君が「俺を殺す方法」

くにえミリセ

第1話

希望のある歌詞と、どこか切なく揺れるメロディ。若者に流行りで人気のミュージシャンが作った卒業ソング。

それが体育館に響きはじめると、俺はその場に立っていられなくなって外へ出た。


「冬賀[ふゆが]先生?大丈夫ですか?」


心配してくれた同僚の声も聞こえてないフリをして足早に部室へと戻った。


俺はそこで大きく息を吸ってゆっくり吐き、


「よく頑張った、自分。」


と自身を褒めた。


そして、これからは俺の計画、第二章が始まる。


俺が愛す、いや愛すフリをしている生徒は今、この校舎を巣立つ卒業の時を迎えている。そして今までの『禁断』が解かれるのだ。


薄紅色の花を胸に付けた彼女は今、何を考えているだろう。いや、そんなことはどうでもいい。


制服はもう要らない。第二幕の衣装は色とりどりに変わる。


幕開けにふさわしい、ぬるくて生臭い風が部室のカーテンを揺らしたー。



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二年前、俺は、数学の教師としてこの私立高校に赴任した。そこで彼女に出会った。学業、スポーツ共に名門校であるこの高校。そこに勤務することになったのは、単なる偶然ではない何かが引き寄せたからだ。


俺はその頃から教師という職業にも、生活にも何に対しても無欲だった。


そして『放送部』などという影の薄い部の顧問になった。


彼女はその放送部の部員だった。


誰からも愛され、信頼される彼女が、俺にとっては憎むべき相手であることを知ったのは

それからすぐだった。


運動部に比べ極端に少ない部員数で全学年合わせても20人くらいしかいない。


部員の生徒個票を見ていて彼女のところで手が止まった。


彼女の父親の欄に『アリス永生総合病院』の院長と記されていたからだ。


その時、決着のつかないままでくすんでいたいた俺の中の感情がメラメラと高い炎を上げた。やがてそれは、俺がこれから計画を成し遂げるまでの意欲になっていったのだ。


彼女の名前は有栖サナ[ありす さな]

あぁ、君は、真っ直ぐにエリート街道を歩んできたんだね。


《よろしく‥‥。》


俺の顔が不気味な笑顔に変わるのを俺自身がはっきりと分かった。



「えー、病気療養の和田先生の代わりにこの放送部の顧問になることになりました、冬賀隼也[ふゆがしゅんや]といいます。35歳、ひとりもんです。放送部なんてのは初めてで何も分からないですが、どうぞよろしく。」


挨拶する俺の前に集まる20人ほどの部員達。その中でひときわ目立つ彼女の姿を見つけた。


2年生になったばかりの有栖は肩より少し長めのストレートヘアで色白、整った顔立ちだった。内気そうな感じではあったけど、それは俺にとっては都合が良かった。


まずは、有栖を観察することにする。何が好きか、どんな事に興味があるのか、友人関係、性格、おっと、1番大事なのは、どんな男性に惹かれるのかってこと。そう、まずは、俺を好きになってもらう。計画の始まりだ。


俺は、分析は得意だ。まず、仕草、動作、話し方に気をつけて嫌われないように心がける。嫌われていなければ、そこから好きになってもらうのは、たやすいこと。高校2年生なんて、まだまだ子供だから。


休憩時間に有栖の前でわざと感動モノの漫画を読んでみせた。元々涙もろい性格なんで、涙くらいすぐに出てきた。


「先生?感動しちゃってる?」


有栖が食い付いてきた。


「な、泣いてなんかないわい。」


涙を拭いながら答えた。


「有栖も読んでみるか?」


「どうしようかなぁー。」


ここで漫画本を受け取ったらまんざらでもない。


「そっか。なら無理にとは言わんけど‥‥。いや、でも、この漫画、マジ、いいよ。ほんといいよ‥‥。」


少し拗ねてみせたけど逆効果だったかもしれない‥‥。


「読む!」


サッと漫画を奪って逃げて行った。


《やった‥‥》


放送部の主な活動といえば、体育祭や文化祭の放送くらいだと思っていたけど、朗読の優秀順位を争う大会、ドラマを制作して参加する大会もある。俺が顧問になってすぐ、このドラマ制作をする部員達を見守ることになった。


物語を作る、そして脚本。音響、舞台、出演者選びなど、演出も全て部員が作る。


ドラマ制作の細かな相談を受けながら、有栖の好きな俳優の話をしたり、好きな音楽に共感したりして、俺の存在感をアピールした。そのうち他の部員達より特別に有栖と親しくなっていくことに成功したのだ。


5月の終わりのある土曜日には部員達と交流を深めるための親睦会を企画した。森林公園へのピクニックだ。


部員達がそれぞれ弁当を持参。俺はコンビニでサンドウィッチをテキトーに買って行った。


「先生、侘しいですね。」


有栖が少し笑って俺に言った。


「あぁ。一人暮らしだしな、ハハッ。」


そう言って俺は有栖の反応を見た。


《今度の機会は、私が作りましょうか?》


そんなふうに言ってはくれないかと期待した。けれど有栖は、ニコッと微笑んだすぐ後


「いただきます。」


と手を合わせ、箸を掴んだ。


《焦らずゆっくり俺に興味を持ってもらうよ‥‥。》


俺は、何くわぬ顔でサンドウィッチにかぶりついた。



6月の中旬には、3年生が引退した後の部長、副部長を決めるため、3年の部員と俺で

話し合うことになった。俺の心は、もう決まってる。もちろん、有栖が部長だ。副部長は、有栖とはあまり仲が良くない部員を選ぶ。そうだな、舞野香[まいのかおり]

あたりがいい。俺は2人を強く推した。



++++++++++



「冬賀先生?今月末の大会で遠征するしおりを作成するんですが、出発当日の集合場所で去年、トラブルがあって‥‥。」


「あー、有栖、うん?どうした?」


思惑通りだった。有栖が部長としての仕事を相談する時、副部長よりも俺を頼ってくるように仕向けたのだ。案の定それから以前にも増して些細なことでも相談してくれるようになった。


有栖の話を真摯に聞くようにこころがけた。

そして懸命に考えて真剣に答える。


そのうち有栖は教師というものとは違う別の角度から俺を見てくれるようになった。


夏休みに入る直前のことだった。

部室に入る手前の廊下で


「先生、はいっ!これ。」


有栖が何やら俺の胸に押し付けた。茶色の味気ない紙袋に入った弁当だった。


「えっ?」


「早くしまって。誰にも見られないように早く、早く!」


「あっ、あ、うん。」


俺はとっさに、持っていたドラマの制作台本でそれを隠した。


有栖はその場でくるっと回って廊下を小走りに戻って行った。その時、彼女の髪がふわっと浮いた。


シャンプーの香りがした。いや、俺の嫌いな匂いだ。


弁当は中身を見てから、全てビニール袋に無造作に入れた。それをカバンの奥に軽く投げ入れた。


しばらくたって有栖にメールをした。


俺〈〈むっちゃ、美味しかったよ。卵焼き、

キレイに焼けてるね。わかたけ煮なんかサイコー!ありがとう。嬉しいよ‥‥。〉〉


有栖とはわざとラインは使用せず、キャリアメールでやりとりをしている。


画面のこっち側の俺は、捨てた弁当の感想に無表情で甘い言葉を並べた。


有栖が返信して来た。


有栖〈〈先生、私、朝、何時に起きたと思う?

