。

「あの人、文武両道で何でもできるからね。ボウガンの命中率も高いし、馬も巧いし、ヨットとかも動かせるんだ。そういえば、昔トローリングに挑戦して、5フィートのマグロを釣ったって。8フィート以上を狙ってたのにって言ってたよ」

「すごーい」

「あ、そういえば……」

 アッシャーは何かを思いだしたように、パンと手を打った。

「ドリスさんの家に入ったとき、ボウガンがなくなっていたんだ。ボウガンを持って出るなんてふつうは考えられないよね。街の広場でドリスさんにあったときも、エリュシオンに乗ってたけどボウガンは持っていなかったよ」

「そうですね。馬に乗っておられるのはよく見かけますが、ボウガンを持っておられるところは見たことありませんでした」

 出航係の若者が言った。

「そういえば、広場でドリスさんに会ったとき、あの人、港のほうからやってきたんだよ。ねえ、ドリスさんは馬に乗ってどこに行ってるの?」

 アッシャーが若者に尋ねると、若者は首を傾げながら、東側を指さした。

「東側に向かって延びている海岸によく行っておられるようです。とは言っても、崖端に砂浜が3マイル足らず延びているだけで、何にもないんですけどね。そこから先は、崖端の岩場になっていて、波が常に打ち寄せているんです。だから馬ではもちろん、歩いて通ることもできません。その行き止まりは、丘が海に突き出たような形になっていて、実は丘に上がる山道があるんですけど、そこも急な坂ですから、馬で歩くことはできませんね」

「その山道を使って丘に上がると、なにかあるの?」

 マリアンヌが若者に訊ねた。

「海神プレノールのお社があります。それだけですね。でも、お社への道は、街の東側の木立を縫う小道があるので、山道を使ってお社に行く人はいません。昔、東の海岸沿いには、塩を炊くための小屋が何軒か建っていたという話で、そこに住んでいた人たちが使っていたそうなんですが、塩小屋は津波で全滅してしまいましたから……」

「ドリスさんがお社に通うなんて考えられないな。なにかほかの目的があったのかな」

 アッシャーが首を傾げた。

「つかぬ事を聞くが、その女性を最後に見たのはいつのことだ?」

 セレウコスが質問すると、若者は少し首をひねり、

「確か、三日前の夕方だったと思います。馬に乗って、東の海岸から街に戻って行かれるのを見ました。その次の日には……朝から見かけなかったと思います」

「ということは、ドリスさんが姿を消したのは、おとといのことってわけね……。ありがとう、情報をくれて」

「いえいえ、たいしてお役には立てませんでした。それじゃどうも」

 若者は港のほうに帰っていった。

「ふむ。スコット殿が先に姿を消し、続いてドリス女史が姿を消した…」

「このふたつのことってつながってるのかな? ドリスさんとスコットさん、面識がないって話だったけど」

 セレウコスとアッシャーは、同じように腕組みをして考え込んだ。

「街に行けばなにかわかるかも。スコットさんのことも気がかりだし。とりあえず、酒場でみんなと合流して、これからどうするかを考えようよ」

 マリアンヌが促して、三人は街につながる坂道を歩いていった。


 街の酒場、繁栄の大地亭は相変わらずの寂れた外観だったが、中は飲んだくれた男たちでいっぱいだった。客の数だけ見れば繁盛しているようだが、辛気くさい雰囲気は相変わらずだった。

 中を見ると、プトレマイオスは席に座って、さっそく酒瓶を口にくわえていたが、カッサンドロスとジュリアスはまだ来ていないようだった。

「いらっしゃい。ああ、また来てくれたのかね」

 マリアンヌたちが酒場の中に入ると、口ひげのおやじが声をかけてきた。彼女はカウンターの上に10ターバル紙幣を何枚か置いた。

「あんまり身体に良くないかもしれないけど……ここのみんなに振る舞ってあげて」

「毎度あり。豪儀だねぇ。なら、この前お嬢ちゃんたちが運んでくれた“ランシェルの白”を一樽出そうかね」

 おやじは奥に引っ込んで、ワイン樽を転がしてきた。

「おうい、船乗りのお嬢ちゃんがごちそうしてくれるから、みんな飲んでくれ」

「おっ、話せるねえ。おごってくれてありがとよ」

 前回来たときは、彼女がワインを振る舞っても、死んだ魚のようになってまったく盛り上がらなかった酔客たちだったが、今回は反応があった。一度とはいえ顔を見知った間なので、少しは気を許したのだろう。

