女盗賊、決心する Ⅱ
仲間たちと身を寄せあい暖を取って眠るのもこれで最後になる。どのくらい前のことだかは分からないが、バルデロは覚悟して目蓋を降ろしたはずだった。しかし今、瑠璃色の右目には、その覚悟を揺るがす光景が映っている。
「バルデロさん!」
長い睫毛に縁どられた、零れ落ちそうに大きく潤んだ瞳をこちらに向けている見た目は美少女は、無論レミーユである。
――もしかしてこの馬鹿、俺たちが捕まったと聞いて、見張りに賄賂でも掴ませてここまで来たのか。もしもバレたら、てめえも牢にぶち込まれるかもしれねえのに。
後頭部を金槌で思い切り殴られたかのような衝撃が治まった後。鋼鉄の筋肉胸で燃え盛ったのは、紛うかたなき怒りだった。
「てめえ、何しに来やがった!」
一面の枯野を瞬く間に舐め尽す紅蓮のごとき激情のままに、白く小さいが骨ばった手が掴む格子に拳を叩きつける。
「――帰れ」
もしも自分と彼が檻で隔てられていなかったら。バルデロはレミーユの胸倉を掴み、渾身の一撃をお見舞いしていただろう。どれだけ危険なことをしたのか、レミーユに分からせるために。いい加減に、都合のいい夢から目を覚まさせるために。だがバルデロとレミーユの間には、決して打ち壊せぬ柵が立ちはだかっているのだ。
「――帰れって、言ってんだろうが!」
せめてこれでこいつが怯えてくれれば。女盗賊は威嚇する獣さながらに、己が拳を鉄の棒に打ち付けた。剣で鍛えられた分厚い皮が破け、血が滲んでも、なお。
しかし、目前の少年は、白い頬に紅の雫が飛び散っても、怯える気配は見せなかった。むろん、踵を返す気配も。その落ち着いた緑の瞳は、ただただ痛ましげにバルデロを、傷つくばかりのバルデロの拳を見つめていた。もうこんなことはしないでくださいと言いたげに。他でもないレミーユが、そうさせているのに。
「お、親分! これ以上はもう止めてください! んなことしたら骨が――」
「ああっ!? 俺たちゃ今日には、遅くても明日かその次には吊るされるんだぞ!? 骨折なんて、気にしてられっかよ! だから離せ! 離しやがれってんのが、聞こえねえのか!?」
左右それぞれを二人がかりで抑えられた腕の代わりに脚を振り上げれば、今度は足首にしがみ付かれる。
「それがそなたの想い人なのか?」
万策尽きがくりと頭を垂れた女盗賊の耳が、小汚い牢で響くには場違いに高貴で威厳溢るる響きを捉えたのは、牢内に静けさが戻った直後であった。
一体何事かと伏せた目を再び上げると、この世の者ならざる美が、十歩も離れていないほど近くに迫っていて。
「こうして直接
バルデロの男顔――だけでなく見事に筋肉が付いた首に、筋肉の瘤で盛り上がった丸太のような腕。加えて
「王太子殿下ともあろうものが、淑女に対してなんと失礼なことをおっしゃるのです!? バルデロさんは、王太子妃殿下には敵わないでしょうが、十分に美しい女性ではありませんか!」
「そなた、私の妃と盗賊ごときを同じ秤に乗せるとは、中々に良い度胸をしておるのだな」
男に対して「美しい」という形容詞が使用されれば、通常ならばその裏には大抵「女のように」という意味も込められている。美貌の青年の少し後ろに下がり、ぎゃあぎゃあと喚きたてていたレミーユが、その最たる例だ。
だがこの国どころか大陸北方の国々には元来存在しないはずの褐色の肌に、翠緑玉の双眸が映える青年は麗しくとも、一目で男と判別できる容姿をしている。古い神話の永遠に麗しき太陽神を彷彿とさせる、高雅で端整な造作は、男性的な魅力を漂わせているがゆえに一層魅力的だった。好みでは全くないし、というかそもそも男を好みという目線で見つめたことがなかったのだが。
突如現れた、下手な彫像など足元にも及ばぬ秀麗な面立ちに見入っていたバルデロだが、ふとした引っかかりを覚えて眉を寄せた。
――王太子殿下ともあろうものが、淑女に対してなんと失礼なことをおっしゃるのです!?
