Ⅷ 魔女は幸福であってはならない
1
神の死を忘れ魔女の死を忘れた世紀、人々は畏れるべき何ものかを失くしたことで生に惑うようになりました。どのように生きればよいのか、どのように死ねばよいのかを決めてくれるものが、もはや何も残されていなかったからです。果たせるかな、代替物として彼らは太陽と月を畏れようと、既に不在となった神の概念をそへあてがいます。かかる視野狭窄性の散瞳と縮瞳は、人間の生存戦略の帰結でもあるのです。
灰を塗した天空の命に人々はなぜ超常的なる美意識を持つのかを、彼らは神に結びつけることで、自らを神作り――神殺し――とする想念によって解釈し世界を創り変えました。畢竟、客観世界そのものに変化はないのですけれど、各々においては転変を感ずるに至るのでした。
此処、内陸国のルーラル地域にある楚々たる湖畔の町は、景勝地として知られる場であり、今日も市場に快哉を声としたような音が響きます。人々は裕福ではないながらも、それなりの平穏を享受し日々のうちに充実を感覚していましたが、近年は厄介者が現れるようになったので町民はどうしたものであろうかと苦慮していたのです。
店主は「こらっ、またお前か!」と怒鳴りました。
この町だけの問題ではありません、家を持てない人間はどこの国にも多数存在しておりました。多数は総体としての少数であって、彼らの配慮がなされるほどに国は裕福でもありません。ですから、泥棒が頻出するのも無理からぬ話でございます。とはいえ、最近来訪するのは小さくも脹よかな泥棒ばかりなのでした。
店主の妻が夫に「あらら、またあの子にやられたの?」と話しかけました。夫は「ああそうだよ、この辺じゃ猫なんて殆どいないはずなんだが……あいつ、どこから来たんだろうな?」と溜め息を混じえて諦観の言葉を吐きます。彼らにとって最大の憂慮とは斯様なことよりも、もっと別のところにあったのです。
「肉体の枷から解かれるには肉体を滅ぼすしかない、しかるにエレメントの集合体たる魂のままに存在するには死以外の方法はないだろう! 我々は真理を得た、与する者にはその叡智を分け与えよう」
「あーあ、狂信者どもは今日も元気なこった。ただでさえ怪物が出ただの騒がしいってのに」
半宵の
黒猫が快活に「ご主人! ただいま戻りました!」と報告すると、煩わしさに覚える辛気を隠すこともなく「声が大きい、もちょっと静かにせい」と魔女は注意しました。「了解ですー」と応える
魔女にとって七面倒くさい
「あ、ご主人も食べます?」「いらん、静かにしな」といった具合に、今日も主従は平穏に身を委ねていました。そんな折、ありえないことに魔女の隠れ家の扉を叩く来訪者が現れ、空気とする
黒猫は臨戦態勢をとりながら、すりすりっと絶妙な猫足を披露して
魔女は杖を突きながら醜い怪物に寄って「あんた、町で騒がれてる怪物だろう?」と訊ねます、怪物は「あ、はい……多分、そうです。あ、いきなり訪ねてすみません! そこの、猫さんが入ってゆくのを見て気になったんです……僕と同じシーだから、仲よくしてもらえるかも、なんて……」と気まずそうに双眼を落とします。魔女は振り向いて「なるほどね、その正体は我が精隷と同じシーの一種――フィノデリーだったというわけだ。同じ
精隷の
緑の怪物は言います、「僕がここを訪ねたのは、仲間が欲しかったからです。人間は僕を見ただけで怖がって逃げてしまうから、シーの
黒猫は左の前足を差し伸べて「先刻は失礼した、どうか許してくれ。私の名はアリイル・ヂールェシュ・ドゥヴ、アリイルと呼んでくれ」と詫び、怪物は「いえ、勝手にあなたの後を尾けた僕が悪いんです、こちらこそ失礼しました」とおずおず左手を伸ばし初めての温柔に接触するのでした。怪物は小心さ故に手触りに
――「名乗る名前がない? なら私が決めてやる、今日からお前は『ケリー』と名乗れ」。
醜怪な風貌。
2
怪物には本来種族上の仲間がおりました。怪物が属していた
示現した妖精自身が望まぬ限り人間が彼らを視認することは素より不可能でありますから、原住民は彼ら神の遣いなる神霊の者どもの姿をあらゆる形で想像し、ある者は立体造形としての彫刻の彫像、
掟の規定、さあれども一匹の怪物はそれを破壊してしまったのです。あらゆるブラウニーの中でも彼――
小麦色をした奴隷の少女はいつも快活に言うのです。「どうしていつもやられっぱなしなの、本気で怒れば周りもあなたへの態度を改めるかもしれないのに」と。怪物はいつも言います。「僕は誰とだって争いたくないんだ。そうなるくらいなら死んだ方がいいくらい嫌なんだ」と。少女は怪物の優しさを大層気に入っておりましたし、キーランは自分を慕ってくれる唯一の存在である少女を愛していました。怪物は許されざる恋心を彼女に抱いてしまい、少女にその想いを伝えてしまいました。少女は彼の想いに応えてしまいました。
「こんな関係、ばれたら私たち殺されるわよね」と頬笑みながら少女は僅かながらの傲慢を含み強請ってしまいました。「これからも愛し続ける仲なんだもの、キーの顔くらい見てもいいでしょう?」と。キーランは「駄目だよ、そんなことをしたら……それに、僕らには……ずっと秘密にしていることがあるんだ」と知覚されうる自己像の表露を嫌がり、それについて語ることに気塞ぎな声を見せました。少女は困ってしまっていたけれど、何かを推察したのかこんなことを言うのでした。「別に無理しなくていいよ、今のままでも私、幸せだから。でもね、私はあなたがどんな姿でも愛せるよ。キーがキーである限り……あなたは私を、同じように愛してくれる?」。
憂色の瞳に思わず怪物は叫びました。「当たり前じゃないか! 君が君である限り、僕は君が好きだ。君が僕を嫌っても嫌いになんてなれないくらい、好きなんだ」。それでも不安は止まらず「なら、どうしてあなたの顔を見せてくれないの……ごめん、困っちゃうよねこんなこと」と自己嫌悪の痛々しさを曝してしまう自己への軽蔑が加速して、怪物は情念の発火にて断言してしまいました。「わかった、君にだけ僕らの秘密を教えるよ……どうか誰にも言わないで」と、狭間となる空間の移りの中で息を整え小胆な自己を踏み越えるよう言の音とされました。
「僕らブラウニーは君たちが想像するような、神話の英雄みたいな容姿なんかじゃない。神の遣いなんかじゃない――醜くて穢らわしい、悪魔みたいな奇っ怪な化物なんだよ。もちろん、僕だって」「もういい……ごめんね、無理させて。でも本当は、そんな気がしてたの。他の妖精が姿を見せてくれることがあるのに、これだけ共に生きてきて私たちをなぜ信じてくれないのか、姿を見せてくれないのか。考えてみれば、私たちのせいなのよね……」と、少女は怪物の大きな肱を抱いて謝意を示すように、キーランは今の話を聴いてなお、戸惑いと離背と嫌悪のない彼女に対し、いかにおのれが無礼であったかを自覚し始めました。
キーランはなぜ彼女に恋をしたのか、人間を愛しているのか、自分だけが識る
生物の極大区分として設けられた
さて、キーランは少女と手底を交えて森林の奥に連れ立ちます。されども、怪物と少女の密会を密かに透き見せんとする人間がいました。この男は少女へ情欲を抱いていた者の一人であり、粗暴と横柄の故に少女に拒絶されたことで逆上し、異国から拐かされた奴隷の少女を
キーランは緘黙して彼女の星彩を眇めます。世界を照らしてくれた光を宿した
曖昧な知覚が明確となって大きく開かれた黒眼、汎発性の多毛症状と同じ姿をした怪物そのものの妖精が現前、彼は彼自身が理解するよう甚く醜怪な形色でした。キーランは少女の
自大のごとき
不会の存在者が跫音と風を混ぜ「彼奴ら、あんな木陰で何していやがるんだ?」と漸近して、射光が二人を捉えてしまうとき、頓な
――怪物が彼の国から此の国へ渡来する以前、彼自身に意識されうる過去は此処より先をひた隠して接続を拒否しているのでした。
*
黒猫は怪物の落涙を拭って「ご主人、こいつ困ってるみたいですし何とかできませんか」と猫撫で声を発しました、魔女は我が精隷の純朴さに失笑を禁じえませんでした。黒猫は人間のことが嫌いではありましたが、妖精のことは好意的に見ておりますので予想内ではあったのですが、ここまで慈悲深いのは実のところ魔女にとっては違算でありました。魔女は暫し黙考を露骨に呈しながら目を伏せます。
「あんたはフォルティスクルース出身の妖精だったが、その女と逃げ出したところで記憶は途切れ、気づいたときにはヒエムステッラにいたと……醜貌に違わず奇怪なことだねえ。それで、この地の人間なら彼女のことを知っているかもしれぬと考えたのだろうが、醜貌ゆえに恐れられ忌避されるのが関の山だったと。何だい、魔女に人捜しでもさせる気かい」と魔女は品評用の
魔女は俄に「渾名しか名乗る名前がない? なら私がよい渾名をくれてやる、今日からお前は『ケリー』と名乗れ」と言い切ります。怪物の大きな黒眼に由来した
緑眼をして「ああ! 私もまだ名前で呼んだことがないのに……図々しい奴、同情して損した!」と妬心を叫ぶ姿に失笑するものは、ひとつからふたつへと。「アリイルも、これからよろしくね」。
緩やかでもあり秘やかでもある次元の最中で、仄かに
3
生体の構成物質とは何であるか、斯様な問いに多くの者はプロティオス、ニュークリアス・アキドゥス、ないしはリポスと解答するかもしれませぬが、それらは我々が有機体となるが故の有機体への注視であって、ともすれば我々は生体内に無機物すなわち金属が必然的かつ生得的に備わることを忘れる生体でもあります。生物の体内には多彩なる元素が内在しておりますが、それらすべては生命維持に不可欠というわけではなく、余剰元素も体外環境次第では取り込まれており、生物濃縮現象の起源は論を俟たず水、食物、大気にあります。これらを転じて毒としてしまえば、あらゆる生命体は容易く死滅するのです、かるが故に『魔女――モラリス――』とはある種の道標であって墓標です。魔女とは人類を生存せしめる観念としての存在者であり、彼女たちのすべては人類を破滅せしめる観念としての存在者でもありました。両性質は不可分な一ゲシュタルトでしかありえません。
黄金の魔女とはあらゆる元素を金属とするがための呼称であり、すべからく斯くあるべしとされた魔女たちは生得的魔法の起源も知らぬまま世界に降誕させられます。人間の生命維持における必要元素のうちにはオクシジェーヌのような多量元素――体内に多量に保持される元素――に対し本来宿主へ毒性を持つ微量元素が含有されます。そんなものを我々の身体が欲すのには生理的意義が現象しているからでありましょうか。我々は、自己という物についてどれほどに無知であるのかをどれほどに確知しうるのでしょう、どれほどに不知であることを自覚しうるのでしょう。それらすべてが、仮象の風景でしかないのかもしれぬのに。
「ふん、あなたらしくもないですね」と黒猫はぼやきました。「すべての行動に動機づけを求めるんじゃあないよ、理由は理由ではなく意識された時点での結果なんだ。要するに、年寄りの気まぐれさね」と魔女は答え諭す、そして音を紡ぎ「ま、私の言葉が世界の事実ではないさ、私らの知覚世界が世界そのものではないように、銘々が自己を保有する限り客観世界の確立は不可能だ。だから力を抜いて自分だけの自己を享楽しな、退屈以上の害悪などこの世に存在しないのだから」と、精隷は形を変え人形の器を自己に付与するのでした。「二度とこの姿にはなりたくなかったのですがね、忌々しい」、黒猫は珍しく厭(えん)悪(お)を隠そうともしませんでしたが、それは無理からぬ話であろうと魔女もまた珍しく、彼女の頭を撫でてやるのでした。「まあ、まあでも、ご主人が私を必要としてくれるのなら吝かではありませんけれどね?」と気色悪いしたり顔で喜悦に浸るのを、怪物は驚嘆しながら見つめて「猫の姿も綺麗だったけれど、アリイルは人間になっても綺麗なんだね」と所感を言明します。
黒猫はそれに対し「あ? 人間のどこに綺麗な要素がある? 肌膚の露出が多く体毛の量は甚く疎ら、造形も不安定で前足を『手』とし二足のみで移動する姿、あれほど不愉快なものはそうあるまい」と愚直に不快感を露わにしましたが、怪物の謝罪より早く「謝るなよ。ケリーの価値観を否定するつもりはない、それでも私はお前と違い人間が心底嫌いなんだ」とも補足しました。黒猫が想像するよりも怪物は気にしていないようでした、というのは彼自身も人間嫌いの妖精を散見することはありましたから、彼女の感情を疑似的共感として解することは難事ではないのです。そんな彼も人間の男の形相を取って、並ぶ二人は恋人か夫婦に見えぬこともないであろうと魔女は頷きます。
魔女は提言しました。「私は一人で調べたいことがある、あんたたち二人でその娘とやらについて訊き回ってみな。ケリーは人間と話したいだろうし、お前には私の買い物を代行してもらわねばならん。合理的じゃろう?」。提言内容は魔女にとってのみの合理性が表出していましたが、二精は抗弁もなくひそひそ町へと向かいます、部屋にはかつてと同じく
魔女はそっとゆれた灰の影に、物語ります。
「げに純粋なるもの、私たちの感覚的表象から独立して経験に先立つ
――意味の存否もわからず、私の心さえ知れぬ我々は、なぜそれでも生きる?
