第5話 合流

 講義室に清掃員が入ってきた。何の変哲もない薄緑色の作業服に、あたしは特別な感情を抱かなかった。清掃員が目深に被った帽子を取るまでは。


「初めまして、になるのかな?」


 奇妙な言い回しをした彼女の顔は、あたしと瓜二つだった。まるで鏡に映った自分を見ているかのようだ。


「あなた……」


 あたしみたいと言い掛けたところを、彼女は口元に人差し指を立てて制した。


「当てないで。便宜上、清掃員の人格として存在しているみたいだから」


 言っていることがよく分からない。首を傾げるあたしに、彼女は満足そうに微笑んでいた。


「一度だけ願いが叶うなら、鏡に映った自分と対話してみる。やっと浮かんだアイデアが、まさかこんな形で実現するとは思わなかった」


 ようやく合点がいく。結衣が話していた創作演習の課題のことだ。

 昔話を始めるように、彼女はゆったりとした口調で話し出す。


「一度、あなたを夢で見つけたことがある。高校を卒業するころには、スマホに溺れて完全にやる気を失っていた。自業自得とは思ったけど、喜多見が悲しむなら話は別。うちの手で修正させてもらったよ」

「修正? どうやって?」

「結衣は『明晰夢なら判断次第で変えられる』って話してくれた」


 難しすぎて、あたしの脳は思考を停止する。


「覚めない夢から目覚めさせる、そう言えば理解できる?」


 あたしは頷いた。


「うちは何度も約束を果たしとる。きみは約束をいつ果たすつもりなん?」


 どくんと心臓が高鳴る。もどかしい思いを抱えるあたしに、彼女は苛立つことなくUSBメモリを見せた。


「これ見ても、何も思い出せない?」


 その瞬間、錆びきっていた記憶の鍵が心地良い音を立てた。




 泣く場所を求めていた。

 トイレ、掃除用具入れ、音楽室。校内のあちこちで試して一番しっくりと来た場所は図書室だった。

 本を読んでいれば涙の言い訳ができる。思い切り泣いて、教室に向かう勇気を育てた。

 だから、私は老女になった今も物語を書き続ける。

 世界のどこかで、ひっそりと涙を堪える人がいる。その人を温かい言葉で包みたいのだ。



 冒頭の独白に衝撃を受けた。これを創った人が同じ歳とは思えない。


 喜多見は窓に視線を向けていた。


「つまんないだろ。こんな暗い小説」

「そうかな? 小さなことも見逃さない、それは素敵なことじゃないの?」


 あたしは興奮しながらノートを返した。


「あたしも何か書きたい。部誌に載せてみたくなっちゃった」


 喜多見は目を見開いた。


「本当か?」

「うん。約束する」


 どちらが先に指切りをしようとしたのか忘れたが、気付けば指を絡ませていた。入部したての初々しい思い出の一ページだ。


 なぜ忘れてしまっていたのだろうか。

 あの幸せな時間を。一瞬だけ感じた、わずかな温もりを。

 思い返す度に、何度も浮かれていた時期があったはずなのに。


 否。

 あたしは自分で手放したのだ。

 小説の参考にするために始めた、ゲームの誘惑に取り憑かれた。


 授業を面白くないという固定概念で縛り、知る機会を捨ててしまった。

 他人の作った世界に甘んじて、部誌に載せられる代物を全く創ろうとしなかった。喜多見への告白が玉砕したことは、約束を忘れた報いなのだ。


「違う。告白を選んだのはきみだよ。うちは、きみが変われるように願っただけ」


 未来のあたしの声が現実に引き戻した。


「きみはツイてる方だ。高校在学中に告白できたんだから。うちからしたら羨ましいよ」


 そうだ。まだ時間は残っている。拗れてしまった仲を元通りにするために帰らなければ。


「うん。今のきみがどんな物語を紡ぐのか楽しみだ」


 彼女は役目を終えたことに安心していた。あたしはふと浮かんだ疑問を投げ掛ける。


「ねぇ。どうしてリセットしたいって願わなかったの?」


 別世界のあたしなんかの願いを叶えずに、高校生に戻る選択肢があったはずだ。


「体育祭や文化祭で告白したら、別の未来が開いていたのかもしれない。でも、うちの理想はあのときの喜多見そのものだからリセットなんて願わないよ。梅の中の彼女は、うちの知る一番いい姿だった。そう信じてる」


 彼女は私の肩を叩くと、にいっと口角を上げた。


「応援しとるよ。別世界の自分」


 あたしには、同じ人物と当ててほしくないと注意しておいて。文句を口にする前に視界が暗転した。

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