第6話 踏み出した一歩


「ちーさーとー!」


 耳をつんざくような声に飛び起きた。ドアの隙間から母が覗いている。


「いつまで寝ているつもり? 遅刻するわよ?」


 スマホで確認すると、自転車で間に合うギリギリの時間帯だ。

 動かない風鈴を横目に急いで着替えた。乱暴に鞄を手に取り、菓子パンと弁当を詰め込む。


 こちらの世界は、自分がフラれた翌日のまま時間が止まっていたようだ。

 全速力で自転車を漕ぎ、曲がりくねった登校坂を駆け上がる。教室に着くころには息も絶え絶えになっていた。


「セーーーフ!」

「せんせー、まだ来てないよ」


 ほっと息をつき、重い足を鞭打って席に座った。

 菓子パンを頬張りながら喜多見を見つめた。未来の姿と比べれば、いささか幼い印象を受ける。


『いい加減、授業中はスマホを鞄にしまったらどうだ』


 苦い言葉が脳裏によみがえる。あたしはゲームアプリを全て消した。連絡手段と写真の機能さえあれば、授業中にスマホを障る回数が減る。今日から放課後までのスマホ使用禁止の拘束を守ろうと拳を握りしめた。


 だが、体に染みついた習慣は簡単に消えてくれなかった。

 二限は体育で気を紛らわせられたものの、三限の途中から視線が鞄に止まる回数が増えてきた。その一因は、皆の授業態度がよく見えるからだ。


 昨日までのあたしも、スマホをいじる面々に加わっていたというのに。

 首の角度、撫でる指の動き。注意して見なければ分からない、小さな違和感に嫌気が差す。蛍光灯とは異なる明るさも、集中力を容赦なく奪う。


 こんな環境の中、喜多見は嫌な顔一つせずに平常を装っていたのだろうか。あたしなら我慢できない。

 虚しい気持ちを抱えながら、昼休みを告げるチャイムの音を耳にする。


「おーい、千里? 授業終わってるよ?」


 結衣の声で我に返った。いつから来ていたのか不思議に思っていると、

晴香と話せたのかと問われた。


「ううん。これから話そうと思っていたんだけど」


 いつの間にか喜多見の姿は教室になかった。がっかりするあたしに結衣は肩をすくめた。


「文芸部の部室に行ってみたら? 教室よりも話しやすいんじゃないかな」


 あたしは手短に礼を言って部室に向かう。ちょうど喜多見が中に入るところだった。


「喜多見!」


 駆け込んだあたしに喜多見は目を丸くする。


「ごめん。部誌に載せる約束、ずっと忘れてた」


 やっぱりな。そう言いたげに、喜多見の目は寂しそうに揺れていた。


「ゲームのアプリを消したんだ。今さらだけど小説を書いてみようと思う」


 呼吸を整えて先を紡いだ。


「この恋は諦めないよ。次はフラれないように頑張るから」


 あたしの啖呵に喜多見は首を傾げる。


「俺、フッた覚えないんだけど」

「えっ?」


 昨日の返事は良い答えとは思えなかった。怪訝そうな表情を浮かべるあたしに、喜多見はふっと息をついた。


「好きな人ほど悪いところが見えるからな」

「じゃあ、あたしを避けたのは?」

「クールダウンが必要だと思ったし、放課後は所用があったんだ」


 喜多見は長方形の箱を差し出す。あたしは受け取ってリボンをほどく。


 入っていたものはライラックの簪だった。はかなげな透明感や薄紫の優しい色合いが乙女心をくすぐる。


「少し早い誕生日プレゼント」

「嬉しい」


 浴衣に合いそうと呟くと、喜多見は花が咲いたように微笑んだ。

 誕生日が明後日だと覚えている人物は、あたしの知る中で一人しかいない。喜多見は件の女子生徒の名を口にした。


「結衣の家で、プラバンで作る方法を教えてもらったんだ」


 陰であたしと喜多見の仲を繋ごうとしていたことを知って驚いた。そう言えば昨日の昼休みに、花言葉について話していた。

 ライラックの花言葉は色によって意味が変わるの。私が好きなものは紫の花言葉。意味は「愛の芽生え」と――


「初恋」


 あたしの言葉に喜多見は頷いた。


「ありがとう。あたしを好いてくれて」


 どきどきしているのはあたしだけと思うと、喜多見の余裕を崩したくなる。だが、一枚上手の彼女に勝てるはずがなかった。


「惚れさせた覚悟はできているな?」


 耳を赤くさせながらも、喜多見はあたしを見つめていた。




 昨日よりか自転車のペダルが軽い。だが、上り坂ではさすがに息が切れる。

 好き、と息も絶え絶えで放った言葉が、思わぬクリティカルヒットとなったらしい。そのおかげで滅多に見られない照れ顔を拝むことができた。


「部誌の締め切りは一週間後か。あの顔をもう一度再現させられたらいいなぁ」


 ふと、未来のあたしのことが気になった。何度も喜多見との約束を守った彼女は、どのような物語を作り上げたのだろうか。


「だめ。今度こそ自力で考えなきゃ」


 あたしだから見える世界を形に残したい。そう思ったとき、ひらめきが訪れた。


「書き出しはそう、こんな感じ!」


 汗が散った。


「電車は冷気とともに乗客を吐き出した。某大学の最寄り駅とあって、ホームには若々しさと気だるさも入り込んでいた……」

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タイム・ラグ 羽間慧 @hazamakei

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