第14話 憂鬱なセレナード 後編

 伊集院アキラがディバインキャッスルに来る……


 そのことを知った私はいても立ってもいられず愚行に走った。


 上司に無理を言って彼がディバインキャッスルに来る日にシフトを変えてもらうように頼んだ。社員の誰もが牛山さんの正体が伊集院アキラだとは気づいておらず、下心ありきの懇願だとは思われなかった。


 普段我を出すことのない私の性格が幸いしたのか、余程のことがあるのだろうと勘違いされシフトの変更はあっさりと受理された。


 そして、運命の日――


 …………


 あの伊集院アキラと一緒に食事ができるという幸福な時間の中でそれは起こった。


 伊集院さんがワインボトルに何かを入れるところを見てしまった。そのとき私の頭によぎったのは『睡眠薬』。


 もしかしたら伊集院さんは私を眠らせてあんなことやこんなことをするつもりなのでは――と。


 でも彼は既婚者のはずだ。それとも伊集院さんはワイドショーで取り沙汰される芸能人のように奥さんがいながらも他の女性に手を出すような不誠実な人なのだろうか?


 伊集院さんがワインを私のグラスに注ぐ。ボトルのそこには溶け切っていない錠剤が2つ沈んでいる。バレバレだ。それともバレてもお構いなしってことなのだろうか?


「どうしたの? 一緒に食事したいって言ったのはキミでしょ? 飲みなよ」


「そ、そですね――」


『よく考えてみなさい、かな子。相手はあの伊集院アキラなのよ。こんなチャンスもう二度とやってこないわよ!!』


『辞めなさいかな子! 相手は妻帯者よ。もし子どもができてしまったらどうするつもりなの!? 不倫で訴えられたら膨大な慰謝料が請求されるのよ!!』


『大丈夫よかな子。芸能人との同衾は何十億以上もの価値があるわ!!』


『ダメよかな子。意識を失っている間にヤラれてもそれは何の思い出にもならないわ!!!』


 私の中で天使と悪魔がせめぎ合う。


「どうしたの?」


 伊集院さんは甘いマスクでじっと私を見つめている。


 ――大丈夫よ……私、伊集院さんのこと大好きだもの……


 私は意を決して。グラスに注がれたワインを一気に飲み下した。


 ――――


 ディバインキャッスル製のワインは何度か飲んだことがあるけれど、いつもと違う甘ったるい香りが口の中に広がった。そしてあり得ないスピードで酔が回る。


「ぅぶぶぶ……」


 意識が朦朧とする。


「おい、どうかしたのか?」


 半ボヤけの視界の先で伊集院さんが心配そうな顔で近づいてくる。


「ふふふぅ……伊集院さんが……クスリ、盛ったくせにぃ……。あぁあああ、いいですよー。準備……でけてまぁす。脱ぐ? ぬぐぅ?」


「何を言ってるんだキミは?」


 伊集院さんが気持ち悪いものを見るような目を向け、私から離れる。


「あられぇ? なんえぇえ?」


 伊集院さんは私とアレヤコレヤするつもりで睡眠薬を盛ったのではなかったのか?


「ああぁぁああ――!!?」


 そうか……そういうことか……


 私は気づいてしまった。


 伊集院さんが私とそういうことをするつもりなら素直にお願いすればよかったのだ。そしたら私だって断らなかった。

 じゃあどうして薬に頼ったのか……

 きっと伊集院さんは私を眠らせてから他の男性客をこの部屋に呼んでアンナコトとかコンナコトをやらせるつもりだったんだ。そして当の伊集院さんは高みの見物を決め込む。私の哀れな姿を見てほくそ笑んで……


 ――そんな事あるわけない。会社のシステム上お客様が示し合わせてここに来ることはできないから。

 そうとわかっているのに、なぜか私の不安を煽るような妄想が止まらない。そう思いこむように強制されているような、脳の処理が複雑な思考を放棄し単純な思考しかできなくなるような――


 そうだ……考えてみれば私のような女が伊集院さんと閨を共に出来るはずがないではないか……


 手が自然とテーブルの上にあったナイフの柄を握っていた。最悪なことになる前になんとかしなくちゃ……


「おい! 何をするつもりだ!? やめ――。……ぐエっ――!!」


 私の突き出したナイフが彼の胸に深々と刺さる。


 彼の形相は妖のように醜く歪んでいた。これまで見てきたドラマのどのシーンよりも真に迫っている。


 ――その迫真の演技をこんな間近で見られるなんて私はなんて幸せなのだろう。


 彼はなんとか逃れようと必死にもがいてベッドの上に倒れ込んだ。


 ――――


 気がつくと伊集院さんがベッドの上で倒れていた。


「う……そ……」


 彼の胸には食事に使う銀のナイフが刺さっていた。


「伊集院さん! しっかりしてください!」


 体を揺すって呼びかけてみるけれど返事はない。


 死んでいた――


「あ……あああぁっ――!」


 私が殺した――


 大好きな彼を私が――?


