2.前略、怪しい人です
翌日、イルゼは一縷の望みをかけてギルドへと向かった。だが――
「いない、んですか……」
「悪いな。魔 術 師はそこそこいるが、白となるとさすがにな」
カウンター越しにマスターが首を振った。
王都には魔術師組合や造形師組合など多くの団体があり、それらを一括して取りまとめているのがこのギルドだ。各組合の名簿が備えられており、仕事の内容によって必要な人員を手配してくれる。
「まあ、登録してない奴もいるはずだ。しばらくここで探してみな」
「そ、そうですよね!」
諦めるのはまだ早い。ギルドに登録していなくても、仕事や協力者を求めて多くの人がここを訪れるはずだ、とイルゼはとにかく待ってみることにした。
しかし魔術師らしき人を探して適性を尋ねてみても、白だという人はいっこうに現れない。知り合いにいないかと聞いてみても、皆首を横に振るばかりだ。
「……どうしよう」
待てども待てども白の魔術師はおろか、その手がかりすら掴めない。
気づけばギルドに来てから、すでに六刻が経ってしまっていた。疲れ果てて一人カウンターの隅の席に座る。すると、朝からずっといるイルゼを気にしていたのだろう、マスターが話しかけてきた。
「いたか?」
「いいえ……でも、なんとかして見つけないと……」
ぎゅうと眉頭を寄せて悩むイルゼを見て、ふむと顎に手を添えたマスターが続ける。
「そうだなあ、ここらで顔の広そうな奴といえば、……あー、いるっちゃいるけど、アイツは……」
マスターの言葉に、イルゼが目を輝かせる。
「心当たりがあるんですか?」
「アレも魔術師といえば魔術師だが――」
その時、イルゼの隣の席にすっと誰かが座った。あまりに自然な動きだったので、気づくのに一瞬遅れてしまう。
「なにマスター、僕の話?」
ようやく振り向いたイルゼの目が捉えたのは、非常に端正な横顔だった。
異国的な顔立ちで、高い鼻梁には仮面がよく映えそうだ。髪は明るい銀色で肌は褐色。服装はシンプルだが、右手首に金の腕輪を何重にも着けていた。そして、何より特徴的なのはその目だ。
琥珀のような金色の瞳。長い銀色の睫毛に縁どられたそれを見て、イルゼは警戒心を強めた。実に美しい見た目だが、それ故に危険な匂いがする。
「やっぱり来たか。あーいや、このお嬢さんが魔術師を探しているらしくてな」
「魔術師を?」
どこか楽しそうな声色で答えた彼は、イルゼを見てにっこりと笑う。
「君は? はじめまして、かな」
「あ、はい。イルゼといいます」
「僕はファル。よろしくね」
流れるようにイルゼの手を取り、口づけるふりをする。女性を口説き慣れたその仕草にイルゼは内心ひいと悲鳴を上げた。だがここでひるんではならないと、ファルの目を見つめ返す。
「よ、よろしくお願いします。……ええと、ファルさんは魔術師なんですか?」
「うん。一応ね」
ギルドにいるということはフリーの魔術師なのだろう。マスターとの会話ぶりからここの常連らしいことがわかる。
実際このわずかな会話の間だけでも、背後を通りがかる多くの女性がファルの名を呼び、彼もまた愛想よく手を振り返していた。おまけにこの容姿。相当モテるようだ。
「あのファルさん、つかぬことをお聞きしますが、適性はなんですか?」
「適性? えーとね、赤と青と黄色と緑かな」
「よ、四種じゃないですか!」