当然と言えば当然の疑問を零した青年に対して、レミーユはこう言っていなかったではないだろうか。つまり、これまたこの国においては希少な黒髪の青年は――まさか過ぎる可能性に行き当たった途端、女盗賊は声にならない悲鳴を迸らせた。
「てめ……いや、貴方様は、なにしに来やがっ……違う、いらっしゃったのです!?」
「無論、そなたの顔を見るために決まっておろう」
「それこそ何のために!? ――さては、暇ができたから、俺たちを拷問して楽しもうって算段なのか!? 父親がそうしたみたいに!」
「無理もないことだが、お前たち民草の間では、父上はそれほどに恐れられておるのだな……」
レミーユにも負けぬ長い睫毛に囲まれた涼やかな目が、残念そうに伏せられる。だが、王太子の薄く整った口元は、愉快で仕方がないとばかりに吊り上がっていた。
「案ずるな、盗賊たちよ。私はそなたらを解放するためにやって来たのだぞ?」
「はあっ!?」
王太子が流麗な仕草で手招きすると、もう一人の見知らぬ青年が、鉄の輪で束ねられた鍵を揺らした。というかこの青年、王太子の神話的な美貌で霞んでいたので気づけなかっただけで、先ほどからずっと王太子の側に控えていたのかもしれない。
「無論、無条件で、とはいかぬがな。まあそのあたりの条件は、礼を言うついでにレミーユ・スィ・ヴェジーに訊ねるがよい」
王太子が目配せすると、彼の侍従と思しき青年は無言で鍵を鍵穴に挿し込んだ。
「殿下は下がっていてください。いくら丸腰とはいえ、この者たちが殿下の御命を狙わないとは限りませんから」
「なに。さすればこの者たちを全て斬り捨て、ついでにレミーユ・スィ・ヴェジーを反逆罪に処せばよいだけだ」
侍従は無表情ではあるが真剣に主の身の安全を危惧しているが、王太子は従者の懸念を冗談で笑い飛ばした。けれども、もしもバルデロたちが無茶をやらかしたら。さすれば王太子は、一瞬の躊躇いもなく先程の言葉を現実にするのだろう。
「では、帰るとするか。――そなたの働きには期待しておるぞ、ヴェジー子爵の後継よ」
「はい! バルデロさんや皆さん共々、誠心誠意殿下のお役に立たせて頂きます!」
「成果を出せなかった場合は、どんな罰が下されるか理解しておろうな?」
「も、もちろん!」
下手に動いたら、俺たちだけじゃなくてレミーユも殺される。
鍵が開けられたというのに、牢から出ようともしない盗賊団の面々を、侍従を従え颯爽と歩んでいた王太子はちらと振り返った。
「この者は、父上の命に逆らった反逆者として自らが処刑される危険をも顧みず、そなたらの助命嘆願を行うべく私に跪いたのだ。伴侶とするには、これ以上はないというぐらい良い相手だろう」
彼の至上の緑の双眸はバルデロに向けられていたのだが、それもほんの一瞬だけだった。
「――ちょ、待てよ! 伴侶って一体、どういうことなんだ!?」
バルデロの叫びには一切振り返らず、王太子は去ってゆく。
「と、いう訳で、これから一緒に頑張りましょうね、バルデロさん!」
「なぁーにが、“と、いう訳で”だ! 何が起こったのか、一から十まできっちり説明しやがれ!」
そして牢内には、何故だかうっとりと頬を染めたレミーユだけが残されたので、バルデロは今度こそ彼の胸倉を掴んだ。
「早速、誓いのくちづけですか? でもそれは、祭壇の前でしないと……」
「そういうのはいいから、さっさと吐くもん吐きやがれ!」
「あ、もしかして、さっき王太子妃殿下の方がバルデロさんよりも美しいって言ったこと、怒ってます? でもあれは、王太子殿下のご機嫌を取るための美辞麗句ってやつですから、お気になさらないでくださいね」
