メヌエット

 公園から帰ったあと、軽く昼食を済ませる。昨日の仕事で少しやり残したところがあるので、それを仕上げる。沙紀はウェブで漫画か何かを読んでげらげら笑っている。一時間ほどで仕事を終え、パソコンを閉じる。

「終わったの?」

「うん」

「今から何する?」

 時計を見る。二時過ぎを指している。

「沙紀は今からどこかに行きたい?」

「うーん、出かけるなら明日がいいかな。明日も晴れでしょ」

「じゃあ家で映画でも見ようか。何か見たい映画はある?」

「これが見たいっていうのはないけど、あまり見ていてしんどくない映画がいいな。ほっこりするような映画」

 私は三十秒ほど考えて、頭の中にある映画の引き出しから、今日の私たちの気分に合いそうな映画を探す。あれがいいかな。

「『となりのトトロ』はどう?」

「いいね」


 言わずと知れた、宮崎駿とスタジオジブリの古典的名作アニメ映画だ。この映画も、私はもう何回見たかわからないが、見るたびに新しい発見がある。瑞々しいタッチで描き出される田園風景と少女たちの姿に、不思議な懐かしさを感じる。そもそも私たちは、この映画に登場するような田園風景なんて実際には見たことがないのに、懐かしいと思うのはどうしてなのだろう。あまり陳腐な言葉を使いたくないが、これが日本の原風景というものなのだろうか。

「私この映画は三回目なんだけど」と見終わったあとで沙紀が言う。

「なんか全然前に見たときのこと思い出せないんだよね。こういう場面あったな、とか、こういうセリフあったな、とか、部分的に記憶してるところは多少あるんだけど、全体の流れはほとんど忘れちゃってる」

「私も三回目くらいまではそんな感じだったよ。美大のときに勉強も兼ねてジブリ映画ばっかり見てた時期があって、そのときに有名どころの内容は大体覚えちゃったけど」

「そうなの? その話は初めて聞いた」

「この映画に関して言えばさ、多分、ストーリーらしいストーリーがないんだよね。だから話は頭に残らないんだけど、なぜか面白くって画面を食い入るように見てしまう。それはやっぱり宮崎駿の細部に対する異常なまでのこだわりがなせるわざでさ、風景でも人でも、一つ一つのカットに魂が入っているから、おお、って思わせられるんだよね」

「ふうん、魂、ねえ」

 そして私は二人の少女、サツキとメイのことを考える。美大生のころくらいまでは、まだ自分の延長としてサツキやメイの存在を捉えることができていたような気がする。健気なサツキが不安で思わず泣いてしまうシーンに共感することもあった。しかしこうして久しぶりに『となりのトトロ』を見てみると、少女たちの姿は田園風景と同じくらい過去の遠くにあるように感じられる。そのような純粋さは、今の私からは失われてしまっているように思える。子供みたいに喋ってよ、と私は自分にだけ聞こえるようにつぶやく。


 私たちはベッドでごろごろしている。疲れているときにはこの時間は昼寝をするが、今日はそこまででもない。沙紀の頬をつねってみると、沙紀も私の頬をつねり返す。私たちは微笑み合ってキスをする。

「ねえみのり、死ぬ前に一曲好きな音楽を聴くことができるとしたら、何が聴きたい?」

「死ぬ前? うーん、そうだな、私はあれかな、レディオヘッドの『モーション・ピクチャー・サウンドトラック』」

「何それ、聞いたことない」

「あー、沙紀が家にいるときはレディオヘッドかけないんだよね。あんまり好きじゃないかもと思ってさ。イギリスのロックバンドなんだけど」

「死ぬ前にロックを聴くの?」

「えっとね、レディオヘッドはロックバンドとして登場したんだけど、どんどん音楽性を変えていって、二〇〇〇年にリリースされた『キッドA』っていうアルバムは全然ロックじゃないんだよね。それでその最後の曲が『モーション・ピクチャー・サウンドトラック』」

