第3話 目覚めた世界は

 風鈴の音が聞こえた。

 カーテンの隙間から朝日が見える。学校に行く時間帯だ。


 起き上がると、制服と鞄が普段の場所になかった。台所にいた母に訊くと、大学で必要なのかと訊き返された。


「大学? あたし、高校生だよ?」

「はいはい。夢で高校のころに戻っていたのね」


 母に笑い飛ばされ、あたしは先に朝食を済ませることにした。静かに味噌汁を飲んでいれば、隠したものを慌てて取りに行くはずだ。だが、母は怪訝そうに卵焼きを咀嚼していた。


「今日は昼から講義でしょ。もう少し寝ていても良かったのに」


 話が噛み合わないことに、怒りよりも恐怖を覚えた。早々に部屋に戻り、ここが自分の知る世界かどうか調べることにした。


 クローゼットの服も、コスメのブランドも変わっている。機種変したスマホは、別人の持ち物と思えるほどアプリの数が少ない。ゲームアプリのアイコンが一つもないことに凍りついた。無課金とは言え、費やした時間と気力が惜しい。呆然としていると、画面に表示された西暦が四年後を示していることに気付いた。


「まさか、本当に高校生のまま四年後の世界に来ちゃったの?」


 無茶苦茶な状況を否定したい。あたしは藁を掴む思いで財布を手に取った。学生証と記されたものには、確かに自分の顔写真が載っている。


 ここまでくれば、手の込んだドッキリではないことを受け入れざるを得ない。夢の中にいる可能性は捨てきれないが、覚めないままでは現実と同じだ。


「講義がある昼までに、この世界の情報を集めなきゃ」


 机に置かれていた大学手帳を開くと、金曜日の講義は一つだけだった。十三時から十四時二十五分までの欄に星印が付いている。あたしは学生生活のページを捲った。

 欠席が三分の一、すなわち五回を超えた場合は原則としてそれ以降の受講はできない。その記述を見て「大学生、羨ましい!」と歓喜の声を上げた。


 高校よりも緩そうだ。意外と四年後の世界は悪くないのかもしれない。

 手帳を読み込んでいると、気になるメモを見つけた。


 怪しい虫なし。

 飲み会の帰り、会社員にナンパされる。言葉巧みにあしらって、快くお帰りいただいた。どこの馬の骨とも分からん奴に触らせられるか。


 主語がないものの、よく使う太陽の絵から喜多見のことだと推測できた。


「もしかしたら。この世界のあたしは、高校のときに告白していないんじゃないかな?」


 喜多見の行動一つ一つに揺れる様子は、恋心に気付いたあたしの心理と似ていた。


 この世界の喜多見なら、告白のタイミング次第で振り向いてくれるかもしれない。今日の日付にメと書かれた意図は分からないが、告白に関わることではないはずだ。


 あたしは早めに大学に行くことにした。

 うろ覚えの道を慎重に歩いていると、聞き覚えのある声がした。


「千里? 今日は早いね」


 振り返ると結衣が佇んでいた。オフショルダーブラウスとショートパンツという、軽やかな服に身を包んでいる。制服では分からなかった体のラインに惚れ惚れとする。サンダルから覗く爪は、水色のマニキュアで彩られていた。


「どうしたん? 私の顔に何か付いとる?」

「いや、今日も綺麗だなって」


 黄色いトップスを選んでいるため、顔周りが一段と華やいで見える。

 あたしの弁明に結衣の顔は赤くなった。


「褒めても何も出ないから!」


 無表情に近い喜多見とは違い、結衣はころころと表情を変える。

 結衣の手を掴んでいれば、恋人らしい甘い時間を過ごすことができたのかな。

 考え込むあたしを現実に戻したものは、前を歩く女性の笑い声だった。


「飛べないんだよね。そろそろ欠席回数やばくて」


 ペンギンの愛らしい姿が脳裏をよぎる。


「飛ぶ?」

「サボタージュだよ」


 結衣の言葉に心臓がどきりと跳ねる。授業を抜け出すことは密かに抱いていた憧れだった。母校の屋上は立ち入り禁止で、願望があっても叶わなかった。


「いいの?」

「先生が探す訳ないでしょ。受講生の数を忘れたの?」


 目を輝かせていた私に、結衣は八十人以上いるんじゃないかなと呟いていた。


「千里らしくないね。七夕のときから変だよ」


 あたしはさり気なく最近の自分について話を振る。


「千里、創作演習の課題は解決したの? だいぶ悩んでいたよね」


 だめだ。この質問は答えられない。とりあえず頷いておいた。


「一度だけ願いが叶ったらっていう設定、書きやすいと思うけど」


 あたしの七夕の願いは、三十連ガチャで爆死しませんようにだった。未来のあたしは何をためらっていたんだろう。


 慣れない頭脳労働をしたせいか、あたしの腹の虫が鳴った。結衣はふわりと微笑み、学食に行こうと話した。

 二人とも汁なし担担麺を頼んだ。同じものを食べているはずが、視線は前に座る結衣に吸い寄せられる。横髪を耳の上で抑えながら食べる様子にどぎまぎした。


 食べ終わるまで、結衣の話を聞いていた。茶華道部に所属していた高校時代とは異なり、かなり行動的になっていて驚いた。


「二回目のアンケート集計がやっと終わったの。千里みたいに、趣味を形にしたライトノベル研究だったら楽だったのになぁ」


 結衣の卒論の内容は心理学だった。学科が違うことに焦りを覚える。

 食べ終わったら誰について行けばいいの。


「よっ。センリ」


 背後から声を掛けられ、軽く肩を叩かれた。

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