5時だよ!あっ、でも、もうお日様は出てた。夏の太陽は、早起きだね。

先生が卵焼きの味は、甘いのが

好きって言ってたから、思いっきり甘くしたよ。大丈夫だった?〉〉


有栖はこの学校のどこからメールしてるのだろう。近くにいるのにメールでやりとりをする俺と生徒。ふんっ、バカげてる。


俺〈〈ちょうどいい味だったよ。今度は、だし巻きも食べてみたいな。有栖はきっといいお嫁さんになるね。あっ、今日、部活遅れんなよ!〉〉


有栖〈〈ねぇ、先生?私、今日は何点?昨日よりも今日の方が私の事好き?〉〉


俺〈〈バカタレ!明日の有栖の方がもっと好きだよ。〉〉


有栖〈〈りょーかいでーす。笑〉〉


有栖が俺の連絡先を知りたいと言って来た時

有栖は言った。ラインは、バレやすいから、キャリアメールを教えてと。

俺に迷惑かけないようにしたいと。

禁断がバレて先生が先生でいられなくなったら、嫌だからと。


映画やドラマみたいな恋物語。

俺に別の目的があることを除いては‥‥。


部活中にいつもアイコンタクトで互いを確かめる。

その後下を向いて照れたように下唇を噛む。

有栖の癖だ。


誰も見てないと思ってた。

だが今日、副部長の舞野が有栖を不穏な眼差しで見ている事に気づいた。


《まさか、舞野、俺たちのこと気が付いたり?‥‥なんとかしなきゃ。》



++++++++++



二階建てでヨンコイチの小さなアパート。

部屋に入っても誰もいない。


暗い部屋に


『ただいま。』


と言って靴を脱ぐ。

電気をつけ、カバンと鍵をテーブルに置くと写真に微笑んだ。


『また、一日が終わったよ。会いたいよ‥‥。』


カーテンを開けて窓を開けた。湿った風が入ってきた。


《生きているのは死ぬためだ》


俺はボソッとつぶやいた。


冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を飲んだ。味がしないな。


2日前、スーパーで目についた真っ赤なトマト。冷蔵庫に転がっている。

掴んでかじった。


そしてスマホを手にとった。


俺〈〈有栖?もう、家か?今日、舞野がおまえを見てた。なんかあまり感じの良くない顔をしていたよ。まさか、俺たちのこと、感づいたとか?俺、心配になってきた。もうすぐ、大会で東京に宿泊だろ?やばいな。どうする?〉〉


送信すると、すぐに返信が返ってきた。


有栖〈〈学校の帰りに、香が話しかけてきたの。

(冬賀先生の事、好きなの?)って聞いてきた。とりあえず、(私は好きだけど冬賀先生は

相手にしてないよ。)って言ってある。

大丈夫、心配しないで。香のことは、任せて。先生、大好きだよ。だから大丈夫。〉〉


俺〈〈俺も有栖のこと、大好きだよ。卒業まで、あと一年八ヶ月だな。たいせつにする。

待ち遠しいね。〉〉


有栖のことだ。アイツに任せておけば俺の悪いようにはならないだろうさ‥‥。



++++++++++



俺が初めて有栖に触れたのはこの東京遠征の宿泊所だった。世の中の楽しんでる奴らがよく言う『恋人繋ぎ』ってやつ。指と指を絡ませる。それ以上は、何もしていない。しかし恋とやらに初心者の彼女にとっては、すごい刺激になってるはずだ。


「先生?このまま時が止まればいいのにね。」


「しっ!止めよう。5秒だけ。」


心の中で静かに数を数えた。


そのあと、2人で声をひそめて笑い合った。

暗く寂しい階段の踊り場。高い場所にある小さな窓から月の明かりがもれていた。


そういえば舞野はもう、俺と有栖のどうのこうのを疑う様子はなくなっている。


どうやって俺達への疑惑を取り払ったかというと、有栖は舞野に恋という物を与え、俺と自分に目がいかぬよう細工をしたという。舞野が前から気になっているクラスメートを利用し、言葉巧みに操り見事に2人をつきあわせることに成功したと。


舞野が誰かと話す声がする。


{うん、今、部屋に戻って寝るとこだよ。}


{うん、やだぁー。私もだよ。}


{そう。帰ったらね。あっ、お土産、買ってくね。楽しみにしててね。じゃぁ。}


舞野が耳からスマホをはずした。

例の成立ホヤホヤの彼氏か。

商品に白い布がかけられた売店の前で舞野が

スマホを胸に、にやけていた。


青春ってやつだな。俺にもあった。

大学時代に本気で惚れた女性。

責任感が人一倍あってホントは弱いくせに心が強いそぶりをする。そのくせやたら泣き虫で、泣いてるとこ人に見られるのを嫌がり、表情を変えずに目から涙だけ出てる。


俺は、そんな彼女が大好きでたまらなかった。俺にだけは、弱いとこも、辛いとこもなんでもそのまま見せてくれと、告白した。

俺が大学二年の夏だった。


麻美[あさみ]。俺もおまえに似てきたよ、

涙が出て止まらない。そして麻美にうりふたつの愛らしい女の子、柚良[ゆら]‥‥。


「せーんせ!枕投げでもやりまひょうやぁ!」


「あれ?泣いてる?先生?」


「アホ、泣いてないよ。夜空を見上げ、しみじみぃーってなってただけだ!ほら、おまえ達、枕投げとか、小学生じゃあるまいし、早く寝ろ。明日、早いぞ。優勝狙うんだろ?

あくびばっかじゃ、審査員に心証を悪くするぞ。ほれ、ほれ、部屋へ帰る!ほれ、早く!」


やたらとテンションの高い部員達を追い立てて、俺も副顧問の先生との2人部屋に戻った。


布団に転がり天井を見上げたら、また涙がでてきそうになった。


副顧問に見られたら、また面倒くさい。気持ちを切り替えようと寝返りを打つと副顧問はもうぐっすり寝ていた。布団に入って秒単位で眠れるってこりゃ、もう特技だな。

数分後には、いびきをかきはじめた。


奥さん、大変だな。毎日こんなすごいいびき聞かされてんのか‥‥。


いや、俺にとっちゃ、それも羨ましい事だった。



++++++++++



大会の結果を持って地元へと戻る。

それぞれの人生の思い出と一緒に帰る。


俺にとっちゃ、ただの記録にしか過ぎないが。


辛い事、悲しい事は時が解決してくれる、とかよく人は言う。日にち薬なんて言葉もあるけど、俺は、どうやらその薬は効かないらしい。相変わらず俺の心は空っぽで死ぬために生きていた。



++++++++++



有栖や、舞野が3年生になる前のある冬の日、ショッピングモールで小学生が売り物のピアノに触っていた。5.6年生くらいだろうかその少年は、ピアノの前でフゥッーと息を吐くと、その後、なんとも美しいメロディーのワンフレーズを見事なまでに奏でて見せた。近くを歩く人達が振り返り立ち止まる。初老の男性が大きく拍手をした。

少年は、ハッと我に返って恥ずかしそうにあたりを見回して、母親らしき人の元へと駆け寄っていった。


なんだか、聴いた事のあるフレーズ。

なんだろう。甘く柔らかい思い出?‥‥。


それから俺は偶然にもその1ヶ月後にまた少年に会ったのだ。前日はいつに無く雪がよく降った。駅へと向かう道の途中で少し坂道になった所があるのだが、そこを足元を見ながらゆっくり歩いていた少年が俺の目の前で転んだ。溶けかけてまた凍った雪に滑ったのだ。

思わず駆け寄った俺は、その少年がショッピングモールでピアノを弾いたその子だとすぐにわかった。


「大丈夫?」


「はい、ありがとうございます。」


「君、1ヶ月くらい前、ショッピングモールでピアノ弾いていた子だよね?

あのワンフレーズ、なんて曲?」


「あー、『星に願いを』です。ハーラインの作曲です。」


星にねが‥‥。俺は、その場で固まった。


「君、名前は?」


「小田拓真[おだたくま]といいます。」

オダタクマ‥‥。聞き覚えのある名前だ。


「ひとりで帰れるかな?俺、ちょっと急用思い出しちゃったんで行くよ?」


「あ、あの、ありがとうございました。」


俺は振り向いて少年に軽く手を振った。


『星に願いを』ってあの曲、柚良が弾いてた!

