シュトルツの一日
針間有年
第1話 シュトルツの一日
1
ドイツの村はずれに、廃墟ともいえる家が一つ。
レンガ造りの大きな家だ。
昔はこの村の領主が住んでいた。
水路とつながる堀。
石橋がかかっているが、今にも崩れ落ちそうだ。
ずいぶん使われていないのだろう。
外見とは裏腹に、内装は綺麗だ。
モノトーンで統一された寝室。
天蓋付きのベッドで彼は眠る。
「ご主人様!」
その声で、彼のシュトルツとしての一日が始まる。
***
部屋の扉が勢いよく開く。
メイドのトードが彼の掛け布団を、バッと剥いだ。
彼は目を覚まし、頭を抱える。
「トード、何度言ったらわかるんだい?男の寝室に入るのは良くないよ」
彼はいつものセリフを口にする。
だが、トードは意にも介さないようだ。
「私は、ご主人様を信用してるんです!」
トードは明るい笑顔を見せた。
今日もフリルの付いたメイド服に、モブキャップと言われるメイド特有のキャップを付けている。
外見から推測すると十五歳くらいの少女だ。
誰もが息を呑む可憐な顔立ちに、たわわな胸。
金髪碧眼の美少女である。
「トード、外に出てくれないか?身支度を整えたいんだ」
「むぅ、私がお手伝いいたしますのに」
「勘弁してくれ。私はもう成人した男だ。うら若き乙女に着替えを手伝わせるわけにはいかない」
「もう!ご主人様は紳士なんですから!」
トードはむくれながらも部屋を出て行ってくれた。
彼はほっと息をつく。
身なりを整えて、部屋を出るとトードが迎えてくれる。
「待たせてすまなかったね」
「いいえ、大丈夫です!」
小さな窓から陽光が射している。
薄暗い廊下に飾られた肖像画。
彼はそれを見上げる。
短く切りそろえられた赤毛に、茶色い瞳。
シュトルツの肖像画だ。
「本当に似ているな」
彼はぽつりと漏らした。
前を行くトードが嬉しそうに振り返る。
「そりゃそうですよ。一級の画家に描かせた肖像画なんですから」
「…画家とはすごいものだな」
「全くです!ご主人様がいない間、トードはご主人様を思い、いつもこの肖像画の前で泣いていたものです」
彼は小さく笑ってトードに手を伸ばし、その小さな頭を撫でる。
「すまなかった、トード。寂しい思いをさせたな」
「いいんです!」
トードはうっすらと涙を浮かべる。
「こうしてご主人様が戻ってきてくれた。それだけで、トードは幸せです」
***
ダイニングに移動する。
机にはグロテスクな色をした食材が並ぶ。
トカゲやカエル、目玉など。
彼はげんなりした。
「トード…すまないが、私は人間の食事がしたい」
「栄養つきますよ?」
「それでも、やはり、これはきつい」
頭を抱えて見せる。
トードは腰に手を当てて頬を膨らませる。
「全く、ご主人様はわがままですねぇ」
「すまないな」
「確かに、悪魔の作った食事は人間には苦だと言いますが…仕方ありません。いつもながら私の朝食にさせていただきます」
トードは、右手をテーブルに向けた。
食事は瞬く間に消える。
この館のメイド、トードは悪魔だ。
はるか昔、シュトルツは森で弱り切っていたトードを救った。
トードは恩義を感じ、それ以来ずっとシュトルツに仕えている。
トードが指を鳴らした。
すると、食卓にパン、チーズ、ハムなどのまともな食事が並ぶ。
彼はほっと息をつく。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
トードの明るい笑顔を見ながら食事をとる。
「おいしいよ、トード」
「きゃあ!ご主人様にそう言ってもらえるトードはとっても幸せです!」
「トードも一緒に食べないかい?」
いつもと同じ言葉だが、トードは嬉しそうに笑う。
「トードは悪魔です。食事はいりません。お心遣いだけで、トードはお腹いっぱいです!」
「いつも、すまないな」
「いえ!そんなことは心配せずに、ご主人様はどんどん食べてくださいね」
トードの青い目が弧を描いた。
「ご主人様は、なまものなんですから」
2
午後からは部屋にこもって勉学に励む。
