子供みたいに喋ってよ
九時前に目を覚ます。みのりは隣でまだ寝ている。もう少ししたら起きるだろう。みのりの寝顔を眺めながら、昨日あったことを思い出す。職場でのごたごたとか、みのりがペペロンチーノを作ってくれたこととか、何も言わず私を抱き寄せてくれたこととか。何はともあれ今日と明日は休日だ。嫌なことは忘れて、心ゆくまでゆっくりしよう。
休日のこの時間に目が覚めると、こうやって何もしないでみのりが起きるのを待っている。私が疲れてなかなか目覚めないときには、みのりの方が私が起きるのを待つ。どちらにせよ、休日の朝は一緒にベッドで過ごす。これは私たちのあいだの暗黙の了解だ。
我慢できずに私はみのりの名前を呼ぶ。みのりはうーん、と声を漏らして手の甲で眼をこする。それから私の方を見て微笑む。おはよう。私たちはどちらからともなくそう言って互いの肩を抱く。しばらくそのままで時間が過ぎる。
「何か音楽が聴きたいな」
私がそう言うと、みのりはスピーカーに繋いであるプレーヤーを手に取り、頭を搔きながら曲を探す。二分ほどして、「これに決めた」と言って再生ボタンを押す。ピアノの和音が鳴ったあとでベースとピアノとトロンボーンの低音のユニゾンでアップテンポの弾むようなフレーズが出て、すぐにトランペットとフルートのメロディが入ってくる。どこか差し迫った感じの曲だ。スウィングしているから、ジャズかな。ちょっと聴き覚えがある気がする。メロディを二回繰り返すと、ピアノソロが始まって管楽器は沈黙する。
「これ多分聴いたことある」
「うん。ハービー・ハンコックの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』、一曲目は『ライオット』。前にもこうやって休みの日の朝に聴いたね」
「ライオットって、どういう意味だっけ」
「暴動。だけど、そこから派生した色とか音の乱舞、みたいな意味もあって、ハンコックはそっちを意図していた、ってどこかで読んだ記憶がある」
「ふうん、色や音の乱舞」
ハンコックの長いピアノソロが続いている。
「それにしても、朝からちょっと激しくない?」
「まあ一曲目はそうなんだけど、このアルバムは次のタイトル曲が最高なんだよ。しばらく聴いてて」
言われた通りに黙って音楽を聴く。ピアノソロの途中で、管楽器のアンサンブルが入ったり抜けたりを繰り返して緊張感あふれる展開を作る。やがてテーマのメロディが戻り、最後にベースとピアノで最初の低音のフレーズを何度か繰り返して終わる。
二曲目、「スピーク・ライク・ア・チャイルド」が始まる。ピアノの物憂げな高音。ドラムとベースがミディアムテンポでボサノバのリズムを刻む。どこにメロディがあるのかよくわからない。ピアノと管楽器が入れ替わり立ち替わりメロディを紡いでいるようにも聴こえる。どちらかと言えば暗めの雰囲気だが、重くはならないぎりぎりのところで演奏しているようだ。そのうちにピアノのソロになる。管楽器は同じリズムパターンを繰り返して伴奏している。
「確かに、変わってるけどいい曲だね」
「でしょ。この三管とピアノの絡みがたまらないんだよね」
「天気がはっきりしない曇りみたいだけど、不思議と嫌な感じはしないね」
「この曲はハンコックの知的な部分というか、普通ありえないコード進行ですごい綺麗な曲を書くっていう能力が最大限に発揮されているの。それでもってピアノの演奏も最高にリリカルで、うっとりさせられるよね」
ハンコックのピアノソロに耳を傾ける。テクニックを誇示するのではなく、その場面に合った一番美しい音を選んでいくような繊細な演奏は、淡い水彩画を思わせる。前にこの曲を聴いたのはいつだったろう。
「前にこのアルバムを聴いたときもさ、沙紀は仕事で疲れてて、多分今よりももっと疲れてたから、そのときのことを忘れてるかもしれないけど」
「そうだね。あんまり覚えてない」
「でもそういうときのために、私はこの曲をとってあるんだ。なんていうかさ、繊細な音楽を聴くと心が安らかになるじゃない? この『スピーク・ライク・ア・チャイルド』は、ジャズのあらゆる曲の中で一番繊細だと思うの。だからこれは、沙紀が本当に疲れたときのためのとっておき」
「そこまで私のことを考えてくれてるんだね。嬉しい。ありがとう」
私はみのりの頭を撫でる。みのりは屈託のない笑顔を見せる。
いつのまにか「スピーク・ライク・ア・チャイルド」は終わって、三曲目が始まっている。前曲とは打って変わって、気持ちよくスウィングするピアノトリオのナンバーだ。
「これは何ていう曲?」
「『ファースト・トリップ』。このアルバムは全部で六曲あるけど、このあと五曲目までは、『トイズ』、『グッバイ・トゥ・チャイルドフッド』と、子供時代にゆかりのあるタイトルが続くの」
