豪雨の夜に

坂水

短編


 ツイているのか、ツイていないのか、よくわからない夜だった。

 本州には秋雨前線が停滞していたという。一方大型で強い勢力の台風が南からゆっくり近付いていた。この台風から暖かく湿った空気が多量に流れ込み、前線の活動が活発になり、集中豪雨をもたらした、らしい。

 女の吐息を耳に吹かれた童貞じゃあるまいし、興奮すんなよ、秋雨前線。

 おかげであたしたちが乗っていた電車は一度も下車したことのない特急通過駅で止まって以来、乗客を乗せたまま、金属の箱と化している。

 自宅最寄り駅まで七駅以上、スーツケースともう一つ重たい荷物を抱えて歩くのは現実的じゃなかった。

 人影まばらな車内のボックスシートに腰を埋めて数時間、立ち上がってのびをする気力もなく、ただ凝った首を回す。

 ツイていたのは、台風が接近していた中、なんとか飛行機が飛び立ち、北海道旅行から帰還できたこと。でも結局、空港からの帰路で足止めを食っているのだから、飛行機が欠航になったとしても、同じだったかもしれない。

 ちっと舌打ちが漏れる。白く明るく閑散とした車内に思いのほかよく響いた。

 高架上の駅で、車窓からは雨に閉じ込められた町並みがよく見下ろせる。今はもうバケツをひっくり返したような豪雨ではない。だけれど細い雨がしとしと降り止まず、外灯を淡く滲ませ、街を塗り潰し続けていた。クレヨンを重ね過ぎて、黒に近くなった汚らしい画用紙をなんとはなしに思い出す。あの絵は、白シャツに色移りして腹が立って捨てたんだっけ。

 時刻はとっくに深夜過ぎを指していた。台風シーズンの旅行ということで、休みを一日多く見積もってあり、出勤は明後日の月曜から(日付が変わったので、明日から、というのが正しいかもしれない)。賢明な判断だったけれど、やはり休みが悪天候で潰れるのは面白くない。

 あたしは旅行が好きだった。というか、二日以上の休日を無為に過ごすのが許せない性分だった。休日は休日というイベントにしたい。普段の土日も、日帰りが多いけれどなるたけ遠出をする。

 たまに、毎週毎週疲れないとか、家の居心地悪いんでしょとか、インスタ映え狙ってるんじゃないのと陰口を叩く輩がいるけれど、嫉妬心の表れだから気にしない。むかつくけど。

 週明けの月曜には所内でランチミーティングがある。その時にデザートとしてお土産の四葉亭のバターサンドを配るつもりだった。お土産配りにはコツがある。間違っても朝から配り歩いてはならない。週明けの朝は往々にして忙しく、余裕がないから。お土産は口火を切るためのアイテムなのだ。お土産を配り、いかに旅が有意義で素晴らしかったか語り、SNSにアップした写真を披露し、次の有給を仮押さえするまでが旅行。まだまだ気を抜けない。

 バターサンドは、宅配便で送ったお土産とは別にして一箱(十個入り)をスーツケースに入れてある。もしもこの天候で宅配便が遅延したとて大丈夫、抜かりない。配る面子を順々に思い浮かべる――支社長、次長、主任、田中君、みおちゃん、山田さん、大河内さん、パートの内野さん、関さん・・・・・・