「ロックじゃないって、じゃあどんな風なの?」

「うーん、こればっかりは聴いてもらわないと伝わらないかなあ。とにかく私は死ぬ前にはあの曲が聴きたい。沙紀は?」

「私はね、ラヴェルの、あの、メヌエットかな」

「ラヴェルのメヌエットって、どのメヌエットだろう。『古風なメヌエット』は多分違うでしょ、『ハイドンの名によるメヌエット』でもないだろうし、そうするとあれかな、『クープランの墓』の」

「そう、それそれ。私ラヴェルではあの組曲が一番好きなんだよね」

「沙紀って意外と渋いところあるよね。もっと派手な曲を選ぶかと思った」

「まあ死ぬ前を派手にしてもしょうがないじゃない? 安らかに死にたいでしょ」

「確かにね」

「ねえ、『モーション・ピクチャー・サウンドトラック』、聴かせてよ」

「えー、まだ死にたくないよ」

「別に死ぬときに聴きたいってだけで聴いたら死ぬわけじゃないでしょ」

「冗談冗談。でも今はレディオヘッドの気分じゃないから、また夜に聴こう」

「わかったよ」

 私たちはしばらく動かない。私はまた子供のことを考えている。『ライフ・イズ・ビューティフル』のジョズエ、『となりのトトロ』のサツキとメイ。よくよく考えると、子供というのは自分にとって過去の遠くにあるというだけでなく、もうこの世界のどこにも存在しないという意味で幻想になってしまっている。昔の映画には幻想が刻印されている。そう思うと戦争も田園風景もトトロも幻想だ。幻想と言っても、それはかつては実在だったのだろう。だから説得力がある。見ていて感動する。

 沙紀の胸に手を伸ばす。沙紀は「やめてよ」と言いながら、胸に当てた私の手に自分の両手を重ねる。

「嫌なの?」

「嫌じゃないけど。もう、みのりのいじわる」

 服の上から胸のふくらみをなぞる。沙紀がゆっくりと呼吸するのに合わせて、乳房が上下に少し動く。沙紀が昨日私にしたみたいに、胸に顔をうずめてみる。温かい。鼓動が聞こえる。その状態で息を大きく吸って、息を吐きながら沙紀をぎゅっと抱き締める。沙紀は私の肩の後ろに手を置いている。

 それから私たちは裸になって交わる。交わるということは、私たちにとっては愛情の確認という以上の意味を持つ。相手の体に触れることで、自分の肉体の生々しさがより一層感じられる。生きてるっていう感じがする。うまく言えないけれど。


 六時になると、私は服を着て、キッチンに行って夕食の支度をする。沙紀はそのまましばらくベッドに寝転がっているが、十分ほどあとになってリビングにやってきて、ソファに座ってぼうっとしている。

「ねえみのり」と不意に私を呼ぶ。

「何?」

「ずっと一緒にいてくれる?」

「もちろん。その質問はもう何回目だろうね」

「いつも不安になってしまうの。私たちがおばあちゃんになっても一緒にいるところなんて全然想像できないから」

「そう? 私はそうでもないけどな。案外今と変わらないんじゃない」

「さすがに毎日のように抱き合ったりはしないでしょ」

「うーん、男の性欲は衰えるけど女の性欲は衰えないって聞いたことがあるよ」

「みのりって本当にすけべだよね」


 テレビでニュースを見ながら夕食を食べたあと、お茶を飲んでまったりする。とりとめのない話をして、時間が過ぎていくのに任せる。シャワーを浴びて、歯を磨き、少し早めにベッドに横になる。

「ねえ、レディオヘッドの、何だっけ、聴かせてよ」

 私はプレーヤーに手を伸ばす。レディオヘッドの『キッドA』はお気に入りのリストに入れてある。最後の曲を選んで再生ボタンを押す。リードオルガンがゆったりとコードを弾く。しばらくして、トム・ヨークが歌い始める。単純なメロディに意味ありげな歌詞。二番に入ると、ハープのグリッサンドとコントラバスの伸ばしが入って荘厳な雰囲気になる。二回目のサビでは背後に合唱も加わる。そして「来世でまた会おう」と言い残してボーカルは消える。ハープとコントラバスがあとに残り、しばらくすると無音になる。

