女盗賊、決心する Ⅰ

 素朴ながら素材の味わいが生かされた料理の数々が並ぶ晩餐会。王太子の満足の表情をに、領主夫妻に料理人たちも内心ほっと安堵の息を漏らした。

 晩餐の間、王太子は妊娠中の妃が心配でならず、一刻も早く王宮に戻りたいのだと、しきりに漏らしていた。王太子妃の懐妊は今回が初めてではないし、既に悪阻も治まっている。それに勿論、王太子妃は幾人もの女官に傅かれてもいる。だが、心配なものは心配なのだと。

 見目麗しく、地位高く、愛妻家。女の夢を具現化したかのような王太子の一挙一動を、女の使用人は熱い目で見つめていた。

 屋敷の女主人たる母もまたうっとりとした、だがどこかに切なさを秘めた目をして、レミーユとは十も年が違わない王太子の美貌に見入っている。母の顔には、こう書いてあった。私もこんな誠実な人と結婚したかった、と。

「殿下はなんて素晴らしい方なのでしょう。わたくしが昔、話に聞いたある殿方とは、全く違いますわ! 世の中の殿方が全て王太子殿下のような方であれば、涙を呑んで悲しみと屈辱に耐える女性などいなくなるのでしょうね。……王太子妃殿下が羨ましい限りですわ」

 貴婦人は洗練された仕草で葡萄酒がまだ半分ほど残った杯を置き、おっとりと小作りな唇の端を持ち上げる。だが、量も長さもごく普通の睫毛に囲まれた灰緑の目の奥は笑っていなかった。

「ほう。そなたが聞いた話とは、どのような話なのだ?」

 王太子もまた、高雅な孤を描く眉の片方を吊り上げる。一方、当主としてレミーユよりも王太子に近い席に付いている父は、今にも魂が抜け出しそうな顔をしていた。

「これは先程申しましたように、わたくしが人づてに聞いた話です。ですから真偽の程も定かではない与太話なのですが、かような戯言を殿下の耳にお入れする無礼、どうかご容赦くださいませ」

「構わぬ。続けよ」

「では、お言葉に甘えまして。なんでもこの地には昔、大層だらしのない殿方がいたそうで。その方には、十五歳で嫁いできた新妻がおりましたの。最初は、夫婦はそれなりに上手くやっておりましたわ。でもその妻が結婚してすぐ子供を身籠って。初めての妊娠ということで右も左も分からない不安な状態で、悪阻を始めとする身体の不調と闘っている時に、その下郎は一体何をしたと思います? 高潔なる王太子殿下は決して考えつかない、最低なことですわ」

 有り過ぎるぐらいに聞き覚えがある内容に、レミーユはぴんときた。どこかで聞いたも何も、これは父母の実話だ。だが、母はあくまで「人づてに聞いた話」という体を押し通すつもりらしい。

 うふふふふ、とにこやかに微笑む母とは対照的に、父の顔色は青を通り越して土気色になっていた。酒杯の脚を掴む指も、小刻みに震えている。紫の滴が周囲に飛び散らないのが不思議なぐらいだった。

「なんとその夫、懐妊中の妻が臥せって起き上がれなくなっている間に、下女に手を出していたのです! わたくし、そのあらましを聞いた際には、はらわたが煮えくり返りましたわ!」

 一方母は、あからさまに様子が変わった父には見向きもせず、事件の核心に踏み込んだ。表面上は、どこまでも穏やかに。

「妻の懐妊中に他の女に現を抜かすとは……。その男は、命を賭けて子を育んでいる妻にも、腹の子にも申し訳ないと自制できなかったのだろうか」

「ええ、本当に。わたくしもそう思いましたわ。なんて卑劣で下劣な男なのだろう、と。ですがその男、その一件だけでは懲りずに、度々浮気を繰り返していて……」

「なんと。手の施しようがない愚か者とは、その者のためにあるような言葉だな」

 王太子も、古い神話の神々の列にすら加われそうな人間離れした美に、幽かながら怒りと憤りを湛えている。容姿に相応しい、低く滑らかな声に奔る苦味は、彼が表に出している以上に不快感を覚えているのだと教えてくれた。

 王太子の巨乳の生母は出産が原因で身体を壊し、長く床から起き上がれぬ日々を送った末、ひっそりと息を引き取った。国王以外は見送る者のない、寂しい最期だったと聞く。

 難産の影響か、王太子自身も幼少期は身体が弱かった。また王太子は、当時も今も妻帯していない国王の、唯一の世嗣である。ということで幼き日の王太子は、療養と暗殺回避のために、秘密裡に父の腹心とその妻に育てられたのだ。

 長じて健康になった王太子は、五歳の折に宮廷に戻った。だがその時既に彼を産んだ女性は死去していたので、王太子は生母の顔も、ぬくもりも知らないのである。だからこそ、懐妊中の妃の側に出来る限りいてやりたいと望み、子を身籠った妻を蔑ろにする夫には、不快感を露わにするのかもしれない。

「世の中には、わたくしがお話したような下種に苦しめられている女性が沢山おりますわ。でも、こんなにも妻を愛し、慈しんでいらっしゃる殿下が次代の王となられるのですもの。これからのこの国では、夫の浅ましい所業に独り涙する女性も、きっと減りますわよね」