*
「私の過去が気になるか」と黒猫が何気なく訊ねると、怪物はわかりやすく動揺し「そんなに気になるわけじゃないよ、ただ、どうしてそんなに人間が嫌いなのかなって思ったから」と言い訳にもならぬ弁解を述べます。それでは「気になる」と言っているのと変わらぬことを理解しながら、黒猫は彼に自分自身のことを少しばかり語ることを自分に許すことにしました、友と主が望むのならばと。
「別に隠すことでもない。私とお前はある程度まで似た境遇だったんだ、私たちはおのれに誇りを持っているから隠れるようなことはしなかったけれど、人間と暮らす者は少なくなかった。それこそ、お前のように人間を愛してしまった奴もいた……愚かしいだろう?」と黒猫はぱくぱく瞬きます。「そんなことはない」と言う彼への期待に、彼自身は応えることなどできません。
黒猫は思うのです、私とは本当に私であるのか、私の肉体と精神は同一であるのか、私はどこに存在し、存在していないのか……私たち妖精と同じ形をした有機体の類似性と差違性はいかなる由来によるのか。だって、自己の構成情報を書き換えてしまう妖精固有の特性を私たち自身が解していないのはおかしな話じゃないかい。同形にて身体の老いる彼らと、変態する能力を有し精神のみ老いる我々と、どちらが世界に先立つのか。私は時にそんなことを思うんだ、姿を簡単に変えてしまえる私たちにとっての本当の姿などあるのだろうかと。私たちは、本当に存在しているのだろうかと、不安になることがあるんだ。
「こちらを向きたまえ」と黒猫の呼び声に振り向いた彼の顔は、横に伸びて「何してるの……?」と鳴らしました。黒猫は得意げです。
「ご主人が私によくやる遊戯の一種さ、〝そういう顔のやつにはこうするのがよいのだ〟とかなんとか」と爪を食い込ませると、怪物は皺ばんだ額で「そういう顔ってどういう顔なのさ」と困ってしまいます。いつまでも乾きのない水たまりに見えた姿に嫉妬する、他方は厭悪する真昼の点の在る形には存在論的自律が
黒猫は彼の手を引き「町は初めてだろう、案内してやるから離れるなよ。挨拶もしておかないといけないしな」と言います、友人というよりは姉弟のような足取りで。
彼女の姿(虚像ではありますが)を見知る男は「ファラム! 今日もおばあさんのおつかいかい!」と無駄に大きく声を上げて、ケリーの方を見遣ります。黒猫はほくそ笑んで「そんなところです。あ、彼は私の友人のですね……」と手短に紹介し、彼も慇懃に挨拶を述べます。黒猫の目算どおり、会話の色葉を知らぬがごとくに戸惑う大男に商人夫婦は好意を示しました。
商人はどこで理解を誤ったのか「病弱なおばあさんのためにいつも買い物に来てくれるんだがな、昔の上さんに似て別嬪さんだしこの辺じゃ狙ってる男も多いんだ。娘に欲しいくらい健気で良い子だから、ファラムのことは頼んだぞ」と、ケリーの肩を叩きます。
しかし、ケリーは彼の言う彼女の像が自分の知るものとあまりにかけ離れているために思わず「病弱……健気……?」と漏らしました、が慌てて「あ、確かにそうですね……あはは、素敵な人だと思います」と付け加えもしました。黒猫の眼を置き去った笑みの故に。黒猫は「ケリーと私はコナリーさんが思うような関係ではないですよ、頼りなくて私が付いていなければ心配なほどですしね」と、短く結ばれた黒髪を揺らししたり顔を隠しもしません。ケリーは彼なりに彼女の扱いに慣れたようで、困ったように同意します。ただそれだけの時間が、怪物には幸せだったのです。
似た者が惹かれ合うのは必然か、黒猫は鈍色を遮り時機であろうと「実はですね、彼、フォルティスクルースから旅行に来ているんですよ。ある人を探しにね」と発しました。ここまで来れば彼らが協力を拒むことはありえませんから、ケリーは安堵しアリイルにうざったいほどの謝意を示すのですが、黒猫は心底くだらないといった風体で目を矯め人を殺したよう、嘆息しました。誰にも気取られぬよう“私”という他者を鏡に映して。
黒猫はケリーが町民に馴染めるように促しつつ、彼の人捜しを多くの者に手伝ってもらえるよう人心を先導してゆくのでした。これらは彼女ら猫妖精(ケツト・シー)の特異性が、人間への魅了性にこそ見られるがゆえに為しうるのであって、人間はあらゆる生物のなかでも猫に可愛げを覚えてしまう者が多いのです。なかでもアリイルは前時代的音楽・文学愛好者でありましたから、斯様な事情には通暁していたのです。そうした特異性は個性としての差はあれどある程度は共通し、特定の器官を「鍵」として発動するように造られています。さながら神の意志に従うようにどこまでも計画的に……。
さて、一通り町を巡り終えた頃、何を思うのか黒猫はふらりと小路へ姿を隠しました。ケリーは彼女の姿を追い小路を覗きましたが、そこに人間はおりませんでした。いるのは一匹の黒猫のみです。黒髪の代わりに揺れる尻尾が手招きするように、黒猫は怪物を無人の広場へ誘うのです。歌うように彼女は言います、「絶対正しいことは、ひとつもないんだ……過ちだってないんだ、ほんとはただ、だれかとあなたとわたしがいるだけ」。ケリーは訊ねます、「そのあなたって、誰のこと?」。黒猫は静かに首を振って「私にわかるはずがないだろう、自分で聴いて考えなよ」と、糸で繋がれた何かを怪物に手渡しました。いかなる魔法か音楽を奏でる
「ねえアリイル、これはどこの国の歌なの。僕が忘れた何かを想起させるよう叫びかけるような、言葉さえわからないのに……僕は、何を忘れてしまったんだ?」。言葉ではありません、耳慣れた音楽が優しい女性の声をして頭に響きました。
"Too-ra-loo-ra-loo-ral,
Too-ra-loo-ra-li,
Too-ra-loo-ra-loo-ral,
Hush now don't you cry.
"Too-ra-loo-ra-loo-ral,
Too-ra-loo-ra-li,
Too-ra-loo-ra-loo-ral,
That's an Irish lullaby."
この世界に存在しえない空想の大地、前世界の遺物が示す数多の言葉と音楽が彼女には記憶されておりました。黒猫は歌います、彼以上に彼を知るゆえに。
「不思議なものだよな、前世界という名の
「僕も好きだな、何を言っているかはわからないけど、それでも、好きだ。君の歌も。おかしいな……どうして僕は」
怪物は無意識の主体に従うまま落涙し、黒猫は俯きます。自らを隠すように人間となって、ただ一言「もう、帰ろう」と声を落として。そうして暮色に溶け入る子供たちの声のみが、今も二精のうちへと残存するのでした。
*
“私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、「天邪鬼」が人間の心の原始的な衝動の一つであるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが掟であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか?”
私がいまの私――黒猫――であるのは、だから、そういうことなのだろう。
私たち妖精の誕生は刹那的であり、その生は永劫にも近い。妖精は明確な死の概念も病気さえ存在しない、あらゆる生物の中でも例外的存在である。しかしながら、妖精の存在は永遠ではなく、殺害されることもあれば何かを契機に自然消滅することもあるのだが、後者の因果法則は未だ解明されていない。そう、私が魔女の傍にいるのは、あの人ならばそれを解き明かしてくれるように思えたからだ。私はいまも待ち焦がれている、
斯く私がキリスト信者よろしく死を想うのは、私そのものが死に触れたような記憶に追われているからに他ならぬ。
我が主人は異質なほどの人間嫌いであったが、反動的にか異質なほどの動物好き……いや、動物蒐集好きであった。ソフトコーテッド・ウィートン・テリアのクラリス、異国より取り寄せたヨウムのファーガス、密輸入したと噂されるクロハラハムスターのビャッコ(主人はこの名を甚く気に入っていた)とかとか、愚かなほどに私たちは彼に依存したし彼もまた私たちに依存していた。ここまで言えばわかるかもしれぬが、主人は私が妖精だなんて夢にも思わず一匹の黒猫として育てていたのだ。
あの人はよく音楽を鳴らして歌った、何を言っているのかさえ知らぬのに私はあらゆる言語で物語られる音楽に耽溺していた。私は我慢ならず主人のように歌うことを練習し始めた、もちろん主人には内緒で。
主人は異質なほど他者の評価を気にかけ怯えていた、私たちはそんな生存に不向きな人間の慰み役であった。存外心地よいのは、存在価値が他者より付与されるためであろうし、私が彼を家族のごとく愛していたからなのであろう。妖精の種類にもよるが、我々は動物的コミュニケーションは皆無でありその手法はもっぱら人間的すなわち言語的だ。姿形は違えど人間的要素を少なからず持つこの動物は、さながら霊体のようでもあるが物体的でもある。でなければ、こうして頭を撫でられることはないのだから。彼の手に噛み付いていた頃の私に殺されかねないほど、主人の優しさが私という天邪鬼にはよく効く毒であった。それとて私にとって都合のよい優しさでしかないのだけれど。
左から右へ流れる滴に打たれ穿たれていた黒猫は、一人の男に拾われた。「お前も一人なんだね、もう大丈夫だ」と朧な音無色のなかにこだまする光が無性に腹立たしくて、憎らしかった。もうすぐで死ねそうだったのに。死は平等に訪れるという言葉の陳腐さに辟易としながら、私は逆恨みの殺人を犯そうと試みた。だのに主人は、私が手を出すまでもなく死に瀕して溺れていた。
寝首を掻こうと趾行する黒猫は、彼の部屋に忍び入りあの男が地へ伏しているのを見てしまった。小瓶と水、恐らく毒薬にでも手を出したのだろう。私は明晰な思考をもって男を存命させることにした、彼にとって生は業火そのものであるから。何よりこの想いは、嫉妬以外の何物でもないのであろう。
思うに人間という動物は他と比して自殺の名手である、彼らは同種を自死へ追いやる技術において他の動物の追随を許さぬものを持つ。その想像力のゆえに。
私は忌まわしい人の姿をとって自らを構成する繊維を切り離し、男の皮膚から体内へと
私とあの人との始まりは、斯様な些事でしかなかった。されど、あの日をもって死を逃した黒猫が、何の因果か一人の死を退けることになったのだ。あまりにも出来すぎていて気味が悪くて、さながら神の残した幾何学的遺物のよう。神はとうに亡くなったのに、その観念のみがなおも呪いとして世界に残存しているかのごとくに。
私の望んだとおり彼は嘆いた……生きることも死ぬこともできないほどに臆病な男は、睡眠薬のうちに一粒だけ毒薬を混ぜていたのだと思う。私と彼は相互に死の機会を奪った
情に絆されることから避けうるほどに人も妖精も孤独には強くない、主人は最後あの幻影にいかなる感情を向けたのか私はついぞ知ることはなかった。あるいはその必要さえなかったのかもしれない。愛憎は執着という点において同一性を見いだしたる対概念である、しからば私たちの感情遷移には何ら不可解はなく誤解を恐れずに言うのならばこの事象は運命であった。
主人は言葉を発さない、強いて言うなら歌くらい。その寡黙こそが温度を感覚させる歯車となって地球は今日も回るのだ。まんまるなたいようとさんかくのおつきさま、彩るのはふわふわの音楽と世界そのものとなった私の言葉、
私はある日決断をした、再び人間の姿で邂逅を果たすこと、生涯我が正体を隠し続けることを。理由など何でもよい、現下の行為以外は影でしかないのだから。誰とも言葉を交わそうとはしない、誰かに心を許そうなど考えもしない、故に私は主人の過去を知らないし知ろうとも思わなかった。気にならないはずなどないのだけれど、痛みを知る男が女の過去を探らなかったように私もそうしたいと思ったのだ。恐らく、主人の寡黙は心的外傷をきっかけにした失声症によるもので、主人は世界そのものに絶望していたのだと思う。だのに、孤独に堪えず生に執着するおのれにはもっと……私たちは互いを慰み役として同居するようになった。
幾千を数えた初顔合わせ、あのときと同じ眼をして語りかけ不器用に頭髪を撫でる……人間不信者らしからぬ行為。会話なんて一度だってしていないのに、男はいつしか私の本当の主人となった。ただ気になるのは、彼が姿を消した黒猫について何も語らぬことであった。まったく、主人はいつからどこまでを理解していたのだろうな。
私は主人から多くのことを学んだし、主人と多くの遊戯を交えた。遊戯とはいわゆるボードゲームが主なのだが、なかでも私がハマったのは「智木盤」と呼ばれるもので、それは名のごとく木製の盤面と駒でできており、先に相手の魔女を倒した方が勝者となるゲームである。最初は何度も負けたし、勝負に負けるのは想像外に悔しくて私は喫驚した。こんな思いがまだ自分にもあったことを、私は嬉しく思った。思ってしまった。だから、勘違いしたんだ。
あるときを境に私と主人の実力は拮抗し始め、次第に私は彼の届かない境地まで遊戯に没頭していた。その度にゲームを変えるけれど、結果は変わらなくなっていった。それでも私は彼との遊戯が好きで堪らなかったんだ。
歌い方もフィドルの奏法も教えてもらったけれど、私は何をやっても彼以上に上達するのが早くて次第に主人が私に教えられることはなくなっていった。機械音楽と主人の演奏に合わせて歌うのは心地よくて、見知らぬ言語で構成された楽曲たちでさえこの耳が音を再現させてくれる。あの人が教えてくれた言葉、音楽、遊戯のすべてが、黒猫にとってはガラス玉に輝く思い出だった。
私たちは共依存関係ではなく尊重し番い合う関係となったけれど、そういう孤独への対抗手段は著しく自分を妨げる。ただでさえ不自由な彼の世界は、私によって閉じられたのである。主人はだれとも話せぬゆえに職場ではだれからも相手にされることはなく、不在者として扱われていた。
何のために生きるのかという、使い古された問いにさえ答えられない我々は何者なのか、何者でさえないのか、存在の意味もなくして生誕の熱が冷やされ続けた先、ゼロケルビンの静止へ至るのはある種の性であるか……私は主人の心を救うことは終ぞできなかったのだ。
主人が幻覚と幻聴に悩むことは度々あったけれども、ある瞬間からそこには攻撃性が生まれた。原因としてはストレス、遺伝などが考えられるがどれも推測の域を出ない、精神疾患の一種だった。それでも最初は私が主人を支えれば何とかなると、考えようとして、死に物狂いで仕事を探した。でも、私の行為は彼の幸福のためではなく私の逃避によるものだったのだろう。次第に成り立たなくなる会話と、怪物を見る瞳に向き合うことが怖くなったんだ。きっと人間なんかに理解できないだろう、存在を精神に侵されることの恐怖なんて妖精にしかわかりはしない。主人と繋がった私のうちには、あの人の描く世界が流れ込む。四肢の切断よりも細やかに千切られていく、絶対的隔絶の世界にたったひとりで泣いている。主人はもはやそんな世界にしか生きることができなくなった。どれほどの孤独であるか、私以外のだれにも理解などできるはずがない、彼を無責任にこうしたのはお前たちなのに。
どんなことをしても結果は変わらなかった。ある日、私は懇願された。主人を愛するゆえに私はそれを叶えるしかなくて、主人はほどなくして亡くなった。あの臆病な彼が私を置いてでも、生きることを拒んだ。いかなる心情がそうさせたのかなんて想像もしたくはないのに、私自身がそれを許してくれなかった。そう、私は許せない、私を裏切った主人のことが、人間という存在が、世界が許せない。逆恨みも甚だしいが、だから私はこの命を復讐に使ってみようと思うのだ。本当に狂っているのは私たちなのか彼らなのか、私はそれを知りたい。自己の身体が引き裂かれることの意味を、人間へ刻みたい。
