スケッチ・雨の印象

音崎 琳

スケッチ・雨の印象

 目を閉じて、雨の音を聴いている。蔓を編んで作られた肘掛け付きの寝椅子の上で、ゆったりと身体を伸ばしている。驟雨は草葺きの屋根の上に、青あおと繁った木々の上に、土がむき出しの地面の上に当たって、際限なく音を立てる。右手の扇をゆるゆると動かす。湿った空気が、微かに動く。肌の上を、色鮮やかな織物が滑る。



 目を開ける。窓の外は雨で煙っている。厚い窓ガラスごしでも、街明かりに揺れる雨の勢いが見てとれる。部屋の中は暗い。電灯を消しているからだ。カーテンを大きく開いたその向こうで、ストロボを焚くように何度も白く空が光る。数秒遅れて、割れるような大きな音。食卓の椅子を引いて、くたびれた身体を背もたれに預けて、暗い空を見上げている。ふと立ち上がって、ベランダに出てみる。

 つやつやと濡れたアスファルトが、雨粒に合わせて瞬く。くっきりと小さな無数の光と、黒く沈んだ街並み。目の前に見下ろす公園を挟んで、向かいの家、二階の窓に、ほとんど顔まで見えそうな人影がある。オレンジ色の明かりに縁どられて、かれも空を見ているようだ。光が割れて散乱している公園を目で辿る。闇が、ひとりぼっちのこどものように遊具の陰でうずくまっている。



 石畳の上に硬い靴音が響く。手にした黒い蝙蝠こうもりからは、雨の雫が滴っている。ふと立ち止まって、道の上に目を凝らす。零れる街灯の光が、宝石のように散らばっている。眼鏡の縁に付いた水滴も光っている。街灯が明るいから夜の街は暗い。眼前で踊るこの黒と橙の対比を、いつかどこかで見たような心細さに、ぎゅっと胸の奥を掴まれる。年古としふりた街は静かだ。眠っているのか。それとも、息を殺して待っているのか。何を。



 雨脚に先ほどまでの勢いはない。ぬるい風が、袖と裾を揺らす。左手の海は雨に遮られてぼんやりとしている。この狭い入り江で、三階の高さからいつもよく見えるはずの対岸は、暗灰色に塗りつぶされている。辛うじて海と空との明度が異なっている、と見えたが陸と空の境かもしれない。雨樋を勢いよく流れる水の音がする。



 雨に曇る湖を眺めている。握りしめた赤い傘に、やわらかくひっきりなしに雨がぶつかっている。その音が、湖面を叩いているはずの雨音をかき消している。さざ波立つ灰色が、無声映画のようだ。うしろに止めた車に同乗者はない。見渡すかぎり誰もいない。

 大きな湖だと聞いていた。それでも対岸さえ見えないのは、おそらくは雨のせいだ。うす明るい昼の日に、湖はあいまいに白い。言葉もまた、冷えた空気のなかに解けていく。喋るのは苦手だ。この湖の話をしてくれたひとの、息継ぎの間合いを思い出す。話をしてくれたわけではなかった。本で読んだのだ。小さく口を開けて、そっと舌を出して、空気をなめてみる。



 ベランダから腕を突き出す。ぱらぱらと皮膚が水滴を受け止める。急な雨は終わろうとしていた。空はもう光らない。海も、公園も、町並みも、道も、よく知っている。目の前の光景に幾つもの景色を重ねながら、わたしは久しぶりに生きている気がする。

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スケッチ・雨の印象 音崎 琳 @otosakilin

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