「ふうん。『初めての旅行』、『おもちゃたち』、『子供時代にさよなら』か。ところで『スピーク・ライク・ア・チャイルド』っていうのはどういう意味なんだろう?」
「えっと、動詞が最初に来てるから多分命令形で、『子供みたいに喋ってよ』ってことだよね。でもどういう意味かと訊かれると、うーん」
「子供みたいに、ってことは、命令されてる方は子供じゃないんだよね、多分」
「そうだね。あ、そうそう、ジャケットがヒントになるかも。ここに写っているのはハンコックと当時の恋人なんだけどね」と言って、みのりはプレーヤーの画面をこちらに向ける。薄くピンクがかった背景の中央にハンコックの名前とアルバムのタイトルが書いてあり、その下にキスする二人のシルエットが映っている。
「すごくロマンチックだね」
「ね。大人の恋人同士の会話だと思うとさ、『そんな理屈っぽいこと言わないでさ、もっと気楽に、子供みたいに喋ってよ。二人の時間を大切にしよう』っていう感じなのかもしれないね」
「それであの曲調になるのは納得いかないけどなあ」
「確かに」と言ってみのりは苦笑する。
そのあとは音楽を聴くのに集中する。ときどきみのりが解説を加える。私がトランペットとフルートだと思っていた楽器は、フリューゲルホルンとアルトフルートだということらしい。まあ似ているから間違えてもしょうがない、とみのりは言う。
最後の曲は「ソーサラー」。アップテンポのスウィングで、これもピアノトリオだ。ソーサラー、つまり魔術師というのは、当時ハンコックが所属していたバンドのリーダー、マイルス・デイヴィスのことだという。
「まあマイルスみたいにジャズの先頭に立って走り続けた人って他にいないからね。この六〇年代の時点ではもうベテランに近くて、それでいてどんどん最新の音楽をクリエイトしていくわけだから、そりゃあ尊敬するよね」
軽く朝食を済ませて、着替えて二人で散歩に出かける。この時間はいつもそうだが、外は
「これくらいの季節が一番好き」とみのりは言う。
「そうだね。過ごしやすい気候だし、同じくらいの気温でも秋はちょっと慌ただしい感じがするものね」
同じような会話をこれまでに三回か五回くらいは交わした気がするが、そんなことはどうでもいい。ここに来て初夏の空気を味わうたびに、私たちはその同じ感慨に
「私たちが高校生くらいのころまでは、こういう芝生は子供たちの遊ぶ場所だったんだよね」
そう言ってみのりは芝生に寝転がる。「まぶしいなあ」と言って目元に手をかざす。「ほら、沙紀も」
私もごろんと横になる。雲が出ていても、日差しは顔に向かって容赦なく照りつけてくる。湿った芝生の感触が服越しに皮膚に伝わる。
「私たちが小学生のころに生まれた最後の子供たちはいま高校生だから、もうこの世には中学生も小学生も、それ以下の幼児もいないってことになる。もう誰も公園で遊ばない。ブランコや滑り台があっても」
私は黙って聞いている。目を閉じて、なおもまぶたを刺す日の光を感じている。
「まあ急に子供がいなくなったわけじゃないからみんな慣れちゃってどうってことないような顔で過ごしてるけどさ、何十年か後のことを考えると恐ろしいよね。私たちはおばあちゃんになって、下の世代もみんなおじいちゃんおばあちゃんで、一体どうやって暮らしていくことになるんだろう」
そういう話題はもちろんテレビでも取り上げられる。でもテレビのキャスターや専門家は、ある程度年を食っていて、本当に老人だけの世界になる前に死んでしまうだろう。だからこの問題についてはちょっと他人事のように見ているところもある。みのりはいま、当事者として真剣にそのことを考えている。
私も数十年後の老人だけの世界を思い浮かべようとする。でもうまくいかない。そもそも自分の十年後のことだって全然わからないのに、どうしてそんな先のことが想像できるだろう。
ふと横を見ると、みのりは大きなあくびをしている。
「眠いの? やっぱり早く起こしちゃった?」
「いや、大丈夫。なんかあまりに気持ちよくてさ」
「ねえ、将来のことはとりあえず置いとこうよ。どうせなるようにしかならないんだから。もっと気楽に、子供みたいに喋ってよ。二人の時間を大切にしよう」
みのりはぽかんと口を開けてこちらを見る。そしてすぐに笑う。
「そうだね」
私たちはそのまま横になって、雲が過ぎていくのを細目で眺め、木々のざわめきを聴いている。そして子供みたいに喋っている。無邪気に、何の心配もしないで、笑い合って。
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