後編・XYZ ――永遠にあなたのもの

 闇の濃度の濃いある晩のこと。

 布団の擦れる音と身体に感じる重みでリリィは目を覚ました。

 自分に覆いかぶさる人の影がそこにはあった。



「エリー!? どうしたの?」


「リリィ様……」



 エリーは頬を紅潮させ、懇願するかのような表情を浮かべたままそのまま唇を奪った。



「リリィ様……好き……リリィ様」


「――んふっ……はぁっ……」



 触れたい、もっと自分を見て欲しい。そんな欲求は日に日に膨れ上がり、エリーは気持ちのコントロールが追い付かないほどにリリィに惹かれていた。

 交わりは生きるための作業。しかしリリィとのセックスはまるで別物だった。男から精気を摂取した後、決まってエリーはリリィの寝室を訪れ、自身の記憶を上書くように求め、行為に及んだ。



「私からは、精気は手に入らないでしょう?」



 暗闇の中、唇が離れた隙に呼吸を乱しながらリリィは尋ねた。



「はい。でもリリィ様だけなんです……私にはリリィ様だけ」



 有無を言わさず再び塞がれる唇。口内を弄られ、舌から何かを搾り取るかのような愛撫にリリィは喘ぎ声を漏らした。

 自分と交わっても精気は手に入らない。それなのに、エリーは私自身を求めてくれる。そんな事実にこの上ない快感をリリィは覚えた。夜な夜なエリーが男と交わるのを快く思っていなかったこともあり、できるなら自分だけがエリーに精気を分け与えられるようになりたい。リリィがそう思ったのはこの時からであった。



 リリィは不老不死の研究の傍ら、サキュバスの生態についての研究、調査にも力を入れた。男性の精気をエネルギー元として体内で変換するロジック解明に勤しんだ。従順なエリーは、リリィからのいかなる頼みにも断ることはなかった。どんな試験薬でも口にし、血液の摂取や体を使った実験にも一助となったのであった。



 月日は流れた。 

 試験管の中には透明な紫色の液体がゆらゆらと揺れている。そこに短髪を1本入れ、泡立ったところをリリィは一気に喉に流し込んだ。



 部屋の灯りを消し、そのままエリーをベッドまで誘導し愛し合った後のこと。



「感じます、リリィ様の精気……」



 エリーは限りない喜びに満ち、肩を震わせた。実験は成功したのだ。

 リリィが開発した秘薬は男性の髪の毛をほんの少量、1本でも入れることで化学変化を起こす液体で、それを口にすればたとえ女性であっても一定時間はサキュバスに精気を分け与えることのできる体質に変化するものであった。



 この薬が開発されるやいなや、エリーは男との交わりを一切絶ち、リリィからのみ精気を得るようになっていった。

 エリーが夜の依頼を度々断るようになり、セントラルドミトリーの男たちは困惑した。中でも1番このことを良く思わなかった男は管理人のラーダンであった。自分の懐に金が入らなくなったためである。



 ラーダンはエリーの腕を乱暴に引いてある場所を目指した。

 管理人室のクローゼットの奥には隠し扉があった。扉を開け、石階段を下り、換気装置がいくつも連なる薄暗い空間をしばらく進んだ先にある部屋。中にはベッドの他にトイレ、洗面器など生活に必要な一通りのものが揃っており、コンセントにつながれたランプが妖光をひらめき渡らせていた。

 この地下室は戦時中に使われていた隠し部屋であったが、時代の変化により人々の記憶からは忘れ去られ、寮の運営側の人間はこの部屋の存在を認知していなかった。しかし、たまたまラーダンの上着が隠し扉に繋がる板に引っかかったのを機にこの地下室の存在を知ることになる。

 地下室は地上とは距離もあり、音も籠るので良からぬことをするのにはうってつけの場所であった。特殊な性癖を持つラーダンはここに鞭や拘束具を常備していて、たびたび若い男を連れ込んでいたのだ。

 

 

 エリーを地下室に連れ込むやいなや、ラーダンはエリーを地面に叩きつけるようにして投げ飛ばすと、大声で怒鳴りつけた。

 

 

「どういうつもりだ! 稼いだ金はどこに隠した!?」


「……申し訳ございません」



 エリーは弱々しくうずくまり自らの頭を手で押さえた。

 

 