「終わり?」

「いや、しばらくは無音だけど、まだ続きがある」

 私たちは続きを待つ。一分ほどあとにそれはやってくる。いくつかの音が暗示的に伸ばされたあと、編集されてノイズを帯びた弦楽器や合唱の音が入って盛り上がりを作るがすぐに消え、あとは何の楽器かわからない玉を転がすような音がずっと鳴っているだけで、それは展開らしい展開も見せずに三十秒ほどでフェードアウトしてしまう。ボーカルの出番はない。また無音。

「今度こそ終わり?」

「本当はあと二分弱無音の時間があるけど、それは聴いても聴かなくてもいいようなもんだと思う」

「ふうん。変わった曲だね。確かに全然ロックじゃない」

「ラヴェルのメヌエットも聴こうか。ピアノ版とオーケストラ版と、どっちがいい?」

「え、オーケストラ版なんてあるの?」

「知らなかったの? 『クープランの墓』は六曲からなる組曲だけど、そのうちメヌエットを含む四曲をラヴェル自身がオーケストラ用に編曲してる」

「そうなんだ。じゃあオーケストラ版のメヌエット、聴いてみよう」

 曲名を入れて検索すると、色々な指揮者とオーケストラの『クープランの墓』が出てくる。有名なフランスの指揮者の演奏を選んで三曲目のメヌエットを再生する。オーボエが最初のメロディを吹く。春の陽だまりを思わせる愛らしいメロディ。弦楽器がそれを優しく支える。

「なんかピアノで聴いたときと全然雰囲気違うな。別の曲みたい」

「そうだね。私はこのメヌエットはピアノ版の方が奥ゆかしい感じがして好きかな」

「確かに、オーケストラ版だとちょっと情緒にあふれすぎてる感じがあるね。これはこれで悪くないけど」

 分厚い雲が徐々に迫ってくるような仄暗い雰囲気の中間部を抜けて、再び最初のメロディが戻る。今度はオーボエだけでなく、バイオリンやフルートにもメロディが受け継がれていく。オーケストラは徐々にクレッシェンドをかけ、デクレッシェンドをかける。今度はもっとゆっくりとクレッシェンドをかけ、デクレッシェンドをかける。曲が終わってしまうのを惜しむかのように弦楽器が長く音を伸ばす。ハープのグリッサンドがこの短い物語の最後のページをめくると、管楽器が短いフレーズを受け渡しながら下降していき、弦楽器のトリルが曲を締めくくる。

「なるほど。死ぬ前は、うーん、どっちがいいかな、悩むな。オーケストラ版の方がちょっとドラマチックな人生だったみたいな雰囲気かな」

「エンドロールが流れてきたりね」

「それはいらないなあ」


 夜中に目が覚める。隣で沙紀はすやすやと寝ている。起こさないように静かに、寝室を出てキッチンに行き、コップ一杯の水を飲む。ベランダに出て、夜空を眺める。星は見えない。月は少し欠けている。沙紀との午後のセックスのことを思い出す。人は交わることをよく「一つになる」と言うけれど、私たちのセックスはそれとは違う。どれだけ強く抱き合っても、一つになんてなれない。相手に自分を投影しながら、私たちはそれぞれ一人の人間としてやっぱりただ存在している。肌で感じる相手の存在の重みが、そのまま自分の存在の重みになる。女同士でなかったらまた違うのだろうか。男を好きになったことのない私にはわからない。

 寝室に戻って、また音を立てないように気を付けながらベッドに横たわる。沙紀は寝返りを打ったようで、向こうを向いている。広くはない沙紀の背中を見ながら、死ぬまで毎日この同じ背中を見続けることを考える。まあどちらが先に死ぬかはわからないし、死ぬまでというわけにはいかないかもしれないが、この背中を見て愛おしいと感じていられるあいだは私は幸せだろうな。

 そっと沙紀の背中に手を触れる。沙紀は体を縮こめるように少し動く。

「きっと大丈夫。私たちはずっと一緒だよ」

 そうつぶやいて、私はしばらくそのまま沙紀の背中をゆっくり撫でる。沙紀の体温が感じられるくらいの近くまで寄って、抱き締めたい気持ちを抑えて目を閉じる。すぐに深い眠りがやってくる。

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子供のいない星で 僕凸 @bokutotsu

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