ルートヴィクの二種適性も十分珍しかったが、白以外のすべてを扱える四種適性は本当に稀有な存在だ。それだけの素質があれば、魔術院に所属することも可能に思えるのだが、彼にとってはフリーの方がいい事情があるのかもしれない。
「それで、君はどんな魔術師が希望なの?」
「あ、私は白の魔術師を探していまして」
「白……ねえ」
ふうん、とファルは呟き、イルゼの顔をじっと見た。金色の目が、まるでイルゼの心の中まで見透かしているようで、なんだか居心地が悪い。
戸惑うイルゼをよそに、ファルはゆっくり手を伸ばすと、後ろで一つに結んでいたイルゼの髪先をそっと指に取った。反射でぶわりと鳥肌が立つ。
「……それなら、いいことを教えてあげようか」
「え、ええと、あの」
「うちにおいでよ。そうしたら白の魔術師について話してあげる」
金色の目がすうと細められ、指がイルゼの髪先を弄ぶ。その悪戯に、最初こそ物怖じしていたイルゼだったが、改めてファルを見るとどこか挑戦するように告げた。
「――わかりました。行きます」
その返事に、ファルもまた口元を笑みに変えた。
時刻は六の刻を過ぎ、夕方から夜へ移行する頃。ギルドはこの時間帯からいっそうの賑わいを見せるようになる。だが人が増えればそれだけいらぬ騒動も増えるということで、この時間のギルドは騎士団の巡回ルートとなっていた。
「いつも悪いね」
労わるようなマスターの言葉に、ヴィンセントはついと視線を向けた。
ここの警邏は、ヴィンセントが隊長を務めるフェガリ騎士団・第七隊の担当だ。特に異常はないかと店内を眺めていたヴィンセントに、マスターがそういえばと顎を撫でながら話しかける。
「そういや今日、白の魔術師を探してるお嬢さんが来てな。珍しいからちょっと気にしてたんだが、ファルの奴と何か話したかと思うと、二人でここを出ちまったんだよ。やっぱり止めるべきだったか……」
ヴィンセントはそれを聞いて少し考えるようにしていたが、すぐに次の巡回先へと向かった。
イルゼの開いた口は塞がらなかった。
「す、すごい……」
連れてこられたファルの邸宅は、天井や柱に金銀をふんだんにあしらった、素晴らしく豪華な造りの建物だった。門番付きの錬鉄の門に、館全体を取り囲む石造りの壁。その中の広大な敷地にはいくつもの別棟が点在し、聞けば温室や薔薇園まであるそうだ。
ギャラリーだと言って連れていかれた二階の部屋は、寮の談話室の数倍はありそうな広さで、その壁面に数多の造形師の作った、仮面という仮面が並べられていた。
「ここにあるのはコレクションのほんの一部だよ」
「こ、これで一部ですか!?」
「別の部屋には『ツヴェルフ』の作った仮面もある」
ツヴェルフの仮面、と聞いて思わず「見たい」という言葉が浮かんでくる。だがイルゼは雑念を払うように首を振った。
(だめだめ、そうじゃなくて、私は白の魔術師について聞きにきたのよ!)
平静を取り戻し、イルゼはファルを改めて観察する。
最初はどう見ても「怪しい人」という印象しかなかった。絶対女好きだろうし、アクセサリーもめちゃくちゃ派手だし、顔は濃くて眩しいし、やたら距離が近いのも気になる。
だけど、イルゼは見てしまったのだ。
「ん、どうかした?」
イルゼの視線が気になったのか、ファルが両眼をゆっくりと細めた瞬間、その背後にファサ、と大きな尻尾が現れた。長さは彼の身の丈ほどはあり、根元が太く先に行くほど細くなっている。これは――
(きつねかな。きつねだよね。絶対きつね!)