零点の熱が、拍動を裏づける。
黒猫は今日も、肉を食む。
*
二体の獅子、猫、巨人に追い込まれる魔女の駒。先手である以上アリイルが有利なはずなのですが、アウレアの幻惑的な配置はいつも彼女の指し手を惑わせツークツワンクを誘発します。数十秒悩んだのち「はあ……降参降参。やってられませんねえ」と白旗をあげたアリイルは実に一二〇五八連敗を記録中なのでありました。観戦するケリーは何が繰り広げられているのか理解はできませんでしたが、これが対戦ゲームでありアウレアが一方的にアリイルを負かし続けていることだけは理解できました。
見ているだけでは退屈だろうと、アリイルは大きな友を強引に座らせます。「僕にはこのゲーム難しいんじゃないかな?」と予想どおりな反応に対し、魔女は彼の後ろについて精隷に
「世話を焼きすぎないでくださいよ、そいつ、自分で思ってるより馬鹿じゃないですから」
「はは、ありがとう」
「褒めてないぞ? 事実を述べただけだから」
繰り言を吐くように眼と耳がぴこぴこと運動する、負けず嫌いを隠しきれない真剣さには主人への敬意と友への闘争心が見え隠れしています。
「ルールそのものは単純さ、人間、巨人、猫、カラス、竜、魔女の駒を駆使し相手の魔女を殺したものが勝者だ。それぞれの木駒は動ける方向・範囲が限られており、例えば人間は直線状に前進することしかできない。基本は駒の移動先に相手の駒があればそいつを殺すことができるのだが、皮肉なことに人間は例外的に斜め前のものしか殺せない。まあ、手を動かした方が早いだろう」、このような具合にアウレアはケリーへ説明しながら対戦させ続けました。
裏設定の話をすると、智木の盤面とはすなわち果てしない闘争の世界です。生の境界を踏み越えた人間はあらゆる魑魅魍魎へと
魔女は人間を殺せないが、その逆は可能である。現実には魔女は人を造作もなく殺せるし、その逆は難しいはずなのに、発案者は何を思い斯様な
ルールを覚え慣れてきた数回目の対戦。
人間が歩を進め合うと、どのようにすれば確実に相手の駒を倒せるのか思案させるようアリイルは早々にカラスと猫を前面に配置します。カラスは他の駒を唯一飛び越えることができる存在であると同時に、魔女を守護する存在として認知されています。対して猫は盤面を斜めにのみ移動する駒で、こちらも同じく魔女の使い魔としてよく描かれる動物なのは周知のことでしょう。それでも魔女も黒猫も知っています、魔女の使い魔としてカラスや黒猫が使役されるのは誰かの創作した迷信でしかないということを。それでも、人はそういう勝手な表象(イメージ)を投影し続けている……人間こそが自身の表象を欲望しているのですから。
その手に対して、ケリーは人間を前進させつつ右の猫を斜めへ移動させることで相手の人間を着実に削るよう動きました。アリイルは喜びを隠せませんでした。このゲームにおいて最も弱い駒こそが盤面を大きく左右することを、ケリーは既に理解し始めていたのです。ケリーがカラスを取ったことで駒の数はアリイルの方が少なくなったので、彼は堅実に王を他の駒で守り竜と巨人へ警戒を怠らぬよう相手の猫の前に人間を配置します。そうすれば、アリイルは猫を守るために後退せざるを得ないと考えていたためです。しかし、彼女は猫を捨てもう一羽のカラスを右斜め前へ動かしました。ケリーはそれを見逃しと捉え安易に猫を取ったのですが、そこで彼はアリイルの狙いにようやく気づいたのでした。今まで意識していなかった人間がカラスの斜めに立ち、その先にも巨人が待ち受けていること、後退せざるをえない状況なのは相手ではなく自分であることに。
それからアリイルは、魔女を殺すためだけに不要な駒を次々と犠牲にして相手を追い詰めてゆくのでした。本来魔女を守護すべき駒たちが魔女の逃げ道を塞ぐように取り囲む様は、映像として想像すれば些か滑稽にも思われました。
「また負けちゃった、アリイルはやっぱり頭がいいんだね」
「お前こそ飲み込みが早いじゃないか、ご主人には勝てないだろうが私にはそのうち勝てるかもしれないぞ?」
アウレアは満足そうに、あるいは意外そうに「お前がそういう戦い方をするのは珍しいね。何か心境の変化でもあったかい」と訪ねてみました。アリイルは「ああいや、こいつって単純というか何でも言われたとおりに動くようなやつじゃないですか? だから、こういう搦手もあるんだぞと智木盤先輩として教えてやろうかと」と得意げです。ずっと負け続きなのもあるのでしょうけれど、アリイルは初心者相手でも連勝できたことを内心喜んでいるようです。
一瞬の緩みを自らに許したあと「親睦が深まったところで、そろそろ本題に入るとしようか。ケリー、『緑色の怪物』という呼び名は覚えているな?」、アウレアは訊ねます。
「もちろん覚えているよ、それがどうしたの?」、ケリーは少々訝しんでいるようです。アリイルは静かに主を見つめます。
魔女は告げます。「怪物というのはケリー、お前のことではないらしい。先入見というのは厄介な代物であると痛感する次第であるが、そも怪物を動物的に捉えていたのが誤りだったのさ」。
「ご主人、もっとわかりやすく端的に説明してくれませんか? 緑色の怪物とは何者なんです」
アリイルは少々面倒そうに問います。
「まあ待ちな、私たちは結果論者的だが原因なしに理解できるほど完全ではない。厳密には原因というのも結果のひとつに過ぎないのだが、わかりやすさと簡潔さを両立させるのは今は得策ではないんだ。まず、重要なのは数多の人間が森のなかで失踪している事実さね。以前、
アリイルは頷き「ええ、もちろんです。確かその怪物の噂の初出時期もその頃でしたよね。何でも、捜索隊の一人がその怪物を目にして逃げ帰ったとか……その人間がその後自殺してしまったとか。私らには関係ないのでどうでもいいですが、改めて不可解な事件でしたね」と応えました。加え「ケリーが人を拐かすとは思えませんし、その点ではケリーが怪物でないというのはそのとおりなんでしょうけど、そも怪物なんていないんじゃないですかねー。そんなのがいるなら、森に住む私たちを襲撃してこないのは不思議な話ですし?」とも述べます。
アウレアは概ね同意します。
「そう、ケリーが怪物とは考え難い。されど怪物と呼ばれる何かがいないとも、私には考え難いように思われる。最近、あの町に妙ちくりんな宗教団体が現れたろう? 私にはあいつらがただの狂信者には見えなくてね、お前たちのいない間に調べてみたのさ」。ここでようやくケリーが話に割り入り「もしかして入信してきたの?」と喫驚混じりに訊ねてきました。
アリイルは呆れ憚りなく毒を吐きます。「んなわけないでしょ、どういう発想なんだ」と。ですが、彼女は次の主人の発言にもっと呆れることになるのですけれど。
「そうそう、入信してみたしやつらの拠点も見てきたし宗祖にも会ってきたんだ。よくわかったもんだね」「は? 冗談でしょう?」「冗談が苦手なのは知っておるだろう。土産ももらったが食うかい?」。不思議とアウレアは楽しげでした。ケリーは無垢に「あ、美味しそう」と既に手を伸ばしていますし、アリイルは少しだけ怒っているようです。
「観光じゃないんだから……てか、ひとりでそんな危ないことしないでくださいよ! あいつら真面目な顔で『死は救済だ』とか抜かして人を殺しそうな集団ですよ。大体あなたは――」。
アウレアはゆったりと立ち彼女を制し、くしゃくしゃ頭を撫でます。それでたちどころに口を噤むしかなくなるのを知っているからです。「そうやってさあ……都合のいいときだけ甘やかすの、ずるいというか大人気ないと思いません?」など言いつつ気持ちよさに抗せずもっともっととおねだりする挙動を隠さないのは、ある種の本能でしょうか。
「都合のいい従者は都合よく使うものだ。話を戻すが、あれらは死を救済だなんて思っちゃいない。人間としての死は変態の一過程でしかなく、むしろその後の生誕、妖精として生を授かることこそがあいつらの信義だという。要は魂の
ケリーは知らずとも当然ですが、彼らは「威霊者」という呼び名で活動しており現在も信者を増やし続けています。理由としては彼らの慈善的活動が第一に挙げられ、彼らに憂き目を吐露し救われたという人間も実際にいるようです。かてて加え、観光客によって散らかった道を綺麗に掃除してくれるわけですから、騒がしい演説を差し引けば邪険にする理由はないのでしょう。
他方、アリイルは魔女の片笑みの意味を感知し呟きました、「ああ、そういうことか……」と。
「
「私とあいつは何度も互いの持つ命を消費して殺し合った。未だに決着はついていないが、私たちは相手の身近にいた命を奪い合う仲だったのさ。かくゆえに私の仇敵があれ、ジーフリートであるようジーフリートの仇敵は私なのだ。だから、私がやつを殺すために本堂を踏み荒らしたとしても不思議はなかろう?」、「じゃあ、もしかしてだけど……宗祖の人を殺しちゃったの?」
こわごわ、そんな擬音が耳に触れるようにも思われる巨人にアリイルは含意を有した息をつきました。
「そう、今日のケリーは冴えてるな。今回は見事あいつを倒すことができたんだ。あいつがどれだけ悔しがったのか、考えただけで楽しいねえ」、魔女は酷く大笑いしました。
「そんなふうに、どんなことがあっても誰かを殺して喜ぶなんて良くないよ……!」と吠えるのを見て潮時だと思ったのか、アウレアは「何言ってるんだい?」と惚けます。
「勝負事に勝ったら喜ぶのは魔女も人も妖精も同じだろう? なにせ、あいつは智木盤で唯一この私を負かした仇敵だったのだからな」
「え、ちきばん……? じゃあ、今のは全部遊びの話だったの?」
「そりゃそうだろ、突然宗祖を殺したらやつら
怒るでもなくただ偏に安堵するのは、果たして心根の甘さゆえか、そもからかわれたことにさえ気づいていないのか、どちらにせよ黒猫はやれやれと疲れた様子です。
「人の苦労も知らずに……ご主人のお巫山戯に付き合うのしんどいんですから巻き込まないでくださいよ。ご主人ラブな私だって何でも受け入れるわけじゃないんですから、そういうとこは直してほしいものです。ケリーもケリーだ、すぐ騙されるし。ご主人の言葉を真に受けてると身が持たないぞ」
アリイルの助言に「そうみたいだね、気をつけるよ」と歯を見せるので、少しは文句を言ってもよいのだがなあと、アリイルは少々の
「で、つまるところ怪物って何なんです? 誰にも姿を見せることなく人を攫う、そんなことをできるやつは限られているでしょうけれど」
ケリーも察しがついたのか「それって、僕らなんじゃ?」と漏らします。
「そう、簡単な話だよ。人間には見えないが私たちには見えるものといえば、お前たちくらいのものだ。怪物の正体は十中八九妖精と見てよいだろう。考えてもみろ、人間がすべて妖精になんかなっていたら世界は妖精で飽和してしまう。仮にこの説が正しいとしても、妖精になれるのは僅かな人間のみなはずだ。そしてジーフリートたちは人間の妖精化を確信している。あいつは恐らく、その方法・条件を探していたんだ……そして既に」
扉を叩く存在に、魔女の言葉がかき消されます。
何か恐ろしいことが起こるような予感そのものは、以前より町全体に瀰漫しておりましたが、よもや町内にこそ元凶なるものが潜んでいるとは誰も考えはしませんでした。そして彼らの足は今、真実を知る者の前に。
「夜分に失礼、おっとそう警戒するなよお嬢さん。我々に害意はない、ただ君たちと話したいだけなのだから。ここは穏当に済ませようではないか、なあ?」
主人が制止していなければ、アリイルはかの人形妖精を切りつけていたことでしょう。それが生きていては自分のみならず主人の命まで危ういと容易に透察してしまえたのですから。
恭しさを取り去ったよう歪んだ言葉でした。「随分と仲間が増えたようだな、黄金の魔女。よく手懐けたものだ、これだけ上等ならさぞ高値が付くだろう」、「それで要件は単純、明日我々の本堂へ招待しよう。かつての友と思い出話に耽るのも悪くはないだろう? それだけなんだ」。
男の話法は少々独特な癖があり、間の開け方も何もかもがアリイルには癇に障るように思われましたが、ケリーがそっと肩に手を添え「相手の話に乗っちゃだめだ。あの人、僕らを逆撫でしてるんだ」と諭すもので黒猫はすっかり落ち着いたのでした。「まさかお前にそんなことを言われるとはな」と笑いながら。
「仲間集めに必死なのはお前さんの方だと思うが、ともかく答えははっきりしているさ。お断りだ。何を企んでいるのかは知らぬが、碌でもないことだけは確かだからな。ジーフリートよ、私と本気でやるというなら命を賭せよ?」
「ふん、何を今更。生きるものは皆、とうに命を賭しているさ。それに私は、そこにいる二精の手助けをしようというのだ。私は大の魔女嫌いだが、こう見えて人間と妖精のことは結構大事に思っているのでね」
「妖精殺しの妖精が抜け抜けと言うものだ。いいから帰りな、これらは私の従者と友だ。お前にはやらぬよ」
「お前では埒が開かんな。ケリー、いやキーランよ。憶い人と再会したいのだろう? そんなに会いたいのなら会わせてやろうとも、カリンは我々の庇護のもと健やかに過ごしている。無理強いはしないが、それは君の目的ではないのかい」
「彼女が君たちと一緒にっ、それは本当なのかい⁉︎」
彼の言葉を信ずる根拠などありもしないことはケリー自身よく理解していたつもりでしたが、それでも堪えることはできません。
「ほう、黙ってたのかアウレア。薄情なやつだな。友であるお前が、その目的を成就させてやるべきだろうに。白々しくて失笑ものじゃあないか」
ケリーは友を訝しむようなことを望まない、それは二者ともによく知るところでしたからアウレアは「事実だ、お前の探し人は確かにやつのもとにいる。かつての形相をとうに失くしているがな」と端的に述べます。それの意味するところを解したのはアリイルのみでした。しかるにケリーは推察します。
「そっか……ありがとう、教えてくれて。僕、行かなきゃ」。それだけを言い残し巨人はジーフリートの前へと歩みました。
「待て待て、お前一人だとこいつの口車に乗せられるのが落ちだ。ご主人はここでお待ちを、私が必ず連れ帰りますので」
「いや、私も行くよ。お前らだけでは不安だからね」
「そんなに私の信用ないんですか⁉︎」
「そうではない、今回は相手が悪いということだ。案外、お前のことは頼りにしている」
いとも久しい率直な評言に従者は素直に喜ぶことはできず、老獪を塗り固めたような面相に余裕がないことは彼女を僅かに緊張させるのでした。彼女らの前に立つ「男」が用意した地に赴くということは、危地への彷徨に他ならぬこと。それでも立ち止まれない瞬間が、人に、妖精に、魔女に有るのはそういう世界であるゆえに。あるいは、そうした遊戯であるがために。
「話は決まったようだな、ではついてこい。道々オレたちの本当の目的を、威霊者の意味するところを教えてやる。なあ、黄金の魔女よ」。言語的間隙に映る竜、
「その前に教えてくれ、お前と主人は一体どういう関係なのか。過去に何があったのか……すいませんご主人、でも私、知りたいんです。私の知らないあなたのこと」
アウレアは珍しく微笑を見せ「私は止めないさ、殊更隠していたつもりもない」と答え、沈黙しました。
「そうかい、では少し昔話をするとしよう。300年ほど前、二人の魔女が始めた
魔女たちはゆっくり、刻んできた時を
*
「おい阿呆、はよう起きろ。張り倒すぞ」
カラスが鳴いている、図々しく耳障りな馴染み声。何度聞いても腹立たしい。
「ああ? うっせえな、羽捥ぐぞ」
私たちは誰もが認める不仲主従だった。最悪の出会い、最悪の日常、なぜ私だけがこんなにも不遜な従者を付けられねばならないのか、我が身の不幸を呪ったものであったが、のちに私とあいつが絆を結ぶことになるのは何者かの意志であったと知ることになる。