 数えながら、目蓋が重くて堪らず、船を漕ぐ。

 さすがに疲労が深かった。もともと二泊三日の強行軍だったのだ。まあ、荷物さえ無ければもっと自由に動き回れたのにと不完全燃焼な思いもあったけれど。

 重くとも捨てるわけにはいかない――両サイドにはべらせた荷物らに腕を回す。あくびがこぽりと雨中に浮かび出て、反対にあたしの意識は夜に沈んでいった。


 唐突な音と揺れ、そして湿った空気の流れを感じて、浅い眠りから引きずり出される。顔を上げれば、ぷしゅうと両開きの扉が開き、数名が車内に乗り込んできたところだった。

 JRの駅が近く、こちらの私鉄のほうが早く動き出すと踏んだ人たちが移動してきたのかもしれない。あるいは、駅員に誘導されたか。

 ぬるい車内に、さらに不快な生暖かさを引き連れてきた一団にまたも舌打ちが出る。

 敵意、とまではいかないけれど、嫌悪感を露わに見やった。四名。全員がそこそこ若い女。土曜の夜であり、皆、あからさまな仕事帰りというふうではなく、私服姿だった。

 最後に乗り込んできた女はやや大柄で、短髪にキャップを被り、サングラスを掛けている。黒地にburning!!!!!!!(!はもっと多かったかもしれない)と白く抜かれたTシャツを着て、ぴっちりとしたジーパンを履いていた。なぜそんなにも観察したかと言えば、知り合いに似ていたから。

 マキちゃん――牧田かな・・。以前いた支社の後輩。懐かしさに声を上げそうになり、咄嗟、押さえ込んだ。

 大柄な女と一瞬、目が合った、気がした。相手は深夜だというのにサングラスを掛けており、視線の先が断定できない。

 女は視線を逸らし、他の女たちが座ったボックス席の最後の一つに座る。あたしたちから通路を挟んだ斜向かい、その通路側へ。

 人違いらしい。マキちゃんなら、荷物を抱えたあたしを見逃しはしない、必ずあっちから声を掛けてくるはず。そも、マキちゃんの髪は肩につくぐらいまで伸びていて、服装の好みも違う。似ていたのは背格好だけ。あたしは溜息を落とし、再び目蓋を下ろした。

 少しうとうとしかけた頃、激しさを増した雨音に紛れて、女たちの話し声が聞こえてきた。低く抑えられており、不快というほどではない。ぎりぎりBGMとして許せるぐらいの。聞くとはなしに会話を辿る。


 ――いつになったら動くんでしょう。朝まで難しいのでは。お二人はお知り合いですか? いえ、こちらの方が転んだ私を助けてくれて。まあ、大丈夫でしたか? ええ、でも携帯が水没してしまって、だからご一緒させていただいているんです。情報が得られないのは不安ですものね。私たちもたまたまJRで乗り合わせたんです。あちらは線路故障が発生して、雨が止んだとしてもすぐには復旧しないそうで。それにしてもよく降りますね・・・・・・


 取り立てて実のある話ではないけれど、彼女らが全員初対面だということはわかった。なのに成り行き上ボックス席で文字通り膝を突き合わせている。車内は空いており、席は選び放題にもかかわらず。正直、気が知れない。

 その中の一人の声音はマキちゃんにそっくりだった。先ほど見間違えた女だろう。体格が似ていれば、発せられる声も似てくるのかもしれない。

 女たちは他愛ない話を続ける。今夜遭遇した豪雨についてはもちろん、悪天候の土曜日にどうして外出するに至ったか、その理由を。

 友人の見舞い、式場との打ち合わせ、映画館を出たらこの有様――などなど。


 ・・・・・・私ですか? ライブのチケット買っていて、でもお客さんが来なくてがらがらだったら悪いなって思って、一応足を運んだら休演になっていました。


 マキちゃんに似た女――ニセマキとでも呼ぼうか。ニセマキの発言に、ふふっと笑いが起きる。そういうことあるわよね、善意というか義務感が無駄になっちゃうの。

 主催側に一本電話をすれば済む話だ、たんなる怠慢じゃないのか、とあたしは思う。


 ・・・・・・問い合わせするのも考えたんですが、上演前は忙しいだろうから、邪魔になるかなとためらったんです。ホームページやツイッターでのおしらせもなかったしじゃあやるんだやるなら行かねば、SNSを更新する暇もないほど忙しいなら尚更電話はできないしと思って。結局、骨折り損だったんですが。でも、中止になって良かったです。こんな日に決行して、参加者が帰り道うっかり田んぼの様子やら川の増水やら見に行って流されようものなら、このバンド、炎上しちゃうでしょうから。


