不死身殺しの頭蓋骨(デッド・ウィル)

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不死身殺しの頭蓋骨(デッド・ウィル)

 横に殴る青年の手袋、その指先から唸りをあげて五本の糸が飛び出した。まるで口笛のような音を響かせて銀閃を描く。同時に突きあがった血の噴水は、老婆の首からほとばしり出たものだ。



 襤褸ぼろを纏った首なし老婆が膝を折り曲げ、そのままバネ仕掛けめいて跳び上がった。四メートル上空で前方宙返りをすると、首から出る鮮血が、ある意味で尻尾のように映った。中空で広がる鮮血が陽光を受けて乱反射する。



 老婆は踵落としを繰り出す。骨に皮がへばり付いてるような脚は、木刀の素振りに近い音がした。――男は一歩も動かずにただ人差し指を振った。鋭い風切り音が響いて老婆の足首が刎ね飛ばされた。ほとんど骨の足は、堅い木を切断したように軽快な音が鳴った。



 態勢を崩し、老婆は背中を地面に打ち付けた。同時にその身体が水風船のように弾け飛んだのは、落下中に全身を賽の目に切り刻まれたからだ。もはや老婆の原型はなく、ただ土の上に堆積たいせきした血肉が輝くのみだ。



 青年の周囲を糸が漂っている。風にふわりと揺れる極細の糸に血肉が絡みついて閃いている。まるで刃物のように。彼が右手を振ると、鞭のように糸がしなり、血振りめいて血肉が飛び散った。



 軽く右手のスナップを利かせると、五本の糸はシュルシュルと手袋の指先に吸い込まれていく。老婆の肉片をチラと見やり、青年はその場を後にした。



 青年がいなくなった後で、最初に刎ねられた老婆の生首が、ひとりでにコロコロと転がっていった。







 五十年の月日が流れた。







 形は人だ。二本の角があり、身体は猿のように毛深い。炯炯けいけいと輝く碧眼は額のものを合わせて三つある。二足歩行をしていて身長は百五十センチほどしかない。



 これが魔王だ。



 これと対峙するのは老爺だ。白髪を後ろへ撫でつけてある。片眼は潰され左腕は肘から先がない。八十人の仲間と共にこの地を目指したが、彼以外は皆死んだ。



 雑草すらない荒野だ。



 猿が駆けた。老爺が右腕を薙ぐ。手袋の指先から唸りをあげて飛び出したのは五本の糸だ。陽光に閃くそれは、まるで刃物のように猿の両膝を切断した。二人は十メートル以上も離れていた。



 猿がつんのめる。そのままゴロンと前転すると、地面を飛び起きた。再生したのだ。後方に膝から先を残して猿は疾駆する。



 猿は駆け抜く勢いのまま右ストレートを放った。横に飛びのいた老爺へ、まるで予測していたように回し蹴りを繰り出した。



 右のこめかみへ向かう踵が、ミキサーに掛けられたように破砕した。果肉めいて肉片と骨が散る。老爺は腰の位置で右手を上へ向けていた。眼を凝らしてみれば、彼の右側面に網戸めいて展開された糸が見えるだろう。



 猿は口の端を斜めに下げ、歯茎を見せながら歯軋りをした。振りかぶった右腕が刎ね飛ばされ、鮮血が地面に落ちるよりも早く、喉を血の線が横切った。



 分断された右腕が地面に着いたとき、猿の生首が舞い上がった。くるくると回転しながら鮮血を撒き散らし、まばたきの後には、上半身が再生している。落下する猿を無数の銀閃が迎撃した。



 一瞬で全身を賽の目に切り刻まれた猿は、まるでスプリンクラーめいた血肉の雨に変わった。果肉よりも小さい肉片が地面を濡らし、まるで生きているように痙攣し、そのまま染み込んでいく。照り付ける太陽がすぐに乾かす。