麦穂のような艶やかな黄金色をした、きつね姿の精霊がファルには付いていた。
ここまで巨大な尻尾のきつねは見たことがなく、全体は隠れていてわからないが、果たしてどれだけ力のある精霊なのだろうか。
そしてその姿を見て、イルゼは改めて確信した。
(精霊なら、悪い人には付かないはず……)
精霊には人の悪意を察する能力がある。
過去に、オセロットがずっと威嚇していてどうしたのだろうと思っていた人が、質の悪い詐欺師だったと判明したことがあった。
また「自分は精霊に好かれている」と豪語していた王都からの派遣魔術師が、実際には何も付いていないどころか、村にいる精霊からも避けられている様子を見たことがある。ちなみに彼は半年後に不祥事を起こして追放された。
逆に本当に精霊が付いている魔術師は、彼らを決してないがしろにはしなかった。
村に来た時も、精霊を祭る祠に頭を下げ、その土地ごとの伝承や逸話を聞きたがった。自分たちを大切にしてくれる、という心根に惹かれるのか、村の精霊たちが自然と彼の元に集まっている光景を目にしたことがある。
こうした過去の経験から、イルゼは「精霊付きに悪い人はいない」という持論を持っていた。
これだけ立派な精霊が付いているならば、ファルは彼らに対して誠実に向き合うことが出来る人、ということだ。どれだけ見た目が怪しくても、女性関係にこなれていそうでも、おそらく悪人ではない……はず。
「そうそう、白の魔術師についてだっけ」
そんなイルゼの期待を知る由もなく、ファルは部屋の奥に置かれていた机に寄りかかり、改めてイルゼの方を見やった。
「君も知っているだろうけど、白適性の人間は非常に稀だ。その中からさらに魔術師を、となると当然数は限られてくる」
そう言いながらファルは自身の長い指を顎へと添えた。
「加えて、もう一つ理由がある。彼らは、他の魔術師のような普通の魔術を使うことが出来ない」
「普通の魔術、ですか?」
「ああ。魔術師は自分の適性と同じ精霊を召喚して、赤であれば火、青であれば水といった力を借りる。だけど白の精霊はそうした固有の力を持たない。つまり白の精霊を召喚しても魔術は使えない」
「じゃ、じゃあ白の魔術師はどうやって魔術を使うんですか?」
「もちろん一度は白の精霊を召喚する。そして白の精霊を他の精霊の色に染めて、その力を増幅させるという、少し変わった魔術を使うんだよ」
つまり、とファルは人差し指を立てた。
「他の魔術師が召喚した精霊、自然界に存在する精霊……とにかく他の精霊の力を借りてようやく、白の魔術師は魔術を使うことが出来る。持っている魔力が強ければ借りた力の増幅率も上がるから、他の魔術 師が使う魔術の数段上の力を使うことも出来る」
つまり白の魔術師は、ひとりでは魔術が使えない。
しかし精霊さえいれば、どの適性の魔術も使えるわけだ。
「なら、どうして白の魔術師は数が少ないんですか? そんなに素敵な力を持っているのに……」
イルゼも白の魔術師について調べたことはある。
やはりファルが今説明したようなことが本にあり、それを読んだイルゼは、適性を選ばずに魔術が使える、優れた特徴としか考えていなかった。
だがファルは、うーんと首をかしげると、朗らかに答える。
「理屈では白の魔術師も悪くないんだけどね。実際に使うとなると話は別だ」
にっこりと笑うファルの口から白い歯が零れる。なんていい笑顔だ。
「だってひとりじゃ何もできないのと一緒だもの。魔術を使うには、他の魔術師と一緒に行動するか、どこにいるかもわからないその土地の精霊を探して力を借りるか……どちらにせよ、魔術師として働くには 不確定要素が多すぎる。それに半端な魔力じゃ大した魔術も使えない。適性の発現もあいまって、これが白の魔術師が少ない理由だ」
確かに、とうつむくイルゼを前に、ファルは言葉を続ける。
「よほど魔力が強いなら話は別だけど、適性を持っていたとしても基本なり手がいない。実際、僕が噂を聞いたことのある白の魔術師は二人だけだ」
「二人だけ、ですか?」
「うん。一人はツヴェルフだったんだけど、数年前に姿を消して以来今は消息不明。もう一人は若い魔術師で、将来をかなり期待されていたんだけど、こちらもある日突然辞めたって話」
「そうなんですね……」
結局どちらもゆくえ知れず、これでは二カ月後の試験に間に合うはずもない。陰った表情を読み取ったのか、ファルはゆっくりと机から離れ、イルゼの傍に立った。
「ごめんね、あまり大した情報じゃなくて。あとはそうだな……白の造形師を探して、ペアを組んでいた魔術師を紹介してもらう、とかどうかな」
穏やかに微笑むファルを見上げ、イルゼは「自分がその白の造形師なんですが」と目で訴えた。だがその言葉をきっかけにピンと閃く。
(白の造形師……いるじゃない。お父さんが!)