「あと、なにか食べるものある? おなか空いたんだけど」

「そうだねえ……大したものがないんだが。塩味のプレッツェルか、バターロール、ガーリックロール、チーズ、ハム……」

 おやじは食べ物をいくつかあげたが、ほんとうに大した物を置いていない。安食堂でももっとメニューが豊富だと言える。不思議なことに、離島であるのに、魚介類のメニューが何もなかった。

「この街の特産って言うのはないのね」

「……そうだね、お嬢ちゃんの言うとおりだ。産物のないところだから。客も酒ばかりが目当てで、つまみすらあまり食べないし。チーズやハムは島外から仕入れた物だから、船乗りのお嬢ちゃんからすればつまらないだろうね」

「周りは海なのに、魚もエビも貝もないのがわからないわ。魚が捕れないってことはないでしょ。スコットさんのところでは、紅マスを捕まえて保存食にしてたわよ」

 おやじはじっとマリアンヌの顔を見て、口ひげをもごもご動かしていった。

「お嬢ちゃんは聞かなかったかね。この島の周辺海域には怪魚が住んでいるといううわさだ。漁船をひっくり返して、人間に襲いかかって食べてしまう妖魚だよ。だから、島の人間は襲われることを恐れて、漁に乗りださないんだ」

「怪魚のうわさは聞いてたけど……だったら退治すればいいじゃない。ちょっと前に、アンシュレク島(ディカルト連邦の最北にある島)の漁師さんたちが、漁場を荒らしていた暴れトドを退治したって話を聞いたわ。もし、島の人たちの力で退治できないなら、海軍に頼んで退治してもらえばいいのよ」

 おやじはむうとうなった。

「確かにそうなんだが……それは総督から連邦政府に頼むことだしねぇ。連邦政府も、こんなお荷物の島のために海軍を派遣してくれるものかどうか……」

 煮え切らないおやじの態度に、マリアンヌはしびれを切らしたように、鼻で強く息をついた。

「あれこれ考えてたって何も始まらないのよ。なんなら、あたしたちがその怪魚を退治してあげようか?」

「お嬢ちゃん、それは無茶です。大砲はおろかバリスタも装備していない船で、巨大な生物を相手に戦うのは無謀です」

 セレウコスが彼女をたしなめた。

「心配するこたねぇ。怪魚くれえ、俺様が噛み殺してやらぁ」

 プトレマイオスが息巻いたが、それこそ無謀だ。

「そうかな……でも、怪魚がいなくなったら、きっと島の人たちのためになると思うし、第一、そんな魚がうろついていたら、定期船やあたしたちの船だっていつ襲われるかわかったもんじゃないでしょ。ねえ、おやじさん。その怪魚ってどんな魚なの?」

 マリアンヌの質問に、おやじはしばらく黙って首をひねっていた。

「どんな魚って言われても……改めて聞かれると、わしもよく知らないのだな」

「俺は知ってるぞ。何でも、体長が30フィートもある大オコゼだって話だぜ」

 酔客のひとりが声を挙げると、その後ろから次々に声があがった。

「はあ? 寝ぼけたことを言ってるんじゃねえ。体長50フィートの大ウツボだって話だろうがよ」

「違う違う。身の丈10ひろの大イカだろう」

「おれはメガロドン(巨大な人喰い鮫)だって聞いたぜ」

「ちょっと待って。みんな、ちょっと待って」

 口々に言い合う客たちに向かって手を振って、マリアンヌは話をさえぎった。

「ねえ、ほんとうは誰も怪魚の実物を見たことないんでしょ? うわさが広まってるだけで怪魚がいるって信じるのっておかしくない?」

 彼女の言葉に、客たちはしんと静まり返った。

「けどよう……総督府からの発表だったんだよ。昔はここの沿岸で漁をしている漁師もいたんだけど、島の北側に行った船が帰ってこなかったり、なにかに食いちぎられた死体があがったりして、おれたちもおっかねえから、総督に頼んで調べてもらったんだ」

