もしかしてですけど、本当に私にとって最適な小説が生成されたのでは?

<※こちらは杜松の実が主催させて頂いた企画に寄せた講評です。>


 これは……、講評書くの難しいですね。というより、講評書けるのか? だって、読者によって生成される小説が異なるのでしょう? 私が読んだ小説について講評書いて伝わるのだろうか? それに私にとって最適な、つまり私が潜在的に求めた物語について語るのは、なんだか恥ずかしいな。ちなみに、私が読んだ小説は、女子高生二人がゾンビパニックに遭遇する話なのですが……。
 って、このノリもうやめます。このままではとても講評が書けそうにありません。
 さて、SFチックでブッラクユーモアな作品ですね。クスッと笑える、そしてあっと驚く伏線や言葉の選びが大小あって、それだけでも緯糸さんの文章力の凄さが伺えます。
 ここで敢えて私が特筆させて頂きたいのは、複線や言葉選びの妙ではなく、小説のマクロな大枠についてです。
 文書生成プログラムというSFチックな舞台に、生成された語り手のわたしが、虚構と現実の二つの世界を自覚するという入れ子構造。
 語り手は虚構の中で人格を持っている。それはおそらく作られた記憶から得られた人格。
 そして語り手は、この世界が生成された小説世界という虚構であることに気付き、語り手の使命に気付いてしまう。語り手は虚構に存在することに自棄になるどころか、語り手であることを引き受けて、全力でこなそう、と位置付ける。この辺のドライさには生成された人工知能的なものを感じます。
 語り手としてゾンビパニックに遭遇し、高嶺と共に逃げます。ここでも虚構を語る者と、虚構を生きるわたしという二面を持つ、語り手の思考がリアルに、見事に書かれています。
 二人が逃げた先は袋小路、ゾンビの群れも押し寄せる。わたしはゾンビに捕まり、選んだ選択は高嶺の手を突き放すものでした。
 この選択は、「語り終えるのを果たさないと」と書かれているところから、語り手としての選択でしょう。そして高嶺との約束を果たすという、虚構に生きる小心者である、わたしの選択でもあります。どちらがより主体となった選択だったのか、それは詮議立ての仕様がありません。
 しかし、この場面までを見ると、語り手としての思考が顕れることがあっても、行動原理は全て、わたしだったと思います。語り手として、物語を盛り上げようと何かを為すことも、語ろうと注意深く周囲を観察することもありません。
 わたしにとっては、この世界が虚構であること知っているとしても、人格を形成した作られた過去の記憶や作られた人々との繋がりを有する虚構の世界こそが、わたしにとっての最適な世界だったのではないでしょうか。だからこそ、最後の選択のあと、高嶺が生き残ることを喜んでいる。わたしが死ぬことで、虚構は消失し、高嶺も消える為、高嶺が生き残ることに意味は無いのに、です。
 緯糸さんがどんな所から着想を得て書かれたのか分かりませんが、この小説に積まれた思索のサイズに圧倒されました。
 あの、この小説すごく好きです。和牛のあのネタ、私のお気に入りでもあります。それに今、私は樋口恭介『構造素子』という文章を生成するSF小説を読んでいて、すごくタイムリーでした。もしかしてですけど、本当に私にとって最適な小説が生成されたのでは?

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