父はイルゼと同じ白適性、しかも昔は王都で働いていた。であれば、その時のパートナーを探せば、白の魔術師にたどり着くのではないだろうか。
だがどうやってその人を探せばいいのか……しかしこの問題もすぐに解けた。
(そうだ手帳! お父さんの手帳をもう一度見てみよう!)
もしかしたらあれにイルゼが見逃した何かがあるかもしれない。そうと決まれば早く帰らねば、とイルゼが活気付く一方で、ファルは再びイルゼの髪に手を伸ばしてきた。ふふ、とその薄い唇から笑みが漏れる。
「君は本当に素直だね」
「へ? な、何がですか」
「急に目をキラキラさせたり、落ち込んだり。今は何かいいことを思いついたって顔をしてる。そういうところ、すごく可愛いなあって」
ファルの指先が、イルゼの髪の端をくるくると巻き取る。気づけばファルとの距離が随分近くなっていて、イルゼが見上げたすぐそこにファルの顔が迫っていた。
金色の目はきらめくように澄んでおり、まるで太陽の雫を集めて丁寧に固めたかのようだ。ファルのまっすぐな視線に捉えられ、イルゼはそのまま目が離せなくなる。
「……君の瞳はすごく綺麗だね。まるで、金色の星がいくつも瞬いているみたいだ」
呼気を含んだ妖艶な響き。その声を聞いて、イルゼはようやく「このままでは危険だ」と認識した。髪を弄んでいた指はいつしかイルゼの頬をたどっており、背筋から冷たい汗が流れ出るのを感じる。
これではまるで、そう、獲物と捕食者だ。
「あっ、あの!」
「……どうしたの?」
とりあえず空気を変えようとしてみたものの、どう続ければいいかわからず沈黙する。とにかくこのままではまずい。なんでもいい、何か言わなければ。
「お、……お手洗いに、行きたい、です」
我ながら言葉選びが下手すぎて恥ずかしくなる。だがファルはそれを真摯に受けとめたのか、すぐに使用人を呼び、イルゼを案内するように命じてくれた。
(あ、危なかったー!)
あとはわかるから、と使用人には先にお引き取りを願い、イルゼは個室で大きなため息をついた。
精霊付きに悪い人はいない。それは間違いないと思うのだが、こういう――なんというか、大人の世界のあれこれ的なものまでは、正直イルゼにはまだ早い。とりあえずこのままギャラリーに戻るのは危険だと察し、今日はこっそり失礼して、後日お詫びをすることに決めた。
さすがに玄関から出るわけにはいかないので、何やら大きな荷物を抱えた使用人の死角に入り後をつける。すると幸運なことに裏口らしき扉にたどり着いた。使用人が出たのを見届けてから、少し時間を置いてイルゼも外へ向かう。
どうやら正面玄関の反対側に出たようだ。家に来た時は夕方だったが、すでに陽は落ち真っ暗になっている。ようやく帰れる、と息を吐いた瞬間。
「――誰だ! そこで何をしている」
安堵したのも束の間、鋭い声がイルゼの背中に刺さった。どうやら正面だけではなく、裏口側にも番人がいたようだ。不審人物と見て追いかけてくる。
まずい、とイルゼは慌てて駆けだしたが、この足ではすぐに追いつかれてしまうだろう。どうしよう、と必死に走りながら目の前の角を曲がる――その時。
(――!)