 赤黒い地面には確かに肉片があるのだろうが、砂と混じって判別がつかない。老爺はしばらく血のシミを見つめていた。



 この猿の魔王は不死身と云われている。明らかな致命傷を負っても、すぐに再生するらしい。



 十分ほど経ったか。老爺が身をひるがえした瞬間、その両足首を掴まれた。あたりには誰もいなかったはずだ。うろたえる老爺が下を向くと、地面から手が生えている。



 これが、地面に染み込んだ猿の肉片が結果であると、老爺には分からなかった。だが彼の判断は早かった。



 驚異的な牽引力けんいんりょくによって、老爺の両足首が地中へ引きずり込まれた刹那、口笛が響いた。いやそれは糸の風切り音だ。老爺の瞳は極めて冷静だった。



 ばづんっ! という骨を断つ音が響いた。老爺の膝から下が地中へ引きずり込まれた。文字通り膝立ちの状態で老爺が飛びのく。同時に土が盛り上がり、そこから猿が拳を突き上げながら飛び出してきた。



 膝の断面が熱を帯びる。まるで灼熱のような痛みが広がる。膝立ちの老爺めがけて猿が駆け、その腹を蹴り飛ばした。胃液を吐き出しながら老爺が宙を舞った。複数の内臓が潰れ、破れた腹腔から零れ落ちている。



 上空八メートルほどから落下する老爺へ猿が跳びかかった。膝のバネによる跳躍は、彼我の距離を一瞬で縮めた。迫る猿へ、老爺は最期の力を振り絞って糸を繰った。



 突き出された猿の拳がグズグズの肉片に変わった。けれど猿は表情を変えない。無数の銀閃が唸りをあげて襲い掛かっても、身体を切り刻まれながらも、その笑顔は絶やさなかった。



 その笑いの意味を老爺は分かっていた。事実、彼の瞳には諦観が浮かんでいる。



 この猿の魔王は不死身なのだ。その噂はもちろん知っていた。腕を刎ねても、腹を裂いても、足を潰しても、頭を割っても、たちどころに再生する。



 ただ、さすがに脳を細切れにすれば死ぬと思っていた。



 今までそれを成したものはいなかった。ゆえにそれは唯一の希望だった。



 微塵切りにされた猿が落下していく。原型はない。ただのドロドロの赤い流動体だ。陽光を受けてキラキラと光っている。



 老爺が背中から地面に叩きつけられた。衝撃で腹腔の傷口から腸がはみ出す。横を見ると、地面の血だまりに猿の頭部があった。眼が合う。「ああ、頭から再生するのか」などと老爺は他人事のように思った。



 先程よりも再生が早いのは、地中で再生していないからだろう。虫の息の相手に奇襲など必要ないのだ。



 老爺は空を見た。雲一つない。自分にはできる限りのことをやった。右腕はピクリとも動かない。敗北だ。死だ。なんの気なしに、猿とは逆方向を見ると、何かがあった。



 それは頭蓋骨だった。



 なぜ雑草すらない荒野に頭蓋骨があるのか。かつて猿に挑んだ何者かのものなのか。いやならば全身の骨はどこにあるのか――



 影がかかった。



 見ると猿は全身を再生していた。二度三度、手を握ったり開いたりを繰り返している。まるで感覚を確かめるように。猿が足を持ち上げた。それが老爺の頭の上にきたとき、



「かかっ」



 という音がした。堅い物同士が、数度かち合うような音だ。それはしかし笑い声のように思えた。猿は無表情だし、もちろん老爺も笑っていない。他にあるのは頭蓋骨だけだ。



 殺される直前、老爺はこの猿の魔王に殺された民衆を思った。死者八百万人。ザボロ地方の住民の大半が殺害された。老爺はこの地方で生まれ、生きていた。家族や友人は殺された。



 老爺の悲願、魔王の殺害は成されることなく、彼は頭を踏み抜かれて殺害された。







「かかっ」



 再び、何か堅い物がかち合うような音が響いた。猿は動かない。突っ立ったままだ。そういえば三つある瞳から、炯炯とした光が消えている。まるで屍体のように。いやこの猿は不死身のはずだが……。