俺は、今ある力を全部出し切って走った。

家のドアを開けると寝室の押入れへと息を切らして向かった。見るのが辛くて押入れのダンボールに詰めた、柚良のピアノ教則本。

赤丸、花丸、可愛いシールが貼ってある。


柚良‥‥。柚良‥‥。君が今、天から降りてここにいるなら、この曲を弾いてくれ。

あぁ‥‥。


『まりおかピアノ教室 発表会』のプログラムがはらりと落ちた。


連弾部門 奏者 小学3年 小田拓真。

小学1年 崎田真子 。

曲名『星に願いを』


崎田真子?小田拓真との連弾は、うちの娘じゃなかったのか?


タクマくんと連弾をすると張り切っていた。『星に願いを』を何度も同じところを間違えてその度に「あっ、」「あっ、」とため息を漏らし練習していた‥‥。俺の淡い記憶が蘇る。


ピアノが大好きだった。妻の麻美によく似た瞳の綺麗な色白の子だった。柚良とは、些細なことでケンカしたままだった。俺、嫌われたまんま柚良を天国に逝かしちゃった。


俺は2人が愛おしくてたまらなかった。眠たくなるとすぐ俺に寄ってきて肩や膝を枕代わりにする、2人もよく似て寝顔もそっくりだった。

麻美‥‥。大学の時から俺の心のど真ん中にいつも居座っていた君。もう、どこにもいない。そしてその君の分身、柚良。2人を守りたかった。

その温もりを大切な温もりを有栖一家が!!


有栖一家が!!


絶対に許さない。『死』よりも辛い償いをさせてやる。


もう決して聴く事の出来ない愛する娘の奏でる音‥‥。愛しい妻の笑い声。


今までより一層、深い憎しみが部屋を覆った。



++++++++++



抗不安薬が切れそうだ。辛い時は、これがないと前へ進めない。


いつもの診療内科へ行った。

辛い。麻美と柚良のいない生活。いくら日にちが経とうとも悲しみは癒えない。処方された薬をどれだけ飲もうとも一時的に落ち着くだけ‥‥。


有栖達が3年生になってしばらく経った頃

俺は、体調を崩した。学校を3日も休んだ。

風邪をこじらせ寝込み、熱がひいた後も頭痛がした。時折吐き気も襲ってくる。何もする気になれずにいた。薄暗いアパートの部屋で

深い孤独を感じ叫び出しそうだった。


有栖が何通もメールをくれてる。返信する気にもなれなかった。


休んでから3日目の夕方、誰かがドアのブザーを押した。居留守をした。しばらくして声が聞こえた。


「先生?いるの?有栖です。」


《えっ?有栖?学校を卒業するまではうちに来るなとあれほど約束したのに‥‥》


「有栖?約束しただろ?帰ってくれ。」


「先生?声が聞けた‥‥。よかった‥‥。辛かったね。1人で耐えてたんだね。」


「来ちゃダメだ!」


「分かってる。」


しばらく無言で何十秒か経ったと思う、


〈ガサッ!〉

何かが落ちる音がして、その直後ドンッと大きく、にぶい音がした。


「有栖?どうした?」


俺は思わずドアを開けてしまった。


白いレジ袋が落ちていた。その中身が飛び出して散乱していた。傍らに有栖がうなだれたままその場にへたり込んでいた。


「大丈夫か?」


「ごめんなさい、先生。私、帰らなきゃ。約束だもん。先生を困らせたらダメだよね。」


有栖の頬が濡れていた。俺の顔を見てすぐに目を伏せた。それを見た俺は、


「入れよ。」


有栖の腕を掴み立ち上がらせ、奥へと誘導した。


ドアの外に落ちたレジ袋を後から拾いに行った。市販の風邪薬と、みかんの缶詰。林檎、スポーツドリンク、ごはんの真空パック‥‥。アイスクリームは溶けてベチョベチョになっていた。


ふふっ、典型的な病人グッズだ。


「有栖?あんがとな。心配してくれて嬉しいよ。」


「先生、ごめんなさい‥‥。」


「もう、顔上げて俺を見てくれ。」


俺の顔をゆっくりと見上げる彼女の表情は

不覚にも俺の心を溶かした。頑なな塊が崩れそうになったのだ。唇さえも重ねてしまいそうだった。


けれど‥‥。


目の前に、若く美しい少女がいて、その少女は俺に好意を寄せている、そんな出来上がった状況にさえも俺を立ち止まらせる、麻美と柚良の影。何をしていても2人のことを忘れた事はない。


いや、俺は、今、なんなくこの状況を受けいれ、彼女の望み通りに接することが正解なのか‥‥。


「先生?しばらく居ていいの?」


「あっ、あぁ。」


彼女は、少し安らぎ、そして微笑んだ。


「あのね、やっぱ、熱がある時ってさ、お粥と、フルーツじゃん。買ってきたよ。てかさ、思ったより元気そうで安心したよ。」


「あぁ。」


「先生、さっきから、『あぁ、』ばっかじゃん。あっ、台所借りるね。冷蔵庫‥‥。

えっ?なんもないじゃん!」


「俺、少し横になるよ、まだ少し頭痛もするし‥‥。」


「うん。」


俺は、万年床に横たわった。

有栖が台所に立っている。長めでサラサラの黒髪をゴムで縛り、その清楚な感じが、また俺を惑わすのだ。


「先生?すりすり器ある?」


微睡む俺に楽しそうに有栖が聞いた。


「すりすり器?何?すりすり器って。」


「ほら、こうやってシュッ、シュッ、ってするやつ。」


有栖は、身振り手振りで説明する。


「あ、おろし器か?あんま、使わないからなぁ、そんなもん、あったっけかな‥‥。」


「あっ!あった!」


有栖が屈託のない明るい声で叫んだ。


「敢えて林檎の皮を剥かずにすりすりしまーす。林檎の皮には、ポリフェノールってのがあってね、身体にいいの!」


「剥けないんじゃなくてか?」


俺の冗談ぽい問いに有栖は可愛いげに口を尖らせた。


「先生、出来たよ。」


有栖はテーブルに擦りたての林檎を置き、寝床にいる俺に近づいてきた。そして一緒に横たわり、こう言った。


「ずっとこうしていたい。先生の事、大好き。」


そのひたむきな表情に、俺はとっさに顔を背けて、ただ指を絡ませた。


頭の後ろから有栖が


「先生?こっち向いてよ。」


と言う。背中を抱きしめられた。


「風邪、移っちゃうだろ?」


俺は、本音を隠してそう答えた。‥‥。

本音?本音は、はたして、本音は、彼女を憎んでいるのか、そうでないのか、まさか愛してしまったのか、俺自身、わからなくなっていた。


テーブルの上の擦りおろし林檎が茶色に変色していた。俺は、それを一口含み、


「有栖、ありがとう、美味いよ。」


これは本当に本音だっただろう。



++++++++++



有栖は、テーブルの上に両肘をついて口元に両手を持っていき今どきの女子高生がいかにもしそうなポーズをしてる。じっと俺を観察している。擦りおろし林檎をゆっくり口に運ぶ様をじっと見ている。


「何?そんなにじっと見るなよ、食べにくいじゃんか!」


「分かった。あっち行ってるね。」


にやけたまま席を立った。辺りををぐるりと見回し、


「先生?こっちの部屋、開けていい?」


「あぁ、」


何気に俺は返事をしてしまった。


《あっ!ダメだ!そっちの部屋には写真が‥‥。》


油断していた。もう、遅かった。

有栖は、すぐにそれを見つけた。麻美と俺の真ん中に柚良がいるありきたりな家族写真。

アパートに有栖が来ることなんてないと思っていたから‥‥。不覚だった。


「えっ?この人達って?先生の‥‥?