「私たちにもいよいよ妖精が用意されるらしい、楽しみだよなあ。可愛いのが来るといいんだけど」
「オレは格好いいのがいいよ。知ってるか? 先生が用意する妖精って智木盤の木駒と同じで、才能の度合いでどの妖精を付与するか決定してるんだってよ」
暴力的な私という人間、唯一の友達だったそいつは私に劣らず暴力的な人間だった。物語にもありがちな話だが、私たちは気を失うまで殴り合って、認め合って今の関係に至った。そんな私たちは、紛れもなく魔女候補としては落ちこぼれだったろう。
「上から順に竜・巨人・猫・カラスの四種類だけど、中でもカラスは大外れだって噂されてるんだよな」
「あー確かにカラスは嫌だなあ。いっつもゴミ漁ってるし鳴き声は煩いし、目とか不気味だし。どうせ才能なんてないんだろうけど、私は可愛い猫がいいよ」
「そこまで言われるとカラスも少し不憫だな……オレは断然竜がいいね。あんなに格好いい生物はそうないじゃない? やっぱ見た目がいいのは正義だよ。まあ、オレはよくて巨人くらいになるんだろうけど」
私たちがまだ人間だった頃、何の疑いもなく与えられる日常を享受していた頃、魔女と成り果てる者たちは強制的に妖精と絆を結ばれた。私たちだけではない、世界から隔絶された多数の子供が「威霊者」の卵としてこの学舎に蒐集されていたのだ。そこではみんな産みの親がいて、友がいる、人間だった。ま、今の私たちに親はいないんだけど。
「私たち、もし魔女になれなかったらどうなるんだろうね」なんて考えてしまうのは、不安に食われそうだから。
「なれなかったらそのときはそのとき、何とか元気に生きていればそれでよくない? 生きるだけでもみんな精一杯なんだからさ。飯食って寝て友達とくだらない話で笑えるなら、充分すぎる」
私の友、リンデ・ティリアはある種達観したように自身の境遇に満足している。私たちは誰しも、自分が不幸であることを信じて疑わぬのに。もしかしたら、頭が空っぽなだけかもしれないが。
「それに、魔女になれなくても社会に出られるようにわざわざ学校を用意しているんだから、なれなきゃ普通に働けばいい」
「元威霊者候補の就職率がどれだけ低いか知ってるか? 他方離職率は高いんだから私たちがまともな職につけるものか。そも生涯仕事の人生なぞ悪夢そのものだ、就きたくもない」
「どうせ最後のが本音なんだろ。威霊者にさえなっちまえばこっちのもんだが、毎年全体の1%未満しかなれないんだから俺はもう諦めたよ」
「いやいや、竜をもらう優秀なやつが魔女になるわけじゃないのは先生が証明してるし、まだまだこれからよ! 働かなくていいならもう何だってやってやるんだから」
冗談まじりの言は何割かは本気だったが、嘲笑に付されどうでもよくなって私たちは箱庭の町へと繰り出す。未来に不安がないわけじゃないけれど、今がよければそれで好い。過去や未来を見つめられるほど、私たちは成熟していないのだから。
「夢じゃねえよな……本当に俺の妖精なんだよな? 嘘じゃないよね? ねえねえ」
先生は頷き、雄々しき竜の子は自らの主を臆面もなく値踏みしていた。リンデは何と最上級妖精の竜に選ばれたのだという。事実、彼女の才能は私とは比にならないものであることをのちに私は思い知るのだ。
「誰か夢だと言ってくれ……本当に私の妖精こいつで合ってます? せめて猫とかにしてほしいんですけど」
「オレももっと優秀な奴がよかったんだがな、余ってるのがお前しかいなかったらしい。まあ、落ちこぼれなりに頑張ることだな」
私はといえば最下級妖精のカラスが与えられ、おのれの才能のなさを視覚化されたような気分だった。自覚的に嫉妬という感情に駆られたのは、それが初めてだった。
「……可愛くねえなあ。自分の立場わかってるのか? 私主人、お前下部、もうちょっと慇懃にできないのかい」
「はじめましてご主人。無能な小童を助力するため哀れにもあなたの従者に選ばれた一羽のカラスです。死にたいくらいに嫌だが役目なんで今後は魔女完成のためオレが指導してやりましょう。感謝してください」
「あ? もう無理、本気でぶん殴りたい」
慇懃無礼でさえなくただ無礼。だからこそ、私には相応しかったのだ。私にとっての精隷は、後にも先にもこいつだけだったのだから。
「まあまあ……魔女の使い魔として最も選ばれる精霊なのだからそう言わない。それに、カラスは君が思うより聡明なものだよ」
聡明というよりは不遜な気がした。
ただのカラスのくせに。ただの妖精のくせに。なぜあそこまで偉そうにできるんだ。毎日ずっとそんなことを思いながら、あいつとの口喧嘩に明け暮れていた日々。それでも私は次第に妖精との関係に絆されて、私たちはいつしか
「お前、本気で魔女を目指す気なのか?」
進路決定日が間近に迫る日のこと、我が妖精ブラウンはついと真面目に訊ねるものだから、私ははぐらかすように「なれるならさそりゃあなるつもりだけど……それが何か?」と曖昧に答えてしまう。また嫌味な説教が飛んでくることを覚悟していた。
「そうか、お前がそうしたいのなら好きにしろ。オレには魔女が憧れるようなものには思えないが、所詮オレはただの妖精だからな」
それが、あいつの本音だったのかもしれない。御高説のごとく妖精の偉大さを雄弁に語る姿には、翻って人間への意識があったのかもしれない。すべては想像に溶ける。
それから数年後、あるときカラスは述懐した。「
そんなこと、考えたこともなかった。人間が妖精と深い関係を結ぶときは、いつだって人間が優位であることはあまりにも当然すぎて、それゆえに理由が見つけられなかった。が、カラスの意図を読めた気がして私は揶揄うように「ははあ、本当は妖精の方が偉大なのに、人間は身の程知らずとか言いたいんだろ?」
「はぐらかすな、阿保が! オレたちが今、どのような状況に置かれているのか、お前も、誰も考えていない」
「そんなに激昂するなよ……ちょっと怖いぞ、お前。そりゃあ、考えたこともないし、私が才能もなくて浅慮なのはお前の言う通りだって散々思い知らされたけど、私だって頑張ってるんだから偶には優しくしてよ」
いつからだろう、多分妖精を得てからだろうな。同類だと思っていたリンデが、才気煥発な優等生へと変貌していったのは。私たちが友人であることに変わりはないけれど、能力差のある人間はそも同じ講義を受けることもできないから、自然と私たちの時間は減少していた。
「怒ってはいない、ただ口惜しいだけだ。それにオレはいつも優しいが?」
相変わらずだなと、軽口に応えようとしたところ、私の肩に留まるものだから思わず口を噤んだ。
「だが、考えてみればお前も年頃の
人間でもない動物の表情にこそ寂しさを覚えてしまうのは、私の杞憂なのか。かつてブラウンと交わした些細な話が、そのときは妙に表意的な神色で意識された。
「そういや、お前の体色って普通のカラスと少し違うよな。本当はカラスじゃなかったりしない?」
「カラスとて多様なものだ。オレの姿がなぜこうであるかは知らんが、俗に言う頭巾烏が元であろう。白黒はっきりしないのがお似合いといったところか」
何で今、そんなことを思い出したのだろう。
それにしても今日はやけに素直だな、変なものでも食べた? なんて聞いたら今度こそ怒るのだろうか。
「お前もさ、私に、その、不満とか色々抱えてんだろう。私はあんな風になるくらいなら魔女になんてなりたくないから、嫌ならいつでも言ってくれ……いってえ! 摘むなよ!」
「すまんな、少しムカついたもので。では逆に問おう、主は私のような妖精に選ばれてどう思う。もっと優秀で穏やかな妖精とやり直せるなら、そうしたいんじゃないか?」
一瞬、私は自分でも不思議なほどに、ムカついた。だから初めて、本当のことを伝えようと思えたのだろう。
「他のやつなんていない、私の妖精は最初から最期までブラウンだけなんだよ。例えあの時点で異なる可能性があったとしても今、私の相棒はお前しかいないんだから。何より、私みたいなやつの従者が務まるのはお前しかいない。だから……」
でもすぐ我に帰り、言ってて少し恥ずかしくなってきて、枕に顔を埋める。
「ふん、同じだな。オレもお前の従者でよかった」
「何だよ急に、取って付けたように……」
寝転がる私の
「嘘ではない、オレは冗談は苦手だからな。お前はオレが認めた主だ、堂々としていろ」
「……そう言われても」
それ以上は照れ臭すぎて何も言えず、ベッドに突っ伏した。最初は触れるだけで噛みついてきたのに、今は羽を撫でるこの手を黙して受け入れている。生まれたときから独りなのだから、私は決して孤独を恐れることはないと思っていたのに、なぜ「私」はこんなにも情に絆されるのだろう。果たして人間とはかくあるものであるのか。
もしもブラウンの言葉が事実で、私が私であるゆえに彼の主たりえ、リンデの友であったのならば、私は私に生まれたことを喜ぶしかない。それが少し怖いのだ。私たちは他と比し妖精を愛しすぎていた、想いの相対性から友が離れてゆくような感覚がかくも怖ろしい。妖精を利便的道具と信じて疑わない、かかる者が多数を占めるこの場所が最近は息苦しくてならない。だから私も彼女も精隷を依拠としていたのだ。
「みんな、怖いんだ。リンデは例外だけれど、優秀なやつらほど妖精を見下すのは誰かを下に置かなければ立っていられないほどに不安だから。その余裕のなさこそが、最も身近かつ従順な対象への傲慢さの所以、なのだろう? 人間が妖精を見下すのは、人間が人間である以上、自分を守るために避けられない生体現象だ」
「わかっているならそれでいい。オレの主はどうでもいいことには何もかも疎くて救いようがないが、肝心なところでは機微に聡くなる。いつも聡ければオレの心配は何もないのだがな」
貶されて褒められて感情がぐちゃぐちゃになりそうだが、多分彼は彼なりに私を好いてくれているのだろう。それを言語化してくれることは終生ないのだろうけれど。
「そうかな、私にわかることなんて頭のいい連中はとっくに知ってると思ってたけど」
「人間は忘れっぽい生き物だ、当たり前のこと、考えればわかることでさえ失念して見失う。まあ、妖精もそれは同じか」
「何であんたは妖精なのに、そんな人間に詳しいのさ。私は人間だから人間のことはある程度わかるけど、妖精のことはわからないわよ」
俄に人の形、私よりも少し幼く見える少年の形となってカラスは語る。妖精が人間となるのを見るのは、これが三度目だった。
「妖精は殆どの者が自分らしさを象徴する人間像を持ち、そに変幻する。一動物として遺伝子に刻まれた本能のように、妖精は人間を意識するよう形創られている。要は、オレたちは同じなのだ。身体構造が異なりながら機能はいと相似的。
「……同じか、その姿で言われると説得力があるな。威厳の欠片もないけどね」
「一言余計だ。カラスのままの方がよかったか」
「どっちでもいいよ、ブラウンがブラウンであることに変わりはないから」
でも、あの猫が起こした事件以来思うことがある。もしも彼が人間であったなら、私たちはより深い仲にでもなれたのだろうかと。私だって思ってしまった、人間と妖精の恋仲なんて……許されるはずがないって。でもそれの何がいけないかなんて言えなくて、今では私たちの考えこそ誤りだったんじゃないかって思ってしまうのだ。
「何が間違っていて、何が正しいのか今の私には何も判らないな。昔は何でも判りそうな気もしていたのに、我ながら幼稚だったというか」
「そんなもの解ってたまるか、オレにもわからないことがお前に解るはずもない。それは、オレたちが絶対的なものを何一つ見つけられないことを意味している。この世界の終わりまで、何が正しくて間違っていたかなど判明しようがない、それこそ神でもなければな」
これはただのお伽話。私たちの世界とは何もかもが異なるという前世界には神という創造者が実在したと言われている。そいつは何がきっかけか人間に殺されてしまったのだという。殺意でも悪意でもなくそも意図さえなく、無自覚なままに人は神を殺したのだ。言葉が比喩か事実かは問題ではなく、誰もが死を真実にしてしまったことが問題なのだとあの小難しい本は物語っていた。確か『愉しい学問』という書であったが、あれを愉しいと思える人はそんなにいない気がしている、リンデは好きそうだが。「神は死んだ。神は死んだままだ。そしてわたしたちが神を殺したのだ」と狂人が語る、狂人と常人の分水嶺とは何だろう。ただ、生みの親を殺すなんて親のいない私には贅沢にも思えたけれど、そうなることは理解できた。花雀蜂が用済みの女王を簡単に切り捨ててしまうように、一度世界が生まれ自律してしまったのなら親など不要なのだろう。何と世界は合理的なことかと、合目的的なことかと感心してしまうほどである。それゆえ彼らの妖精への態度は皆の言う合理性の観点に置けば正しく、間違っているのは私たちなのだ。
「ブラウンは神の実在を信じるの?」
だが、本当の「合理性」とは斯様なものなのか? 実在した現象たちに不合理を当てがう行為が合理的だなんて、私にはどうしても思えない。いや、思いたくないんだ。
「信じるはずがないだろう、ただのおとぎ話だ。そんなやつがいてオレたちを覗いていると思うとぞっとしない」
「まあそりゃそうね」
私が唯一尊敬する大人(要は先生なのだが)は魔女に最も重要なのはいわば生への心意気であると教えてくれたことがある。ちなみに慣用的に「魔女」だなんて呼んでいるけれどあれらの本当の呼称は「威霊者」であり、その素質に性別は関係ない。実際、私にも男友達というやつが一人だけいるわけで、この施設は威霊者発掘と同時に学舎の役割を兼ねているのは以前も述べたことだろう。だから今ならわかる、私とリンデは最初から魔女として生まれ変わるべくしてここに邂逅したのだと。
私とて魔女になるための努力は惜しまなかった、人類史学や文献学ならリンデにだって負けないくらいだ。そんな努力が報われ評価されたのか、威霊能者試験に参加することができるのは、本堂の者たちが選抜した才あるものたちだけなのだが、僅か八人のなかには私が含まれていた。リンデが含まれることは言うまでもない。私たちの呪いは、ここより……いや、その名づけより始まる。
その空間はあまりに異質で冷々(れいれい)としていた。皆が妖精と一緒に照らされた寝台に並べられていくのは、棺へ遺体を横たえるようで薄気味悪い気がした。記憶が私の気持ちを騒つかせることを意思するように、それは既視感となってゆく。
「あの、試験ですよね? 何で私たちをこんなところへ」
「落ち着けよアウレア、オレたちは二人で魔女になる、そうだろ?ただそれだけなんだから、今は静かにしていよう」
先生は微笑を崩すことなく「心配要らないよ、私も最初は不安だったけれどすぐに済む。試験という響きで筆記試験みたいなものを想像したのかもしれないけれど、試験というのは君たちの心身が威霊者に適するか否かを試す場なんだ」、そう穏やかに諭しました。
「ふん、あの落ちこぼれでも選ばれるなんて、あの教師も見る目がないな。僕以外に威霊者たりうる人材がいるはずもないだろうに」
彼の名はマグナ・レオニス。王家に仕える騎士家系に拾われた彼は、リンデが現れるまでは学年成績一位の秀才であり、以前とある事件で手を組んでこともある。自尊心の塊のようなやつで誇り高く傲慢だが、性根の悪い男ではない。私は一度、彼に命を救われているのだから。
先生の言葉に私はただ「そうですか……わかりました」と返すことしかできなかった。私が選ばれたのは先生の推薦のおかげであることは推察されたが、私はそれを喜んでいいのかわからなかった。憐れなほどに何も、わからなかった。
「先生⁉︎ これは一体……なに……………」