「――それも違う! だいたいお前、王太子のご機嫌取り失敗してただろうが!」
バルデロの剣幕に、流石に怖れをなしたのか。不意に緩んでいた頬を引き締めた少年は、
「王太子殿下に、お願いしたんです。バルデロさんは僕の愛する人だし、団の皆さんはバルデロさんの家族も同然の方たちだから、どうか赦してくださいって。国王陛下だって、殿下の御母堂を助命したんだから、バルデロさんたちが許されてもよいではありませんか、って。罪を犯して許された殿下の御母堂は、殿下という優れた後継者を生んだのだから、バルデロさんだってこの国のためになることができるはずだって」
その愛らしい唇から、聞き捨てならない科白を漏らした。
「そしたら殿下は、笑って許してくださったんです。そして、僕にバルデロさんと結婚して、妻となるバルデロさんと共にこの地域の平和維持を担うようにと命じられました」
それで、王太子は去り際に伴侶だのなんだの言っていたのだろう。理解はできたが、納得は中々できそうになかった。
バルデロがレミーユと出会ったのは、春の初めだった。それから一年と経たない間、散々愛の告白を拒否してきたのに、なぜレミーユの親どころか王太子が認める仲になってしまったのだろう。これでは、レミーユと結婚しない訳にはいかないではないか。
「もしかして、お嫌でしたか?」
「――ったりめえだろうが!」
きょとんと小首を傾げた美少年に、女盗賊は噛みつかんばかりの勢いで反論する。
「でもバルデロさん、僕のこと嫌いじゃないっておっしゃいましたよね?」
「ああっ!? それがどうした!」
「バルデロさんの“嫌いじゃない”は“好き”って意味ですよね? それぐらい分かりますよ」
だがこれまで隠してきた本心をずばりと言い当てられてしまったから、それ以上は何も言えなくなった。
「もー、バルデロさんは照れ屋さんなんですから!」
熟れた林檎よりも顔を赤くした女盗賊の肩を、少年はぽんと叩く。
「幸せになりましょう。みんなで!」
そうして向けられた笑顔は春の青空のごとく清冽で。
――なんだかんだでこいつには一生分の借りができちまったから、しゃあねえか。
バルデロは拍手喝采が響く中差し出された手を、取らずにはいられなかった。
◇
女盗賊とその夫の間には、数年の後に息子が生まれた。母譲りの剛力を発揮し王国の平和に貢献したその子は、五代目の王として即位した美貌の王太子から、称賛の
四代王が基礎を築き、五代王の治世で栄華を極めた黄金時代もやがて終わり、北方の王国にも斜陽が訪れる。宮廷に吹く風は澱み停滞して爛熟から退廃となり、七代目の国王が家臣に弑されて、竜退治の英雄を始祖に持つという王朝は断絶した。
建国王の裔滅びし後。北方の王国は、有力な諸侯が玉座を賭けて争う、混迷の時代に突入する。数多の敵を下し、暗黒時代の雄の一つとして恐れられたヴェジー子爵家は、王となることはなかった。当時の当主は戦場で出会った一人の豪傑に、暗黒時代に終止符を打ち得る才を見出し、彼の盟友にして懐刀となる道を選んだのである。そして、その期待は現実となった。
第二の王朝を建てた男の第一の家臣は、主により公爵の位を与えられるのだが――
「あ、そうだ! この先、バルデロさんたちが例え林檎一個でも盗んだら、今度こそみんな一緒に縛り首にするって王太子殿下が……」
「おまっ! それをまず最初に説明しろよっ!」
それは全て、仲睦まじい――とするには著しく艶っぽさに欠ける二人は与り知らぬ、遠い未来の出来事であった。
女盗賊とお坊ちゃん 田所米子 @kome_yoneko
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