ザ・パーパスインライフ
風丸
前編・ゴッドマザー ――名付け親
大都市、ラグーディアの中心部には10代から20代を迎え入れる大きな学生寮があった。その名も、「セントラルドミトリー」。高い塀、その外観はお城のような豪邸を思わせる造りになっており、歴史の匂いがするレンガは文化財的な価値を漂わせている。
管理の行き届いた庭はきらきらと日陰にきらめき、庭木や花が青い空気の中でさわさわ揺れていた。
シェフの作る高品質な食事に、大きな図書館、運動施設、広く綺麗な個室、ふかふかのベッド、誰もが羨むようなものが全てが揃った学生寮。
資産家や富豪はこぞって我が子をこのセントラルドミトリーに入寮させた。それはこの時代に生きる彼らの一種のステータスでもあったからである。
リリィは決して裕福ではないが勤勉な学生であった。幼い頃から探究心が強く、特にその関心は医療の分野に向き、幼いながら不治の病の治療に貢献し政府から数々の賞を授かる秀才であった。20歳を超えた現在は寿命を延ばす――すなわち延命にむけた研究に精を出す日々だった。
そんなリリィに政府は今後の期待を込めて金銭の援助と、このセントラルドミトリーへの入寮の権利を与えた。研究さえできればと場所にこだわりのないリリィにとってこのセントラルドミトリーへの入寮権利は特別喜ばしいことではなかったが、寮内に自身の研究スペースと専用のデスク、本棚が与えられることが分かると断る理由はなかった。
セントラルドミトリーは寮でありながらも多くの執事やメイドを雇い入れていており、その仕事内容は清掃や食事の支度、学生の送迎や、マナー教養のレクチャーなど多岐に渡る。
そんな使用人の中で、一際目を引かれる存在がメイドのエリーだった。
彼女が寮にやってきたのは数年前のこと。それは夜――雨の日のことだった。1日中研究室に缶詰め状態になっていたリリィは息抜きに外の景色を窓越しに眺めていた。太陽の光はない。闇に包まれた世界に弱々しく光る灯りがかろうじて寮の入り口付近を照らしている。コンクリートの地面に打ち付けられた雨の微かな音に耳を傾けていると、うめき声のようなものが僅かに混じっているのが分かった。
驚いたリリィはすぐさま部屋にある懐中電灯を手に取り、声のする方に光を向けた。照らす光の先、寮の玄関口で蹲って倒れている銀髪の少女に雨粒は容赦なく打ち付けていた。
驚いたリリィはすぐさま寮の管理人である赤毛の長髪が特徴的な男――ラーダンの元へ走り事情を説明すると、銀髪の少女は間もなく保護された。
少女は記憶を喪失しており身元不明で名もなかった。疑わしく思ったラーダンは、長髪の赤毛を揺らしながら身元調査のために少女を徹底的に調べ上げた。
身ぐるみを剥がし、一糸まとわぬ姿の少女の前に立った。少女の下腹部には独特な
当時、サキュバスは不確かながらも、存在するものとして人々に語り継がれてきた。主に男性の精気をエネルギー元として生きており、一定期間性的な交わりがないと死に至る。一番美しい姿で成長は止まり、精気を摂取し続ければ「永遠の命」とも言われるサキュバスの下腹部にはタトゥーに似た淫紋があるとされており、人間の肌に墨を入れる技術は当時の彼らには成しえないことであったために見分けることは容易であった。
そんな名のない彼女に、第一発見者であるリリィに命名の権利が与えられた。研究に集中していたリリィはそんなことは枝葉末節であったが、不老不死の万能薬を意味する「
欲深い男であるラーダンはエリーを保護したことを警察に届け出ず、そのままメイドとして雇い、サキュバスであるが故の夜の仕事も兼任させた。もちろん、こうして夜の仕事で手に入れた金はラーダンの懐に入ることになる。
エリーはサキュバスであるがゆえに美しかった。男性を魅了するための外見を生まれながらに持った生き物だからである。
そんな銀髪の美しいエリーを当時の人々は興味深い眼差しで見ていたが、それは最初だけであった。夜な夜な性交を行うことを避けられない彼女をふしだらな存在だとして、特に同性である女性からは嫌悪され煙たがられた。一方男性も日中は、独特な雰囲気を醸し出す彼女に対して親しげに話しかけられるような者はおらず、日が差し込む時間帯にエリーの周りには人がいなくなっていった。