 優しいんですねー、とどこか的外れなコメントに他の女たちもうんうんと頷いているようだった。あたしにはやっぱり意味がわからない。と。

 雷鳴が轟いた。深夜の街に天から白い閃光が走り、一瞬、薄紫の光にさらされる。

 そして車内は暗転した。反射的に荷物を押さえるように腕を伸ばす。が、消えたのはほんの短い間、照明はすぐに復活した。


 ――落ちましたかね、どうでしょう、こわいですね、一人じゃなくて良かったー。


 女たちのどこかわざとらしい会話を聞き流しながら、ふいに思い出す。既視感。つい先日、同じことがあった。先月から職場に新しく入った事務のおばさんだ。フロアを出るたびに、自宅よろしく照明のスイッチをオフにして顰蹙を買う。

 そう、一人増えていたのだ。計十一名。バターサンドが一個足りない。戦力にならない人なので勘定し忘れた。もう何度目かわからない舌打ちが吐き出される。

 宅配で送ったお土産の中には、隣家用に買った北海道の鉄板土産『雪の恋人』が入っている。こちらを職場に回そうか。個数は多い。でも、ボリュームと華に欠ける。


 ――職場の違う部署に、高橋一生似の格好良い人がいるんです。この間、私の同期と婚約して。その子は地味女ジミジョで誰も二人が付き合っているの知らなかったんです。それでお局様やら後輩から絡まれたというか、やっかみ混じりの詮索が入っちゃって。でも、いい加減、その子も鬱陶しくなったのか、あの人なんかレーズンほじくり出して食べるんですよ! と言ったら、それは君がレーズン嫌いで気を引くために食べてだけだって彼にオフィスで叫び返されて、その子とお局様真っ赤になっちゃって。あ、お局様は、よくレーズン入りの手作り菓子を持ってきてたからなんですけど。


 ――上司に募金マニアがいて、いえ、募金箱の収集家というわけではなく、つまり、募金狂いなんです。ええ、賭け狂いみたいな意味合いで。たまに部下に昼ご飯の買い出しへ行かせて、おつりは全てレジ横の募金箱に入れてきてって。まあ、頼まれた子は自分の懐に入れちゃうんですが。出先で募金箱見かけて手持ちがないとATMで下ろすし。そのわりには内容問わず、節操なしの手当たり次第。いつか廻り巡って銀河に届くとかわけわかんないことぶつぶつ言って。宇宙開発に興味があるならJAXAとかもっとそれっぽいとこに寄付すればいいのに、わかんないですけど。恋人と別れてからちょっとおかしいんですよ、そんな人が二代目社長の右腕って、やばいですね。


 ――私のところは普通の文具メーカーで、まともな方が多いです。でも、以前勤めていた教材会社には、変わった境遇の人がいました。某社の創業者の娘さんと婚約して、修行のために三年だけ在籍していたという変わり種で。悪い人じゃないけど、人事部長の肝煎きもいりだったので、皆、遠巻きにしたり、妬んだりで馴染めなかったんです。私は支社長からの命で、彼と組んで仕事をしましたが。ミスもあったけど、大過なく修行を終えて三年後には飛び立っていきました。今頃、次期社長としてばりばり働いているはずです。この間、その人から着信があったんです。すぐ切れたので、間違いだったのだと思います。その後、二回着信がありました。きっと登録されている電話帳の並びが、よく連絡する方と近いのでしょうね。もう会うこともないでしょうが、恙無く暮らしてほしいものです。


 女たちは自分の職場の人間について順々に語る。別に振られたわけではなかったけれど、あたしの頭の中にもある人物が浮かび、それはやはり〝マキちゃん〟だった。彼女は、あたしが現在所属している三川支社から異動になる前にいた尾治支社で一緒に働いていた後輩で、少しとろいけれどいい子だった。会社は地元密着の求人誌を発行しており、毎号の〆切はもちろん、就職フェアなどの企画も共にやり遂げた、いわば戦友のような存在だ。マキちゃんがいれば、お土産配りも楽なのに。彼女はお土産をいつも大袈裟なほど喜んでくれた。つられて周囲も顔をほころばせるほど。あたしの異動が決まった時、別れを惜しみ、餞別に高価なブランド物のバックをくれたんだった。最近は互いに忙しくてやりとりをしていない。元気でやっているだろうか。あたしがいなくなり心細い思いをしているかもしれない。来週、一度、尾治支社に電話してみようか。