イルゼは誰かに強く腕を引かれ、そのまま暗がりに引き込まれてしまった。まさかまた変な人に! と混乱するが、頭上から低く響く声が降りてくる。
「――静かにしろ」
その声には覚えがあった。どうやらその人の外套の中に隠され、抱きしめられているようだ。とっさに相手の服を掴み、言われるまま口を閉じる。
しばらくすると、先ほどの番人の声が聞こえてきた。
「おい、そこの騎士! 今こっちに不審な奴が来なかったか」
「いや」
だが番人の声は、急に疑わしげなものに変わった。
「――格好からして騎士かと思ったが……お前、魔術師か?」
「違う」
「じゃあその仮面はなんだ。怪しいな、取れ」
外套の中でその会話を聞きながら、イルゼはひたすら口をつぐんでいた。イルゼを匿う男は番人の言葉に小さくため息を漏らし、そっと両腕を上げる。イルゼの姿が外から見えないようにしながら、自分の仮面を外しているようだ。
少しして、番人が小さく「ひ、」と声を上げたのがわかった。
「これで満足か」
「わ、わかった。もういいぞ」
あまりこの辺りをうろつくなと言い捨てて、足音は離れていった。その間イルゼは外套の中でずっと下を向いていた。顔を上げるのが、なんだかひどく悪いことのように感じられたからだ。
番人の気配が消えた後、男は外套の端を静かに持ち上げた。狭い場所から解放された喜びと、先ほどまでの緊張との落差で、イルゼの口から自然と息が漏れる。
外に出てようやく顔を上げると、そこには黒い仮面の男が立っていた。
(昨日助けてくれた、騎士の方だわ)
男の肩には以前と同様、白い光が浮かんでいる。なんて偶然と驚いたイルゼだったが、まずはお礼をと口を開いた。
「あ、ありがとうござい……」
「――何をしていた」
だが男はその言葉を遮ると、訝しむように目を眇めてイルゼを見下ろした。仮面越しの妙な威圧感を受けて、イルゼの心臓が縮み上がる。
「大方、ここの主人に口説かれて逃げ出したか」
「ど、どうして、それを」
真っ赤になるイルゼに対し、男は冷たい声色で告げた。
「田舎娘が、不用意に男についていくな」
「す、すみません……」
もっともな言葉にイルゼは己の短慮を恥じた。おまけに田舎から出てきたことまでバレている。一体どこで見抜かれたのだろう。
ともあれ助けてもらったのだからと、改めてお礼を言い「それでは」と寮に向かおうとした。しかしイルゼのその背中に、仮面の男が声をかける。
「家はどこだ」
「え、えと、ファージー通り二〇二ですけど……」
「ついてこい」
えええ、とイルゼは目をしばたたいた。
「そんな、そこまでご迷惑はかけられません」
「勘違いするな。帰りが同じだけだ」
そう言うと男はイルゼを追い越し、さっさと行ってしまう。呆気に取られるイルゼだったが、慌ててその大きな背中を追いかけた。
夜の大通りを仮面の男と二人で歩く。
昼間の賑わいはすっかり消え失せ、代わりに春独特の少し冷たい夜風と、ひっそりとした静寂が満ちていた。空には細い月が浮かび、いくつか星も瞬いて見える。
「――くしゅん、」
ふと肌寒い風が流れ、イルゼは思わずくしゃみをしてしまった。昼間暖かかったからと薄着でいたのがよくなかったらしい。恥ずかしい、と苦笑いしていると、前を歩いていた男が振り向き、一歩二歩とイルゼの方へ歩み寄る。
その迫力に後ずさりするイルゼをよそに、男は自身が着ていた外套を脱ぐと、イルゼの前に差し出した。イルゼはきょとんとしながら、それを受け取る。
(? ……着ろってことかしら)
男は何も言わず踵を返すと、再び寮の方を目指して歩き始めてしまう。イルゼは急いで外套を羽織ると、置いていかれないようその背中を追いかけた。
(ちょっと怖いけど、実は優しい人なのかも)
口調も冷たいし、表情も見えないからわかりにくいが、イルゼを二度も助けてくれたし、今もこうして寮まで送ってくれている。そんなことを考えていたイルゼは、ふと先ほどの番人とのやりとりを思い出した。
(仮面を外した後、すごく驚いていたわ……)
本来仮面というものは、魔術師でもない限り、自分の顔を隠したい時に着けるものだ。
仮面の男が魔術師ではないというからには、きっとその本来の目的――素顔を見せたくない理由があるのだろう。
(私のせいで、嫌な気分にさせてしまったんじゃないかしら……)
イルゼは少しだけ足を速め、男の隣に並んだ。ちらと横を歩く男を覗き見る。
「なんだ」
「いえ、その、なんでもないです」
イルゼの視線に気づいたのだろう。男が不機嫌そうにこちらを睨むので、イルゼは慌てて目を逸らした。その後会話らしい会話もないままシュタイン寮へ到着すると、イルゼは男に向かって深々と頭を下げる。
「ここです! 送ってくださりありがとうございました」
「ああ」
イルゼが外套を返すと、男は慣れた様子でそれを羽織った。長い裾が翻り、男の長身を包む。すると男は当然のように今来た道を戻っていく。
(あれ?)