エリーが夜な夜な不特定多数の男子学生と寝室に消えていく後ろ姿をリリィは何度か目撃していた。金はラーダンの懐に入っているという噂も聞いた。小さく華奢な背中を見て、あの夜自分が彼女を助けたことが本当に正しいことだったのかと自問自答する。
彼女がサキュバスである以上、生を望むのであればそれは必要なこと。何も気にすることはない、と思いながらもエリーのことを度々考えてしまう。
首を左右に振り、頭から外に押し出そうとするが、なかなか離れていかないそれにイライラが募る。今はやるべきこと、いや、やらなければならないことが目の前にある。リリィは自身のデスクに強引に向き合うのであった。
とうとう研究が行き詰まり、思うように成果を出せなくなると政府はリリィにある打診をした。それは研究のサポートに加え、身の回りの手伝いをこなしてくれる「専属メイド兼助手」をつけることだった。これにより、より研究に集中できるだろうと政府は踏んだのだ。
ただでさえ、執事やメイドに囲まれた生活に違和感を抱くリリィは最初はその申し出を断ったのだが、政府の厚意を受け入れるが吉という周りの助言もあり、仕方なくその申し出を受け入れた。
「お嬢様……」
セントラルドミトリーで1番よく働き、信頼も厚いメイドがリリィの専属メイドになるという取り決めの元、連れてこられたのはエリーだった。
エリーはリリィの元へ跪くと手の甲に唇を添えた。度々自分の頭の中にいた存在が目の前に現れ、リリィは心の静かさを失っていた。
「そんなお嬢様なんて呼ばないで。慣れないから」
「それではリリィ様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか……」
「お嬢様よりはその方が……」
「承知いたしました、リリィ様」
エリーは非常に従順なメイドであった。朝、リリィが目覚めた頃には紅茶を部屋まで運び、脱ぎ捨てた服も全て回収して洗濯し、畳まれた状態でドレッサーに収納する。疲れた表情のリリィの肩を揉み、デスクで居眠りをする頃には毛布をかけ、とにかくメイドの仕事の範囲を超えて尽くした。
そんな従順で健気なエリーに、最初の方こそそこまでしなくて良いと遠慮したが、これが仕事ですからと決して手を抜くことはなかった。
リリィは思うのであった。この子は私が望めば毒の入った瓶も飲んでしまうのではないかと。
ある夜のことだった。その晩、リリィは酷く酔っていた。
人を殺めることは簡単だ。でも命を延ばすということはそれとは比較にならない程に難しく、困難なことだ。
酒に元々あまり強い方ではないのだが、研究の成果が依然と出ないことに日々のストレスが蓄積し、感情的になったリリィはもう何もかも投げ出したくなり、ふらっと街に出ては薄暗い酒蔵に入り、浴びるほどの酒を喉元に注いだのだった。酒を飲めば日々の鬱憤を忘れることができる。現実に背を向け、たらふく胃袋に流し込んだ。そうしているうちに酒蔵は閉まり、帰路をとぼとぼと歩くの足取りはおぼつかなかった。
そんなリリィの帰りをエリーは門の前でずっと待っていた。その日の交わりを断ってまで待ち続けていたのだ。
リリィの姿を見かけるとエリーは彼女の元まで駆け寄った。
「リリィ様」
「……まだいたの? 先に寝ていてくれて良かったのに」
「なかなかお戻りになられないので心配でした」
リリィが何かに躓き、転びそうになるところをエリーは懸命に支えた。
「ごめんなさい。少し酔ってしまったみたい」
「お気になさらないでください」
エリーに支えられて、部屋までたどり着く。
ベッドに腰掛けて定まらない視点の中、窓を通じて見える真っ黒な世界をぼんやりと見ていた。
「リリィ様……大丈夫ですか?」
エリーはそんなリリィの顔を覗きこんだ。
「最近モヤモヤしてて……人肌が恋しい」