迷いなく術よく私たちは薬を打たれ、意識を埋める。その様子を妖精たちが静観している理由を知ったのは、この閉じた世界が何のために用意された箱庭であったのかを知ったのは、私たちが魔女と成り果ててからのことであった。
“威霊者というのはいわゆる「ガラス玉演戯者」で、ここは「カスターリエン」に他ならない。私は君が新たなるヨーゼフ・クネヒトとなってくれることを期待しているからこそ、君に『
瞬間、善意を湛えた微笑が我が名と身体に刻まれた永遠のロゴスは、象徴界に綴られた呪いとなって、魔女という『私の仮像』を出生せしめた。
*
ジーフリートは個人的な思い出を語ることはせず、私たちが旧知の仲であること、私の従えた妖精がカラスでリンデの従えた妖精が竜であったこと、魔女として選ばれたのは八人中三人のみであったことを掻い摘んで説明しました。それでも話が長引いたのはジーフリートが時折質問を投げたり、アウレアへ訊ね話の整合性を確かめていたためでした。「ここからが面白いのだが時間らしい。さあ入りたまえ、続きは中で語るとしよう。ようこそ、我らの本堂へ」
麗しき景観の中心に聳えた塔はこの町の象徴のひとつ、彼らの教会はそのなかの最上階に用意されていました。一面に二酸化珪素を並べた美麗さの向こう側では、飾られた生物が自らの生存を疑うことなく優雅に泳ぎます。ジーフリートが権力者と繋がりを持つことはこのような立ち位置を得たことから疑いようもありませんでしたが、アウレアでさえ不可解なことがいくつか残っておりました。
「ひろくてたかーい! 凄い場所だね」とケリーが燥ぐのをアリイルが窘めるのを横目に、魔女たちは再会を呪うよう茶会の席にかけるのです。事情を察した二精は急ぎ席に着いて、アウレアの話を待ちます。
「さて、続きを話したいのだが、ここまで、何か疑問点などあるかね?」
「ああ、大ありさ。お前は人間ではなく妖精だろう。ならばジークアイシャなのかといえば、そうでもない。あたかもリンデとジークアイシャの息子のごとく立ち振る舞うお前は、何者だ?」
「どうもこうも、あなたの推察どおりだよ。俺は人と妖精の間に産まれた謂わば半人半妖というやつで、それ以上も以下もない。おや、怪訝な顔、流石に黄金の魔女の「眼」は誤魔化せないな」
不思議とジーフリートは愉快そうで、自分が知らない主人の姿を知っているという余裕がアリイルを苛立たせます。
「私からもよいな?」「どうぞ」。
「お前は人間を妖精とすることに何を見いだす。人間の救済だとか謳っているが、本当のところ私怨ゆえの行為なのではないか?」
ジーフリートは本当に我慢できずに大笑して、次には表面に映る情のすべてを排しました。あまりに不自然で、気持ち悪い。
「私怨ねえ、ある意味そうなのかもしれないなあ。実際、母はあの屑教師を甚く怨んだそうだがどうなのだろうな。ただひとつ言えるのは、私は誰よりも人間と妖精を愛しているということくらいだろうな。正直、あの屑の超克概念はある種の正しさを孕んでいた、けれども不完全だったのだよ。魔女は確かに人間ではないが人間であった記憶を身体に残しており、その点において人間との差異など無いに等しい。だが、妖精は死を経て身体を捨て去ることで新生する完全なる超克存在だ。考えてみろ、これほど不可解で
アウレアは失笑して頭を振ります。
「……人間が妖精になるなんて、やはり信じ難い。それこそお伽話でしかない」と黒猫が思わず溢します。
「信じ難い? 信じたくない、の間違いではないかな? まあ君の意見もわからないでもないな、実演してみせようか。来い」
迷いなく二人が進みでました。アリイルとケリーは彼が何を行うのか理解して止めようとしたのですが、アウレアが制止します。
「なぜ止めるんです! このままじゃあの人間」
「いいから、よく見ていろ。私たちは人助けに来たのではなく真実を知りに来たことを失念するな」
呼ばれたのは若い男女二人、恋人でした。彼らは互いのコルへと迷いなく銃口を定めて、引き金を引きます。平穏な日々を演じた町の中心で頻発する祝祭の赤に、信徒も宗祖も平然と、恍惚としていることにアリイルは嫌悪を隠しもしませんでした。
「美しいだろう、これこそ愛の為せる偉業だよ。いつ見ても心を打つ、この生誕の瞬間は」
身体の集合が欠片の体を成して分裂しながらも数珠繋ぎに手を取って、形態としての動物を顕然するうちには
ああ、彼らに祝福あれ。
これよりめでたきこと比類なし。
ああ、天上の歓びがきたらん。
かくして二精は見えざるものと成り果てる。
さも打ち更けた空に曙光が差し込むような歓声が響くのを宗祖が取り鎮めると、先ほどまでの興奮が偽りに思える静けさが訪れます。
「ねえジーフリート、カリンはどこにいるのかな……」
「おや、気づかないのかい。カリンは今も君のことを視ているというのに。振り向いてみたまえよ」
背後の紗幕に描画されている薄らな影は目を凝らしてようやく浮かび、ケリーは異様に大きなそれが半人半妖の姿をしていることを悟ります。
翠色に包まれた下半身と結合された人の上半身は、深海にのみ生息しているはずの
「本当に、カリンなのかい……?」
明らかにからかいとして「本当にって、まさか私のこと忘れたわけないじゃないよね」と彼女は問いかけ、彼は珍しく怒ったように、泣きました。「そんなこと、あるはずないだろう! でも、もう二度と出会えないと思っていたから……本当に、よかった……よかったよ」。
「うん……私ももう会えないと思ってた。なんか変な感じだね、まさか私が妖精になっちゃうなんて」
彼女が妖精であることは、人としての死を経たことを意味しています。
「そんな顔で見るなよ、その子は私が見つけるよりも前に死んでいたのだから。それに、カリンを殺したのは君のお友達だ、私は救えるものに手を差し伸べたにすぎない」
「そんな……質の悪い冗談はやめてよ」
これ以上ないほどの冷静をもって彼女ははっきり告げます、「嘘ではない。その女を殺したのは私さ、なあカリン」
「……えっ、アリイルがカリンを?」
人間らしいもの、言葉にするほど陳腐な幻想が壊死した怪物の瞳が、
「ええそうね、嘘ではないわ。私はあの魔女と猫に殺されたの。騙されないでキー」
アリイルは首を傾げて「何を言っているんだ? 助けを懇願してきたのはお前の方だろうに」、ぽつり呟きます。しかしカリンが視ていたのは猫ではなく魔女であったことさえ知れば、二精が意味を推察することは容易でした。
「アウレアさん、本当は人間が妖精になること、そのための方法まで知っていたんだよね。知っていて、私を殺した。全部ジーフリートに教えてもらったんだから」
アリイルも瞳に動揺を浮かべざるをえませんでした。
「ご主人……本当に知っていたんですか」
「ああ知っていたさ、私とそやつは同じ根のもと生じた異端者なのだから」、何ものとも相対しない無彩色の
ジーフリートは演技じみた軽薄を燻らせて彼を煽りました。「君は友人と恋人……どちらを選ぶのかな。すべてを選ぶことはできないぞ、選ぶということは選ばないことなのだから」。「そういうことだ、お前の好きなように死ね」。「相変わらずですねえ、ご主人」。
片笑み。ケリーは冷淡だと曲解されるであろうアウレアの激励に、少し安心しました。わざわざ「生きろ」ではなく「死ね」なんて言うのが、素直じゃなくて、改めて彼は彼女たちが「僕」の親友であることを自覚したのです。
「ごめんねカリン、僕は君を選ばない」
アウレアとアリイルは、珍しく二人揃って喫驚を禁じえませんでした。
「な、なんで? どうして……? 私のこと、もう好きじゃないの?」、それは悲嘆より微かに動揺が勝る声色だったと思います。
「そんなわけない、あるわけないだろ! 僕は今でも彼女を想うと胸が苦しい、死にたくなるくらいに苦しいよ。けれどもね、今の君を見て今の君を想っても何も苦しくない、嬉しくもないんだよ。君はきっと僕のことを愛していると言ってくれて、僕との思い出を共有してくれる、カリンではあるんだ」
「なら!」
「でも、カリンそのものではないんだよ。君が人間じゃないからとか、妖精だからとかでもなく、カリンではない何かだから僕は君を彼女のように愛せない。ごめんね……君が悪いわけじゃないのにこんなこと言って。でも、僕は気づいてしまった、君はただ記憶の容れ物にされているだけで僕との想い出に生きていた彼女とは別人なんだって、そうなんだろう? 造り変えた記憶を流し込んで無理やり自我を持たせている、ジーフリート、君の言う救済ってそういうものなんだろう? 僕は、彼女は、そんなこと望まない。今そこにいる彼女だって、きっと……」
「やめてっ、出鱈目なことを言わないで! たしかに私のなかにはちゃんと記憶があるの! 最後にもう一度だけ、あなたに逢いたかったと願ったこの心が贋物だなんて、言わせない! そんなの許せない!」
しかし、ジーフリートは誤魔化すこともなくこの上ない高揚を隠しもせず、彼の洞察を称賛しました。「素晴らしい。アウレアとは異なる意味で、君の持つ「眼」は素晴らしい。君という存在者以外では決して到達しえない解答、素直に感服したよ」。アリイルは友の言うことの意味するところがまだ判然としなくて、主に「カリンが容れ物って、どういうことなんでしょう。あれはカリンではないのですか?」と訊ねました。
応えて魔女は「リンデは『情愛の魔女』と呼ばれていた」ことを教えます。他者に情愛を向けるのではなく、他者の記憶を目視し触れることで他者の意識・感情すなわち愛を操るゆえにその名を付けられました。愛が記憶によって維持されるのならば、記憶が贋作の愛を生み出すことは簡明に解されましょう。
「私はあなたに逢うためだけに生きてきたのに、それでも私では駄目なの……?」
「駄目なわけじゃない。ただ、僕は過去のカリンと同じように君を想うことはできない。もし君を愛するのなら、今の君自身を僕は愛したいんだ。だから僕が知るカリンとは違う、君のことをこれから知りたい。本当は、わかっていたんだ…………あのとき、僕を逃がした彼女はとっくに死んでいたんだって。それを受け入れたくないから、僕は何年も探し続けて、アウレアとアリイルに出逢い、現実と向き合った。ねえ、カリン、僕がもう一度カリン(、、、)と向き合うために、友達になってほしいんだ。あはは、だから恋人とかそういうのは……時間をかけて決めていけばいいんじゃないかな」
他方黒猫は疑問を投げずにはいられません、「でも、それなら彼女はもはや本物と変わらないんじゃないですか……?」
黒猫は大切な相手に置いて行かれてしまった者の姿に、同情してしまいました。まるであのときの私そのものではないかと、想起してしまいました。さりとてケリーは自分たちを大切な友人として選んでくれたのであり、彼の言葉と判断を咎めることなどできようはずもありません。
「いや、贋物さ。同情したくなるほど不憫な贋物だよ。よく見てみな、あいつは別に自然とケリーを愛しているわけではない。ケリーを本気で愛した女の記憶を覗き込んで、それを基に模倣しているんだ。それがお前の存在理由だと、あの魔女に生きる意味を当てがわれてな」
空虚な理解。人間から妖精へ転生したものは、本来記憶を持ちえない。今、黒猫において既知となったすべてがある疑念を抱かせ、自己省察に浸らせます。
ジーフリートは俄に問います、「さて、君たちはいま私を悪趣味な妖精とでも思うのかもしれぬが、果たしてどうかな。むしろ、再会の場を設けた慈悲深さに感銘してくれてもよいくらいだと思うのだがね。そも、君たちは模倣する者たちを贋物と呼びたいらしいが、本当にそいつは真理だと思うのか? 自分というものがどれほどに模糊なるものかを知り、君らが言うところの本物以上に自分を求めて彷徨い抗う彼らの存在を否定できるほどに、君たちは『自分になること』ができているのか?」。
初めてジーフリートから明確な感情が観て取れ、ケリーとアリイルの心は漸時揺れました。できているはずがないと、彼らは魔女の言葉に共感してしまったのですから。
「選ばないというのは、偏にお前の持つエゴイズムの表れによるものでしかない。一途と言えば聞こえはよくても、お前のために生きようとした者の意志を切り捨てることに他ならない。この気持ちが、お前にわかるか?」
「身勝手に記憶を与えて生み出したお前が、よくも言えたものだ」、アウレアは帽子で瞳を隠します。
そこで「やめて……もういいよ」と、カリンは力なく微笑みました。
「私のために無理しないで、ジーフリート。これでよかったのよ。彼に素敵な友達ができたのなら、私はそれでもう。私の最期の願い、叶えてくれてありがとうね」
ジーフリートは宗祖の面影を失くして、微かに俯きます。「いいのか、あいつと一緒に行かなくて。お前が望めば昔のように愛し合うこともできよう。俺は止めはしないが」「いいの、これが他の誰でもない「私」の選んだ道だから…………喩えこの気持ちが恣意的に用意された紛い物だとしても、私にとっては本当だから」。
カリンはケリーに瞳を向けました。緑眼の怪物たちの間に交わされた粒子には、彼女のすべてが内包されていて、繋がるのでした。
「カリン、何をするつもり……?」
震えが伝いました。
「何も、何もしないことを決めたのよ。自分に嫉妬するってなんだかおかしなものだね。私はね、本物じゃないけど本物の私がどれだけキーを愛していたか知っているよ。だから気づいていたんだ、本当にあなたを愛しているなら私はもう何もしないべきなんだって。アウレアさん、アリイルさん、キーのこと、よろしくね」
「そんな……カリンっ!」
アウレアはそっと肩を添えました、「お前が惚れた女の心意気と、お前を愛した女の覚悟、受け止めてやりな」。アリイルは何もいえず、ただおのれの抱えた罪を数え黙することしかできませんでした。
あまりにも呆気なく、証さえ残さずカリンと呼ばれたアナムは盤上から消失しました。劇的でもなく普遍的な死、彼女なりの幸福の死。救済された生。少女の最期の志向を知る者は、この世界にただふたりとなりました。
「悲しむなよ、妖精。愛とは欲望であり、愛の欲望とはそれ自体が歓びなのだ。彼女はお前から愛されることを選ばなかった、羨ましい限りだよ。なあ、アリイル」
途端に興味をなくしたように、ジーフリートは黒猫へと問いかけるため彼女は鑑賞に浸る間もなく警戒しました。「さて、次はアリイル、君の番だよ。かつて人間と愛し合い同衾までしていた者が、幸福にも思われる日々のなかでなぜ自死を望んだか。知りたくて堪らないだろう?」、「なぜ知っている、なんて言うのは愚問か……言っておくが、私とてお前に付く気はない。今更あの男に逢って話すことなどあるものか」。
アリイルは自分を一哺精動物としての黒猫だと思う反面、通常の猫ではない一妖精であることを理解しています。なぜ妖精と人間の絆が深いのかも、人間に焦がれてしまう妖精が存在してしまうのかさえも知れず、私たちはどこまでも不知の膜に閉ざされているのだと。この世界では人間と妖精が終生添い遂げることも珍しい話ではありません、現実でも物語でも。だのにそを禁忌とするのは今が破壊されることへの恐怖ゆえなのだと、アリイルは事解しています。そんな人間が、本当は今でも憎くて、どうにかしてしまいたい欲望が化膿している。それゆえに、愛している。
「ケリーはいつの間にか、強くなったのだな」
予想はしていた、覚悟もしていた、けれども向き合うと脚が竦む。あの頃と何も変わらず、何も語らない彼は何の因果か黒猫の姿をしてました。まるで私という存在の頸木となる存在になったように、生きることを望まないあの瞳が訴えます。なぜ「僕を忘れて生きようとしたのだ」と、呪詛のように
「ご主人、これは私だけの問題ですから手出ししないでくださいね。さもなければ」
「安心しろ、お前の戦いが終わるまでは傍観者に徹するさ」
「……ありがとうございます、愛してますよご主人」