「この野郎っ! 俺にたてつく気か! 誰のおかげでここにいられると思ってるんだ? あぁ?」



 サキュバスである以上、交わりは絶てない。きっとどこかに金を隠している。そう疑ったラーダンはなんとかして隠し場所を吐かせようと、部屋の壁に立てかけてある鞭に手を伸ばしてエリーの顔面にそれを放った。エリーの頬は傷つき、血が頬を滴った。

 ラーダンはそれを見て後悔する。それは自らが女に手をあげてしまったことに対してではない。売り物である彼女の顔に傷をつけてしまった為だ。


 

「今週の稼ぎは一銭たりとも残さず俺に渡せ。今回はこれで済ませてやるが次も払えないようなら次はお前の体中に傷がつくことになるぞ」

 


 どうせ暗闇の中じゃ身体の傷は誰にも分かるまい。俺に逆らえばどうなるのかを思い知らせなくてはならない。女には興味はないがやむを得ない。ラーダンはこの部屋をエリーの拷問部屋にすることにしたのであった。



――



「これ、ペンダント。探していたでしょう」



 ある昼のこと、リリィは赤く光るペンダントをエリーに差し出した。

 セントラルドミトリーでは執事やメイドは従者の印として階級に応じて違う色のペンダントを身につけることが義務付けられていた。

 しかしエリーはここ最近でペンダントをどこかに落としてしまい、それを気に病んでいたのだった。



「ありがとうございます。見つけてくださったのですね」


「つけてあげる」



 リリィはエリーの背後に回った。



「……ねぇ、エリー。首のところ、痣が出来てる……」



 エリーの首元には青あざができていた。

 他の誰かと交わるくらいなら、鞭で打たれても構わないと思っていたエリーはあの日以降も男と交わろうとはしなかった。それ故にラーダンにひどい拷問を受けていたのだ。



「階段で転んでしまいました……」



 リリィに心配をかけぬよう、控えめな笑顔でエリーは笑った。



「この前の顔の傷といい、誰かにやられたの?」


「いいえ……ただの私の注意不足でございます」


「……。もう階段から転ばないようにして。見ていられないくらいヒドイ痣だよ。エリーに何かあったら私はもう……」



 リリィはため息をついて目頭の部分を押さえ、悲痛な表情を浮かべた。



「リリィ様がそのようなお顔をされるなら……もうこれ以上は転ばないようにしなくてはなりませんね」



 自分が傷つく分には良いがリリィに心配はかけたくない。リリィのそんな顔はもう見たくない。エリーは何かを決心したかのように呟いたのであった。



 事件が起こったのはその数日後のことであった。

 突如ラーダンはセントラルドミトリーから姿を消したのだ。どこを探しても消息はつかめず、何者かによる拉致である可能性が浮上すると、警察はたびたび寮を訪れるようになり、セントラルドミトリーはパニック状態になった。

 事態を恐れた寮生の数人は一時的に他の場所に避難するなどの措置をとった。

  

 

「ラーダンの件、どう思う?」



 警察の取り調べの様子をリリィは研究室の窓から眺めていた。



「私は……リリィ様だけがいてくれればそれで良いですから」


「そういうことを聞いているのではなくて……ラーダンが寮に住んでる誰かに殺されてたらどう思う?」


「今は……リリィ様との時間が増えたことがただ嬉しいです」


「ねぇ、エリー。もしも私もこの寮を出ると言ったら?」



 窓越しに鳥が鳴いているが、その音はエリーの耳には全く入ってこなかった。

 リリィの放った言葉は鋭いナイフとなってエリーの心臓に突き刺さったのだ。



「どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。リリィ様がいなくなったら私は……きっと死んでしまうでしょう。もう私はリリィ様以外の精気では生きようとは思いません」



 ここまで尽くしてきたのに、ここまで好きなのにそのようなことを口にされ、絶望を通り越してエリーの眼光は閉ざされていた。



「でもね、人が1人いなくなっている。腰を据えてここで研究するのは現状、難しいように思う」


「大丈夫です」


「大丈夫?」


「私が一生お守りしますから」


「……少し考えさせて」



 エリーが不安を募らせる中、うやむやな関係のまま時は流れた。

 ラーダンの遺体がセントラルドミトリーの庭から発見されたのはその1週間後のことであった。

 ――捜査班が死因の特定を急いでいる頃。



「エリー、受け取って欲しいものがある……」



 リリィは手のひらサイズの黒い塊をエリーに渡した。



「これは……」


「手榴弾。万が一の時に使って欲しい」


「こんな物騒なもの私には必要ございません」


「いいから。あなたが心配なの。使い方は、相手から十分に距離をとった状態で投げるだけ。殺傷性は低いからあくまで目くらましだと思ってもらえれば良いから。ただ、天井が低いところで使うと崩れて生き埋めになる可能性があるからそこだけは気を付けて」