独身じゃなかったの?独りもんだって言ってたじゃんか!」


「‥‥‥‥。いないよ。今は、ふたりとも、もういない。」


「いない?別れたってこと?」


「死んだんだ。君の学校に赴任する、1年前の事だ。」


「そうだったんだ。‥‥。知らなくてごめんなさい‥‥。きょ、今日は、もう、帰るね。」


「あ、有栖?なんか、ごめんな。」


「またね、先生。」


「あぁ。」


有栖が帰った後の部屋が静かで静かすぎて、しばらく気が抜けてしぼんだ風船のようになっていた。


あぁー!あさみっー!ゆーらっー!


《いずれは、わかる事さ、いや、言わなきゃいけない。愛するべき麻美と柚良のためにも‥‥。》



++++++++++



有栖や舞野など、3年生が部活を引退し、

受験一色になってきた頃、学校である事件が起こった。


1人の男子生徒が俺の数学の授業中にイライラと貧乏ゆすりをしていた。特に気にすることもなくやり過ごしたが、突然、机を拳で何回も叩きつけて怒鳴り始めた。


「僕は、満点のはずだった!」


そいつは急に席を立ってこう続けた。


「分かってた!ちゃんと、分かってたのに!」


机を蹴飛ばし更にこう続けた。


「ただの凡ミスだろ?やり方は理解してる。

計算ミスなんて誰にでもあるじゃないか!

何故そこんとこ考慮してくれない?たかが学校の中間テストじゃん!!満点じゃなきゃ、満点じゃなきゃ、満点じゃなきゃ、父さんに‥‥。」


最後の方の言葉は、ブツブツと小さく低い声で聞き取れない。そいつは、ブツブツを続けながら、カバンから、あるものを取り出した。ダンボールに入った何か。何!?


《ば、爆弾?まさかな、えっ?バッテリー?車のバッテリーだ!な、なんで?コイツ、どうかしてる。》


「ばらまいてやるっ!!」


叫んだかと思うとバッテリーの電解液の入った容器を取り出した。


『危険』と赤文字で、でかでかと書かれている。


《ヤ、ヤバイ!!》


「みんな離れろっ!!希硫酸だっ!!」


俺は、とっさに叫んだ。


「ギャーっ!!」


生徒達が一斉に教室の隅に寄った。

その中でたった一人こっちに来たのが有栖だった。そして言った。


「高橋君!やめて!」


「高橋、落ち着け!」


俺も高橋をなだめた。だが、高橋は振り返って俺に向けていた希硫酸を有栖に向けた。


「有栖サナ!僕、お前嫌いだ!いい子ちゃんぶって、お嬢さん気取り、ちょっと可愛いからって見下しやがって!!」


《電解液は希硫酸。バッテリー液って確か35%くらいに薄めてるって聞いたことある。それでも目に入ったら失明もありうる。服まで溶かすんだぜ、皮膚についたら、火傷だ。皮膚が溶ける。なんだかよく分からんけど、ヤバイよ、コイツ、イカれてる。

勉強勉強で頭、おかしくなったんじやないのか!》


ニヤけた表情で高橋は鼻息荒く呼吸している。


《まてよ、うろ覚えだけど電解液って蓋を開けてもドバッとは出ない仕組みになってるはず‥‥。脅しか?ただのパフォーマンスか?でも、こんなことしたって、テストが満点に返り咲くなんてことないだろ?馬鹿だ!コイツ!》


なんだか俺は、そんなことを考えてるうちに

アホらしくなって、有栖の前で有栖の盾になり高橋の腕を捻じ上げていた。


「痛いよ!やめろ!僕は、悪くない。何もしてない。ただのバッテリーだよ。何が悪い?は、な、せ、よっ!!」


喚きちらす高橋から電解液を奪い取った時、両隣のクラスの教師が入ってきた。


「何してんだっ?!」


両隣の教師が2人で高橋を囲み職員室へと連れて行った。


有栖は膝からガクンと座り込んだ。



++++++++++



なんだか、とんでもない日だった。


『麻美、柚良、今日さぁ、馬鹿な奴がさ、教室で‥‥』


写真に向かって話しかけた時、電話が鳴った。有栖からだった。


俺{もしもし?有栖か?}


有栖{うん、先生、大丈夫だった?}


俺{君こそ、あれから、保健室行ったって聞いたけど?}


有栖{全然。大丈夫だよ。香がね、様子を見に来てくれたの。あっ、先生は?}


俺{俺も、全然大丈夫。そっか、舞野、心配してくれたんだ。あー、しっかし、高橋のやつは、イカれてる。}


有栖{教師がそんなこと言っていいの?}


俺{今は、教師じゃないよ。‥‥だろ?}


有栖{うん。}


俺{有栖、偉かったね。}


有栖{ん?何?}


俺{だってさ、クラスの奴らみんなが、一斉に我先にと、逃げる中で君だけだよ、前に出て高橋と向き合ってさ、止めようとしたの。クラスのヒーローだな。有栖は。}


有栖{違う!}


俺{えっ?}


有栖{だ、だって‥‥。先生が‥‥。先生が怪我でもしたらって思ったら、怖かった。クラスのヒーローなんかじゃなくていい。

私は、先生の‥‥ただ一人、先生だけのヒーローになりたかったの!}


俺{‥‥‥‥}


有栖{でもね、私、高橋君の気持ち、分からなくもないんだぁ。高橋君のお父さん、官僚でしょ、色々あるんだと思うんだよね。}


俺{‥‥‥‥}


有栖{先生?ねぇ、聞いてる?}


俺{あっ、あぁ。}


有栖{出たぁー。先生の『あぁ。』じゃぁ、またね。先生、おやすみなさい。}


俺{あっ、あぁ、おやすみ。}


しばらく俺は、スマホを持ったままボーっとしていた。有栖‥‥。俺は、君にそこまで想われていいのか?いや、いいんだ、いいんだ。計画通りじゃないか。



+++++++++++



この高校は、進学校で生徒達は、皆、自分の人生を賭けて必死に勉強する。有栖ももちろんその中の一人だ。


そしてこの希硫酸事件からの俺と有栖は、特に何ごともなく淡々と時が流れた。


そんな中、俺のアパートに一通の手紙が転送されて来た。『崎田真子の母』からだった。

俺が家族3人で住んでいたマンションからの転送だ。今頃になって何でだろうと思いながら封を開けた。


〔冬賀柚良ちゃんへ

あの時はありがとう。

おばちゃん、北海道から戻ってまた柚良ちゃん達と同じ街で暮らすことになりました。柚良ちゃんと、柚良ちゃんのママにお礼がしたくてお手紙書きました。会ってくれるかな。


真子は、長く入院してたけどね、5ヶ月前に亡くなりました。柚良ちゃんのピアノ聴きたいな。柚良ちゃんがあの連弾を真子に譲ってくれたおかげで本当にいい思い出が出来たって喜んでたのよ‥‥。〕


連弾を譲る?

そうか、だからあのプログラムに小田拓真との連弾相手が柚良ではなく、崎田真子になってたのか。

俺は、この手紙の差出人に会わなきゃいけないと思った。会って聞かなければ。俺が知らなかった、麻美と柚良の事を確かめなければ。そして麻美にも柚良にも、もう会うことができないんだと告げなければいけない。