「そのあと、総督から発表があって、島の北側に得体の知れない怪物が生息しているから近づくなと言うんだ。行って、なにか災難にあっても総督府は関知しないって言いやがるからよ、それ以来、漁師たちはほとんど島を離れるし、オレたちも船に乗る気はしないし……。それ以来、誰も海に近づかなくなったなぁ」

「ふーん。わからないわね。怪魚がいるって言い出したのが総督だったら、退治するとか、対策を打つのがふつうじゃないかしら」

 客たちの話を聞いて、彼女は腕組みをして首を傾げた。

「だらずの総督が、そげなことするわけないがね。もし、怪魚でも、山の人喰い熊でも退治しとったら、わしら総督をもっとほめちょうわ」

 彼女の疑問を、客のひとりが笑い飛ばした。

「ミシェルさんがこの島に熊はいないって言ってたわよ。人喰い熊がいるって言ううわさも、ほんとうにうわさだけの話なんじゃない?」

 彼女が熊のうわさのほうもただすと、客たちはまた水を打ったように静まり返った。

「けど、これも総督が言ってた話だからな。それも、昨日今日のうわさじゃねえ、この島に入植者が初めて足を踏み入れたときから信じられているんだ。聞いたかもしれんが、総督はここの島を探索したスカウトだったんだが、その時に、無人島のはずのこの島で、何者かに襲われて一小隊全滅したそうだ。調査の結果、人の手に負えない熊がいるようだと報告されたという話だぜ」

「入植当時からそんな話が出てた。みんなそれを聞いて、わざわざ危険を冒して山地に行かなくても、平原を開拓すればいいって言って、誰も山地にまで足を伸ばさなかったんだよ」

「あの農学者の先生もその奥さんも、ここに来てたかだか五年だろう? 島に暮らしているのはわしらのほうが長いんだ。わしらのほうがよく知っているわい」

「そういや、あの先生が行方不明だって聞いたが、ここいらでは、人喰い熊に襲われたんじゃないかってうわさになってるぜ」

 客たちはまた口々に話し出した。

「いやいや、熊に襲われたという線は消えたのう。熊に襲われたというあとはなかったわけだし、何より、熊は冬ごもりの時期に入っておる」

 酒場の扉が開いて、カッサンドロスが中に入ってくるなり言った。

「じいさん。スコットさんのこと、なにかわかった?」

 彼女が訊ねると、彼は首を振った。

「いや、ミシェルさんがすでに知っていること以上の情報はなかったわい」

「そう……。ミシェルさんはどうしてるの?」

「鍛冶屋に預かってもらったわい。奥さんひとりで、人里離れた家に残るのは危険だからのう。疲れていた様子だし、もう今日は聞き込みを続けても無駄と判断したから、ゆっくり休むように言っておいたわい。ご主人が見つかったときに奥さんが倒れていては元も子もないからのう」

 マリアンヌはため息をついた。

「結局手がかりなしか……。スコットさんに続いて、ドリスさんも行方不明だし、わけの分からないことばかりだわ」

 彼女は酒場のおやじのほうを振り向いた。

「ねえ。おやじさんはスコットさんやドリスさんがどこに行ったか、なにか情報を持ってない?」

「いや、残念だがないねぇ。あの二人はうちの店に来なかったからね。足取りも何もわからないよ」

 情報が集まる酒場で情報がないなら、情報収集の限界に近くなる。だめでもともとというような思いだったが、とりあえず、マリアンヌたちは酒場の客たちにも訊いてみた。だが、想定通りスコットとドリスの足取りをつかめる情報は何一つなかった。