「成した。成したぞっ」



 今度は声がした。この荒野にいるのは、猿と、老爺の屍体と、あとは頭蓋骨――



「ワシを殺したあの男に復讐をっ」



 頭蓋骨が喋っている。声帯などないはずだ。上顎と下顎がカチカチと鳴ると、しかし声が聞こえてくるのだ。眼窩の空洞には淡い光が灯っている。



 この頭蓋骨が、かつて老爺に打倒された、小悪党のネクロマンサーであるとは、猿の魔王はもちろん、老爺も気付かなかった。もう五十年も前の話だ。



 かかっと頭蓋骨は笑う。彼女――生前は老婆だった――の心は晴れやかだ。生前、猿の魔王に殺された住民の墓荒らしをしていた際、若い頃の老爺に見咎められた。口封じに殺そうとしたが首を刎ね飛ばされた。



 そのとき、彼女はと気付いた。首から下の身体を操ったが微塵切りにされた。あの糸の切れ味は刀以上だった。それからは生首の状態でずっと尾行していた。



 殺す機会を得るために。月日が経つにつれ、生首の髪は抜け落ち、皮は剥がれ、眼窩からは眼球が零れ、ただの頭蓋骨になった。だが彼女は死ななかった。あえて云えば――



 意思が、生きていた。







 不死身は死ぬ。



 死にはするのだ。ただ生き返るから、不死身と呼ばれる。



 死んで生き返る、その寸前、、不死身もただの屍体だ。その一瞬にネクロマンサーの能力を施す。時間にすれば一秒未満のタイミングだろう。成功した。



 猿の魔王を使役した彼女は、老爺の殺害を成し遂げた。



 これが事の顛末だ。



 頭蓋骨は猿を見る。三つの瞳からは光が失せている。しかし肉体は生きている。内臓や血管、手足の神経は機能している。不死身だから再生したのだ。だが動かない。



 ネクロマンサーに使役されている今、猿は脳死の状態なのだ。



 つまり意思が死んでいる。



 静寂だ。



 衣擦れの音がした。頭の砕けた老爺が剥き出しの膝で立ち上がっている。右手が振るわれて五本の糸が閃いた。猿の頭部が賽の目に切られ、極小のブロック肉が弾け飛んだ。脳も骨も原型がない。



 仰向けに倒れた猿は痙攣を続け、続け、頭部は再生しなかった。首の断面から血が流れ続けるだけだ。眼を凝らせば、地面を跳ねる極小の脳片が見えるかもしれない。



「かかっ」



 と頭蓋骨が笑った。彼女の脳裏に、猿の魔王に殺された仲間が浮かんで消えた。仲間と云っても、墓荒らしやら強盗やらを生業とする犯罪集団だが。それでも故郷や同胞を蹂躙された憎悪はあった。



 頭蓋骨の眼窩に浮かぶ淡い光が、徐々に小さくなっていく。憎悪が消えていく。のだ。



「もう疲れた」



 彼女はそう呟いて、次の瞬間にバラバラに砕け散った。風切り音を響かせる五本の糸が、太陽を掴むように広がって、そのまま落ちた。







 今から十年前に猿の魔王は打倒された。これを成したのは糸使いの勇者ラーレンだ。七十五歳という年齢ながらその糸捌きは世界最強と謳われていた。彼に倒せなければ誰にも倒せなかっただろう。



 長い間、猿の魔王は不死身だと考えられてきた。しかし違った。頭部を細切れにすれば死ぬのだ。これを成し遂げたラーレンは、平和と引き換えに、名誉の戦死を遂げた。頭を砕かれていたことから、同士討ちだったと考えられる。



 彼の八十人の仲間は、決戦の地へたどり着く前に命を落とした。たった一人で魔王を倒したラーレンは大勇者と称えられる。惜しむらくはその映像がないことだ。だが状況から考えるに、上述の通りで間違いはないはずだ。



 猿の魔王は死後、その肉体は生き続けている。



 首から上はない。頭部は再生しないが、首から下は機能し続けているのだ。しかし傷口は塞がらない。その首の断面からは延々と血が流れ続けている。



 十年という月日は、決戦の地を鮮血で染め上げた。絶えず流れる魔王の血は染み込み、拡散し、空から見ればただ赤黒い地平が広がる。



 ゆえに猿の魔王が打倒された決戦の地は、俗に鮮血の大地と呼ばれるようになった。



 ――『よく分かる歴史・猿の魔王と糸使いの勇者』より引用。

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