+++++++++



「冬賀さんですか?」


うちのアパートから、少し離れた街のカフェで待ち合わせた。数人のビジネスマンがパソコンを広げ指を器用に動かしている。

静か過ぎない店内が丁度いい。


「はい、冬賀隼也です。」


「はじめまして。崎田真子の母、崎田道子[さきたみちこ]です。」


「柚良ちゃんのお父様、きょうは、何故お父様おひとりで?柚良ちゃんと麻美さんは‥‥?」


「まぁ、座ってください。」


しばらくして店員がおしぼりと水を運んできた。


「ホットで」


落ち着いた口調で注文をした道子に俺は言った。


「二人とも死にました。3年になります。」


「えっ?!‥‥。」


「‥‥‥‥。」


「麻美も柚良も俺にとって、全てでした。

今、抜け殻みたいに暮らしています。

今日は、俺が知らない麻美と柚良の事を教えて欲しくてお呼びしました。」


「あ、あ、あ、な、なんてお悔やみ申し上げたらいいのでしょう。私は、お二人に改めてお礼を言いたくて‥‥。」


「何故!」


「えっ?」


「何故、柚良は、発表会で小田くんと連弾をしなかったんでしょう?何故、あなたのお子さんである真子ちゃんに譲ったんでしょうか?」


「‥‥当時、うちの娘は、心臓を患っていました。北海道の大きな病院で手術を受けるために入院することが決まっていたんです。


簡単な手術ではありませんでした。つらい胸の内を麻美さんによく聞いてもらっていました。たぶん柚良ちゃんは麻美さんから真子の入院の事を聞いたんだと思います。


真子が小田くんと連弾するのを強く望んでいたので、優しい柚良ちゃんは真子に譲ってくれたんです。」


「俺、小田くんのピアノ、聴いた事があるんです。ショッピングモールで商品のピアノに触って『星に願いを』のワンフレーズをサラッと‥‥。なんだか心に響くものがありました。」


「そうなんですか、小田くんは、ピアニストの小田最造[おださいぞう]の息子さんです。誰もが皆、小田くんとの連弾を夢見ていました。」


「あ、あの子、ピアニストの‥‥。どうりで上手いわけだ。ほんとは、うちの柚良が連弾するはずだったんですね‥‥。」


「はい、本当にありがとうございました‥‥。」


「いえ。真子ちゃんが喜んでくれたのならそれでいいです。」


「真子は、最期に柚良ちゃんの優しい心をお土産に旅立ちました。もう一度、ちゃんとお礼が言いたかったんですが、今になってしまいごめんなさい。」


「真子ちゃんの病気、大変だったんですね。」


「はい、とても難しい病気で何人もの医師に匙を投げられました。

北海道には心臓病の権威の先生が居て、その先生なら助けてくれるのではないかと訪ねてみましたが先生は、とても忙しくて治療を受けたい患者さんが何百人も溢れているほどの名医でした。

ですが、そんな腕のいい医師に治療していただけることになったんです。

私と真子は、北海道へと入院準備をして向かいました。」


「そんなすごい先生が何故‥‥?」


「あっ!そ、それは‥‥。」


「‥‥‥‥‥。」


「話していただけませんか?」


「‥‥‥私の主人は医師でアリス病院に勤務して‥‥」


「ア、ア、アリス?!」


「はい、アリス永生総合病院です。」


「ま、まさか、崎田ってあの、崎田?」


「ご存知なんですか?」


「当時の医師だ!」


「当時?」


「あ、あさ‥‥‥み‥‥‥麻美とゆ、ゆら‥‥柚良が大怪我をして運ばれた時、当直医だった当時の‥‥‥。」


「えっ!ま、まさか‥‥!!あの時のおふたりが!!

主人に聞いた事があります。院長に指示され、無理矢理転院させてしまったと‥‥。


私は、当時、もうアリスの看護師を辞め、真子を連れて北海道へ行っていたのですが、

その話は、泣きながら主人が電話で話してくれました。今でも、よく覚えています。」


「看護師?あんた、看護師してたのか?

あっ、ごめん、『あんた』だなんて‥‥。」


「いえ、あんた以下です。私達夫婦は。

‥‥‥。

アリス院長がその北海道の名医に口を利いてくれたんです。だから、真子は、優先的に心臓の権威であるその先生の治療を受ける事が出来たんです‥‥。でも、それからの院長は、事あるごとに、主人を自分の思い通りに操った‥‥。逆らうと真子が北海道で治療を受けられなくなるよ、と脅されました。‥‥‥。従うしかありませんでした。」


「クソっ!どこまで汚い奴なんだ!有栖浩介の野郎!」


「ほ、本当にごめんなさい。許される訳ありません。許されるわけありません。‥‥許されるわけ‥‥‥。うぅっ、‥‥。」


「もう。いい!あんたも被害者だ。

‥‥。手を組まないか?」


「えっ?手を組むって?どういう意味で‥‥」


俺は、席を立った。帰りぎわに道子に小さく耳打ちした。


「復讐してやるよ‥‥。」



++++++++++



3年前のあの日‥‥。


あの日は、うだるような暑い夏だった。

夜になっても湿度が高く、柚良がコーラを欲しがった。


麻美は、散歩がてらにと言い、柚良を連れてコンビニへ行った。そしてあの事故に‥‥。


路上で停車していたトラックが急に動き出した。すぐ前に柚良がいる事を知らずに発進したんだ。


柚良を助けようと動いているトラックに突っ込んでいった麻美もまた犠牲になった。


トラックの運転手は、2人を巻き込んだまま十数メートルも走った‥‥。


俺が行けば良かった。何千回、何万回と後悔してもまた後悔した。


俺が警察から連絡を受けてアリス永生総合病院へと着いた時、麻美と柚良は、ひどい状態でまともに見ることが出来なかった。


そんな瀕死の状態なのに誰もが耳を疑うことを聞かされた。


「すみません。おふたりを診ることが出来なくなりました。救急車を手配してます。違う病院へお願いします。」


崎田だった。


言葉を詰まらせ、泣いているようだったが、そんなことはどうでもいい。何故、一度受け入れを承諾しておきながら、他へ行けと言うのか訳が分からなかった。


「どういうことですかっ!!」


くらいのことは怒鳴ったはずだ。しかしそんな問答で時間を使うより、まず麻美と柚良を医者に診せないといけない。

俺は、すぐ救急車に乗り込もうと歩き出した時、アリス院長の声が聞こえたんだ。


「僕のひとり娘がね、急性虫垂炎らしい。1週間後に大事な試験があってね、急だけど手術頼むよ。今日、何故かうち、スタッフが手薄なのね、


さっき搬送された事故の患者さんね、ここで死なれたら、困るのよね、今、この病院、大事な時だからさ。家内もね、くれぐれもよろしくってさ。っねっ。」


軽く崎田の肩を叩いた。

忘れもしない。クソ野郎の言葉。この病院の院長、有栖浩介。有栖サナの父親だ。


しかも虫垂炎って盲腸だろ。自分の私利私欲や我が娘可愛いさに瀕死の麻美と柚良を見殺しにしやがった。便器にへばりついてる乾いたクソほどの価値もない。クソよりもクソ。


あの時、転院させず、すぐに処置をしてくれたら、助かったんだ。たらい回しの末に‥‥。


でもその時は、まさか本当にふたりが逝ってしまうなんて思っていなかった‥‥。



++++++++++



崎田道子があの崎田と夫婦だったなんて‥‥。どこにでもいそうな名前だし、まさかな、と頭をかすめが、さほど気に止めなかった。

これはもう、麻美と柚良が俺に無念を晴らしてくれと言っているとしか思えない。分かってるよ。


一家まるごと一生つきまとう苦痛を味あわせてやる。


アパートの中で1人、俺は、改めて誓った。


冷蔵庫の中は、今日も気の利いたものなど何もない。


ふたりがいた頃は、冷蔵庫はいつもたくさんの食材が入っていた。時々、俺が飯を作ってた。


麻美は


「今日は何?」


と聞く。


俺は、


「チャーハンだよ。」


と言う。


麻美は


「あっ、私、今それが食べたいと思ってたの。」


何を作っても、必ずそう言った麻美。


そんな可愛い嘘ってあるか。


柚良も麻美をまねして、言うようになった。


「やったぁー!」


と、ふたりが顔を合わして微笑む姿は、この胸の中にいつでも取り出せるように大事にしまってある。


++++++++++



有栖を含む3年生の生徒達は皆が受験という壁に向かっていた。バッテリー希硫酸事件を起こした高橋もまた、その壁を必死に登ろうと頭から煙が出るくらいの 勉強をしていた。騒ぎを起こした事で何か吐きだす事が出来たのかは分からない。だが、あれからはおとなしくしていた。