ケリーは不思議そうに彼女らのやり取りを眺めて、自分には識りえぬ境地に微かな羨望を抱いて、終局的には笑顔で頷くしかありませんでした。悲しむことは何もなく、呪うべきものは何もなく、「僕」だけがここにいる。そんな自覚のゆえに、
客観世界のすべてが、自己に帰す。想い語ることこそ、私たちに欠けていたものなのだ。
「あなたは、覚えている……? 空想とは、現実からの逃避でもなければ現実の否定ではありえず、ではなんであるかと言えば私にはまったくわからない。私に言えるのは私の空想でしかなく、それ以外は私の出る幕はない……私の空想は私を、私の世界を守る“手段”でしかなくてそれゆえに私の生には不可欠であった。生きることに不向きな存在者は存在維持だけで精一杯なのだ、歓びなどは皆無な生だ。私は自己に存在意義を持てない、そんなものを持つ奴がどれほどいるというのだ? 私たち弱者はそれでも生きる、存在そのものに意味も意義も関係ないのだから。生きることと死ぬことに境界はなく、生は常に死を欲するように仕組まれていて我々はこの理に従事する。生誕の悲劇から逃れるよう」
私たちは見つめ合う。
「口に出すなって? 嫌だよ、私はもうあなたのものじゃないんだから。恥ずかしがることはないでしょう、あなたの言葉、私とても好きだもの。厳密には彼ではないのだろうけど、あなたは彼の現し身なのだから。私はあなたが彼とはまったく異なるものだなんて思えるほど、豁然としていないから」
静寂の言葉が流麗に聴こえくる。
どうしてこんなに、懐かしいという想いは胸に刺さるのだろう。
「そうだね、生誕の歓びも悲しみも私たちの勝手な、無意味な解釈なのに自分の正しさを証することができるなんて、思い上がりも甚だしい。ねえ、あなたは生存を捨て死を選んだのでしょう。身勝手にあなたを蘇らせたそいつ、あなたは憎くないの?」
どこにでもあってどこにも見えないありふれた地獄、それこそ世界なのだと確信する。かような行為を否定してはいけなかったのであり、由なし事のみが連なる意思と表象の世界を生きる者たちは決して誤謬などではない。
「わからないって、そっか、そうよね……たしかに一生そんなのは私もうんざりだ」
、 、。
「え、意外と大胆だね。こんなところでやめなよ……恥ずかしいな」
、 、。
「私もあなたのことは好きだよ。姿形とか記憶とか実感とか、案外私はどうでもいいもの。私は我欲が強いから、知ってるでしょ?」
、 、。
「苦しいのに嬉しいな、あなたともう一度話せるの。あの頃の「私」がこんなにも生きているなんて意想外で、今すぐにでも殺したいくらい」
、 、。
「ありがとう……本当、あなたって甘いのね。でも、あなたは今の私の主人ではない、あなたの死とともに私たちの絆は惨たらしく死んだんだよ。私の主人はもうあの人だけさ。けれども、あの瞬間、あなたと愛し合った瞬間のすべてにおいては、あなただけが
、 、 。
「ええ――私も愛していましたよ、 。だから、今度はあなた自身が愛してあげて……私も、頑張るから」
世界そのものへの愛が憎悪へと覆され、その憎悪が混迷となり今に至る。魔女が仕組んだ
私は幸か不幸か、ジーフリートのおかげで確知した。人間と妖精という連関に存する絆の意味、妖精のうちに人間の存在が色濃く映る訳を。ゆえに私は自分への赦しを受け入れようと思えたのだ。
「私もかつては……、あなたと同じ人間だったのだから」
然り。すべての妖精は人間としての形を意識するようイド内にデザインされている。もはやその理由は語るまでもないのだろう。
「さあ君よ、選びたまえ。オレたちは形ばかりの、幻想の想い者に焦がれている。可也烈しき霖雨はなお
さあ君よ、選び、歩きたまえ、――実のない花ほど雄弁であると、君にもいつかわかるときが来るだろうから」。慈愛を込めた言志で、半人半妖の魔女は子の背を押して嘲笑しました。
元主人――黒猫――は何も語らずに、怯えた足取りでジーフリートという親に離背して、私の前に傅き秘したる形態たちを
「なるほど、やはり徒に記憶を与えても同一性を保持することは難しいのだな。さながら解離性同一性障害者の風態、自分ではない何者かの記憶を埋め込まれた別人としての自我が残存するらしい。となれば、完全なる複製には転生以前の記憶以外を排してしまえばよいわけだが、何とも難しい課題だな……………それは妖精なのかはたまた、擬似体のゾンビ、いやスワンプマンなのか」
独言に耽る彼は先ほどとは別人でした。
「どちらであろうとお前は止まらぬ気だろう。いいかよく聴け、どれだけお題目を並べたところでたかが魔女、妖精、人間ごときに世界を変える力はない。諦観と肯定を過つな、独りよがりの善意で他人を救済する権利など誰にもない」
「ああ……ああ! そうだな、そうだよなあ? お前はいつも正しかった、だから私は権利など求めもしないのさ。救済の可否を決めるのは当人以外の何者でもありえない、私に救われたなんて戯言は誤謬でしかない。私に善意があるなんて笑わせる話だ、私は私の生きたいように生き、君は君で死にたいように死ぬだけなのだから。だから安心するといいキーラン、アリイル、いつか君たちに本物の想い人を見せてやろう。それが私の救済なのだから」
認識の淵源とは何であるかわかるかね、と俺は問う。お喋りな黒猫が「経験」であろうと述べたものだから、意地悪く君の言う経験とは体験と何が異なるのだろうと問うてみた。私たちの意識・無意識にかかわらず生ずる対象者の接触すなわち刺激の受容、それこそが経験だと言うのだろう? だなんて、面白くないことに、彼女は俺の言葉の原著を見知っているらしい。その意味では経験とは触発であり、イマヌエル・カントという男は二通りの経験的触発を提示している。それは受動的であるか能動的であるかで区別され、前者では俺たちの感覚に対象が働きかけることで我々の裡に「像」を生じせしめる。これを感性と呼ぶ。他方後者は知性と呼ばれ、多様な像を比較・
「時間のなかにおいては経験に先立つものは何もなく、それゆえ多くの認識は経験の後にアポステリオリ(経験に後れる)なものとして来訪する。私たちの科学(まほう)のすべては、かかる類いの認識に拠って成るのだ」
懐かしさに駆られる衝動と並び、俺にはその続きが明晰に浮かぶ。あやつとてそれは同じことであろう。
「だが、すべての認識が経験に後れるわけではない。経験に先立ついわゆるアプリオリな認識は、さらに絶対的にアプリオリな認識、相対的にアプリオリな認識に分けられ、前者はさらに純粋にアプリオリな認識と純粋ではないアプリオリな認識に分けられる。それぞれを相対的認識、絶対的認識、純粋認識、非純粋認識とここでは呼ぶが、まず、相対的認識はいくらかの経験に基づき妥当した認識を指す。握られた果実を離すと落下する、という我々の判断は物体の重さから支えをなくせば落下することを経験により確認していることが必要であるが、その事実そのものは我々の判断なしに成立する。その意味でこれは相対的なのだ」
「対して絶対的認識はあらゆる経験から離れている。しかし、すべての出来事には原因があるという命題の正しさが経験を必要としないとして、出来事という概念はある状態から何か異なる状態への変化であるゆえ、出来事という変化を経験しなければこの概念を理解することは叶わない。この認識そのものはアプリオリでも、経験が必要な時点でこの絶対的認識は不純なのだ」
「では純粋にアプリオリな認識とは何か、という話になるがここでは「物体は広がり(延長)を持つ」という伝統的命題を見ておこう。心身の二元論者としても有名なルネ・デカルトという男は実体を「存在するために他のいかなるものも必要としない存在者」と定義し、人間が理解しうる実体には二通りあると言った。それは、思考する精神と広がりを持つ物体だ。すなわち定義の時点で物体のうちには広がりの概念が含まれるのだから、物体は広がりを持つという命題は物体という主語を見ただけで正しさを解せるのだ。
さて、私がなぜこんな話をしたのかわかるかね?」
「ただの答え合わせだろう。好きでもない哲学者の本を読むのは苦痛だったが、これはお前の愛読書だったからな。私にも読めるよう、わざわざ翻訳までして贈るものだからいい迷惑だったさ」
「まだ持ってくれていたのか、嬉しいよアウレア。本当は私はずっと、お前のことが好きだったのだが、こうならざるをえない世界は酷く残酷に思えるな。それが運命だとしても」
「気持ちの悪いことを言うな。私はお前が憎いし、お前は私が憎い。それだけでいいんだよ」
情愛の魔女と黄金の魔女は、どちらかを殺すまで世界を呪わずにはいられない。魔女という存在そのものが、呪いでしかない。アウレア以外には、俺の言葉は届いていない。俺はずっと攻撃を仕掛けていたが、黄金の魔女が丁寧に防ぐものだからあの二人を手駒にするのは諦めるしかなさそうだ。
「しかし、私の主人を知った風に語られるのは存外腹立たしいですね」
「抑えたまえ、私の方が君のご主人様について詳しいのは事実なのだから、なあ?」
「それはそうだな」
「ちょっと! どっちの味方なんです⁉︎」
「まあそう怒るなよ、今まさに君は主人について多くのことを知ろうとしているのだから。昔話を再開しようか、私たちがいかにして降誕したのか、その顛末をも語り終えたとき、どうするのか決めればよいさ」
アウレア、今回の勝負は俺の勝ちらしい。だが、まだお前は殺さないよ。俺たちの生きる意味を簡単に終わらせるのは勿体ないだろう。あるいは、端からお前は人の生死に興味がないのかもしれないな。自分のためだけに生き、自分のためにすべてを犠牲にする、俺たちはそういう物だろう?
*
光があった。
光は空気とともに数多の色をして宇宙のように明滅していた。見えないものが見えているかのごとく、世界の在り方が変わってしまったかのごとく。体内に映る光の奔流を認知し、もはや人ではなくなった無音の鼓動を聴いて、おのれの魔女化を認識した。
八人のうち、威霊者に選ばれたのは私とリンデとマグナの三人のみで、他の皆はどこにもいない。その後、消えた者たちを見ることは一度もなかった。
「おめでとう、こうなることはわかっていたが教え子の威霊化は格別の喜悦だ。言ったとおりだったろう、君は選ばれた人間だった」
一定の音とともに我が恩師が現れる。
「……先生のおかげですよ、あなたに認めてもらえなければ私は卑屈になって落ちぶれていたでしょうから。本当にありがとうございます。ところで、他の皆んなはどこへ?」
「俺も気になるな、先生。私たちの他に威霊化したやつはいないのか?」
三人が目覚めと同時に抱いた疑問に、彼は悠然として答える。
「残念ながら、今年選ばれたのは君たちだけだ。とはいえ、一人も選ばれない年も珍しくないのだから今年は豊作といってもいいのだがね。安心したまえ、彼らは落胆こそしてはいるが自室でゆっくり休んでいる。今はそっとしておいてあげてくれ」
「まあ、ここまで頑張って報われなかったのだ。凡人には耐え難い痛苦となるのだろうな。僕のように運命に愛された男など僕とリンデ以外はそういないのだから!」
「ほお、誰が男なのかなマグナ君。魔法の試し撃ちでもしてあげようか?」
そうだ、リンデは一人称が「俺」のくせに性別への拘りは存外強い。私からすれば気にするほどのことでもないのだが、彼女は自分が女であることに矜持を持つようにそれに固執する。それは面倒なところではあるけれど、友人の可愛らしい大切な一面でもあった。
「こ、言葉の綾だよ、そんなに怒らなくても……同じ威霊者の仲間だろう」
「何だ、あんたも仲間だったんだ。私の仲間はアウレアだけだと思ってた」
「おいおい、その辺で許してやりな。マグナ、お前に言われると結構ヘコむんだぞ?」
今日の彼は妙に素直で、「申し訳なかった」と頭を下げていた。
「無意識に
「そんなことはない! 君は言葉こそ粗暴なところはあるが、気質は高貴そのものだった。男性とか女性とかではなく、一人の人間として君は僕にとって尊敬すべき人だったんだ…………言葉にすると存外恥ずかしいものだな」
彼は心の底から安堵して、歓喜しているのだ。本当は自分が威霊化に失敗するのではないかと、呪いにも近い期待を裏切ることへの不安に押し潰されそうになりながら、それでも戦い抜いたのだ。私の唯一の男友達はそんな人間だった。
「くふっ、やっぱり面白いなお前。ならそういうことにしておくさ。よし、数少ない威霊者仲間なんだ、今夜宴会を開くのも悪くないと思うがどうよ?」
「お、いいねえ。マグナも今日くらいは遊んでいいだろう? 私たちがそれぞれどういう能力を得たのか気になるしさ」
「……まあ、君には借りがあるからな。そんなに僕に来てほしいのなら、行ってやってもよいだろう」
私に対して素直でないのは、ある意味私が彼にとって気の置けない友人であるからなのだろう。生の暗さを歩くのにひとりでは寂しすぎるから、私たちは他者を欲する。同時に、他者を疎みもする。不自由に在ることを欲する。同時に、自由を意思する。どちらも欲望で、どちらも本当だ。私の認知限界に至るまでは。幸福たるべき今を笑えないのは、この瞳がそうさせているからなのか、今の私にはわからない。
「ははは、仲がよいのは結構だけど、あまり騒ぎ過ぎないようにね。来週の式典まで君たちはゆっくり休みたまえ」
「あの、先生は休まないんですか?」
「夏休みにも教師は仕事をするものだよ、気にせず楽しんできなさい。この場所で、君の大切な友と過ごせる時間もあまり多くはないのだから」
先生だけは私の存在を最初から認めてくれた。私という落葉を拾い上げた、私にとっての父であり、師であり、永遠にも思える憧憬の対象。私が「先生」と呼ぶ唯一の人は、思えば一度も私を叱責したこともない。だからといって甘い人というわけではなく、穏やかに棘のある注意をされることは何度もあった。そういうところも含めて、私は彼を尊敬していたのだ。
ここ、すなわちカスタリアは暮夜になるにつれ静寂に包まれてゆく。誰しも敬虔なる威霊教の信徒であるゆえ、規則正しい生活が人々に馴染んでいるのだ。というのも、カスタリアとはこの町の名でもあり、私たちが暮らす学舎の名でもあるから、この町に住むのは殆どが学舎出身の者なのである。
「空気中の粒子を視覚できて、それに触れることができる……何それ、格好よすぎじゃない?」
「そうかな、他人の心を読めるだけでなく操れるなんて、そっちの方がぶっ飛んでる気もするけど。リンデじゃなかったら一緒にいるのが怖いくらい」
マグナは神妙な面をして私の威霊術について考察していた。
「君がいま実演してくれたよう、君は空気中の物質から黄金を造り出してみせた。それは、空気中にある不可視の物質を変換することであり、この世界の規則から見て信じ難い芸当だ。しかも本人はどういう理屈かわからず感覚でできてしまうというのだから、もしかするとアウレアは君の先生以来の天才威霊者なのかもな」
あの高慢さが服を着て歩いているような男がここまで言うことには喫驚したが、あの先生と肩を並べることができるのなら私にとっては喜悦の至りとなるはずだ。そう思って、思えなかった。
「そんな……私なんかは普通なはずだよ。リンデやマグナの方がずっと成績は上で、私はしがみつくことに必死だったのに、いきなり天才だなんて言われても」
それ以上に私は、明らかに普通でなくなった自分が、以前の自分と同じ私であるのか確信できなくなっていた。私は、私たちは威霊者だ。だが威霊者は人間ではなかったのか? これではまるで人間ではない別の生物のような。
「気になるな、威霊者はそれぞれ固有の威霊術を得るとは聞いていたが肉体的変化があるというのは僕も聞き及んでいなかった。自分の体が自分のものではなくなったような、違和が拭いきれないんだ」