両親の笑顔を思い出して辛くなる。自分が成果を出さなければ両親への仕送りもできず、きっと見放されてしまう。そんな思いがリリィの中にはあった。
「溜まっていらっしゃるのですか」
「そうかもしれない」
この「溜まっている」という解釈はそれぞれ違った。
エリーは性に関すること、リリィはストレスに関することとして捉えていた。
「リリィ様をお慰めするのも
エリーは優しく抱擁した。
ストレスに負け、酒に酔いつぶれている自分の帰りを待ち続け、ここまで介抱してくれるエリーに愛おしさがこみ上げてくる。
「エリーは優しいよね。私が望んだら何でもしてくれるんじゃないかって思ってしまう時がある」
「はい。リリィ様のおっしゃることなら何でも……」
エリーはゆっくりとリリィに顔を近づけた。
お互いの呼吸の音が聞こえる距離感。リリィは目の前の状況が理解できずに、ただ固まっていた。
「キス……してくださらないのですか」
「え……」
サキュバスであるエリーが何故女である自分とのキスを求めているのか。
リリィは廻らぬ頭の中で考える。
「私は男じゃないよ?」
「私を求めてくださることは、専属メイドとしての喜びでございます……」
襟元を引かれるまま酔いに任せてリリィはエリーに口づけをした。
大丈夫、こんなことはきっと今日だけである。きっと今日だけ……。
舌と舌の絡み合う熱い夜であった。
この2人の関係が徐々に変化していくのはその晩からだった。
「エリー、あなたは自分の意思がないの? 言われたことだけではなくて、自分が好きなようにして良いのだからね」
ある日のこと。
まるで自分の意見を持たないエリーに、リリィは痺れを切らして言った。
「では……私からリリィ様に触れても……よろしいのでしょうか」
思わぬ返答にリリィはたじろいだ。
あの晩から、まるで何事もなかったかのようにいつも通りの日常が過ぎていた。しかし目の前のメイドは今、自分に触れたいと言っているのだ。
エリーは座っているリリィを後ろから優しく抱きしめた。
「リリィ様。ずっと私は貴女様に触れたかった……」
「どうして……? どうしてなの?」
「私の命の恩人だからです。それに……リリィ様は私のことを一人の人間として扱って……見てくださいます。こうして優しく話しかけてくださいます」
エリーは助けてもらったあの日からリリィのことをいつも気にかけていた。自分の名付け親。一度で良いから話してみたいとずっと思っていた。
しかし研究に没頭し部屋から出ることのない彼女とコンタクトを取る術はなく、与えられた仕事をただ忠実にこなすしかなかった。日々の仕事の成果からリリィの専属メイドとしての配属が知らされた時、エリーは生きてきた中で1番の喜びを感じていたのだった。
専属メイドになってからというもの、自分をサキュバスとして煙たがるのではなく、「人間」として、1人の女性として見てくれるリリィにエリーは惹かれていった。
一方、リリィもそうだった。リリィは昔から研究のために生きてきた。誰も自分に興味など持ってくれない。自分の出す「成果」にしか関心がないと思っていた。成果が出せない自分は、ついに誰からも認められずただチリに埋もれて行くという恐怖がいつも彼女を支配していた。
しかし、エリーは研究成果に関わらず、どんな時でもいつも尽くしてくれた。自分自身を認めてくれている。たとえメイドとしての仕事だとは分かっていてもリリィにとっては嬉しいことだった。そして口付けをしたあの晩から密かに秘めていた思いが胸の奥で広がっていた。
政府からの期待に応えなければ専属メイドを失ってしまうかもしれない。リリィの研究のモチベーションはいつの間にか、エリーを繋ぎとめるためのものとすり替わっているほどに惹かれていたのだった。
「エリー……」
「リリィ様……愛しております」
「私も……」
「今夜は私に身を委ねてくださいませんか」
エリーの問いにゆっくりとリリィは頷いた。
セントラルドミトリーの夜、リリィの研究室に灯された小さな灯りは消えることはなかった。
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