第4話 あたしと喜多見
少年のような澄んだ音色は、喜多見を彷彿とさせた。だが、カンカン帽を被ったマキシドレスは彼女の趣向とは違う。
「講義室行こーぜ」
あたしは安心してカンカン帽についていくことにした。
席に座ってからは喜多見の姿を探していた。制服と違い、私服では人混みに埋もれてしまうらしい。だが、単に授業を履修していないのだと納得した。
大学はチャイムなしで講義が始まった。冷房が効いているため、下敷きで扇ぐ必要がない。先生はプロジェクターの操作に集中している。スマホをいじる環境がお膳立てされていると言っても過言ではない。カンカン帽だけでなく、周囲の学生もスマホを操作しながら話を聞いていた。
「試験に出られない人は、レポートで対応します。後で私のところに来てください」
「どんな問題が出るのかな?」
あたしの独り言に、カンカン帽は「大問が五つ、簡単な筆記試験だよ」と囁いた。
辺りでも試験に関する私語が沸き起こっている。文体の話題に移っても、無数の話し声はかすかに聞こえた。だが、先生は嫌な顔一つ浮かべていない。
真面目に講義を受けなくてもいいじゃん。
あたしは鞄の中のスマホに手を伸ばす。高校同様、罪悪感はみじんもない。机の下で操作を始めた。
ネット検索をしていると、好きな漫画の最新情報に目を輝かせた。
もうアニメ化されてんの。
興奮が指に伝わったらしい。見るつもりのなかった予告編の動画が再生された。
講義室に響き渡るほどの音漏れに焦り、即座にスマホの電源を切った。さすがに聞こえただろうと思い、恐る恐る顔を上げる。
先生の声色に変化はない。ほかの学生の私語で失態を覆い隠せた。そう安堵したときだった。
「外で聴けよ。迷惑」
凜とした声が講義室の騒音を打ち砕いた。
声の主は喜多見だった。オールホワイトコーデを着こなすほど、美人に磨きが掛かっていた。
コンタクトレンズに変えたことで、神々しさが増している。とがらせた唇は、思わず触れたくなる柔らかさを秘めていた。
少しの間、叱責されたことも忘れて見とれていた。だが、自分に突き刺さる視線の多さに気付き、穴があったら入りたい衝動に駆られた。
反省の意味を込めて、両手を机の上に出す。残りの時間が長く思えたが、コメントペーパーを埋めることで罪悪感は薄れていった。
講義が終わると、大部分の学生がコメントペーパーを置きに教卓へ群がった。
あたしも提出するために喜多見の横を通った。無造作に開かれたノートが視界に入る。
訳の分からない、もしくは常識では測ることのできない空想の産物。掴みどころのない煙のようなものとも言えるか。美しく神秘的な世界が描かれる場合もあれば、不合理でシュールに満ちた世界がユーモラスに描かれることもあるようだ。境界もまた、不思議な出来事を引き起こす鍵なのかも。
講義内容とは全く違う羅列に眉をひそめた。あれだけ注意しておいて、喜多見も講義とは関係のないことをしているじゃない。
講義室を後にするあたしに、カンカン帽が慰めの言葉を掛けた。
「センリも災難だな。あの喜多見さんに絡まれるなんて。いつもならスピーカーオフにしてるのに」
「そうだね」
大学では煙たがられていることを知り、言葉を濁した。ポケットに手を伸ばすとスマホがないことに気付く。講義室に置き忘れていたのかもしれない。
「ごめん! 先に帰ってて!」
目当てのものは机の下にあった。回収していると、喜多見の声が聞こえた。
「十五回目の授業は、博物館実習のため欠席します」
「分かりました。期日までにレポート課題の提出をお願いします」
先生は講義室を出る前に、憂いの表情を見せた。
「四年生になって注意することもないだろうと思っていたけど。いささか野放しにし過ぎてしまったみたいね。集中できない環境にさせて、あなたのような学生に申し訳ないわ」
あたしは喜多見に近付いた。
「喜多見」
「いい加減、授業中はスマホを鞄にしまったらどうだ」
今なら、喉笛を狙われた羊の気持ちがよく分かる。威圧に身じろぎした。
「充電が一週間に一回ペースの俺と、使い方が違うことは分かっている」
喜多見がかざしたスマホは高校から使っている型だった。物持ちの良さに舌を巻く。
「不良に堕ちる姿を見たくなかった」
この世界にいたあたしの信頼の低さのせいで、ひどい言われようだ。そう告げると喜多見の機嫌は更に悪くなる。
「不良としか言いようがないだろう? 面接日をあえて講義に被せて、公欠届けを大量産して。必須科目のゼミも、ろくに来ていないじゃないか」
脳内に、蝉の乾いた音が響く。
「休めるのなら、誰だって休みたいじゃない」
「あれだけ単位を落としてきたのに? ほんと、学習能力ないんだな。五回という欠席数は、あくまで体調不良の学生のための救済措置だ。必ず休める権利ではないんだぞ」
五回まで欠席できると思っていたのに。言い訳めいた呟きに、喜多見の目は鋭くなった。
「俺は、この授業を履修できることを心待ちにしていたんだ」
その言葉に、あたしはハッとした。
『でも、創作の講義は二年から始まるんだ。それに、俺が一番受けたい講義は四年まで待たなくちゃいけない』
昨日、喜多見はそう話していた。邪魔をしてしまった講義は、日本ファンタジー論だったのかもしれない。
後悔の念が押し寄せる。講義名が分かっていれば大人しくしていた。
喜多見は語気を荒げた。
「つまらないと感じて時間を潰すぐらいなら、履修を取りやめて別の場所に行けばいい。講義を聞きたい人と先生にどれだけ迷惑をかけているのか、考えたことがないからあんな行動ができるんだろうな。……実習最終日と重なったから、なおさらレポートの参考のために考えを膨らませたかったのに」
「そのことなんだけど」
あたしは口を挟んだ。
「学芸員になるって聞いてないよ。小説家の夢は諦めちゃったの?」
「日本文学に貢献するという意志は変わっていない。原稿の保存も大切な仕事だ」
喜多見は、動揺を隠せないあたしの顔を見つめて呟いた。
「小人閑居して不善をなす」
「どういうこと?」
困惑するあたしの姿は喜多見の瞳に映らなかった。
「人が見ていないと、きみはろくなことをしないんだな」
興味がゲームからネットに変わっただけで、授業態度は大差がない。世界が変わっても、あたしの中身はそのままだった。
立ちすくんだあたしは、遠ざかる喜多見の背を見つめることしかできなかった。
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