家の中の書斎。天井まで伸びた本棚。
調度品ともいえる繊細な装飾の施した木製のデスク。
硬い椅子に座り、彼は本を開く。
羽ペンを用い、紙に文字を写していく。
勉学の種類は、多岐にわたる。
言語学、君主論。そして、経済学。
大学で経済学を専攻していた彼。
大学で学ぶマーケティングは楽しかった。
ここではどうだ。
マルクスやケインズ。
古典ばかり学ばされる。
気が滅入る。
彼は、トードをちらりと見た。
新たな学問を所望することを、トードはきっと許さない。
それは致し方のないことであった。
小さな窓と言えども、温かな陽光は射してくるものだ。
彼はうつらうつらとする。
「ご主人様!」
トードの声に、彼はハッとする。
うたたねから目を覚ました頃には、胸板をトードの片腕が力強く叩いていた。
ラリアットである。
彼はせき込む。
「トード…起こしてくれるのはいいがもっと優しくしてくれ」
トードの目が、鋭く光った。
彼は口をつむぐ。
「どんな手を使っても起こしてくれと言ったのはご主人様ですよ!」
そんなことは、言ってはいない。
だが、トードの機嫌を損ねてはならない。
彼は笑顔を浮かべた。
「あはは、そうだったな。これからも、頼むよ」
「はい!お任せください!」
トードは明るい声で答えた。
彼は心の中でほっと息をついた。
***
カチカチと音を立てながら秒針を進ませる柱時計。
午後三時を告げる鐘が鳴った。
「トード、休憩をしてもいいかな?」
「全く、ご主人様は甘えん坊ですね!」
彼の言葉にそう返すトードは、言葉と裏腹に嬉しそうだ。
トードは休憩時間が一番好きらしい。
彼も休憩時間は好きだった。
トードが廊下から、たくさんの書籍を持って部屋に入ってくる。
彼は当たり前のように席を立ち、トードの持っている荷物を手に取った。
「重いものを持つときは、私に言うように教えたはずだよ?君は女の子なんだから」
「でも、私は悪魔ですよ?」
「それでも君は可憐な少女だ」
トードは、恥じらいながら、はにかんだ。
デスクにそれらの書籍を置く。
「じゃーん!日本文化が大好きなご主人様に、トードが面白いものを仕入れてきました!」
彼は三十冊くらいあるだろう書籍の一つを開く。
そこには、絵が並んでいた。
「これは…漫画というものか?」
「おお!ご主人様は博識ですねぇ。そうです、これはジャパニーズMANGA!その中でも、えりすぐりの恋愛マンガを選んできました」
「トードの趣味だな」
「バレましたか?」
トードは舌を出して見せた。
彼はありがたく、漫画を読む。
別に日本文化が好きなわけではなかった。
だが、新鮮な知識を取り入れることに、彼はこの上ない喜びを覚える。
二人で黙々と漫画を読む。
トードがちらりと彼を見た。
「ご主人様、これをご覧ください」
そこには美麗なイラストで、二人の少女が描かれていた。
一人は白髪。一人は黒髪。
「この二人の少女はツンデレとヤンデレです」
「なんだって…?」
知らない単語に彼は首をかしげる。
トードも首をかしげる。
「なんでも、ツンデレは恋した相手に、いつもはつっけんどんな態度を取ってしまいます。ですが、ふとした拍子にデレデレとしてしまう子のことだそうです」
「また、奇怪な子だな」
トードも頷く。
「そして、ヤンデレは恋した相手を思いすぎるあまり精神を病み、恐ろしい行動にでる子のことだそうです」
「恐ろしい行動?」
「監禁や殺人、または自傷行為があげられるそうです」
トードは漫画をのぞき込み、そして顔を上げた。
恥じらうように、もぞもぞとした後、小さな声で尋ねてくる。
「その…ご主人様はツンデレかヤンデレ…どちらが好みですか?」
彼は少し迷うそぶりを見せたが、答えは決まっている。
「ツンデレかな」
「わ、わかりました!いえ、違って」
一つ咳払いすると、トードは妙に芝居がかった口調で言う。
「べ、別にご主人様のことなんか…ことなんか…」
だんだんと弱くなってくる口調。
「わぁぁん!嘘でもご主人様を好きじゃないとは言えないよぉ!」