「このままではらちがあきません。明日にでも、一から情報を洗い直した方がいいでしょう」

 セレウコスがマリアンヌに言った。彼女はうなずいたが、ふと顔を上げた。

「まだジュリアスの情報を聞いてないわ。じいさん、ジュリアスはどこにいるの?」

 そろそろ日暮れ時だが、まだ酒場にジュリアスの姿がない。

「ジュリアスなら、カラスに追いかけられて走っているのを見たぞい」

「なんで?」

 カラスに追いかけられるシチュエーションというのがわからない。マリアンヌはつい大声を出してしまった。

 そんなところに、ちょうどジュリアスが帰ってきた。着ているフロックコートや、ぼさぼさの頭に、たくさん枯れ葉や枯れ草をくっつけている。

「どうしたのジュリアス、そんなかっこうで」

「カラスがオレのほうにガンつけてくるからよ、一発脅してやったら、逆に襲ってきやがったんだ。オレもたまりかねて、街の東にある雑木林に潜り込んでやり過ごしたんだ」

「あっはっは。だっさぁ~」

 話を聞いて大笑いしたアッシャーに、ジュリアスはアイアンクローをかまして黙らせた。

それから、彼はマリアンヌたちをひとつのテーブルに集めて、低い声で話し始めた。

「話はここからさ。総督官邸だって言うでかい屋敷の裏門近くに、雑木林の中を通り抜ける小道の入り口があって、そこに飛び込んだんだ。せっかくだからその奥に入っていった。何があったと思う」

「プレノールのお社でしょ。港に人に聞いたわ」

 マリアンヌはさらりと答えた。ジュリアスの言う雑木林の小道は、ドリスがよく行っていた海岸の突き当たり、海岸で崖になっている丘に続いている。

「それは知っていたようだな。その社のあたりから別のところに出る道がついているんだが……」

「それも港の人に聞いたよ。港から東に続いている海岸に下りる道があるんだって」

 答えたアッシャーに向かって、ジュリアスはちっちっと人差し指を振った。

「もう一つあるのさ。それも、隠してあって目立たない道がな」

「ほんとうなの?」

 彼女が目を見開いて聞き返すと、ジュリアスはうなずき、ワインを一杯ゴキュゴキュと飲んだ。

「プレノールの社ってのは、切石で作られた小さい建物なんだが、ちょうどその裏手の崖端に縄ばしごが引っかけてあるのを見つけた。それを伝って下りると、港とは反対側の入り江に下りていく細い道があったんだ。それも、崖側にロープが張ってあって、それを伝って歩くことができる道がな」

「そんな道があったなんて……島の人たちは知っているのかな」

「いや、そうは思わねえな。隠し通路はちょっとやそっとじゃわからねえようにしてあったし、社自体、あまり人が手入れしている様子がなかった。人のよく来るところじゃねえんだろ」

「人気のないところに隠し通路をつけるとは、誰が、なんの目的でやったことなのかのう。で、ジュリアス。入り江まで下りてみたんじゃろ」

 カッサンドロスがあごひげをなでながら聞いた。

「もちろんだ。だけど、そこになにかある様子はなかった。ただ、社のある丘と、反対側にはやっぱり切り立った崖の半島に囲まれた入り江で、それも懐が深い湾だ。水深もあるらしい。船が停泊するのに問題ない場所だ」