 断固として引こうとしないリリィに、エリーはしぶしぶ手榴弾を受け取った。



「エリー、自分の身は自分で守って。私がいなくてもなんとかなるように」


「リリィ様、まさか……」


「私はそろそろここを出る」


「……どうして」



 エリーは自分の身体の力が風船のように抜けていくのが分かった。その言葉は自分にとっては「死」を意味していたからだ。



「遺体が発見された。ここは安全でない場所。それが全て。ごめんなさい」


「そんな……! 嫌です、リリィ様……。私も連れて行ってください」


「あなたはここのメイドでしょう。勝手に連れ出すわけにはいかない。本当は誰にも見つからないような場所で……エリーと一緒にいられたらと思うのだけれど」



 『誰にも見つからないような場所で一緒にいられたら』

 取り残された部屋の中、その言葉はエリーの心の中で深く木霊こだました。



――



「リリィ様……お見せしたいものがあります。ついてきてくださいますか?」



 荷物をまとめているリリィにエリーは尋ねた。



「……? 分かった」



 エリーは管理人室のクローゼットの奥にある隠し扉を開けて地下に続く道をリリィの手を引いて進んだ。

 

 

「リリィ様はおっしゃいましたよね。誰にも見つからないような場所で一緒にいられたら、と」



 石階段を下りきった頃にエリーは口を開いた。



「そうだけど……何してるの?」


「リリィ様からいただいたこちら……ここで使わせていただきます」


「……!?」



 爆発音が響いてわらわらと天井は崩れ、地上に続く道は瞬く間に塞がれた。



「私のことを軽蔑なさいますか? でもこれでいいんです……これで……死ぬまでずっと一緒にいられるのですから……」


「……エリー、そこにある箱を開けてみて」


「これは……」



 箱の中には大瓶に入った紫色に光る液体と、髪の毛の束が入っていた。


 

「ここで実験することもあったから。爆発する手榴弾の開発はここで行ったんだよ。念のため薬も置いておいて良かった。死ぬ必要なんてないよ、エリー」



 精気を得るために口に含む量は少量で良い。

 必要な髪の毛も長いこと生きるのには十分な量であった。



 リリィは優しく微笑んだ。

 エリーは唖然とした。自分は許されないことをしたという自覚はあるのに、リリィが微笑んでいるからだ。



「……この場所をご存じだったのですか」


「うん。エリーが顔に傷を作った時あたりに偶然見つけた。無くしたと言っていたペンダントも実はここで見つけて……」

 


 エリーが無くしていたペンダントはラーダンから拷問を受けた際に落としたものだった。


 

「しかし、それでは私だけが……」



 自分だけが生き延びても意味がない。

 ただ死を待つだけだと思っていたエリーは困惑した。



「その箱の中に茶色のビンが入っているでしょう」


「これのことでしょうか?」


「うん。それ、不老不死の薬。実は研究はうまくいってたんだ。サキュバスエリーの体について研究した時、エネルギーの変換ロジックを知ってそれが細胞の再生への大きなヒントになった。まだ試験段階だったから公表は避けていたけれど、これは紛れもなく不死の薬と言って良いものだよ」



 リリィは茶色の液体をその場で飲み干した。



「……よろしいのですか」


「もう崩れてしまった壁は直すことはできないでしょう。だから良いんだよ、これで。私たちは永遠にここで生きられる。ずっと2人きりだよ、エリー。私を選んでくれてありがとう」



 リリィはエリーの頬をそっと撫でた。



「嬉しい……。愛しております、リリィ様。永遠に」



 2人は静かに口づけを交わした。

 ランプの妖光に照らされながら、紫色の液体と赤毛の長い髪の毛が不気味に光っていた。


――――――――


※近況ノートページにて解説あります

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ザ・パーパスインライフ 風丸 @rkkmr

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