 母による公衆の面前での父の吊し上げが終わったところで、晩餐会も終了となった。つまり、レミーユにとってはここからが本番である。

「ああ、レミーユ! 頼むから、どうか私に力を貸してくれ! あれを宥められるのは、息子であるお前しか、」

「父上は邪魔なのでどいてください!」

 足元に纏わりついてきた父親は適当にあしらい、少年は先を急ぐ。王太子には屋敷で最も広く、奥まった場所にある部屋が充てられていた。

 万が一、王太子にうっかり無礼を働いてしまったら。さすれば、うっかりでは済まない事態になりかねない。

 ということで使用人たちは、必要以上に王太子が逗留する区画に近寄ってはならないと、領主夫人である母から直々に言い含められている。

 忠告を順守し、そこ・・を遠巻きにする使用人たちの流れとは逆行し、少年は突き進んだ。王太子一行たちでごった返し、普段よりも飾り立てられた屋敷は、自分が生まれ育った屋敷ではないようにさえ感じられた。

「あなたは……」

 ようやく――と言えるほど、レミーユが王太子が休む部屋に辿りつくまでに要した時間は長くはない。だが、レミーユはそのように感じたのだ――辿りついた目的の場所の前では、あの猫めいていて印象的な目をした青年が立っていた。

「こんな時間に、一体何用です?」

 レミーユに問いかける口ぶりは淡々としているが、明るい緑色の瞳では紛う事なき警戒心が燃えている。青年の手は、腰に佩いた剣の柄に伸びていた。

 少しでも怪しい動きをすれば、この青年は少しの容赦も躊躇いもなく、レミーユを斬り捨てるのだろう。対峙しているのはたった独りの青年なのに、以前盗賊に攫われた際よりも足が竦んだ。

「殿下にお話があって参りました。ですから、どうか、」

 だからといって、引き下がるわけにはいかない。愛しのバルデロや友人たちの命が懸かっているのだから。

「いくらあなたがヴェジー子爵の息子とはいえ、この先にお通しする訳にはいきません」

 少年は意を決して青年の足元に跪き、敵意はないのだと示したのだが、返答はどこまでも冷淡だった。この大国の後継者の命を守るためならば、警戒はし過ぎることはないということだろう。それに、彼と王太子には、主従を越えた絆がある。だからこその、警戒ぶりでもあるのだろう。

 ――もうこうなったら、あの手を使うしかない。

 死にかけの野良犬にそうするかのごとく、青年はよく磨かれた長靴にしがみ付く少年を振り払わんとする。そのうんざりとした双眸を、少年は無垢な瞳で覗き込んで絶叫した。

「僕はあなたの父の妹の夫の妹の息子ではありませんか!」 

 勢いに圧倒されたのか、単純に声の大きさに驚いただけなのか。いずれにせよ、青年はほんの僅かながら動きを止めた。

 目前で立ちはだかる青年と王太子の間に特別な繋がりがあるのと同様、レミーユにも彼との間に繋がりがある。

 吊り上がった大きな目をぱちぱちと瞬かせた青年は、幼少のみぎりの王太子を預けられるほどに国王の信任篤く、王太子には第二の父として慕われているというアルヴァス伯の長男だ。しかも伯の妹君は、レミーユの母の実家に嫁いでいるのである。つまり、母が王太子一行を出迎える際に口にしていた「お義姉さま」とは、胡乱げに眉を寄せた青年の叔母なのだ。

 母には、国王の腹心との繋がりがある。だからこそ母は、いくら父に全面的に非があるとはいえ、夫を足置き台にしても許されているのだ。

「つまり僕たちは――」

 家族のようなものではありませんか。幼き日は王太子殿下と兄弟同然に育った貴方がとりなしてくれれば、殿下も僕の言うことに耳を傾けてくれるかもしれない。だから、どうか。

「全くの他人ですね」

 少年は瞳を潤ませ、精一杯情に訴えたのだが、青年の対応はやはり淡白そのもので。両の眉は、寝言は寝て言えとばかりにますます顰められていった。

「ああ、そうだな。全くの他人だ」

 しかし一度耳にしたら生涯忘れられぬ、朗々と響く威厳のある声が頭上から轟いてきたので、少年はがくりと垂れていた頭をはっと上げる。

「だが、私に話があるというのなら、聴いてやろう。そなたは我が家臣とはいえ、急な世話をかけた礼はせねばな」

 そこにいるのはやはり、眩いばかりの麗貌を誇る王太子であった。名工の手による氷像を連想させる、整いすぎているがゆえに冷たげで近寄りがたい造作は、微笑めばこの世のどんな女の心も奪えそうである。だが、バルデロの心は渡さない。

「とはいえ、重要な話をここでというのは差し支えがあろう。取り敢えず中に入るがよい」

「無用心すぎます、殿下! この者はいくら非力で無害そうで、多少頭の出来に問題がありそうだとはいえ、どんな武器を隠し持っているのかしれませぬのに――」

 嫉妬と警戒を秘めた眼差しをした少年の前に立ちはだかったのは、やはり猫の目をした青年だった。

「なに。この者が私の殺害を企んでいるのなら、先ほどの食事に毒を盛っているさ。だが、私もお前も身体に不調は一切ないだろう?」

「それは、まあ、そうですが……」

「それに、万が一が起こったとしても、お前が側にいてくれるのなら安心だ」

 ぐずる弟を嗜める兄を彷彿とさせる口ぶりに、元来吊り上がった目を更に吊り上げた青年は、唇を尖らせながらも従った。ちらと見やれば、その頬はうっすらとだが赤く染まっている。照れているのだ。

 父が母に黙って特別に作らせたという――結局ばれて、客人用にすべく取り上げられたのだが――屋敷で一番豪奢な装飾が施された家具も、王太子を前にすればどこかみすぼらしい。

 長く、均整がとれた脚を投げ出すように。けれども極めて優雅に坐した青年は、切れ上がった双眸を細めた。

「それで、そなたの望みとは一体なんだ? 申してみよ」

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