 ジュリアスはそれを話しながら、フロックコートのポケットや懐をごそごそ探り、酒のボトルを三本ほどテーブルの上に置いた。中身も入っている。

「その入り江の海岸で見つけた収穫物さ」

「おっ。チキンハートじゃねえか。珍しい酒だぜぇ」

 プトレマイオスは酒を見てよろこび、さっそく開けてぐびぐび飲み始めた。

「チキンハート? ラム酒なの? 聞いたことない名前なんだけど」

 ボトルを手に取ったマリアンヌは首を傾げた。

「知らねえのかぁ、お嬢。チキンハートってったら、ネルソンズブラッドよりうめえって評判のラム酒じゃねえかよ」

「知らなくても無理ないさ。チキンハートはドヴァーニ島(ディカルト連邦の南西端に位置する島)特産のラム酒で、タルニェン島以南にしか出回っていない幻の酒なんだ」

 酒に詳しいジュリアスが彼女にそう説明し、そして目つきを変え、また声を低くして言った。

「おかしいと思わねえか? こんな北方の島に、南方諸島でしか出回ってないはずの酒があるなんて。しかも、通常の物流ルートじゃねえところだぜ」

「……ほんとだ。酒場にもラム酒がおいてないのに、何で海岸にチキンハートのボトルがあるんだろ? 謎だわ」

 彼女がボトルを片手にして首をしきりに傾げていると、珍しいボトルを見つけてか、奥の席にいた数人の客が寄ってきた。

「チキンハートじゃないか。懐かしいなあ」

「おれらは昔南方に住んでいたんだ。チキンハートの味は忘れられねぇなあ」

「すまんけど、わしらに一本わけてくれないかね」

 地元の客たちはしきりにせがんだ。

「どうする、提督。三本しかねえし、一本はプットさんが飲んじまっているが」

「いいよ。欲しいんならあげようよ」

 彼女が快くそう言ったので、地元の客たちはラム酒のボトルを手にして、よろこんでもとの席に戻っていった。

「お嬢ちゃん。明日やらねばならないこともあります。今日はここで解散して、明日に備えましょう」

 セレウコスがそう提案した。

「そうね。明日は広場で鉄製品の配布もする予定なんだし。みんな手伝ってね。それを終わらせてから、スコットさんとドリスさんを捜すことに集中するのよ。あ、そうだ」

 彼女はぽんと手を打ってから、席を離れ、地元の客たちに向かって呼びかけた。

「今日、荷物をたくさん運んできたから、明日は広場で市が立つはずよ。みんな集まってね。あたしたちも、みんなに配りたいものを用意してるの」

「わしらに配りたいものってなんだ? 酒か、金か、うまいもんか?」

 客の誰かが彼女に尋ねた。

「違うわ。土木作業用の道具よ。それも、キシュ産のブランド品なんだから」

 彼女がそう言うと、客たちは盛り下がってしまった。

「そんなの配られてもありがたくないね。働いても働いても身にならないんだ。もうたくさんなんだよ」

「政府からも見捨てられた島でがんばったって、何もなりゃせんよ」

「くれるものはもらっておくけど、変な期待かけられても困るんだよ」

 客の反応にマリアンヌは表情を変えなかった。こういう答えが返ってくるだろうと思っていたからだ。

「島のために働きたくないなら、なんにもあげないからね。それに、政府がこの島を見捨てたって話はうそなんじゃない。この島の人口流出に対する対策として、囚人船を送ったって聞いたわよ。時間的に、もう島に来ているんじゃないの」

 彼女の話に、客たちは顔を見合わせた。

「いや、この島にはなんの船も来てないぞ」

「人っ子ひとり、出入りはねえよ」

「えっ、そうなの? だって、あたしたちは三日前にオデルでそう聞いたのよ。それも、すでに出発したあとだって」

 マリアンヌはびっくりして、酒場のおやじのほうを向いた。

「囚人船はこの島に来てないの?」

「ああ。その話自体初耳だよ」

 おやじは、口ひげをもごもご動かして答えた。

「そんな。オデルであったあの人は『間違いない』って言ってたのに。なんで?」

 この島にやってきてから、起きていることや耳にすることはすべてわけのわからないことばかり。彼女は考え込んでしまった。


 その晩は、繁栄の大地亭の二軒隣にある宿屋に一泊し、12月14日の朝になった。

 ダイヤンに到着してから、交易に、行方をくらませた二人に関する情報収集にと駆けずりまわったおかげで疲れていたマリアンヌは、ゆっくり眠っていて、起床したのが9時過ぎだった。