帰路が一緒と言っていたはずなのに……まさか、家は逆方向だった!? そう気づいた瞬間イルゼは駆け出して、男の外套を掴んでいた。
(私、何を!?)
だがもはや衝動のように、イルゼの口から言葉が飛び出す。
「あの! 私はその仮面、すごく、素敵だと思います!」
仮面をしていても男が驚いているのがわかった。一方のイルゼも、何を言っているんだと一気に顔を赤く染める。
「そ、それだけです! お、おやすみなさい!」
呆気に取られる男を残し、イルゼは寮へと逃げ帰る。残された男はしばらくイルゼの入った寮を眺めていたが、やがて身を翻すと、静かに夜の帳へ消えていった。
自室に戻ったイルゼは、恥ずかしさで赤くなった頬を両手で叩いた。
何故突然あんなことを口走ってしまったのか、自分でもよく分からない。ただどうしても、仮面の人に気持ちを伝えなくては、と我慢できなくなったのだ。
(いきなり何だと思われたかしら……)
イルゼはよし、と気合を入れ直すと、早速父の手帳を取り出す。
父を失くしてから、何度も読み返した手帳。造形術について事細かに書かれた内容は、すべてイルゼの頭の中に叩き込まれている。だが、人名は特に注目していなかったので気づかなかっただけかもしれないと、改めて最初の頁からじっくりと読み返してみた。
しかし、やはりイルゼが記憶している以上の情報はない。最後の頁を繰ったところで、イルゼはパタリと手帳を閉じた。
「うーん、収穫なしか……」
祈るような気持ちで、手帳を天井にかざしてみる。色褪せた茶色のカバーに覆われた形見の手帳。イルゼは目を眇めながら小さく呟く。
「お父さん……」
そんなイルゼを心配したのか、足元にいたオセロットが、寂しそうにニャウと鳴いてこちらを見上げていた。ありがとね、と囁きながら実体のないその頭を撫でる。
やはり明日もギルドに行って地道に探すしかないか、と手帳を木箱にしまおうとしたところで、オセロットに勢いよく飛びかかられ、驚いたイルゼは手帳を床に落としてしまった。カバーが外れてしまった手帳を拾い上げると、そのカバーの裏に何かが差し込まれていることに気づく。
ごく小さい紙の切れ端だった。イルゼは二つ折りのそれをそっと開く。
「……ヴィンセント?」
そこには『ヴィンセント・サラ・ヴァンフリート』という名前が、父の筆跡で記されていた。その下には王都の住所も書いてある。
(一体誰かしら、……でも!)
まだこの人物が魔術師かどうかはわからないが、父の知り合いであることは間違いないだろう。この人に話を聞けばもしかしたら……。
「オセロット! お手柄よ!」
イルゼはオセロットに笑顔を向ける。だが当のオセロットは、自身の功績に気づくことなく、静かにニャウとだけ鳴いて毛づくろいを始めた。
前略、顔のない騎士と恋を始めます。 春臣あかり/ビーズログ文庫 @bslog
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