生徒達は夢を詰め込んだカバンを先に壁の向こう側に投げ込んで、後から必死に壁をよじ登っていた。


大学入試センター試験。勝負の時が来て、それぞれの思いと共に終わった。


有栖は、大学入試センター試験の自己採点も好調。


卒業式を迎えた。


俺は、大きく息を吸ってゆっくり吐き、


「よく頑張った、自分。」


と自身を褒めた。


さあ、計画、第ニ章の始まりだ。



++++++++++

++++++++++

++++++++++



有栖は、センターの自己採点で好調だからと気を抜くこともなく、俺へのメールも電話もほとんどないくらい必死に未来へと目を向けていた。


そして目指す大学の医学部を見事に通った。


「有栖、おめでとう。」


そう言った俺に有栖は瞳を潤ませた。


「お祝い、何が欲しい?」


俺が問うと何も言わず、有栖は俺の胸で声を上げて泣いた。力強く俺に抱きついた。


苦しかった‥‥。


抱きしめ返した。そして教師と生徒ではなく、ひとりの男と女として初めて、そしてゆっくりと唇を重ね合った。



++++++++++



「隼也さん、早くぅー。こっちだよ。」


迷子になりそうなくらいの巨大なホームセンターで2人きりで歩いた。


紺色で花柄、長めのスカートと、白いブラウス。もう制服ではない。堂々と歩いた。


軽い足取りであちこち歩き回る有栖に


「サナ、もうさ、ちょっとどっかに座ろうよ‥‥。俺、ちょい、しんどぃ。」


「食器だけ一緒に見て。そしたら

座ろう。ねっ、おじさん(?)」


「あ、あぁ。」


「カンパーイ!‥‥。なぁんてね。

いっただきまーす!なぁんてね。

お紅茶でございます。ご主人様。なぁんてね。」


有栖は、グラスや、お茶碗、箸、コーヒーカップなどあらゆるものを手に取って楽しそうに笑った。


「隼也さん。楽しいね。最高だね。幸せだよ。私。」


「あ、あぁ。」


「あぁじゃないの、それ、言わないの!」


「あ、あぁ。」


それから2人で長椅子に腰を下ろした。


「サナ?」


「何?」


「大学は、どう?楽しい?

イケメン、いっぱいいる?」


「やだ、隼也さん、ヤキモチ?」


「ンなんじゃないさ。楽しいかって聞いてんの!」


「うん。楽しいよ。2番目に。」


「2番目?」


「1番目は、誰かさんといる時だからね。

おじさん!」


「おじさん‥‥。お、俺?‥‥俺か。」


「本当はさ、田舎の大学でよかったんだ。

そしたら、一人暮らしできるでしょ。門限もないし、自由きまま。だけどパパは、絶対許してくれない。自宅から通える範囲じゃないとダメだって。

ここは、都会で便利だけど、時々、息つまるよね。」


「田舎だったら、そうそう会えないぞ?」


「あっ。そうだね。そりゃ、やだな。」


「アホ。」


良かった。まだ俺を想ってくれてる‥‥。



++++++++++



崎田道子に連絡をした。


人通りが少なくて、防犯カメラの一切ないある川沿いに崎田道子をよんだ。


「あんた、この街に戻って、また看護師やるって言ってたよな?どこで勤務してる?」


道子は、結構大きな救急病院にいるという。


「俺は、妻と娘の仇を取る。あんただってあのクソ野郎に脅され、旦那をいいように利用され続け、支配された挙げ句、娘は、助からなかった‥‥。同志さ。頼みがあるんだ。

ある薬剤を盗ってきてほしい‥‥。」


そう言った俺に道子は、動揺を隠しきれない様子だった。


俺は、麻美と柚良がいなくなってから、何もする気になれなかった。訴えを起こそうとも考えた。だがクソ野郎は、「当時のスタッフの手薄」を盾に正当性を主張し、俺は、行き場を失った。

その後、有栖サナと出会ってからは、ある意味、力が湧いたんだ。死ぬまで生きてやると。ずっと考えてた。有栖一家が死ぬよりも辛いこと。一生背負わせてやると。


俺の計画を全て崎田道子に話した。


道子は、始めのうちは拒んでいたものの、最後に納得し、その薬剤を盗ってきてくれると、約束してくれた。


毒物に指定されてるその薬。盗むのは容易なことではないはず。でも、道子なら、出来る。恨みや、憎しみは、大きな原動力に変わるから。



++++++++++



有栖は、俺のアパートによく来るようになっていた。


そして身体を求め合うようにもなった。


たわいもない会話から、笑ったり、拗ねたり、そしてベッドに入る。


ごくふつうの男女の行為を俺は‥‥

隠しカメラでビデオに撮った。

生々しい喘ぎも息づかいも、激しさも

微睡みも、全て撮った。


撮ったものに俺の顔だけ、モザイクをかけ、編集した。


そして‥‥。


有栖サナ。俺をとことん憎んでくれ。


さあ、苦しめ。恨め。蔑めよ。激しく怒り狂え!!


俺は、笑い狂うんだ。


今の俺は、どんな顔をしているんだろう‥‥。



++++++++++



道子からようやく連絡がきた。例の薬剤を盗むのにかなりの時を使ったようだ。

俺が道子に計画の全てを語ってから、数ヶ月も経っていた。


道子は布袋に入れた『筋弛緩剤』と『注射器』を俺に手渡した。


「ご苦労さん。よく成し遂げたね。褒めてやるよ。やっぱ、人の恨みって相当な原動力だね。」


俺の言葉に道子は、うつむいたまま、


「院長への『恨み』ではありません。麻美さんと柚良ちゃんへの『恩』です。」


そう言って、強く握った拳が震えていた。



++++++++++



最後だ。これで俺は、苦しみから、ようやく解放される。


有栖をアパートによんだ。


「サナ。ちゃんとお祝いをしよう。卒業、入学、君が大人になった事。俺との愛を‥‥。」


もうすっかり、陽が短くなった。秋の始まりか。風が草の匂いを運んで来た。涼しい。


有栖がアパートのブザーを鳴らした。


「ケーキ、買ったよ。」


有栖は、ケーキをテーブルに置いた。

有栖が片手に持った半透明のレジ袋にはコーラが入っている。


「俺、コーラ、飲めないんだ。」


「そうだったの?ごめんなさい。でも‥‥。隼也さんはワイン飲めるけどまだ私は未成年だし、自分用に買ったんだよ。」


「見るのが、い、嫌なんだ!!」


「隼也さん?顔、怖いよ?」


俺は有栖に抱きついた。そして強引に服を脱がせた。この思いは、何だろう。自分でも分からない。激しく、強烈に手荒く‥‥。


サナは、抵抗はしなかった。そしてその場に倒れこんだ。


「サナ、これ、虫垂炎の手術痕だろ?」


「うん。気づいてたんだね。今まで何も言わなかったのは、知らないふりしてくれてたのね。女の子のお腹に傷なんて私が気にしてると思ってでしょ。

あ、でも、なんで虫垂炎だって分かるの?」


「分かるさ、サナが虫垂炎の手術を受けたあの日、俺は、君の病院に居たからね。」


「えっ?」


「コーラだよ!コーラを買いに麻美と柚良はコンビニへ行った。そして、事故!トラックに引きずられたんだ!2人とも血まみれだぞ!

君の病院に搬送された。

誰がどう見ても、2人を先に施すだろうさ。けど、君の病院は、応急処置さえしなかった!


あの時、麻美と柚良になんらかの処置をしてくれたら、ふたりは、死なずに済んだんだ!


君の親父は、君の虫垂炎、いや、たかが盲腸を優先したんだ!


おれの大切なふたりは、転院される救急車の中で息を引き取った‥‥。


麻美と柚良を見殺しにしやがった有栖一家を俺は今まで憎み恨んで生きてきた。


今日は、最後の日さ。


君の手術痕を見るのが辛かった‥‥。

その傷痕は、もう、笑えない麻美と成長出来ない柚良の代償だからな!!

