秋のアマガエル

脳幹 まこと

秋のアマガエル

1.

 今朝にはあれほど降っていた雨が、すっかり止んでいた。

 私はふらふらと街中を巡っていた。何らかの目的があって外出したのに、それが分からなくなった。しばらく歩き回った後、気休めの為に自販機でコカコーラを買った。更に歩いてみたが、目的は分からず仕舞い。人混みの中に溶け込み、何者にもならない服を着る。誤差未満の存在が動き回ったところで、街は変わらずに脈打つばかり。

 そろそろ飲み場所を考える必要がある。ぬるい炭酸飲料はあまり好みじゃない。とはいえ、気軽にプシュッとはいけない。人混みで一人プシュッはわびしさを感じるからだ。ペットボトルの緑茶なら話は簡単だったのだ(無論、単なるこだわりの問題である)。


 前方で若いカップルが談笑しつつ歩いていた。おそらく近辺にある大学の生徒だろう。

 男性の手には傘。ビニールで出来た傘袋に入れている。良く見る光景だ。周囲にも同じようなものは沢山見受けられる。街に流れるのは人だけではない。情報――朗報、悲報、愚痴、痴話、世間話、自慢話の類も流れている。

 若者は歩きながら、ビニールの袋に手をかけて傘を取り出した。もうしばらく雨は降っていないし、天気予報も今後は晴れると伝えていたから。

 筒状の袋が右手から放たれた。ふわりふわりと漂い、水溜まりの上に落ちた。誰もがその流れを平然とした様子で見届けていた。

 良く見る光景だ。


2.

 私はその一連の動きから目を離せなかった。誤解を恐れずに言うのなら、ひどく興奮していた。

 何故か。疲労のせいというのもある(疲れてくると、どうでもいいことが妙に気になったりしないだろうか?)だろうが、私の心中にぴったり合致していたからかもしれない。

 不安。必要とされなくなる不安。席を奪われる不安。置き換えられ、忘れ去られ、自分を見失う。一つのサイクルに組み込まれ、その終わりに来ているかもしれない。根拠のない、言い訳に似た不安。

 眼前で起こったことは、その事象そのものではないか。ある道具がその役割を終えて、ゴミになる。まさに使い、捨てた。持ち主がいなくなった。元・持ち主は少しだけ身軽になったろう。特に気にしてもいない様子だ。将来、自分の身に起こるであろう出来事が容易に想像できた。

 訴えない人間はモノとして扱われ、訴える人間はケモノとして扱われる――私は訴えない。だからビニール袋と同じ未来を辿るだろう。


 次に私が考えたことは「誰よりも早く傘袋を拾おう」ということだった。別に「公道は綺麗に」という道徳心があったわけでも、哀れなゴミに同情したわけでもない。徹頭徹尾、利己的な欲望に起因するものだ。

 要するに「死んだばかりの道具、生まれたばかりのゴミというちょっと貴重な品を手に入れたい」という歪んだ収集欲である。

 道ばたに落ちてある煙草の吸い殻、空き缶などとは事情が違う。それらは単なる死体だ。死んだ直後だから良い。明確な一線を超えてはいるが、まだ超える前の面影が残っている段階だから良い。その一瞬だけなのだ。線で仕切った両側の性質を併せ持っているのは。

 また、同じ理屈で行けば「死にかけ」だってそそられただろう。実際、あの持ち主の男性が傘を取り出す辺りから私の胸は高鳴っていた。しかし、周りの目もあったので、奪い取るわけにもいかなかった。

 水溜まりでぷかぷかと浮かぶ傘袋。その様子を見るに、自分に起こったことを理解していないのだろうか。それはそれでまた哀れなことだ。死んだことに気付かない死物というのもまた、私的な評価を高くした。是非手に入れておきたいと思った。


3.

 そういう経緯で手を伸ばそうとしたのだが、私は気付いてしまった。今拾ってしまえば、愉快そうなカップルの行為を(意図せずして)糾弾したことにはならないか。

 同じ方向を歩くカップルから背後の私は見えないだろうが、周りの人達はどうか。彼らが捨てたものを直後に拾う。それを先述した「道徳心がある」に受け取られないか。

……それは困る。勘弁願いたい。私はむしろ、この貴重な出会いを与えた彼らに感謝したいのだ。その恩を仇で返すなど、もっての他である。

 私ははやる気持ちを抑えて、袋の側を通り過ぎた。そして数十メートルほど直進することにより、流れがカップルとの関係性を断つのを待った。これで、あの出来事を認識しているのは私だけになる。私だけが特別な感慨を持って、あのビニール袋を拾うことができる。

 無論、リスクがあることは分かっていた。お節介な誰かが「有象無象のゴミ」として拾う可能性はあるし、風や人混みに紛れて何処かに移動する可能性もある。

 Uターンして、来た道を戻っていく。どうか、拾わないでくれ。あれは私の――

 私のゴミなのだから。


 果たして祈りは届いた。傘袋はのん気に水溜まりに浮かんでいた。本物だという保証はどこにもない。もしかしたら既に拾われて、たまたま別人が同じ水溜まりに落としたのかもしれない。しかし、本物であるかの証明はできないし、それをする必要も感じられない。

 私はさりげなさを装った。周囲の人だかりに不審だと思われてはならない。拾ったことを悟られないのがベストだが、この人数では厳しい。

 だから、あたかも私が・・うっかり落としてしまい、それを拾う・・という物語を作った。財布のような目を引くモノなら芝居を怪しむ人もいるだろうが、これは使い捨てのゴミである。濡れていることも構わず握りしめると、そそくさと近くの角を曲がった。

 死んだばかりのそれは、迷子コーナーから引き取られる子供のようだった。なんというか、きょとんとしている。「もう?」なのか「やっと?」なのか、傍目からは見分けがつかない。


4.

 コカコーラの飲み場所は、それから三十分してようやく見つけた。

 プルタブに指を引っかけた時、頭の中にある考えが走った。私はこれから、このコカコーラを殺そうとしているのだろうか。この缶の存在価値は「コカコーラを貯めておくこと」であり、中身を空にしてしまえばその役割は終わる。アルミ缶はビニール袋と違ってリサイクルという道もあるが、次の姿が缶であるとは限らないし、少なくとも私との関係はなくなるのだ。

……今さら何を。そんなことは幾らでもしてきた。大体、この缶を手に入れるのに百三十円を払ってもいる。変えることはできないし、変えるつもりもない。興奮のあまり、少し感傷的になっているだけだ。すぐに治まるだろう。

 数分して、都合の良いベンチに腰掛けて、プルタブを引き起こした。心地良い炭酸の音がしたのを確認してから、ゆっくりと口に運ぶ。減っていき、軽くなり、死んでいく。

 ふと、吸血鬼の食事ってこんな感覚なんだろうと思った。犠牲者の血を根こそぎ吸い尽くすというイメージは不思議とない。死ぬまで吸うことに変わりはないが、致死量より少し多いくらいという感覚だ。終わり際の喘ぎ。冷え、震え、悶え。不可逆の破綻。そういう生死の狭間における現象を、食事がてらに鑑賞しているような。

 しかし、やはりというべきか、それほどまでにはそそられない。コカコーラの空き缶は、ビニール袋と同じ状態ではあるはずだが、あの震える瞬間には程遠い。予想できることは総じて退屈であり、興奮は退屈の反対側にある。

 雲はなくなった。空き缶入れに飲み終えたアルミ缶を放り込む。さて、元々の目的は何だったか。

 思い返す私の目前には、細長いビニールの袋達が、アマガエルみたいに水溜まりにたむろしている。

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