トードの言葉に、彼はくすりと笑って見せる。
「君は君だ。そして、君は素晴らしい」
「ご、ご主人様…!」
「そのままでいいんだよ」
顔を真っ赤に染めたトード。
彼はもう一度、漫画に目を落とした。
ツンデレ、ヤンデレ。
ヤンデレだけは御免被りたい。
3
夕飯を済まし、風呂に入る。
はじめは風呂の世話まですると申し出たトードだったが、なんとかこちらの頼みを聞いてくれた。
シュトルツは紳士なのだ。
彼は、風呂の鏡をじっと見つめる。
色の白い貧弱な体。
そこには切り傷、痣、やけどの痕がある。
傷は無差別に彼の身体に刻まれている。
顔以外の全身である。
あの頃の彼の身体には傷なんてなかった。
家族、友人、彼女。
勿論、喧嘩もたくさんした。嫌いな部分もあった。
だけど、今は恋しくて仕方がない。
自分の顔が映った鏡に、彼は拳を振り上げた。
彼の手が痛んだだけだった。
風呂から上がると、トードがそこで待っている。
「ご主人様、今日は長風呂でしたね」
「そういう日もある」
「そうですか」
トードの声が冷たく響く。
これから長風呂は避けた方がよさそうだ。
小さな窓。
申し訳程度に見える景色。
真っ暗な空に、ぽかりと浮かんだ満月。
浜辺。
大好きな彼女とキスをした。
映画の一場面のような美しい思い出。
気付けば彼の頬には涙が伝っていた。
トードが立ち止まった。
そして、彼を振り返る。
彼は慌てて涙を拭く。
だが、遅かった。
みぞおちにトードの蹴りが入った。
彼は膝をつく。
胃の中の食べ物が逆流する。
彼はそのまま嘔吐した。
うずくまる彼の背をトードが踏みつける。
だんだんと強く、体重をかけていく。
彼をいたぶるように。
顔を上げる。
トードの青い瞳が凍てついた色を放っている。
「ご主人様は泣きません」
トードは言った。
「何度言ったらわかるのですか」
そう言って、彼の背に乗せていた足を浮かせ、今度は、わき腹を鋭く蹴った。
「うぐぅ」
「その無様な声も許せません。あなたはご主人様なのです」
彼は口元を押さえた。
トードが彼を持ち上げ、拳を握る。
何度も何度も彼の身体を殴りつける。
そして、気まぐれに投げ捨てたかと思えば今度は刃物を出し、彼の腕を、脚を、割いた。
彼は声を上げないよう、必死になる。
目からは涙が溢れる。
それがトードの機嫌を更に損ねる。
トードはマッチを取り出した。
火をつけ、彼の露わになった腕に押し付ける。
「っー」
「あなたはご主人様。シュトルツ様なのです。それ以外ではない。それ以外であってはならない」
謝りたかった。
それで許されるなら何度でも。
だが、それは余計にトードの機嫌を損ねることを彼は知っていた。
メイドに無様に謝罪をするなど、シュトルツがすることではないのだろうから。
彼は必死になって笑顔を作った。
「すまない、トード。私が間違っていたよ」
トードの手が止まる。
「私は泣いたりなんかしない。愛してるよ、トード」
マッチ箱がトードのポケットにしまわれた。
「全くご主人様ったら!寝室にご案内いたしますね!」
トードは、機嫌よく笑った。
「廊下の掃除は」
「もう、そんなのメイドの仕事です!でも、そのお心遣い、とっても嬉しいですよ!」
寝室に入る。
「おやすみ、トード」
「おやすみなさい、ご主人様。また明日」
彼はベッドに倒れ込んだ。
ベッドのシーツに血がにじむ。
トードから受けた傷は浅くはない。
彼は、トードに知られないように、声を押し殺し泣いた。
彼はシュトルツではない。
死んだシュトルツと顔が似ていた。
ただ、それだけでこの廃墟に連れてこられた。
彼は二十一世紀を生きる、ごく普通の青年だった。
彼は明日もシュトルツを演じる。
それが自分の身を守る唯一の方法だからだ。
そして、今日も彼はシュトルツとして、一日を終える。
終わり
シュトルツの一日 針間有年 @harima0049
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