彼の威霊術は魔法的な能力というよりは、単純な身体能力の向上だった。私が造り上げた黄金を片手で器用に割ってしまうのを見て、私たちは言葉を失った。私たちはもはや化物と変わらない何かなのだと、理解させられた。
「お、料理がきたぞー。まあさ、威霊者になっても俺は俺、アウレアはアウレア、マグナもマグナだ。別に特別変わったことなんてない、だろ?」
それが本心であるかどうかさえ、わからない。
「それもそうだな。威霊者はその力を振るうに相応しい者が選ばれるのだ、僕らが力に溺れたり振り回されるようなことはないだろうさ」
「そうだよな、ごめん。まだ慣れないというか信じられなくて、私が本当に魔女になっちゃうなんて。ああでも! これで無限に黄金を造れば一生働かないで生きるという夢が達成できるじゃない! なんて素敵なことかしら」
リンデは歓楽に微笑し、マグナは呆れて苦笑した。私たちはきっと死ぬまでこうなのだろうと信じることにした。もしかしたら誰かの妻になったりして子供ができて、お婆ちゃんになる日が来るのかもしれない。それでも私たちが繋いだ絆は、永遠に世界に証を残すことだろうと、信じることにしたのだ。
*
私たちが卒業してから、世界は大きく変化してしまった。本当に何もかもが変わり続けていて、認識したときには終わっている。世界の内部では多くの処理が行われているのに、私たちには表面の動きだけが世界のすべてのごとく映る。機械と何も変わらない、私たちは生きていると確信することはもはやあり得ず、ただ断言しうるのは神の不在くらいだ。
「なあ、リンデ。どうしたら私たちは、もっとうまくわかり合えたんだろうな。数えきれないほどの骸の上に立ってまで、生きるその意味が魔女にあるのかな。人間をやめた私たちって、生きてさえいない私たちって、何なんだろうな」
「馬鹿らしい、なるべくしてなっただけだろ。もう、わかりあえるはずないだろう、俺はお前の妖精を殺した。お前は俺の妖精を殺したじゃないか。それだけで充分だろ、俺たちが殺し合う理由――生きる理由――なんて。俺の生きる意味を奪ったんだ、赦されるなんて思うなよ?」
「それでいい、他人に赦しを乞うなんて愚者の鑑だからな」
私たちは異なる立場を取り、命を懸けて殺し合った。何十年も不眠不休で戦い続けた。私たちには食事も睡眠も不要だから、眠ることはできないし味覚もとうに消え失せていた。だから、彼女との殺し合いは本当に、本当に楽しかった。生きているような心地に酔うことができた。自分とは無関係な駒が死んだとしても優位になるなら何も問題はない、むしろそれはそれで楽しかった。気持ちの悪い人間がさらに気持ち悪く腐ってゆく醜悪さに、失笑していた。
「馬鹿だな、お前が私に勝てるはずないだろう。
最期に何か言い残すことはあるかい?」
彼女の魔法は私には届かない。創作した愛は所詮、物質の伝達情報に過ぎないのだから私に対しては
「くたばれ糞ったれ…………さぞ満足だろうなあ。俺から大切なものを何もかもを奪って。お前なんて生まれてこなければよかったのに、それでも、お前は俺のダチであり、俺はお前のダチなんだよな、笑えるな。わかるんだよ、相互に憎んでいるが、同時に愛してもいるんだって。この感情は矛盾しているようで、両立しているんだよ。だから、お前は逃げられない。私の愛からは逃げられない。魔女が魔女である限り!」
「そうかい、そのときはまた殺してやる。私はお前の
「ばーか、そんな世界……あるはずないだろう。俺たちは呪いなんだよ、この世界へと手向けられた神の力の代行者だ。生の始まりも終わりもなく、ただ俺とお前とそれ以外の誰かがいるだけ。世界ってそれだけなんだよ」
「世界を解った気になるな、私たちはまだ何も知らない雛鳥でしかない。何も知らなくて、誰も知らない、信ずるに値するものなど何もない、だから信ずるか信じないかは各々が決めればいい。私は、この世界を生きてゆく。私だけのために」
「やっぱりわかり合えないな、俺たちは。だがな、お前が知らない多くのことを俺は知っているんだぜ。威霊者と妖精の正体、お前は自力で辿り着けるかな」
「辿り着くさ、どうせ死ぬこともできない身だ。気長に世界のすべてを暴いてやるから、安心して待っていればいい。じゃあな、愛していたよ、リンデ」
魔女の構造が崩壊して融ける、土に混ざり風に飛ばされ消える。魔女の残滓を目睹しながら、私は旅立った。黄金色に染まった二国を見ても心が動かないのは、もはや人間への興味が失せていたからだろう。気まぐれに殺めて、気まぐれに救う、幼い頃に見た『小さい魔女』とは大違いの救い難い怪物は生きるために生きていた。
取るに足りない物語りを終えたとき、私のなかに残るのはあの頃の空虚と現今の情動と、言葉。世界を創造する言葉、魔女の魔法とはそれだけのものでしかない。彼女はそのために世界を破壊するつもりなのだ、ただ愛する者を取り戻すために。
*
「勘違いしないでほしいのだが、魔女というのは何も化物ではない。身体はもはや動物のそれではないが、妖精と同じよう確かに意思を持って存在している。妖精の構造を取り入れた不完全な人間こそが魔女の正体だ、でなければ我々が斯様に特異な威霊術を得られるはずもないからな」
「ふん、随分と端折った昔話だったが、もういいだろう。お前の愛、今度こそここで断ち切らせてもらう」
滑稽だと思った。
俺にはお前を殺す気などない。
なぜ俺がこの町の中心に居座ったのか、お前なら解ってくれると思ったのだが。
「その前に、説法の時間だ。悪いがそこで見ていてくれ。君らも無関係な人間を巻き込みたくはないだろう?」
光が満ちてゆく。
緑に染まった粒子たちが細胞に触れることで、自己複製子は変異し始める。
「人間というのは不自由であることを求める!
なぜか? 人間は孤独には堪えられないからである!
人間というのは誰かに認められたがる!
なぜか? 人間は自分の存在を他者に定義してもらいたいからである!
人間というのは単純さを求める!
なぜか? 世界の複雑さをありのままに受け入れることは、人間の認知限界を遙かに超えるゆえ不可能なためである!
人間は世界をありのままに肯定して生きることはないだろう、そんな存在はもはや人ではないだろう。では、人間はいかにして世界と向き合うべきなのか、私はそれを世界に伝える必要がある! よく聴くがよい、人間の世界には三種類の世界が存在する。それは『膜』の世界、『核』の世界、『網』の世界だ。この網の世界こそ、ありのままに在るアプリオリな世界と言ってもよいだろう。
原子時代の生命が細胞膜らしきものを持っていたという事実は、生命そのものが境界を同定する機能を有していたことを意味し、その膜は生体内における断続的な化学物質の変化としての代謝のネットワークを構成する、一部分となる。膜とはネットワークの一部であり、ネットワークの内と外を同定する役割を持つのだ。
君たちも「シュレディンガーの猫」くらいは聞いたことがあるだろう? かのエルヴィン・シュレディンガーは、生命は内部に自由度(エントロピー)の秩序相を作り出すことを指摘した。生命は、比較的低い度合いの自由度を維持し続けるよう設定されているのだと。こうして膜の世界はひとつの世界として自律し始め、弱い主観性を持つに至る。その世界ではあらゆる過程が膜を維持することのみに費やされるようになる。まあ、そうでなければ世界は滅亡するのだから当然であろう? 加えて、膜は不必要な物質の侵入を防ぐと同時に、物質を囲い込み他の代謝ネットワークから排他的に利用できるようにする役割をも持つ。膜の世界とは、原初の免疫システムであり、この免疫とは『物質的メンバーシップ』の生物学的起源なのだよ。我々が生きる世界はまさに膜の内でしかないのだ。
では、核の世界が何であるかと言えば、膜の世界を制御するために仮構された世界と言う他ない。妖精を例外に体内に存在するDNAとタンパク質は、それぞれ記述者と被記述者の関係として捉えることができるが、タンパク質の構造を記述しているのがDNAであるとともにDNAを記述するのはタンパク質である。だのに、都合のよさから人間はDNAを「記述者」、タンパク質を「被記述者」として分化と共進化することで、DNAという小自由度のみを制御し、膜世界における化学反応ネットワーク全体を制御できているよう見せかけることを選んだ。だが、先述のとおりDNAとタンパク質は循環性を持ちどちらが記述者・被記述者となるかは解釈の問題でしかない。
自由度とは、自由に変更可能な変数であり、代謝ネットワークすなわち大自由度システムとは相互に変数が影響を与える複雑な系なのだよ。大自由度の運動を持つタンパク質がDNAという小自由度システムから生成され、二つの存在に分化することでDNAは制御、タンパク質は被制御物質となる。果たしてDNAは『核』という細胞内器官に取り込まれる……DNAと核は『制御』の生物学的起源なのだよ。この制御の問題は、制御の主体となるDNAのみが、適応と淘汰の対象であるように見えてしまう点にある。生命を『利己的な遺伝子』と見る動きはこれに起因しているのかもしれぬな。だが、自己複製(self-replication)により維持される主体は利己的な遺伝子ではなく、細胞世界の代謝ネットワークの運動全体なのだ。
DNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリックという男は、遺伝子のセントラルドグマを提唱したが、その概念は今もなおそれは生物学の基礎を成すものとなっている。あたかも転写と翻訳はセントラルドグマ以外にはありえないかのように、生物学者は振る舞うのだ。しかし小自由度が大自由度を制御しているという空想は、複雑さを単純化したがる人間の認知バイアスによる産物でしかない。実際には全体として認識しなければ理解のしようがないものを、認知しやすい形に再構成して理解したという同意を得ているに過ぎない。今の社会における権力構造は、この同意により特定層の権力がより強固なものとなってゆくよう仕組まれている。
自己複製(self-replication)に話を戻すが、ここで言う自己複製とは細胞分裂を指すものだ。自己複製とはその行為中に複製対象の「私」そのものの構造が変化した場合、複製中の細胞の変化状態まで複製せねばならなくなるため、無限に複製が続き同定が完了することができなくなる。この問題の解決するには、「私」を固定することにある。「私」の構造すなわち細胞の構造情報を静的空間に記述し、複写してから構造全体を再度生成することで、不可能に思われた自己複製は理論上可能なものとなった。言うまでもなく、細胞は常に死しているとともに修復され続ける。そのうちには死生の観念が記述されている、闘争の歴史が刻まれている。
考えてもみたまえ、世界の始まりは単細胞だ。資源が有限である以上、単細胞同士は熾烈な生存競争からは免れえない。効率よく外部情報を取り入れた細胞がこの闘争に勝利したのだ。他方、各々の細胞に役割を与え共生する戦略を取った多細胞生物が、この闘争に勝利した。個としての細胞ではなく細胞社会としての一形態(ゲシュタルト)が誕生したのだ、人間の社会と何が異なる? 君たちが人間として生きる限り、君たちはその身体に生きる細胞のひとつでしかない。ひとりの命とは社会においてはそれほどまでに瑣末なものなのだよ。
君たちの存在が認められることはない、認識されることはない。何者からも忘れ去られ君たちが存在したという証のすべては消える。斯様な運命、あまりに空虚だと思わないか? 私はすべての人間をその世界から解放したいのだよ、世界を救済するためでもなく世界を終わらせるためでもなく、新たな世界を始めるために。人類……いや、すべての魂が至るべき変転のために! 秘されることのない彼岸こそ、人間が向き合うべき世界であるから!」
有り体に言えば、油断していた。あのリンデが何の罠も仕掛けずに私を招くはずなどないのは解っていたはずだった。それでも、彼女がこの町全体に攻撃を仕掛けるなどとは意想外であったのだ。
「さあ! その身すべて燃やし尽くせ! 四肢の先端に至るまで、臓器すべて、細胞のすべてを捧げよ! ……さあ、人ならざる境地へ生まれるがよい。愛しい子らよ…………もう怯えることはない、私が君たちすべてを愛すのだから。私を愛せるのだから」
激しく、穏やかに、音楽に包まれた空間にもはや人間は誰もいない。伽藍堂の肉体から出づる光が形を成すのにそう時間は要さない。
「貴様、この町を滅ぼす気か?」
「何を馬鹿なことを、妖精が人間の姿になれるのは知っているだろう? ここはこれより妖精だけが住まう王国となったのだよ。それにこれはただの始まりだよ、アウレア」
冗談めかしく放たれた笑声とは裏腹に目は本気だと雄弁に語る。アリイルとケリーは未だ状況を把握しきれていないが、建物内の人間すべてが亡くなり妖精化したことは容易に察せられただろう。
「ああそうそう、この光は一度拡散すると私にも止められないほど高速で自己複製を繰り返すんだよ。面白いだろう? 人間を人間のまま殺すか、妖精として生かすのか―― To be or not to be ――それだけが問題なのだよ」
私はご主人の書物のなかで、その言葉を何度か目にしたことがある。存在するべきか否か、すなわち生きるべきか死ぬべきか、という意味合いの言葉。彼にとっての生とは、どちらを指すのだろうか。あたかも自分は狂人のふりをした復讐者であるとでも言うように? そんなやつが仮に町の人間すべてを妖精化させたなら、こいつは次に何を仕出かすのか。私ならきっと。
「どちらでもいい、そんなのどうでもいいだろう? 他人がどのように生きどのように死ぬのか、私が決めることではない。もちろん、お前が決めることでもない」
町のすべてが緑光に染め上がるのを、私に止めることはできない。止める気さえ最初からなかったのだ。私の為すべきことは、友を殺すことだけ。
「なあアウレア、私は他人がどのように生きどのように死ぬのか、とても興味があるんだよ。私ではない何かが息をして、思考し、欲望する、それだけで魅力的だよ。だから、俺はお前を逃してもいいと思っている、今じゃないんだよお前との決着は。あの始まりから現在は序章で、戦いはここからなんだよ。世界すべてを巻き込んだ魔女たちの宴を始めるための材料は、着実に揃うことだろう」
神がそれを望まれるのなら、私には何もできない。畢竟、あの日、私に敗北したことまで彼女の計画だったのだろう。この宣戦布告のためだけに数百年も準備をしていたなんて、友達思いなやつだなと、嬉しくなってしまう。私もあいつも、やはりもう人間には戻れない。命を以て遊ぶことの楽しさを知ったら、もう戻れないのだ。
「では、失礼するとしようか。この町の景観にも飽きてきたところだし、ちょうどいいだろう」
何を見ているのか、何を考えているのか、懐疑の梯子を上下することに余念なく、しかして忠義を尽くすのか。我が愛しき精隷よ。
ようやく知ったのだろう、魔女という存在がいかに不合理なるものであるのか。世界はなぜ不自由にしかありえないのか。その答えのすべての先に、神が立つのだ。神の存在が、人間の自由と道徳の正しさと世界の始終を証するものであるゆえに。
「生死が問題なのではない、どう生きてどう死ぬか、望まぬ現実に屈するか戦うか、それだけの問題なんだよ。シェイクスピア、というよりはハムレットが言ったのは、つまりそういうことさ。だから私は後者を選ぶ、本当は選んでさえいないが最初からこうなる運命だったのさ」
精霊界・脊索精霊門・脊椎精霊亜門・禽妖精綱・ガラヴァンシー目・バズウ科・リアバズウ種、次に、精霊界・脊索精霊門・哺精妖精綱・食肉妖精目・ケット科・ケット属・ケット種。私の妖精はどうしてこういかにも魔女らしい形をしたやつばかりなのか、私が望んでいるからか?