 目を覚まし、ちょっと寝ぼけた目で懐中時計を確認し、はっと飛び起きた。

「やば、もうこんな時間。市が終わっちゃうわ」

 彼女は急いで服を着替え、身支度を整えて階下に下りた。

 宿屋の玄関ロビーでは、セレウコスが待機していた。

「おはようございます」

「おはよ、セル。急がないと、市が終わっちゃうよ」

「その心配はないようです。日の出が遅いためか、市が始まったのは8時を過ぎてからでした。まだ広場は人でにぎわっているようです」

 あわて気味のマリアンヌに対して、セレウコスは落ち着き払って答えた。

「そうなの。じゃあ、今から準備しても間に合うね。セルは船に帰って、配布する予定の荷物を取ってきてね。島のみんなに配るのは、あたしとじいさんとアッシャーでやるわ」

「承知」

 二人が宿屋から出ていこうとしたとき、外から息せき切ってアッシャーが飛び込んできた。

「あっ、提督、セルさん。大変だよ。広場で『囚人船がやってくる』ってうわさが広まっているんだ」

「アッシャー、なんでそれが大変なの? 囚人船が向かったのはほんとうでしょ」

「そのうわさのせいで、広場が大騒ぎになっているんだ」

「えっ」

 彼女は表に出た。通りの先に広場があって、そこは人でにぎわっている。だが、聞こえてくるざわめきは、商品の売り買いでにぎわう市のざわめきではない。火事や天災に見舞われたときのような、恐慌状態の騒がしさだった。

「どうしてこんな騒ぎになるの? おかしいよ」

「お嬢ちゃん、あの状態の群衆に近づくのは危険です。アッシャー、急いでプットの奴とジュリアスを呼べ」

 セレウコスが静止したが、マリアンヌは広場の様子を見に行ってしまった。プトレマイオスとジュリアスが居続けている繁栄の大地亭にアッシャーが向かったのを見てから、セレウコスはマリアンヌのそばにつくように同行した。

 広場では、ダイヤンの街の住人が、男も女も入り乱れるように集まっていて、互いにわめきあっていた。

「ならず者たちがこの街にやって来るぞ!」

「ただでさえ貧しいこの街が、ますます荒れてしまうぞ。もうおれたちの暮らしはおしまいだ!」

「島の暮らしが根こそぎひっくり返されてしまうぞ。ペンペン草も生えなくなるぞ!」

「ならず者たちが来たら、子供たちが心配だわ。もう外にも出られなくなるわよ」

 囚人船が犯罪者たちを連れてくる、その情報で混乱しているのは間違いないようだった。収拾のつく様子ではない。その様子を、マリアンヌはぼう然と見ていた。

「なんでこうなっちゃうの? 新しい移住者が来るっていうだけなのに」

「確かに、流刑にされた囚人が、すでに人のいる開拓地の治安を乱した前例はありますがたいていは問題にならず収まっています……この混乱は異常です」

 群衆の一部がマリアンヌたちの姿を見つけて、彼女のところに向かってきた。

「あんた! 囚人船が来るって話してたろう。ほんとうなのか?」

 押し迫ってこようとする群衆を前に、彼女は少し後ずさりした。囚人船が来る、と言うか、もうすでに出発したという話は、間違いなく耳にして、そして確認したことだ。だが、そうだと言えば、この群衆はますます混乱するかもしれない。彼女はどう話したらいいのか迷った。

「……ほんとうよ。でも、心配することじゃないわ」

「何言ってんだ! この街に囚人になったならず者どもが来て見ろ! 物は奪われ、街は荒らされ、住人は傷つけられるに決まってるだろうが!」

「街が、島が、あたしらの暮らしがめちゃめちゃにされてもいいとでも言うのかい! え!」

「ならず者が島を牛耳って、無法地帯になってしまうんだ! 囚人船が来たら、もうこの島はおしまいだ! なんてことをしてくれるんだ!」

 心配したとおり、住民たちはますます恐慌に見舞われてしまった。悪い見通しだけが住民の考えを支配している。悲嘆と怒りに満たされている。そして、その矛先がマリアンヌたちに向けられているようだった。彼女は何もしていないのに。