 クスリの入ったワインを飲んだところまでは覚えているけどその後のことを一切覚えていなかった。


「有馬さんに事情を説明して、それで――」


 ――ダメだ。


 何よりも会社のことを一番に考える彼の性格を考えたら、こんな不祥事は絶対にあってはならない。


 私はすぐにその場から逃げ出そうとして、扉まで駆け寄ったところで「そうだ――」と思い直す。


 私はもう一度テーブルまで戻り伊集院さんが持っていたクスリを自分のポケットに仕舞う。


 私の好きな伊集院アキラは決してクスリを使って卑劣な行為をするような人ではないのだ。死んだ後だとしてもテレビや週刊誌で彼の名誉が傷つけられるのは我慢できない。


 他にはないかと彼の体もまさぐって、クスリのブリスタを発見。


 私はその中身だけを全部抜き出してポケットにしまい、パッケージはゴミ箱に捨てた。クスリは流しに捨てれば絶対に見つからない。


 あとは……彼の荷物だ。


 カバンの中にまだ沢山隠し持っているかもしれない。


 私は彼のカバンを一時的に自分の部屋に持って行くことにした。


 中身を調べてクスリの確認だけして後でもとに戻せばいい。


 この時の私はいかにして彼の名誉を守るかにばかり思考を割いていて、自分の犯した罪の重さのことなど微塵も考えていなかった。


 ――だから、バチが当たってもおかしくはなかったのだ。


 …………


 偽装工作というのだろうか?


 部屋の状態は私が逃げ出したときと変わっていた。


 それを誰がやったのかは一目瞭然。


 それをやるメリットのある人物なんてここには1人しかいないから。


 わざわざそんなことをしてくれるということは、少なくとも彼は私を警察に突き出すことはしないということだ。


 誰が犯人であってもおかしくないという状況を作り出したおかげで、私は助かったのだと安堵した。


 だけど、事はそううまく運ばないものだ。


 伊集院さんの名誉を守るためにクスリの存在を消したのに。意外なところにその痕跡が残っていた。それは江藤さんのカメラの中だ。

 事情聴取のとき彼女が言った“大きな報酬”とはきっと伊集院さんの死のことだとおもった。


 直感的にマズいと思った。


 彼女のカメラをなんとかしなければならない。牛山さんの名誉のためにも。


 このとき、私の鼻の奥で甘い香りがしたような気がした。


 …………


 私を乗せたパトカーが山道を下る。


 隣に座る警察の方が表情も変えずに淡々と誰かと電話で話をしていた。


 天知る、地知る、我知る、人知る――


 この世に隠し通すことのできる悪行は存在しないと言わんばかりに、私の行為はあっさりと暴かれた。


 探偵を名乗った鳥海さんの推理がお門違いな方向に向いていたことにすっかりと安心してしまっていたけれど、その後の展開はまるで誰かがそう仕組んでいたかのよう。


 だって、こんなにも都合よくこの場所に探偵が2人もいるなんてあり得ない。でもひとつだけ守り通すことのできた事があった。


 それは伊集院さんのクスリの事。これは私しか知らない事実で、それを誰かに話すようなことは絶対にしない。お墓まで持っていく覚悟が私にはある。


「はい……。はい。わかりました。……では、そのように……」


 警察の方は電話を切ってそれをポケットにしまった。


 そして、パトカーは何の前触れもなく停車した。


 そこは舗装されていない開けた場所だった。


 さっきまで電話をかけていた警官が車を降りると、私に車を降りるように言う。


 わけもわからずその言葉に従って外へ。


 手錠がはめられたままただ呆然と立ち尽くす私。そんな私の前に現れたのは赤いワンピースの女性だった。夏だと言うのに黒いコートを羽織っていた。


「あーあ。余計なことしてくれちゃってさー」


 その場に似つかわしくない格好の女性は苛立たしげにそう言った。


「元々畳むつもりだったとは言え、オマエのせいで段取りがメチャクチャだよ。まったくもう……」


 外見は20代前半に見える女性。ただしその喋り方はひどく幼い印象を受けた。


「あの、何のことですか?」


 状況をまったく飲み込めていない私が発した質問は無視され、


「後がつかえてんだからオマエと話してる時間なんかないの!」


 苛立ちを更につのらせた彼女がコートのポケットに突っ込んでいた手を出した。


「え?」


 その手には拳銃が握られていて、それを認識した時には銃口はもう私の額を捉えていた。


 ブシュ――


 っと音がなって、私の意識は途切れた。

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