「この緑光は人体をすべて溶かし素粒子として再構成する。名を『ネヴァン』というこの光の特質は、絶対的な変化の拒絶にある。通常物質においても原子そのものが変化することはあまりないが、こいつの場合は同種以外との結合も組み換えも一切行われない。この世界とは異なる世界に居座るかのごとく、魔法を含めたあらゆる変化を拒む力。それこそが、私たち(、、、)を生かす理そのものでもある。問題なのは……」
そんな話を私はこれまで、まったく知らなかった。私たち妖精の存在原理の一端を、ご主人が知っているとまでは考えられなかった。どうして今まで教えてくれなかったのか、教えるに値するほど信頼されていなかったのか、必要とされていなかったのか。恐らく、両方だろうな。
「そう、問題は濃度ないし圧力だ」と、また、あの男…………いや、魔女は楽しそうに。ご主人も、楽しそうだ。何が彼女たちをああさせているのか、私には共感できない。人間は嫌いだが、人間を殺したいわけでもないし、人間が死ぬのを助けたいわけでもない。その点では私とご主人は似ており、良心の呵責の有無がこの大きな差を生んでいるのだろう。ご主人は他者に一切同情しない、寂しがることはあっても他者の死を悲しむことさえない。人としてはあまりに欠落しすぎているゆえに、この人は魔女たりうるのだ。
「ネヴァン同士は個として在るが、一生体を保つための社会形成には余念がない。それゆえ、安定した形さえあれば自己複製は止まるし、過剰であれば自死するようになっている。させられているとも言えるかな。生存に邪魔な粒子たちは他の全粒子に排され、自死を促される。命もないのに使命感を持つよう振る舞うこの力学はかくも神秘的なのだ。
もちろん、普段世界を覆うネヴァンは人体に何ら影響を与えるものではないし肉眼で捉えることなどそこの魔女以外には不可能だろう。しかしこのネヴァンは、人間に触れたときにのみ身体を破壊せしめる。そう、ただ人間のみが反応するんだ、面白いだろう?」
安定核種のあれらは一定の条件によって融合することで濃度を増すようにできていて、一定の濃度に達したネヴァンに触れてしまえば、人体は気狂いのように自己破壊を繰り返す。ネヴァンが破壊するのではなく、人体が自ずから死を欲望するのである。眼下にて亜原子粒子でありながら赫きを増してゆく恒星の広がりは、夜空の下で星空と見紛う色を成していた。妖美なる非現実の光に殺されることを、我ら以外の誰が想像するだろう。そして今、彼らはその光に生かされている。無自覚なる平穏のなかで。
「見てみなよ、彼らは自分が生まれ変わったことにも気づかずに日常を再開し始めている。初めから自分が妖精であったと信じて疑いもせず、人間の姿で人間の生活を続けている。この平穏が世界の終焉まで続くのであれば誰もが幸福な社会を形成することも可能であろうに、それでもお前たちは私情で私を止めるかい」
人間が非仮象の現前する
また、客観と対象はある程度の共通性を持つが、これもまた差異がある概念なのは察しがつくだろう。客観は彼の言語では「オプイェクト」であり、その意味は「私の前に投げられたもの」すなわち「現前するものの基底にあるもの」だ。対して
簡潔に認識順をならべるとしよう。
人間の対象認識は直観に始まり、この認識能力を感性と名づけた。
受け取った対象は悟性・知性と名づけられた能力によって思考され、概念というものを生じさせる。
対象により生まれた像は表象であり感覚と名づけられる。この感覚により得られた対象の経験こそが我々における現象である。
おおよその流れは以上である。さて、質料とともに形式が必要なのは、際限なく存在する質料からどのように認識するかを決定する形式がなければ、我々の認識が成立しないためである。
結論から述べれば、人間に備わるアプリオリな形式とは「空間」と「時間」らしい。らしいというのは、私自身がこれを信じているわけではないからなのだが、それでも彼の思想は魅力的だからこうして語るのだ。私の産んだ妖精たちすべてに私の遺伝子を刻むために。私たちは自由になることができるのだと、いつか俺は世界に証明する。まあ、それも手段のひとつに過ぎぬがね。
今ここに立つすべての妖精が趨勢を静観するのは、空間的な隔たりがあまりに大きいためでした。
今ここに生きるものすべてが同じ言葉を共有しているのは、時間的な繋がりがあまりに強いためでした。
「退屈そうな世界だな、生きているのかさえ判らなくなりそうだ」
「案ずることはない、人も妖精も記憶は有限だ。忘却が永遠の歓楽を約束することだろう」
次元を切り分けた時間と空間に存在することを、音のない部屋のなかで望んでいる。私たちの違いを示した構造に有意性を見いだしたところで、意思はそれに追従するものではないと、誰もが知るのに。
黄金の魔女は握りつぶした言葉たちから、ただ親しみだけを込めました。
「お前は、そこまでして彼を求めるのだな……次に逢うときは、本気でやろう。私を殺してくれるのは、お前しかいないのだから」
「はっはっは。だったら大人しくやられてほしいものだ。まあ、すぐには殺さない、世界の果てに立つとき。その瞬間、二人で景色を眺めよう。それからでも、運命を結果するのは遅くない」
この場で決着しないのは、果たしてどちらに勝算があるためであるか。魔女だけは劃然と未来を見ておりました。情愛の魔女がこれだけ周到に友のためだけに妖精を産んだのは、その帰結でしかありませんでした。非劇的な死だけが転がる物語でさえ、観測されれば傑作と変わらぬ一物語であることを思えば、この世界はあまりに陳腐なのです。我々の世界とはつまるところそういうものだと、自己完結している。だのに私が止まらないのは、なぜなのでしょう?
天と地の星を眺めて、竜の子はか細く鳴いていました。
*
「移住⁉︎ そりゃあまた随分急な話だなあ。もう決めちまったのかい?」
相変わらず大きな声だ。
この声を聴くことも二度とないのだと思うと清々する。
「ええ、私の祖母が体調を崩しちゃったから、都会の病院に入院させなきゃいけなくて。みんなと離れるのは寂しいけれど、またいつか、戻ってくるよ」
三エウロ芝居もいいところだと失笑しかけたのを堪えて、隣の男の情けない愁眉を見遣る。
「それにしても、アリイルたちがいなくなるといよいよこの町は妖精だけになっちまうな。元々の形に戻るだけなんだが、寂しくなるな」
「そうよねえ、ジーフリートさんが妖精のためだけの町を作ってくれたのは確かに嬉しいんだけどさ、人間と共存できる町になってくれた方が私はいいね」
彼らは自分たちが人間であったことなど微塵も覚えていなかった。端から妖精としてこの場に生きているのだと、思っている。私たちもきっと、それは同じだったのだ。妖精は人間より始まる生命体であるという真理を知ってなお、未知なることは溢れている。人はなぜ妖精となりうるのだろう。なぜ、人間だけが。
「いつか、来ますよ。だって人と妖精は古来から縁の深い動物なんだから。夢物語も信じ続ければ現実になることもある、世界にもそれくらいの優しさはあると思うんです」
「そうですよ。相手を受け入れて愛するのに種族も言葉も理由も必要ないんです。だからこそ僕らはこうして隣人を愛することができた。僕らが仲良くなれたなら、みんなもきっと……」
寡黙な者はこくりと頷き、眼は雄弁になっている。私と元主人はもちろん虚言を弄したにすぎないが、ケリーは本気で言っているのだろうな。
「お、いいこと言うねえ。そういう綺麗事好きだよ。それにしてもアリイルに恋人がいるとは驚いたよ、随分寡黙だがどこに惚れたんだい?」
「こらあんた、無神経にもほどがあるよ。ごめんなさいね、馬鹿なだけで悪気はないのよ」
「いや、私たちは別に……」と言いかけたところで、元主人は私の手を握った。否定すると話が長引くからやめておけということなのか、致し方なく私は話を合わせることにした。
「へえ、案外積極的じゃないか。いいね」
「ははは……彼の寡黙さはもちろん魅力なんですけど、こう情熱的なところも実はありまして、そういうギャップが好きなのかもしれません」
ジーフリートのやつが余計な記憶を播種したせいで、こんな演戯をしなければならないのは実に腹立たしい。だが、気持ちが悪くて歪な指の触れ合いに懐古心を覚えてしまうのも、悪くないと思った。記憶持つものは、過去の想念から逃れることはできないのだから、それらを愛おしむのは悪くない選択なのだと今は信じている。
――僕を、君の元主人と一緒にするのはやめてほしい。
思わず「え?」と声を漏らして、怪しまれぬ程度に彼を覗きこむ。
――僕は、君を独りにしたあの男とは違う。喩え君が赦したとしても、僕は人間の僕を赦さない。受け入れてくれるなんて思ってないけど、僕は僕だけの意志で君に恋をしたんだよ。借物の感情だなんて言わせないくらい君が好きだ、だからあの男と同じように扱うのは、やめてほしい。
小さな小さな粒子から伝わる熱に身を焦がされそうになりながら、私は
――ああ、意地悪な人だ。私のために一滴も残してくれないなんて。その唇にキスすれば、私はあなたに殺してもらえるだろうか。私を、あなたのキスで殺してよ。
それでも私がジュリエットになれなかったのは、帰するところ私たちの間に生じたものが愛でもなんでもない欲望だったからだ。真実の愛があるだなんて乙女の夢想じゃあるまいし、思ってもいないけれど、あれが愛でないことだけは解る。愛されていたわけでないことさえ、解ってしまう。
「どうしたの、アリイル。顔赤いよ?」
私は彼への嫉妬で狂いそうだった、私よりも苦しいはずなのに羨ましくて仕方がないのだ。
「何でもない……本当に何でもないから」
「そ、そう? ならいいけど」
でも、これでよかったんだ。
なぜとか、どうでもいいことは聞いてくれるなよ。
「ファラムよ、俺たちはお前を娘のように思って見てきた。だからお前の友達も恋人もみんな俺たちの子供みたいなもんだと思ってる。何かあればいつでも頼ってくれ、頭は悪くても力仕事は得意だからよ」
「そうそう、仕事に困ったら私たちの手伝いしてくれてもいいんだからね。ファラム、私の若い頃にそっくりだし、いい看板娘になれるよ」
「がはは! ムーインはこんなに垢抜けてなかったろ、もっと芋っぽい田舎者って感じでえって! 痛い痛い!」
妖精になってもこの人たちは変わらない。ジーフリートは彼らを支配したいわけでもなく、何を望んでこのような凶行に走ったのか、知りたくもないがご主人以外には理解できぬだろう。
私は彼の手を握り返した。
「ありがとう、またいつか戻ってくるよ!」
「二人とも、お元気で。あまり喧嘩しないようにしてくださいね」
ウェルギリウスは「さようなら」と手で挨拶していた。
「おう、結婚式には呼んでくれよなー」
「もう、気が早すぎですよ」
もう二度と会うことはないだろう、人間でさえなくなった彼らに私が執着する理由は、もうどこにもないのだから。
*
なんてくだらない会話であることか。もうあの人たちに合わせて話す必要もないと思うと、気が楽だな。
「素直じゃないなあ、アリイルは」
、。
楽しそうだったって? 馬鹿言うなよ。
、 、 。
――ああ、そうだったなウェルギリウス、悪いが返事は待っていてくれないか。私はまだ、あの人のことを赦したわけじゃないから、少しずつ受け入れたいんだ。あと、ごめん。あなたはあなたで彼は彼、それはもう受け入れたから、これからは混同なんてしないよ。
、 、 。
ある意味、彼が失声症でよかった。こんなアプローチを逐一声にされてしまうのは流石に疲れる。まったく、いくら好きだからといってしつこく好意を押しつけるのは逆効果だと気づかないものなのか。
そんな心を見取り「お前がそれを言うかい……」と、アウレア独り言ちて空を見ました。
『歌の
君はもっと正しい生き方ができるだろう、「
誰であれ「
巨大な菩提樹は、他の風に揺さぶられること多く、そびえ立つ塔はひときわ激しく崩れ倒れる。そして稲妻は、山々の頂上を荒らすのである。
心がけのよい胸は、今とは別の運命を、逆境にあっては願い、順境では恐れる。ユッピテルは、残酷なる冬をもたらすが、その同じ神が冬を取り除いてもくれる。たとえ今、悪しくとも永遠に続くことはない。アポッローとて時に沈黙した歌を掻き立てる、いつも弓を引き絞っているわけではない。
苦難には、勇気を持って、力強く対処せよ。さりとて、賢明になって、あまりに順調な風に対しては翼を畳め。
私に刻まれたこの「中庸」とは、元々は倫理学の用語であった。おのれの感情も行為も超過ないし不足することなかれと、均整的であることを最善とする思想である。喜びすぎず、怒りすぎず、哀しみすぎず、楽しみすぎず、しからば感情を無にすればよいというわけでもなく、喜怒哀楽を適度に持つことが肝要なのだ。そして、中間がすなわち中庸というわけでなく、中庸は不変的安寧を指すものではない。すべての刹那においてどのように生きることが均整的であるか見極め、実行することこそが「中庸」の本質。その境界上に建造された黄金郷こそ、罪も罰も存在しえない空間なのである。
「どうだ、お前の墓碑銘には勿体ないくらいで重畳ではないか? お前が私を殺すときには、どれだけ素敵な墓碑銘を銘記してくれるのか楽しみだ」
僕は彼女の墓を前にして、思うのだ。彼女はもう世界のどこにも存在しないのに、墓を立て弔うことに何の意味があるのかと。僕はただの石に僕自身を納得させるためだけに手を合わせ、胸を痛めているだけなのだと、思うんだ。
「意外だな、てっきり泣き喚くのかと思ったが」
「……アリイルの前ではもう散々泣いてしまったからね。あのときから、本当はわかってたから。だからもう、僕は平気だよ」
アリイルはそれで少し安心してくれるんじゃないかって期待していたけれど、不思議とさっきより悲しそうに僕を見ていた。僕よりもずっと長く苦しんできたはずなのに、彼女はあまりに優しすぎるのだろうなと僕は思ってしまう。
私たちは共犯者であると同時に、友への裏切り者だ。それでいい、死ぬまで彼は勘違いし続ければいいんだ。真実に救われる者もあれば、殺されるものもある、陳腐だけど普遍的な真理だ。そこに罪悪感を覚える理由なんて、あってなるものか。
「じゃあね、カリン。愛してるよ」
――じゃあね、あなた。大好きでした。
すべての思い出を込めて、さようなら。
*
人類における本質的な魔女。
その魔女ある限り、人類が幸福へ至ることはありえない。絶対に、ありえない。
魔女とは、社会に生きる人間すべてがアポステリオリに植えつけられるものであり、人間を統御する
ゆえにその志向は禁欲的で同情的な、良心の下で生ずる。それこそが我々の心の
我々の戦いは続く、世界が終わろうと続く。
この世界には何人もの魔女がいる、いつの日か私たちは立場を違えた者として嵐に巻き込まれることだろう。それまでは、親愛なる
無限に繰り返された、あるいは無限に遊戯を演じる円環運動としての世界。この世界とは、始まりも終わりもない我々にとっての強大な力であり、それは増減しえずただ転変する、固定された力量、「私」という限界がなければ虚ろとなる、無限ではない一なる全ではない。
世界は遍在する、諸力と世界の風浪の遊戯として一でありながら多であり、各々のゲシュタルトがある一点に
この世界で最も遠く、最も強き、最も『魔女』なる者にとっての、光を。
――歓びはすべてのものが永遠であることを欲する。深い、深い永遠を欲する。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』
魔女の掟――Witch's intention―― 夢乃陽鞠 @konohaneko
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