 群衆は、もうなにを言っているのかわからないようになるほど、口々に叫び声やわめき声をあげて、彼女を取り囲むように押し迫ってきた。

「み、みんな、落ち着いて! 落ち着いてよ!」

「これ以上近づくな!」

 迫ってくる群衆からマリアンヌを守ろうと、セレウコスが間に入った。酒場から呼び出されたプトレマイオスとジュリアスも駆けつけ、彼女の周りに垣を作るように群衆に立ちはだかった。

「えらい騒ぎじゃのう」

 大騒ぎになっている広場のはずれで、カッサンドロスがハムカツサンドをほおばりながらのんびりと言った。

「悠長に食べてる場合じゃないよ。じいさん、ボクたちも提督を助けなきゃ」

 一緒に立っていたアッシャーがせき立てるように言ったが、カッサンドロスは素知らぬ顔だった。

「なあに、それは身体を張る役割の人間がすることじゃよ。頭を使うことはわしらがするんじゃ。それが組織というもんじゃよ」

「そういうものなのかな……あれっ、誰か来るよ」

 首を傾げたアッシャーは、その時、東に延びる通りの向こう側から、皮革製の胸当て鎧を身につけ、槍で武装した兵士の一団と、青紫色のジュストコールにいくつものメダルをつけた、豪勢な衣装の人物が、広場に向かって歩いてくるのに気づいた。

「騒ぐでないっ! 静まれっ、静まれぃ!」

 ジュストコールを着た男が大声で言い、武装兵たちが槍を手に散開すると、暴徒のようになっていた群衆は騒ぎをやめ、マリアンヌたちから離れた。

「大騒ぎが起こっていると、酒場のおやじから通報を受けたから来てみたが、なんと騒々しいことになっているな。吾輩の土地で無用な争乱などけしからん」

 男は傲慢な態度で言い放ち、胸を張って民衆を眺め回した。年の頃は四十代半ばだろうか。中背で、やや小太り。肩まである髪を外巻きカールにし、鼻の下あたりから、横にピンと跳ね上がった、短い口ひげをはやしている。人を見下すような目つきが人相を悪くしている。

「なによ、ずいぶんと威張って。あんたは誰?」

 態度と目つきが気に入らなくて、マリアンヌは乱暴に男に訊いた。

「口を慎め、礼儀を知らん小娘が。吾輩は連邦政府より派遣された、ダナン島総督ラエナス・アブシントスだ」

「島の総督……」

 この男が、島の誰からも悪く言われる無能な総督なのかと思って、彼女はまじまじと男を観察した。島の人々は貧しいにも関わらず、この人物の身につけている服や靴は高級品で、上着に飾られているメダルやブローチも、見るからに金がかかっている。左胸、ちょうど心臓のあたりに、キマイラのレリーフがついた、プラチナ製の大きなメダルがつけられているのが目を引いた。

 アブシントス総督はマリアンヌの視線を無視し、群衆に向かって話しかけた。

「騒ぎが、囚人船がやって来るといううわさが流れたためだと聞いておる。島の住人たち、聞くがいい。囚人船によってならず者どもがやってきたら、島の者の財産は荒らされ、街には飲んだくれがあふれ、無法者の支配する土地に変わってしまうだろう」

 総督の言葉に、また群衆は騒ぎ出した。

「静かにせい。そのような状況に陥れることを吾輩が許すとでも思うか。囚人船は、移民の受け入れを受諾するか、希望した場合でなければやってこない。吾輩は囚人船など呼びはしない。囚人船が島に来るというのはデマに過ぎん」