 思い出していると、ニセマキの声が響いてくる。やっぱりよく似ているので、どきりとする。ガードレールのすぐ脇を車が猛スピードで走り去る心地に似て。


 ・・・・・・私は今の職場に不満は無いです。皆、いい人というか、節度のある方で。少し前までは有給の申請がしにくかったんですけど、改善されました。


 ――ああ、上の人が休みを取らないと、下は取りにくいですものね。

 

 ・・・・・・いえ、私の場合、その逆で。


『大変ご迷惑をお掛けしています、大雨の影響で運行が停止している尾治線桑畑行き普通は明朝からの運転再開を予定しております――』


 女たちの溜息が折り重なった。そして、顔を見合わせて苦笑でもしたのか、少しの間の後、一人が切り出す。

 

 ――こうして出会ったのも何かの縁だし、良かったら、お喋りを続けましょう。疲れたり眠くなったりしたら、抜けてもらって構わない。出入りは自由で。ルールは一つだけ、決して個人の意見や事情を否定したり、考えを押しつけたりないこと――

 

 夢うつつの中、あたしは女たちの話を聞いていた。少しでも眠って体力を温存しとけば良いのにと呆れながらも。話題は色々だった。何しろ時間はたっぷりある。


 得意料理のレシピ、恋愛、結婚、家族、一日のうちで一番好きな時間、うれしかったプレゼント、うれしくなかったプレゼントとその理由。嫌いな相手に一つだけ呪いをかけられるとしたらどんな呪い?

 

 ――あんまりどぎついと後味悪いですよね。店員に気付いてもらえないとか、靴下のペアが一度で合わないとか。あ、急いでいる時、行き会う信号全てが赤になる、とかどうですか。ああ、それは地味に嫌。でも、その人と行き先が一緒の場合、自分も遅刻しちゃうから気をつけないと、あ、これ別に否定じゃないですよー。


 ふふふ、とひそやかな、でもわずかに毒を含んだ笑いが漏れる。じゃあ、今度は好きなものじゃなく、苦手なものは?

 

 ――おかずなのに甘いもの。意見を言ったあとに同意を求めてくる人。微分積分の補習テスト――


 テスト? と一人が不思議そうな声をあげた。


 ――計五回も受けさせられたんです、成績表に1付いたら留年、俺の受け持ちから出すわけにはいかないって先生に怒られて。最後には同じ問題出すから丸暗記してこいって言われました。


 またさざめきのような笑いが打ち寄せ、消える。そして、あなたは、と残りの一人に誰か訊く。疲れていたら寝ていていいのよ、と言い添えて。残りの一人――ニセマキは、いえ、大丈夫です、嫌いなもののことを考えたらぼうっとしちゃって、と返す。

 ぼうっとするほど嫌なもの。女たちに緊張が走るのが伝わってきた。


 ・・・・・・いただきもののお菓子が苦手です。

 

 ――いただきものって、お中元とかお歳暮? それとも、まんじゅう怖い的な意味合いで?

 

 気抜けた声音で一人が問う。もっと深刻な何かを想像していたのだろう。あたしと同様。


 ・・・・・・あ、いえ、本当に、苦手で。具体的には、お土産が、特に。

 

 ぽつぽつとまばらに降る雨粒のような言葉に、オミヤゲ? と他の三人の復唱が響く。しばらくの沈黙の後、一人が口を開いた。

 

 ――それって。さっきの有給と関係しているんじゃない、もしかして。


 ・・・・・・するどいですね。


 どこか諦めたような口調でニセマキは答えた。どういうことー、という比較的若い口調の一人に鋭い女は説明する。


 ――上司に有給とりまくっている人がいて、その人の仕事をカバーしなくてはならないから、貴女はなかなか有給申請できなかった、んじゃない?


