<<一瞬の大天使>>

昼下がり、デイルームへ行ったら、そこにいたのはマリアちゃんだけだった。

マリアちゃんには可哀想な話だが、彼女に気に入られると、"洗礼"を食らうことがあったので、彼女を見つけるとそっと席を外す患者さんが増えちゃったのである。

しかし私は彼女とお付合いが長い方なので、そう単純に彼女を嫌いになりたくはなかった(但し彼女が水を持っていない時に限る)。


「マリアちゃん、もし私に洗礼するとしたら、どんな洗礼名をつける?」

「え~、じゅりちゃんに? じゅりちゃんは難しいなぁ」

マリアちゃんはしばらく目を閉じて考えていた。

「じゅりちゃんてさ、普通の聖人じゃなくて、もっと高位のイメージがあるんだよね。そうだ、ラファエルがいい、ラファエル!!」

こうして私は大天使ラファエルにされてしまった。

夕方主人に電話したら、笑いながらも

「なかなか興味深いね。大天使ラファエルについてもっと調べておくよ」

次の日、主人に電話をしたところ、ラファエルについて簡潔に教えてくれた。

何でも三大天使(ミカエル、ガブリエル、ラファエル)の一人だそうで、役割は

「薬剤師、盲人、病人、精神障害、旅人の守護者」

もろ私じゃん…(汗)。


もっとマリアちゃんに話を聞いてみたかったが、私の退院日が迫っており、別れを言う間もなかった。

そして人生は毎日毎日矢のように速く過ぎていく。



退院後すぐ、人間ドックで「甲状腺が大きい」と指摘され、総合病院で精密検査をしたところ、甲状腺がんと乳がんが出来てました。

幕張病院を退院した翌年の2015年に、東大病院にて甲状腺がんと乳がんを手術で取って貰い、それから3ヶ月に1度はがんの機嫌を取るために通院することになってしまった。


ここの病院に幾年通ったか…。

初夏のある日、主人と私は診察を終えて、病院の広い玄関から出ていくと、ザーザー降っていた雨が、待ってました、とばかりにからりと上がった。

バス停のベンチは、先客で8割くらいは埋まっていたが、1人立ち尽くしている青年がいた。彼の後ろのベンチだけが雨粒で濡れている。

よく見たら、彼は左右2本の松葉杖に寄りかかっていた。それでは座れる訳がない。

私は咄嗟に主人のショルダーバッグからタオルハンカチを引っ張り出して、黙々とベンチを拭いた。とにかく水滴を残さないように気をつけた。

全部吹き終えて、私は彼に

「これで座れるようになりましたよ」

と声をかけた。

「ありがとうございます」

彼は低い声で言った。それから両方の松葉杖をそろそろと滑らせるようにして、ベンチに座った。私たちは反対向きのバスに乗ったので、その後の彼がどうなったのかは知らない。ただ、終点でバスを降りた時…。

「あの~、すみません! すみません!!」


何だ何だ。ハンカチならしょっちゅう落とす自信があるぞ。今回も何か落としたに決まっている。振り返ると、一人の女性が立っていた。

「あの~、さっき東大病院のバス停でベンチを拭いていらっしゃいましたよね」

そうだっけ!? 迂闊にも、一瞬「すみません、覚えてないです」といつものように答えそうになったが、今回は覚えていた。ラッキー。

「…そ、そうです」

「私はあなたがベンチを拭くところを見ててね、すごく感動したんですよ!!」

私はまた迷った。そりゃ、涙が出るほど嬉しいですよ。でも、困っている人に(そもそも彼はどれくらい困っていたのだろう?)何かお手伝いをするときって、別れ際が結構難しいんだぞ…。


無意識に私は彼女の手を握った。暖かく乾いて落ち着いた、上品な手だった。

「もし、これから私にも同じことがあったら、必ずあなたと同じことをします。今日はどうもありがとうございました」

人ごみの中を颯爽と去っていく彼女を呼び止めようかと一瞬思った。

しかし、仲良くなれる保証はない。東大病院は余りにもデカすぎた。


しかし、緊張が消えると、私は急にウキウキしだした。

私は良いことをした。そしてそれを褒めて貰えた。

こんなに良い日はない。私は主人の腕を取ると

「ねぇ、ああいうときって、必ず見ていてくれる人っているものなのね。私、これからは本物の大天使ラファエルみたいに、さりげなく皆を助けたい」

主人はずっと私を見つめていた。そして、

「それは良い事だけど、そういうときは自分のハンカチを使うようにしなさい。オレのじゃなくて」

ガビーン!

「ごめんなさい…」

私が大天使ラファエルでいられたのは殆ど一瞬だった。

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絶対に笑ってはいけない精神病院 ~裏「救急精神病棟」~ じゅり a.k.a ネルソン提督 @Ada_Lovelace

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