君が気にしてるから?全く、違うよっ!!」


君は、ずっとそうやって他人を犠牲にして

ここまできた。君が何不自由なく成長し、

未来を約束されているのが無性に苛立つんだ!」


「隼也さん‥‥。」


「俺は、君を愛してなんかいない。君に近づいたのは、復讐のためさ。

いいか、よく、聞いて。


俺は、君とのベッドでの行為をネットにアップしたよ!もちろん、俺の顔だけに、モザイク処理した。俺は、君を晒した。これで君の未来はぐちゃぐちゃだ。」


「えっ?‥‥嘘だよね?」


「ほんとさ。

さあ、怒れよ。狂えよ。俺の事、罵倒しろよ!

泣きわめいて、そして君は、俺を殺すんだ!君を晒しもんにしたんだ、憎いだろ?」


「アァッーーーーーー!」


「もっと泣きわめけよ、君は、もう一生、晒しもんさ、君の人生にタトゥーを入れたのさ。デジタルタトゥーだ!!」


俺は、道子から手に入れた『筋弛緩剤』の瓶から薬剤を注射器に吸い上げた。


「筋弛緩剤だよ。医大生の君なら、知ってるよね。これで俺を殺すんだ!

さあ、ぶっ刺せよ!さあ!」


「隼也さ‥‥‥ん。私は、あなたを愛してる‥‥。」


「俺は、微塵も君を愛ちゃいない!

微塵もだ!もう一度言うよ、

俺は、サナを愛していないっ!!」


「ギャーッーーーー!もう‥‥もういい。言わないで!!」


泣き、わめき、しゃくりあげながら

有栖が注射器を振り上げた。


《そう、その調子だ。サナ、一気に振り下ろすんだ!ぶっ刺せよ!俺の身体にその液体を流し込むんだ!!

これで殺人を犯した娘の親達も、一生苦しむんだ。いい気味だよ。娘が殺人犯だなんて外もまともに歩けないよな、そう。そうやって卑屈に生きろ!!!! 一生!!

死ぬよりも苦しい事だろ?‥‥。


あぁ、‥‥これで終わりだよ。俺は、眠りながら麻美と柚良に逢いにいくんだ、筋弛緩剤ってのは、安楽死に使われる薬だからね。ふふっ。

もうすぐ、もうすぐ逢えるね、もうすぐ‥‥。》


「あぁーーーーーーーっ!!!!」


有栖は注射器を握った腕を振り下ろした。俺の胸にそれを‥‥

ぐっと力を込めて、勢いよく、刺した‥‥‥。

そう、それでいい。それで‥‥。


「うっ!うぅーーっ。」


「隼也さん、さよなら‥‥‥。」



++++++++++



《ゆ‥‥ら‥‥。あさ‥‥み‥‥。パパだ‥‥よ。

恋しくて、恋しくて、逢いたくて、逢いたくて、やっときたよ‥‥。》


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。




+++++++++



手を握ってくれた

髪の毛をかきあげてくれた。

額の汗を拭いてくれた。

頬にあったかい手を置いてくれた。

俺の名前を呼んでくれた。


‥‥‥‥‥。


《麻美か?

柚良なの?》


‥‥‥‥‥。


「隼也さん。」


「隼也さん。」


「分かる?私だよ。」


「サナだよ。」


《えっ?》


「隼也さん。」


《俺、死んだんだよな。

ここ、どこ?

麻美?柚良?どこ?パパ、来たよ。逢いに来たよ‥‥。おーい。俺、ここだよー。》


誰かがまた強く俺の手を握った。


「えっ?」


「気がついたんだね。」


「‥‥‥‥。


サ、サナ?」


《どうして?なんで?

ここどこだよ?》


白い天井。大きな長い蛍光管。

薄っぺらで輪染みのついた白いカーテンが風に揺れてる。


《病院?》


「よかった。私の事、『サナ』って呼んでくれた‥‥。」


「俺、どうしたんだ?」


「病院だよ。あ、安心して。アリス永生じゃないよ。違う病院。」


「俺、死ねなかったの?」


「死ねるわけないじゃん。ただの栄養剤だもん。」


「栄養‥‥。栄養剤って、ど、どういうこと?筋弛緩剤じゃなかったって事?」


「ビタミンや糖だよ。これじゃ死ねないね。

道子さんからね、5日前に電話もらったの。そして会ったの。

道子さんは私が小さい時から、アリスで看護師さんしてくれてたからね。

よく一緒に遊んでくれたりもしてたんだよ。


そして事の一部始終、全部聞いた。

隼也さんの計画。」


「崎田道子が?道子がばらしたのか?なんでだよ、崎田道子だってアリス院長の事憎んでるはず‥‥。」


「道子さん、会った時に言ってくれたの。私に『幸せになってください』って。恨みや憎しみで生きるより愛して愛されて生きる方が楽しいからって。」


「じゃ、栄養剤って知ってて俺に注射針を刺し込んだのか?」


「うん。」


「くそぉ。道子のやつ‥‥。」


「道子さんは、すごく悩んだんだよ。」


「俺は君に酷い事したんだぞ!」


「デジタルタトゥーの事?」


「あぁ。」


「それも聞いたの。

『サナを辱める事は、どうしても出来なかった。でも、そう言わないとサナは、俺を殺してくれないから。』って隼也さん、言ったんだよね。その事も、全部教えてくれた。」


「道子のやろう、口、軽すぎるだろ!!」


「やっぱり、隼也さんは、優しい人だね。」


「優しい訳ないだろ?俺は、君を愛してはいなかった‥‥。」


「違う!あなたは、私を愛してた。でなきゃ、もう既に私は、ネットに晒し者だよ?でも隼也さんは、しなかった。私を晒しもんとしてネットにアップするなんて、そんなひどい事出来る人じゃなかった。」


「‥‥‥。さっき、夢を見たんだ。意識朦朧としてる時、麻美と柚良が『パパ』って呼んでくれた。手を振ってたんだ。やっと会えたと思った。

柚良と最後にケンカしたまま別れたこと謝んなきゃ。

また、ごはん作ってね、一緒にに食べようね、って笑ってた。すごく、すごく嬉しかった。

君のことなんか、かけらもなかった。」


「いいの。たとえ、私の事を愛してないとしても、私は、隼也さんが好きなんだよ。

‥‥‥。一緒に帰ろう。」


「‥‥‥‥。

ふんっ、俺、馬鹿だ。栄養剤で気を失うってか?

まさか死ぬのが怖かった訳じゃねえよな。


あんなに死にたかったのに。

あんなに麻美と柚良に逢いたかったのに。

ただ死ぬために生きてたのに。」


「隼也さん、私がアパートに来る前に心療内科で処方された薬、大量に飲まなかった?」


「えっ?そういや、飲んだな。」


「抗不安薬って睡眠作用があるからね。だからだよ。だから意識失うくらい眠くなったんだよ。ここのお医者さんが言ってた。」


「やっぱ、俺、救いようがない愚か者だな‥。」



++++++++++



ひとまわり以上も歳下のこの子に馬鹿な俺は、付き添ってもらい帰宅した。


《頭、整理しよう。とにかく、俺は、死ねなかった。これから、どうすればいい?》


「はい。隼也さん。お水。」


「なあ、俺、どうすりゃいい?

分かんないよ。もう、分かんない‥‥。」


「憎んで生きるのをやめる。

とりあえず、隣にいる人を、たっくさん愛してください。愛して生きる方が何万倍も楽しいじゃん。

あ、これ、道子さんの受け売りだけどね。」


「サナ‥‥?」


「ん?」


「君は、いくつなんだ?」


「へっ?どうしたの?」


「ひょっとして、俺よりかなり年上だったりしてな。」


水道の蛇口から、ポタリ、またポタリとゆっくり水滴が落ちる。時計の秒針がカチッカチッ規則正しく鳴る音と重なった。どっちが水滴でどっちが秒針の音だろうか。


「隼也やさん、あのね、道子さんから預かってるものがあるの。」


有栖は、カバンからハンカチに包んだそれを出し、俺に手渡した。


「えっ?何?手紙?