 ・・・・・・上司というか、先輩でした。


 ――〝オミヤゲ〟はその〝先輩〟が有給で行った旅先で購入されたもので、貴女の労働の上にった果実なのね。

 

 それはあんまりにも飾り立てた言い様で、あたしの背中に怖気が走る。

 

 ・・・・・・有給は別に良かったんです。私はこれといって趣味もなく、今日のライブのチケットも用事ができた友達から頼まれて半値で買い取ったものでした。

 先輩はアクティブな方で、前々から行き先も決まっていたので、お休みを取られるのは当然と思っていました。彼女の代わりにクライアントに校了サインをもらいに行くのも。でも、お土産は。


 相変わらず雨は降り続き、夜明けは遠い。車窓の雨粒は雨だれとなり、景色を歪ませていた。と、闇夜に赤い蛍のような光がすうっと横切る。

 

 ・・・・・・先輩は、なるべく多くの人が揃った時にお土産を配り始めるんです。お昼休みやおやつ時に。私は下っ端ですから、皆さんのお茶を淹れに給湯室に行くのですが、戻った時にはもうお土産は配り終えられていて、だけど私の分は無いんです。


 ――貴女の分だけ買ってきてくれてない、ということ?


 ・・・・・・いいえ。私の分もきちんと用意されています。先輩はそんな手抜かりをしません。彼女・・は待っているんです。


 ――なにを、ですか。


 ・・・・・・私が、皆が食べている美味しそうなお菓子を私にもください、とお願いするのを。

 多分、その価値を高めるため。あと場を盛り上げるため。私は空気を乱さないため、大して食べたくなくとも欲しがらなくてはならない。大柄な私が小さなお菓子をください、というのが滑稽で面白かったのかもしれません。まあ、オヤクソクというやつだったわけですけど。そして乞われて、焦らして、でも施してやったなら、最終的な構図としては優しい先輩となりますよね。だから、その瞬間は次の有給休暇の打診に後ろめたさがないんです。もちろん、労働基準法にのっとった労働者の権利であって、咎められることではないのですが。


 誰も考え過ぎだとは言わない。否定はルール違反だから。ニセマキは続ける。


 ・・・・・・その先輩は四月に異動となりました。私はその人がいなくなってから久しぶりに大きく息を吐いて、無意識に呼吸を抑えていたことに気付きました。

 

 赤い明滅。タクシーが走っているのだろうか。そう、何も明朝まで運転再開を待つ必要はない。旅行後の散財は痛いけれど、これ以上疲労して月曜に差し支えたら元も子もない。あたしは荷物をまとめだした。


 ・・・・・・ひとつ、理解できないことがあるんです。


 ――なんですか?


 ・・・・・・どうして先輩は私が怒らないと思っていたのでしょうね。先輩にとって私はいじられキャラで、そういうことをして良い対象だったのでしょう。実際、先輩が去るまでは私は自分の気持ちに気付かないぐらい鈍かったから、適任だったのでしょうけど。でも、もし、怒ったなら、――


『乗客の皆様にお知らせ致します。尾治線桑畑行き普通は明朝六時からの運転再開を予定しております。ご利用の方は、お乗り遅れのないよう、お気を付けてください。繰り返します、』


 ニセマキの声が車内アナウンスに掻き消される。なんと言ったのか、続きは誰にも聞こえなかったはず。もちろん、あたしにも聞こえていない。なにより、あたしは片付けに忙しかった。ああ、荷物を両脇に抱えるのはさすがに無理かも。舌打ちが出そうになり、けれどむりやり呑み込む。


 アナウンスが終わり、奇妙な静けさが降り、けれどそれを払ったのはニセマキだった。


 ・・・・・・ところで、お腹すきませんか? 職場の方にいただいたお土産が鞄の中に入りっぱなしで。あ、賞味期限は大丈夫です、先輩以外からもらったものです。どうぞ、召し上がってください。


「お菓子いかがですか? お子さんも良かったら」


 通路越しに菓子箱が差し出される。あたしと、あたしと車窓の間にある荷物――安らかな寝息を立てている小学二年生の息子へ向けて。気付けばサングラスの視線がごく間近から向けられていた。

 耳の奥でアナウンスに掻き消されたはずの言葉が繰り返される。もちろん、あたしの妄想だ。妄想に決まっている。

 でも、もし、怒ったなら、――一番弱いところを突いて仕返しするのに。

 次の瞬間、車窓越しの空に薄紫色の火花が散って、車内は暗転した。

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豪雨の夜に 坂水 @sakamizu

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