 総督の言葉に群衆は安堵した様子で、恐慌状態から逃れたざわめきをたてていた。

「しかし、けしからん。誰がそんなデマを流したのだ」

「総督、この女の子がうわさをながしていたのを聞きました」

 酒場のおやじがマリアンヌたちを指さして、総督に言った。

「おやじ! きさまぁ、なにをたくらんでやがるんでぇ!」

 おやじの行動にプトレマイオスがいきり立ち、腕を振り上げた。マリアンヌは彼の腕をつかんで、鉄拳を食らわすのを押さえた。

「この混乱はおまえの仕業だったのか、小娘。なんの目的があって、よそからこのダナン島に現れ、デマを流して島の住人を恐慌状態にさせた?」

 総督は短いステッキを手にして、彼女に尋問した。

「デマなんて言いがかりよ。ダナン島に向かって、ランシェルから囚人船が出航したという話は確認したことなんだからね。あんたの話のほうがおかしいわ」

「まだ言うか、小娘!」

 総督はステッキの先で彼女の肩口をついた。よろけて倒れそうになった彼女に向かって総督はステッキを振り上げたが、そのステッキをセレウコスがぐっとつかんだ。

「自分らの提督に向かって乱暴は許さん」

「お嬢に手を出しやがって! 総督だろうが豚足だろうが関係ねぇ! ぶっ飛ばす!」

 プトレマイオスが太い腕をぶんぶん振り回して進み出ると、武装兵たちが槍を構えて彼らを取り囲んだ。

「武力で来る気なら、こっちも相手になるぜ」

 ジュリアスがサーベルに手をかけた。

 総督の兵とマリアンヌの仲間たちが一触即発の状態になったとき、アブシントス総督が声高に宣告した。

「おまえたちに告ぐ。このダイヤンで起きた騒ぎは、囚人船のうわさをながしたおまえたちの責任と断ずる。風説を流布し治安を乱す行為は、風紀紊乱、場合によっては破壊活動の禁止令に抵触する。よって、ダナン島総督ラエナス・アブシントスの名によって命じる。即刻、島から退去するように」

「はぁ!? なにわけわかんないこと言ってんの! 言いがかりもいいとこなのに、そのうえ出て行けって言われて納得するわけないでしょ!」

「退去を拒否するなら強制執行するまでだ。者ども、このよそ者どもを追い払え!」

 総督は武装兵たちに命令した。兵士たちは槍を構えて進み出た。

「止まれ。それ以上近づくと、政府の正規軍だろうと容赦なく斬るぞ……痛っ。誰だっ、石を投げやがったのは!」

 サーベルをぬいて兵士たちの前に立ちはだかったジュリアスの後ろ頭に、群衆の方角から飛んできた石がぶつかった。彼がその方角に向かって怒鳴りつけたとき、さらに群衆の方角から石が飛んできた。

「帰れ帰れ!」

「よそ者はさっさと出て行け!」

「おせっかいなガキにもう用なんかねえよ。とっとと帰んな!」

 男も女も子供も加わっている群衆は口々に、マリアンヌたちに向かって、帰れ帰れとわめいている。大衆心理というものだろう、誰かが石を投げたのに大勢が加わって、かなり多くの石が投げ込まれてきた。

「そんな……あたし、みんなのためにと思ってがんばってるのに……」

 マリアンヌは落胆を隠せない表情で、ぼうっと群衆のほうを見ていた。底抜けに陽性な彼女も、打ちひしがれて、さすがに泣きたくなった。

「うぬうっっっっ……うがあぁ~っっ!」

 プトレマイオスが、周囲の建物を揺るがすほどのどでかい咆吼をあげた。この一吼えで、暴徒たちの帰れコールも鳴りやんだ。槍を構えた武装兵たちも、プトレマイオスの雄叫びをきいて後ずさりした。

 その吼え声で、マリアンヌは目が覚めたように、ぴんと背筋を伸ばした。いったん目を閉じて、深呼吸すると、悲しくなって沈んだ彼女の目に強い光が戻った。

 そして、総督のほうを振り向くと、彼女はぎっと総督の目をにらみつけた。

「わかったわ。……みんな、撤収するよ」

 彼女は仲間たちに告げた。そして、群衆の真ん中を通って広場を抜け、港に向かう坂道を下りていった。背筋を伸ばして、頭を上げ、口は真一文字に結び、最後までりりしさを失わないように立ち去った。仲間たちも同じように、彼女の後ろを、胸を張って歩いていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る