血?これって血か?何で手紙に血が?」


「読んで。」


ピンク色で可愛い水玉の封筒に入っていた。

俺は、ゆっくり開けた。


“““““パパへ


パパのだいじなもの、こわしてごめんなさい。

ゆらも、ママみたいにびじんさんになりたかったの。パパがママにあげたねっくれす、ゆらもつけてみたかったの。こわしてごめんなさい。ごめんなさいが、いえなくて、

ごめんなさい。

パパ、だいすきだよ。だからゆるしてね。

われたとこ、ボンドではりました。パパのおきにいりのうわぎのぽっけのなかにいれてあるよ。


ゆらより。””””


《上着?ポッケ?俺のお気に入り?

‥‥‥あっ、あれか!?》


俺はふたりが天国へ逝っちまってから、一度も着てない上着のポケットを探した。

パパのお気に入りじゃない。柚良のお気に入りだ。パパに似合ってるって、かっこいいよ、って褒めてくれたんだ。


あった。

俺が麻美に初めてプレゼントした安もんのネックレス。


「あ、あぁ、あぁ、あーーーーーーっ!!」


「柚良、ゆらーーーーー!!」


なんて言えばいいのか分からない。とてつもなく深い感情。


「道子さんの旦那さんだよ。崎田先生がね、事故の日、柚良ちゃんが握ってた手紙をずっと大事に持ってたらしいの。いつか謝りたいって‥‥。」


「崎田が?‥‥。

柚良は‥‥。今までのこんな俺、どう思ったんだろな。麻美は、どう思ったんだろな。‥‥。」


「公園行こ!隼也さん、公園。さあ、行こ!」


有栖は俺の腕を掴んだ。



++++++++++



柚良と同じ年頃の子供を見るのが辛かった。

公園に行けば麻美と同じくらいの母親がその子供に付き添っている。


公園は、苦手だ。


「私、隼也さんの処方薬になるよ。」


筋弛緩剤で眠るように麻美と柚良に逢いに逝くはずだった。恨む家族に復讐する事を何年も前から考えてずっとそればかりだった。

どれも、これも、真逆に終わった。


こんな俺にまだ手を差し伸べてくれる君に俺はこれから何をしてあげられるのか。


「隼也さんが、街中で知らない母娘[おやこ]を見ても、辛くなくなるまで、微笑ましく思えるようになるまで、何年でも、そばにいるよ。」


「うっ、、、。」


景色が歪んで見えた。何もかも歪んで見えた。

涙が溢れては拭い、溢れては拭った。



++++++++++



6年が過ぎた。


俺は、あれからすぐに高校の教師を辞めた。

塾の講師をしている。もう心療内科へは通っていない。サナの宣言通り、ずっと今でも彼女が薬だ。支えられている。


サナは2年で大学を辞めた。一心不乱に勉強し、頑張って入った医学部をあっさりと辞めた。

幼児教育学科のある短期大学に改めて入り直した。そして幼稚園教諭二種免許をすんなり取得した。


幼稚園の先生になった。


毎日、楽しそうに園での様子を俺に話しては、ひとりで笑い、俺もつられて笑うと、幸せだと呟く。


あ、それからサナは、オーディオブックと呼ばれる視覚障害を持った人が本を楽しむためのバイトを始めた。本を朗読し、録音、聴読本を作るバイトだ。目の見えない人がサナの朗読で本を聴くのだ。放送部元部長さん、頑張れよ。


彼女は、もう、俺の中でかけがえのない存在になっている。


彼女に聞いた事がある。

もしも麻美と柚良が生きていたら、俺とサナはどうなっていたかなと。


彼女は

『もしそうだったら、私達は出会っていなかったと思う』と言った。


彼女に心から『愛してる』と言いたい‥‥。




今現在、あの『アリス永生総合病院」は、無い。


姉妹病院が建つはずだったがそれもない。麻美と柚良が搬送された時、『今この病院は大事な時期だから』と言っていたのは、病院を大きくするための時期だった。



アリス院長よりはるかに大きな黒い存在の圧力により、経営難になって病院を手放したのだ。


アリス院長もまた、自分より大きな黒い影にあやつられ脅された。そして支配され、利用されていた犠牲者だった。


結局、俺の敵は、恨み続けた有栖一家ではない。誰でもない。


真の敵は『俺自身』だった。


サナから聞いた話だが、麻美と柚良が運ばれたあの日に、アリス院長が言っていた『1週間後に大事な試験があるから‥‥』という言葉はサナ自身の試験ではなく、上の腹黒い奴らが自分の子供のためにサナに『替え玉受験』を依頼してらしい。サナもまた利用されていた。


この世の中は真っ黒だ。何が正しくて何が間違っているのか正解なんてない。


俺達人間って、周りにいる鳥や、猫や、犬や、蛙や、虫のようにただ、人類という生き物を永遠に絶やさないために生まれてきただけかもしれない。輪っかになってねじれたリボンの上を永遠に歩き続けている。

子孫を残して繁栄するだけだ。


俺達が恋をして、人を愛して愛されて、笑ったり泣いたり怒ったりする、だれかの役に立つために働いたり、勉強したりするのって意味があるのか。


そう思うと楽だった。麻美や柚良を愛せば愛すほど真逆の考えで辛さをはねのけていた。

考え出したら頭が狂いそうだった。


けど今の俺は違う。

隣にいる有栖サナと笑って泣いて愛して愛されてそして、じじいになりたい。

それが結論。


今日、サナと『小田最造』のピアノコンサートに行く。

道子がチケットを送ってくれたのだ。

海外留学の決まった息子の『小田拓真』がゲストで出演する。

あの少年、もう18か。すごいピア二ストになるんだろうな。


「ねえ、隼也さん。コンサートに着て行く服、この服とそっちの光沢紺色のワンピとどっちがいい?」


「あぁ、」


「あぁじゃなくて、どっち?」


「どっちも似合うよ。」


投げやりに答えたのでは決してない。

本当にどちらも似合う。聡明で美しい大人になった。


「んー、あー。やっぱ、こっちか‥‥。」


《かわいいな‥‥。》


ぶつぶつと独り言を言った後、俺の方へ来て


「隼也さんの今日のネクタイは紺色。私も紺色ワンピだから。」


と言ってネクタイを俺の胸に当てた。


《俺、幸せだ‥‥。》



++++++++++



ものすごい拍手の中、小田拓真が一礼をした。


マイクを手に取って言った。


「僕が今から弾くピアノは、僕と同じようにピアノが好きで、でも、子どものまま天国へ逝ってしまったあるふたりの女の子へ贈ります。」


《あぁぁぁ、柚良と真子ちゃんの事だ‥‥。》


小田拓真がピアノの前に座った。


そしてゆっくりと息を吸ってフゥーッと吐き、奏ではじめた。


まぎれもなく、あの

『星に願いを』

だった。


俺の中にまだ少しあった心の澱みが全て溶けた出した気がした。

また涙が出てきた。涙とともに溶けた物が流れていくようだった。


余韻を残したまま会場を出ると彼女が言った。


「隼也さん、来て良かったね。」


「うん。

‥‥サナ?俺、精神年齢は君よりかなり歳下だけど、これからもよろしくってことでいいかな?」


隣にいる美しく、可愛く、そして聡明な女性に聞いた。


「うん。」


サナが照れたようにうつむいて下唇を噛んだ。


それから

どちらともなく指を絡ませた。


ふたりで笑って帰った。


星が点滅を繰り返している。

それはもう拍手をしてくれたみたいに。


「お腹すいたね‥‥。」




+++++END+++++



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君が「俺を殺す方法」 くにえミリセ @kunie_mirise_26

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